第五話
校舎の外に広がっている景色は怪しく、無意識に身震いした。灰色の雲が空一面を覆い、蛍光灯をつけているというのに室内はどこか暗い。雨が降ってきそうだ。
荷物をまとめ終わり、椅子から立ちあがる。席を離れる寸前に捺由がやって来た。
「はい、これ。頼まれていた本」
「本? そんなの頼んでいたっけか」
無造作に渡された本はかなり分厚い。辞書だと言われても疑われないだろう。こんな読破するのに時間が掛かりそうな本を自分が頼んでいたとは。
「タイトルが読めねぇ。ってか、おまえがこんな分厚い本を読むなんて初めて知った」
「余計なお世話だよ。あたしだって本を読むことくらいあるし」
「ふーん、本当に? 最後まで? 読書感想文を始めの数ページで書いてしまうおまえが? 百ページまで読み進められないおまえが?」
「うっ……それは、途中で飽きちゃうことがほとんどだけど……」
もじもじと尻すぼみしている声で話す彼女を見たのは久しぶりだった。
本のタイトルは日本語でない。アルファベットが幾つか並んでおり、自分の知っている単語ではないことは確かだ。英語の発音は自信がないので、声に出さないでおいた。独学で勉強したので、対人コミュニケーションは、からっきしダメだ。定期試験に口述がなくて助かった。
「でも、この本はおススメするよ。あたしでもなんとか最後まで読めたから。たくさん名前がでてくるんだけど、そこが見所かな。誰が誰だか考えながら読むのが楽しくって楽しくって」
「おまえが言うと、説得力があるな」
「それはどういう意味かな? 奏都くん?」
捺由の指がポキポキと鳴った。
智帆とは違った意味で身の危険を感じた。言い訳するという動作にありったけの精神をつぎ込む。テレビで見たことのある、妻に浮気がばれた夫にひどく共感してしまった。できれば一生知りたくなかったが。
「落ち着け、落ち着けって。おまえが言うと説得力があるっていうのは……んーとな、そのー」
これから先に続く言葉は、なかなか見つからない。
捺由は静かに次の言葉を待っている。下手に言ったならば、彼女の手と足が出てくるに違いない。そしてノックダウンされる。捺由は柔道部なので背負い投げかもしれない。どちらでも、暫く動けなくなること確実。
窮地に瀕していると、遠くから近付いてくる一つの影があった。
「……捺由、遅れるぞ。今回は重要な打ち合わせがあったはずだろう?」
救世主・空義が現れた!
「うっそ! もうこんな時間っ。じゃあね、奏都くん」
そうして腕時計を一瞥した捺由は台風のように教室から走り去っていった。今、校舎内で走るなと咎める者はいない。
「……ふぅ」
自分は息をもらし、胸をなでおろした。願ってもいない救世主の登場で無事に捺由の呪縛から逃れられた。感謝してもしきれない。
「空義、ありがとな」
「礼など及ばん」
律儀に返事をした空義の視線はこちらの手元に向けられていた。そういえば自分は捺由からもらった本を持っていたままだった。
「ああ、この本、捺由から借りたんだ。一方的に押し付けられたんだけどさ」
「そうか。ということは女主人公版か。背表紙に梔子の花が描かれているはずだ」
本を逆さまにしてみると、確かに梔子――白色の六弁花――が背表紙を飾っていた。やや擦り切れており、花は白というより黄色っぽい。保存の状態が悪かったのだろう。
「男主人公版と女主人公版の両方を読む事で初めて世界の全貌を理解できる仕組みになっている。他にも数人主人公はいるようだが……、当たり前か。登場人物それぞれに物語があるものだ」
「へぇー、奥深いな。どっちかというと自分は男主人公の方を読みてーな。女の気持ちって、わかりずれーし」
空義は力強く頷いた。
「女の気持ちが理解し難いものであることについては同感だ。だが、捺由にも何か思惑があるのかも知れん」
「つまり、読めってことか」
自分は渋々鞄の口を開け、本を入れた。それから鞄を手に持ち、教室から出ようと廊下側に目を向ける。自然と教室の窓に背を向けた。
灰色の雲を掻き分け、太陽が顔を出した。一瞬だけ、白い光が世界を照らす。しかしその光が万人に届くことはなかった。
「……逃げろ」
逸早く何かに気付いた空義がそう言った。
「はあ?」
訳もわからない自分は振り返り、空義に理由を尋ねようとした時、外の光景が目に入った。
「な、なんなんだよ、アレっ!?」
あまりの光景に開いた口は塞がらなかった。
赤黒い空。果たしてそれを空と呼んでもよいのかわからなかったが、異常事態が起こっていることは確かだ。空は夕焼け雲が厚くて光が通りにくいようではなく、絵の具をべったり画用紙にのせたような濃さだった。
「奏都、すぐに逃げろ。――に見つかる前に。俺はまず、高確率の方から避難させる」
確率、という言葉に背筋が震え、手に汗が浮かんだ。
命の危険があるというのか? 高確率って一体何が?
肝が据わっている空義は寡黙で言葉が足りない。一方、自分は取り乱してしまい聞きたいことは沢山あるのに言葉にできない。どうしても「あ」や「う」など意味のない単語を発してしまう。逃げることが最優先だというのに。
「……恐らく、これは校舎全体にかけられている。ならば、校舎外の生徒は……」
空義の呟きがやけに鮮明に聞こえた。つまり彼はこう言いたかったのだろうか。校舎外ならば安全だと。
「わかった、先に行くからな!」
自分は微かな望みを頼りに、荷物を置き去りにして教室から出た。
避難訓練を真剣にやっておけば良かったな、という後悔が自身の胸をチクリと刺した。その上、次にとるべき行動を思い浮かべることができない。向こう見ず、という危うさが自分の焦りをせきたてた。
廊下の窓からも赤黒い空が見えた。太陽なんてどこにもなく、渦巻いている空だけがあった。赤と黒がせめぎ合い、マーブル模様になっていた。濃淡があり、生きているようで不気味だ。そう思った直後、時間が静止したように感じた。それは錯覚ではなかった。自分の足と空の渦が止まっていたのだ。
この感覚を知っている。忘れるはずがない。
例えば視線。いつも監視されている恐怖。止めどなく不安を押し寄せるもの。だから自分は振り返ることができない。振り返れば、いつもそこで誰かがこちらを見ている。
例えば言葉。人を揶揄するくらいなら別にどうってことない。それが誰かの根源を揺るがすような場合に時として凶器となり得るもの。人間は全ての性格を持っているが、相手によって見せる性格を変えると本で読んだことがある。確かジョハリの窓といったはずだ。
視線と言葉。それがとてつもなく怖い。呉牛月に喘いでいる自分を嘲られないくらいに。おどけるなんて真似、この二つの前では到底できない。
逃げなくちゃならねぇんだよ、ここで止まっているわけにはいかねぇんだ。ここは夢なんだからさ、形勢逆転の一手っていうのがあるもんだろっ!
なんとか自身を鼓舞するが、一向に足は動かない。校舎内は水を打ったように静まり返っている。空義は反対側の階段を使ったのかもしれない。
方法など考えている暇はない。一秒でも早く、逃げるべきだ。そう思いつつも、頭の中は余計なものに支配される。元々自分は創作するということに向いていない。要するにテストでは点を取れるが、小論文は全く書くことが出来ない奴なのだ。
「ちくしょう……」
呟きは空気に溶け込んで失せた。
「どうしてこんな目にあわなくちゃならねぇんだよ!」
行き場のない怒りは霧散した。
刹那、足音が聞こえてきた。規則的なリズムが階段のどこからか発せられている。これで助かると思うと、動かなかった足が引き付けられるようにゆっくりと動いた。耳をそばたてると、下の階から響いてきていることがわかったので階段を迷わず下りた。手すりにつかまり、一歩ずつ着実に音源へと近付いていく。
一階と二階を繋ぐ階段の中腹にそいつはいた。ここまで足音が聞こえてきたので彼も階段を下りてきた人なのかもしれない。足音を響かせるために何か鈴でもつけていたのだろうか。そんな奴、いるわけないな。いたら指を差して笑ってやる。
そいつは止まり、振り返った。つられて自分も立ち止まる。そして、そいつは言う。
「ようこそ、ケレブレムへ。人が訪れるのは一ヶ月ぶりでしょうか。前回は男勝りな方でした。今回は……普通ですね」
初対面のそいつ――少年は、少女と見紛うような顔立ちをしていた。肌の色白さとの相乗効果で余計にそう思わせる。対照的にパールグレイの瞳は淡々とし、気力の欠片もなく、屈託した顔つきだ。磨けば光るだろうに勿体ない。そうしてやっと、ここが夢であることを実感できた。彼も作られた世界の住人に他ならないのだ。そうならば気力のない目に合点がいく。屈託した顔つきというのは矛盾しているような。疲労なんてするのか?
「へいへい、お勤めごくろーさん。で、あんたは?」
「申し遅れました。僕の名前はイシ。お兄さんは……奏都さんですね?」
イシと名乗った少年は同意を求めるような視線を向けてきた。こいつは自分を知っている、という根拠のない考えが風船のように膨らんだ。
「なあ、お前。どうして名前を知っているんだ? まだこっちは名乗ってねーぞ」
「……それは僕が……」
顔色を曇らせたイシの声は淀んでいた、というのは自分の勝手な解釈だろうか。幸薄そうな人に会うのは初めてだからよくわからない。会話を途絶えさせた行為に対して逆上させてこない心地の良い沈黙に包まれていたけれども、自分は早く逃げなければ。ここで無駄足を踏んではいけないと早々と会話を切り上げようと努める。
「まーいいや、んなこと。逃げることが優先だ」
「待ってください」
イシは両手を広げ、通行禁止を訴えかけてきた。そんな彼の目は虚ろ。彼を押しのけていくことは指一本でも出来そうな気がした。
「あなたは、この世界の存在意義に気付いていますか? ケレブレムの意味をご存知ですか?」
無性にイシが気に食わなくなった。全てを放棄したような虚無な奴が、やる気満々の自分を妨害する行為が許せない。
「は? おまえ、頭でもいかれてんじゃねーの。夢に存在意義なんてあんのかよ」
「そうですか。あなたは虫けら以下の知力しか持ち合わせていませんね」
「こ、このクソ餓鬼……!」
今にも飛びかかりたい衝動をぎりぎりのところで堪えた。自制心が働くのがもう少し遅かったら、取っ組み合いをしてしまったかもしれない。ま、最終的に勝つのは自分だが。
真顔でひどいことを言うイシとは一生関わりたくない。あ、でも夢だから真顔なのはしょうがない、と心の中で付け足しておいた。
「奏都さん。言葉には意味があるのです。僕の名も然り」
「〝イシ〟に意味があるって? だったら、川の中で角をとってこいよ」
「…………はい?」
イシ=石。それに加え、角をとって丸くなる=性格のことを指したつもりなのだが、少年にはレベルが高すぎたようだ。イシは目を動かさず一点を見つめている。
「こほん。話を元に戻しましょう。ここから先は危険です。命の保障はできません」
「は、ここは夢だぜ? 別に体力がゼロになって死ぬわけじゃねーし。あ、夢は覚めるかもな」
そう言って自分は、イシという障害物をどかそうと肩をぶつけてやった。
「じゃーな、ませ餓鬼」