第三話
時刻は七時を回り、街頭が薄暗い歩道を照らす。人影はまだ多数見受けられ、日が延びたことを表していた。
この靄然市は人口五十万人を越える政令指定都市である。福祉や教育に力を注ぎ、市内の出生率は二・四らしい。工業団地や住宅街もあり、働く場所や住居には困らない。高い地価は難点であるが、他から引っ越してくる価値はあり、交通費も安く、市外で働くのも苦ではないようだ。
あれから自分と空義はもう一度全ての部活動の資料に目を通し、不透明な点がないか確認した。それを明日、空義は生徒会長から判子を受け取るらしい。
形式って面倒だぜ。どんなにみみっちい内容でも判子をもらわないといけねーんだから。
役目を果たした自分は上機嫌で、空義と一緒に帰路につくと鼻歌を口ずさんだ。伸びきった鼻の下のせいでイマイチきまらない。それほど先輩が罪な女だということだ。
運命や前世からの縁を信じない自分にとっては珍しく、神様に感謝したかった。何だったら地面に額を擦り合わせてもいい。
「綺麗だったなー、汐世先輩」
「……彼女に会えたのか」
対照的に空義は歯切れが悪かった。険しい顔をし、困難に直面したような雰囲気を漂わせている。
「行けって頼んだのは空義だろ? 別に変なところはなかったぜ。……はぁー。それにしても久しぶりだったな三次元の女にときめいたのって。フラグが立ったと本気で思ったんだぜ? 智帆はうぜーし、母親も口先ばっかだし。そりゃー自分も現実逃避したくなるっての」
「お前の妹は相変わらずか」
「そうそう。なーんにも変わってねー。しつこいってマジで。朝、いちいち自分を起こしに来るんだぜ。身の安全のために鍵かけているけどさ」
智帆に荒らされないよう普段から自室に鍵をかけている。一部の人にとっては妹に朝起こしてもらうのはスチル付きのイベントかもしれないが、自分にとっては余計なお世話である。朝起きる時間は自分で決めたいし。
「彼女はお前を学校に行かせたいだけだろう」
「なんだよ、それ。あいつが母親代わり? いやいや母親は二人もいらねーよ」
智帆に好かれていることに多かれ少なかれ気付いていた。でも、兄妹という一線を越える気は毛頭ない。智帆の所為で現実の女の子に幻滅したのだ。それは空義も同じである。空義の場合は双子の姉の影響であった。
「なあ、空義。そういえばさ、捺由は元気か?」
空義はうんともすんとも言わず、眉間に皺を寄せた。その様子から捺由の状態が良くないことは明らかであり、言及する気は起きなかった。空義はどう言葉にするか悩んでいるらしく、こちらに余計な心配をかけまいとする思いがひしひしと伝わってくる。友達なんだからさ、自分も巻き込んで欲しいんだけどな。
「もう七月だな。おまえは夏休みの予定とかあるか?」
「一応決まってはいる」
「へー、もしかしてこれか。おまえも大人になったな~」
そう言って自分は、にやにやしながら小指を立てた。
「何を言いたいのかがわからん。小指がどうかしたのか」
空義はこの手の話題に興味ないんだっけ、と思い出し自分は肩を竦めた。こういう空義の固いところは嫌いではない。欲を言うとすれば、もう少しからかいし甲斐が欲しい。その分、捺由は脱ぎ癖があり、人間としての面白みがあった。どこで脱ぎ始めるかわからない、という危うさが自分を楽しませたものだった。
「はいはい、くーぎ様は部活にお熱ですもんねー」
ぶーぶーと口を尖らせる。夏は強化合宿に行くんだろうな、羨ましい。自分もそんな青春イベントを経験したい。
「……捺由が意識を失ってから一ヶ月が経過した」
空義の発言で周囲の温度が下がった。もうそんなに経ってしまったのか、と自分は視線を下げる。どこか回想するような口調で語る隣の人物の目には焦りの色が浮かんでいた。
「俺には二ヶ月しか猶予がない」
「二ヶ月?」
自分は間髪を容れずに聞き返した。二ヶ月の猶予。それがなぜ捺由に繋がるのだろうか。
「九月と言えばあれか? 体育祭とか、か?」
そう言って自分は後悔した。空義と捺由はクラスが違うのだ。
「いや、これはお前に説明するべきではないだろう」
「なんだよ! 力不足だと言いたいのかッ」
頭に血が上っていく。友人が関わっている以上、ここで引き下げるわけにはいかなかった。
「一人で抱え込むんじゃねーよ。おまえは数少ない正真正銘の友達なんだ。いつもみたいに何
があっても平気、みたいな顔をするな、こっちがハラハラしてしょうがねーじゃんかよ!」
衝動的に空義の胸倉をつかんでいた。空義と視線がかち合う。
「もやもやして胸がすかねーんだ。……ちくしょー」
「お前がどう考えようと勝手だ。不確定事項を言い触らすわけにはいかん」
「っ! テメェ、一発殴れたいのか!?」
「お前は殴れない。その脆弱な力では」
脆弱。そうだよ、自分は弱い。だから殻に閉じこもった。周囲と絶縁し、空義や捺由を除いた存在に対する感覚をも遮断した。実際、街や学校で顔見知りとすれ違っても声をかけるような真似はしない。顔見知りと呼べる人間の絶対数が少なすぎるし、声をかけても無視されるのがオチだ。そんな弱い心が見透かされたようで反論できなかった。
「心に留めておけ、奏都。俺はお前が捺由と同じ結果を辿るのではないかと怖いんだ」
「捺由と同じ道……?」
「そうだ。俺はお前に言われた事をそのまま返す。一人で抱え込むな。手遅れになる前に」
「て、手遅れってなんだ?」
自分の頭で考えずに他人に答えを求める姿が子供っぽいとわかっていた。けれども、問わずにはいられなかった。湧き上がってくる苛立ちを発散せずにはいられなかった。
「……明日、話すから待っていてくれ」
そう呟く空義の目は光を失ったかのようにほの暗かった。
翌朝、空義に呼ばれた。さしずめ昨日の件であるだうが、早朝に起こされたので愚痴らずにはいられない。
「はあぁ、こんな時間に何の用だよ。つまんねー話だったら恨んでやる。夢の中にも出てやる」
寝起きだったので自慢の茜色の髪はぼさぼさだった。手を動かしていないと眠気に襲われたから、うとうとしたまま頭を掻いていた。
空義の家は近所にある。片道歩いて五分、いや三分もかからない。カップラーメンが出来るのと同時に到着する計算になるだろうか。特に食への拘りはないので、いつか試してみよう。頼めば箸くらいは用意してくれるはずだ。
「お、ここだよな」
ぐちぐち呟いているうちに到着した。目の前にあるのは二階建ての一軒家。空義の外見からだと〝和〟を連想する傾向がある(奏都調査)が、家は洋風である。築数年ということもあり、目立った罅割れや外傷はない。引っ越してきた当初と瓜二つに見えるほど手入れが行き届いている。
インターホンを押し、声の調子を整えた。
「どうもこんにちはー、自分は奏でる都と書いて奏都でーす。空義はいるかー?」
返事の代わりに扉が開かれた。扉の先にいたのは空義だ。彼は制服を着込んでおり、学校に行く準備万端のようだ。
「よく来た」
「へいへーい、でも学校に一緒に行くという頼みだったら断るぜ」
学校に行く気のない自分は赤と黒のチャック柄のネルシャツに紺色のスウェットパンツを履いていた。スウェットパンツは運動するためではなく、ただ単にこの緩さが好きなのだ。
「学校の件で早朝にお前を呼ぶのは野暮だろう」
「け、わかってんじゃん」
家にお邪魔して数秒後、自分は目を剥いた。原因はこの家に異常な清潔さだる。生活臭はほとんどなく、生物がここで生きていけるのかと疑問になる。聖域という言葉がしっくりきた。この聖域を侵さないようにすると息苦しかったので、自分は普段通りに振舞った。微かに漂う香ばしい匂いがせめてもの救いである。
空義は捺由と父親の三人暮らし。母親は彼が小学生の時に亡くなったらしい。
「今日はお前に渡したいものがある」
二階に上がった空義は『捺由』と掲げられた部屋のドアノブに手をかけ、躊躇いなく開けた。
部屋は虚無に等しかった。高校生の女の子の部屋とは思えないくらい質素で何もない。机の上は整頓されており、教科書類が本棚を征服している。
「殺風景だな。処分したわけじゃねーんだろ?」
「無論、いつ目覚めて良いよう以前のままだ。一切手を加えていない。……掃除はしているが」
そう語る空義は小さなテーブルの上に置かれたノートパソコンに近寄り、着脱式CD―ROMドライブを押して、中から一枚のCDを取り出した。
「……捺由はパソコンを起動させたまま発見された」
ごくり、と自分は生唾を飲み込む。
「外傷は見当たらなかった。脳震盪ではない事は明らかであり、原因は不明。そして唯一の手掛かりであるこれを調べてみようとしても応答しなかった」
蛍光灯の光を反射し、それらが干渉してCDの裏面は彩られた。
「その言い草じゃまるでCD? が使う人を選んでるみたいじゃねーかよ」
「俺も解せん」
「ほー……、空義にも手が付けられないのか」
一通りの経緯は理解した。空義が何を思っているのかを逡巡し、結論を出す。
「いいぜ。自分に任せろ」
空義は顔を上げ、こちらの真意を質すような目をした。眼鏡の奥から光線が出たら面白いの
に、とつくづく思う。ふざけられる雰囲気ではないが、空義は目で殺せるという方に一票。
「これが渡したいものだろ? 回りくどく言わなくてもわかるさ。そういう仲だろ? これに捺由に関するヒントがあるんだったら、手を貸してやるぜ」
「お前を巻き込んでしまい、すまん」
「そんなのおあいこだろ、溜飲なんて下がらねーぜ。空義のおかげで自分は進級できたんだ。借りを返そうとしても、返しきれねーよ。つーか借金みたいに積もってく一方だし」
空義の手によってCDは透明なケースの中に入れ、それを自分は受け取った。
人間が意識不明に陥る品物。それに記録されているのは呪いの歌だろうか、それとも心を狂わす天使の歌声か。どちらにしても興味は尽きない。
これからの予定を考えている最中に空義から提案があった。朝食を食べていかないか、という誘いを自分は遠慮せずに受けた。