第一話
夏休みを寸前に控えた七月の始め、自分は珍しく学校――県立靄然高校に登校した。初夏の日差しは刻一刻と体力と気力をも奪い、動く度に汗が吹き出る。この蒸し暑さは十数年生きているというのに未だに慣れず、正直なところクーラーの効いた部屋で惰眠をむさぼっていたかった。
「あぢー。ったく、どうして空義はこんな日に呼んだんだよ」
木陰を探しながら校庭を歩く。昔遊んでいた影ふみをしているようで、少しだけ幼い頃に戻った気がした。あの頃は……最悪だった。
昨年の単位数はぎりぎり。留年の窮地に手を貸してくれたのが空義である。彼のおかげで無事に進級することができた。まさに空義様様である。今でも頭が上がらない。人助けは当為だと割り切れるところも尊敬に値する。
そんなことを考えていると、輪郭のあやふやな家族の顔が浮かんできた。
「あーっクソ、思い出しちまったじゃねーか。……家族なんてクソ食らえだ。空義のほうが何倍、何十倍も存在価値があるっての。マジでいらねぇし、うぜー」
父親はどこかに単身赴任中。その反動なのか母親は世間体を気にする。智帆は自分と対照的で社交的かつ愛想が良い。校内に『ちーちゃんファンクラブ』があり、その人気は計り知れない。隠れファンもいるだろう。その上両親に可愛がられている。成績は芳しくないが、内に宿した生来の魅力で誰もが彼女に眩惑されるのだ。みんな彼女が猫をかぶっていることに気付かない。要するに、自分は妹が好きではない。好きにもなれない。いや、むしろ家族全員。
「ふー」
気を紛らわすために、ぼんやりと校庭を眺めてみた。こでは部活に勤しむ生徒たちの声が飛び交っている。己を鼓舞する声。黄色混じりの声援。チームプレイでの掛け声、合図。
何か熱中出来るものがあることは素晴らしいと思う。時間を空費せずに変哲もない毎日を過ごせるのだから。誰かの手の平で踊っていることを顧みもせず、汚い事や不利益なものから目を背けられるのだから。
「どいつもこいつも哀れだぜ。裏に何かが蠢いている事実を知らない。本っ当に間抜けばっか」
靄然高校は「清く、正しく、和気藹々」をモットーにする進学校である。全国にも名を轟かせ、県の中では常にトップを維持し、模試の難易度によっては他校と平均十点差をつけることもあるらしい。教師達もさぞかし鼻が高いだろう。特別教え方が上手いわけでもないのに。
「弓道部は……っと」
校庭を抜けたところに弓道場はある。喧しい音をかき消すために耳を塞ぎながら歩みを進めた。
靄然高校弓道部といえばインターハイの常連だ。運動部所属経験のない自分には規模やその栄光を理解しがたいが、親友の真剣な姿を目にすると何が面白いのかとは訊けなかった。もし尋ねても、彼は頑なに節を屈しないだろう。それは彼の双子の姉にも当てはまる。
弓道場は校庭とは違って無音の領域だった。休憩をする者達の囁き声は気に留める程度でない。開け放たれている窓から中を覗くと、数名の生徒が的に向かって弓を引いていた。
「……おっ、空義!」
隅に弓道衣姿の空義を発見した自分は叫び、手を振った。すると近くにいた人がすぐさま振り返り、こちらを睨みつけてきた。負けるものかと自分も睨み返す。
その無言のやりとりの直後、空義が矢を放った。
練習中に声をかけるという自分の浅慮な行動を恥じたが、空義には影響しなかったようだ。親友の放った矢は吸い込まれるように的の中心を射抜く。周囲の感嘆が耳にまで届いた。先程まで自分を睨んできた奴でさえ拍手をしている。
離れ(矢を放つこと)の後、時間が静止したかのように暫く硬直していた空義は弓を下ろし、部長らしき人物に近付いた。両者の会話は一分もかからず、空義は用具を素早く片付けて着替えを済ませ、中から出てきた。そんな彼を自分は好きな人の話題で冷やかすような表情で出迎える。
「相変わらず、おまえが親友であることを誇りに思うぜ。声をかけて無視されたのは流石にグサッときたけど」
グサッ、という擬音語と同時に自分は胸を押さえた。その演技を軽く受け流した空義は口を開く。
「……頃合だと思ったからな」
「ん? もうそんな時間だっけ」
夏は日が長い。腕時計に目をやると短針は五を指していた。
「五時過ぎなのに明るいよなー。そうか、空義は自分の習性を知り尽くしているのか。まー、付き合いなげーし。隠してもいないけど」
生温い風が鬱陶しい。それに髪がへばり付く。例年よりも遅い梅雨入りのためか、この湿気に気が滅入った。十数年生きているのに慣れない。慣れてしまったら四季に目もくれない人間になってしまうのだろうか。
「自分?」
ふと、肩を並べて歩いていた空義が足を止め、眉をひそめた。
彼がなぜ引っかかったのか、自分はピンとひらめいた。自分っていうのが、どちらのことだか混乱しているのだ。
奏都の一人称が「自分」であることで、話がややこしくなる事態は度々あった。自分は親友の疑問を晴らそうと、頭を掻き毟り、視線を泳がしながら答える。
「あーその、……奏都のことを言ったんだ。わりーな、俺とか僕とか、しっくりこないんだよ。どうしても」
「それは個性だろう。変える必要はない」
納得したのか、空義はまた歩き出した。恐らく彼は校舎を目指している。
空義という男は合理性を求める理論派である。周囲の予想を超えた発言はいつも核心を突き、その現実主義である性情は自分と馬が合った。そして何よりも着飾らない。頭髪は本来の若葉色の髪を染め、日本人に溢れた黒。やや紫色を帯びているように見えるのは光の関係だろうか。襟足が長いのは捺由の趣向だったはずだ。無造作に跳ねているところも外見に拘泥しない彼らしい。ラインの上がった目元はどこか力強さを感じた。
二次元にいそうだな、という感想は死んでも空義には言えない。たとえ口が裂けても。いや、死んだら自分の口が裂けているかどうかわからないか。化けて出ても空義は平然としていそうだし。
校舎の中に入ると数名の生徒とすれ違った。彼らは空義に短く挨拶した後、こちらをじろじろと見てきた。珍しい奴がいるとでも思っているのだろうか。それとも空義と一緒にいる、ということが彼らの興味を引いているのだろうか。どちらだとしても気に食わない。
「先に行ってる。場所はいつものところだろ?」
自分は彼らを歯牙にもかけなかった。自己紹介をする気などさらさらない。居心地が悪かったので、空義に場所の確認し、返事をされる前にその場から去った。
生徒会室は潔癖症かつ効率重視の空義のおかげで片付いていた。資料は分類され、管理場所が指定されたため、損失も無くなったらしい。生徒会長がぐうたらで大雑把のために、空義が裏で主導権を握っていると言っても過言ではない。実際、会計監査の黛空義という名は生徒からも教師からも恐れられている。一円帳簿が合致しないだけで論うらしい。一体何度会計を泣かせたことか。
「待たせたか?」
「いや。そんなに待ってねーよ」
やや遅れて空義が入室してきた。彼は時間が惜しいのか、唐突に話を切り出す。そんなに急いでいるのなら、すれ違った生徒達を無視すれば良かったのに。
「……奏都、確かお前は部活に所属していないはずだ」
「部活なんてつまんねーもん、誰が入るかよ。つるんでるだけじゃん」
「その公平な立場であるお前に任せたい」
そう言って空義は綴じられた数枚の紙を渡してきた。『パソコン部会計』と見出しがついているそれは、ところどころ赤字で小言が書かれてある。要するに今回の被害者が決定したのか。どこの誰かは知らないが、ご愁傷様。って、自分が行くのか。自分が加害者なのか。
空義は返事を待たず、筆記用具やメモ用紙などをそそくさと準備する。
パソコン部について気になるのは活動内容についてだ。昨年の学校祭ではCGイラストを飾っていたようだが、それだけに一年を要するとは思えない。噂ではとある企業を手伝っているとかいないとか。しかもお賃金つきで。
「はぁ、行けってことか。他ならない親友の頼みだし、忙しそーだしな。……よーし、わかった。行ってやるぜ」
「恩に着る。俺もあらかた処理したが、あそこの会計とは極力関わりを避けたくてな」
「へー。おまえが怖気づくほどの人間って、化け物か? それとも鬼か?」
空義が特定の人間に苦手意識を持つなんて珍しい。多少癖があっても、空義は誰とでも仲良くなれると思っていた。
「いや、行動力があり意志も強い人間だ。だが……」
「どうかしたか? 空義」
「――気にするな、些細なことだ」
眼鏡の奥で曇る瞳の真意はわからない。空義が何を危惧しているか、自分には想像もつかなかった。