Tutorial stage
心に巣食う、もう一人の存在に気付いてから自分の生活は一変した。自我を強く保たないと、脳内に繰り返される悪魔の囁きのせいで記憶があやふやになる。幻覚に襲われ、混乱する。それらの現象は自分を疑心暗鬼にさせていった。
微かだが、まだ憶えている。一番初めの兆候は小学生の頃だった。
――雨が降っていた。
雨は汚れを洗い流すように、呆然と立ち尽くす者の体を濡らしていた。ローズグレイの瞳を曇らせた少年。茜色の髪は額にへばり付き、むきだしの腕には水滴がのっていた。
彼は界隈にいた数少ない生存者であり、足元には事件を起こした犯人が首筋に赤い線を走らせたまま転がっていた。
「なに、が……」
年端も行かず、労働を知らない柔らかそうな手からナイフが零れ落ちた。それは凄惨な死体置き場と化した場に埋もれずに輝き続け、数分前まで存命していた者達の生命のようだった。
「……ッ! どこだ!?」
口元を腕で拭い、糸が切れたように動き出した彼は死体をひっくり返し、視線を至る所に這わせた。足元に転がる遺体を踏みつけ、周囲に漂う異臭さえも気に留めず、取り憑かれたかのように奇妙な行動をしていた。傍から見ればさぞかし、失くした物を捜している子供であろう。
しかし、ここは死体置き場。子供が惹かれるようなものなどない。
『市立霜華小学校』と黒字で印刷された白いテント。椅子やテーブルが並べられ、地区のテントの下には青色のシートが敷かれていた。中には自前のパラソルを立てた人もいるようだ。それら全て、持ち主がいなくなった後もそのまま残っていた。
グラウンドは雨でぬかるみ、引かれた白線は消えてしまった。
サッカーゴールには得点板が設置されていた。赤組と白組は接戦で、きっと誰もが先の展開に興味を示したのではないだろうか。
正門付近には出店が並んでおり小規模ではあるもののこの運動会を盛り上げようとする地域住民の心意気が垣間見えた。
「あった……」
取り乱していた彼はやっとのことで、捜しもの一部――うさぎのぬいぐるみの耳――を発見した。
捜しものの上に覆いかぶさっている重りをずらし、ぬいぐるみを大切に抱えて縮こまっている女の子に手を伸ばした。
「智帆……」
彼の妹――智帆の肌はすでに青白くなり、人体特有の温もりを感じられなかった。雨で体温を奪われたのかもしれないと彼は思ったが、その予想は外れた。覆いかぶさっていたもののおかげで、彼女の運動着は全く濡れていないのである。
彼は智帆の口元に耳を近づけて、呼吸音を聞こうとした。
何も聞こえなかった。
肩を揺らし、頬を叩いてみた。
反応はなかった。
「智、帆……。智帆ぉぉぉぉぉ!」
妹の死に打ちのめされた彼は咆哮し、その意味のない動物的な荒々しい叫びは雨音に掻き消された。
「……はは、あはは……お兄ちゃん、妹でさえもまもれないなんてダメ……だな。パパに、しかられる。女の子をまもるのが、男の子の、やくめ……なのに……」
彼は泥まみれの手で目頭を拭った。
「どうしてだろう、お兄ちゃんにもよくわかんないんだ……。なにがあったのかを。なんで大切な人をまもれなかったのかを」
小学校の運動会中だったためか、子供とその家族が大勢巻き込まれ、被害は甚大であった。一人の人間によって尊い命の灯火が消え去られた。無論、少年も知らぬ間に犯人の絶好の的となっていた。だが、彼を含めたごく僅かな者には効かなかった。それは犯人も同じであった。だから人の手で裁くしかなかった。
「……人、を……。知らない人を、自分は……自分はっ!」
彼は唇を噛み締め、拳を強く握り、悲しみや恐怖で綯い混ぜになったものを精一杯堪えようとしていた。
そんな彼の背後に同年代らしき少年が歩み寄った。
「……もういい、奏都」
「空義……。でも、智帆は!」
妹から視線を外そうとしない少年――奏都に声をかけたのは彼の親友である空義だった。先程まで遠巻きから一部始終を見ていた空義は奏都から注がれる視線を一身に浴び、母親が子供を宥めるかのように言葉を発した。
「泣き叫んでも、失われた命は戻ってこない」
骨折をしてしまい満足に立てられない空義は自身の境遇に嘆かず、奏都を見つめ返していた。
その真摯な思いを感じ取った奏都は俯き、慈しむように妹の頭を撫でた。
「自分は……智帆を守れなかった。ごめんじゃゆるしてくれない。……ゆるされない」
楽しかった日々が走馬灯のように思い起こされた。記憶の中の智帆はいつも、ぬいぐるみで顔の半分を隠していて。兄である自分の服をひっぱり、潤みがちなローズグレイの瞳で言いたい事を訴えかけてきた。
「この、頬も……もう、ふくれあがったりしないんだな。かわいかったのに……」
「犯人は息たえ、お前は俺と捺由を護ってくれた。それが紛れもない事実。覆す事の出来ない」
二人の衣服は雨が染み込み、白い運動靴は泥だらけだった。
奏都の頬を伝う滴は涙か雨粒か判断し難い。やがて奏都は鼻をすすり、大きな口を開けた。
「――はっくしょん!」
「奏都、中に入らないか?」
「い……いいっ。ここにいる」
盛大なクシャミをした奏都は頭を振り、妹の傍から決して離れようとしなかった。
見兼ねた空義は一人で校舎へと片足を引き摺りながら向かった。援助して欲しいという遠回しな頼みを断られても、嫌な顔一つせずに。
「……あ……! ……っぐ!」
顔を歪め、膝を折った奏都は自身の体を両腕で抱きかかえた。丸くなってみると、自分の存在がいかに小さいものであるかを思い知らされ、あまり良い心地ではなかった。
「空義は行った、よな?」
これ以上自身が錯乱するところを親友に見せたくなかったのは彼なりの優しさだった。
犯人の狂った笑み、そして倒れていく人々……。それらをありありと見せつけられたことに耐えるのは至難の業であり、まだ幼く、心身共に成熟しきっていない奏都にとっては悪夢同然だった。
「うあ、ああぁぁぁ! ふざけるな! のっとるな! ささやくな! じゃまするな!」
何かを振り払うように怒鳴り散らす奏都の瞳には、死と直面した恐怖や大切な人を奪われた
悲哀でなく、怒りの色しか浮かんでいなかった。ローズグレイの瞳は煌々(こうこう)と光を放ち、虎視眈々(こしたんたん)と今にも飛び掛ろうとする獣のような迫力であった。
「……だれだっ! めいれいするのは! 自分のことは自分できめてやる、さしずなんていらないっ」
思う存分叫んだ後に耳を押さえ、外界からの情報を遮断してみたが、何者かが体の内側から執拗に語り続けた。その声は明瞭になり、耳元で鳴っているような錯覚に陥った。
『ほほう。余の神託が聞こえるか?』
感嘆している声が脳内に響いた。人が死んだというのに傍観していて呑気な声は奏都を刺激した。
「うっさい! 黙れ!」
耳をふさいでも、心を閉ざしても、憎たらしい声は頭から離れずに木霊する。
『口が渇くだろう? さあ啜り飲め。血を分け合った者の味を確かめろ』
「分かったような口をきくな! 血なんかよりも、智帆が生きてくれる方がいいっ」
『本心を偽るな。さあ……飲め。お主を苛ませた者の血を。お主を闇に葬った忌まわしき名の片割れを持つ者の血を』
「なっ、体が……! やめろ……やめろ!」
奏都の指先が智帆の喉下に伸ばされる。必死の抵抗も空しく、距離はだんだん狭まっていった。
「智帆に、触るな!」
腕をがむしゃらに振っても、元凶を断つことは出来なかった。声は無情にも奏都に現実を突きつける。
『その小娘はすでに絶命している。だのになぜ、拒む? あの味は易々と忘れるものではないだろう? お主は、その小娘に……』
「いいや、違う! ……違う……」
『如実を否定するつもりか。ふむ……愚鈍だな。まあ、痛痒は感じないが』
声は奏都を眩惑する。奏都は犯人から流れていた鮮血を思い出してしまい、口から流れ出た涎を咄嗟に拭いた。よく見ると、彼の口元は赤く染まっている。擦ってごまかそうとしたようだが、完全には消えていない。
『さあ……血を』
「……血を」
輪唱し、二人の言葉は重なる。
『血を!』
「血を……」
奏都の指が智帆の喉下を捉えた。爪を突き立て、薄い肌を引き裂こうと力を込める。
この肌の下に流れるものは一体どんな味がするのだろうか。力強く掻き毟り、一気に仰ごうか。それとも一滴残さず自分の血肉にしてやろうか。
もはや奏都には智帆が誰よりも彼を好いていた妹であることや血が消化できないことなど関係なかった。姿なき声に好奇心を煽られ、肌の裂き方に脳内を支配される。
爪が智帆の肌にのめり込む。奏都は快哉を叫びながら、自分の手元だけを注視する。
その時だった。
風を切り裂く一矢が奏都目掛けて一直線上を進んだ。それは目視できず、常人には感知できないであろうが、人でない獣と化した奏都は微弱な空気の振動に反応した。
「ちっ」
反射的に後ろへ飛んだ奏都は紙一重でそれをかわし、着地する。
『く……邪魔が入ったか』
奏都の右肩を隠す運動着は切り裂かれ、彼の二の腕が露になる。傷は浅かったが、完全に避けられたと高をくくっていたために、自身が怪我を負ってしまったことを認めざるを得ない。
「誰だ! 早く出てこい! テメェも始末してやる」
「……バイ、バイ」
高ぶった感情を押し殺した謝罪のような声に振り返った時、頭に衝撃を受けた奏都の意識は途切れた。
校庭はついに静けさを取り戻した。濃淡のある灰色の雲が晴れていき太陽が姿を見せる。その光に照らされても残された者達の気分は晴れなかった。
「朝から雨が降っていれば……運動会が中止になっていれば……」
「怖いのか? 捺由」
地面を覆いつくす死体の山は変わらず屹立していた。その中には彼らと親しい者も含まれている。無論、家族でさえも。幸い、捺由と空義の両親はまだ来ていなかったが、奏都の家族は巻き込まれた。
「だ、だって……あたし、奏都くんの頭を……!」
グラウンドには二人の少年少女しか立っていなかった。二人の若葉色の髪が風に靡き、その風景は初夏を思い起こさせる。髪と同じ色の瞳はどこまでも澄んでおり、宝石のようであった。
「自身を責めるな。俺らは彼を……奏都を止めなければならない。まさか、あそこまで飢えていたとは思っていなかった。恐らく、あのままでは自暴自棄になっていただろう。捺由、お前の行動は正しい」
「うう……ごめんね、ごめんね……」
空義の双子の姉である捺由は自分に言い聞かせるように「ごめんね」と繰り返し、慙愧した。
市立霜華小学校の運動会は毎年六月に開催され、梅雨入りを目前にしたこの日に運動会は予定されていた。午前の降水確率は三割、午後は四割。空気が冷たい中、運動会は盛大に行われた。午前のプログラムが終わり、子供たちが家族と一緒にお弁当を食べている頃に小雨が降り始めた。だんだん雨脚は強くなり、運動会は様子見となった。――そして悲劇は起きた。
どこからか、サイレンが鳴り始めた。それはだんだん強くなっていく。
「……音が近づいている。急いで出発するぞ」
そう言い、空義は捺由の肩に手を置いた。不意を突かれた捺由は間髪を容れずに振り返る。何を言っているの、と反駁しそうな顔で。
「この区域にまだ俺らのような人間が潜んでいる事を忘れたか? もし、人が来て問いただされるのは俺達だ。そうしたら逃げられなくなる。こんなにも人が亡くなった。必ず、野次馬に紛れて接近してくるはずなんだ」
「それって、奏都くんを置いて逃げろってこと? そんなの無理っ! 奏都くんをわかってあげられるのは、あたしらだけなんだよ!」
「くどい」
空義の重く潜められた声で捺由は青ざめた。冷静で落ち着いた様子のまま空義は正面打起しをしてから、捺由の額に左手の人差し指を向ける。その姿は精錬されており、あたかも本物の矢を射るようだった。
二人の間を沈黙が流れる。捺由は空義を睨みつけようと鋭い目つきになったが、諦めて目元付近の筋肉を緩めた。目を瞑り、それから時間を掛けて瞼を持ち上げる。
「いつも空義は正しかった……。きっと、またみんなと遊べるよね?」
「ああ。生きていれば会える。あくまでも、生きていればだが」
歯切れの悪い空義を尻目に、捺由は否定的な考えを頭から排除した。
「そうよっ。あたしは二人とまた遊ぶ! ぜった――」
「避けろ!」
拳を突き上げようとした捺由は訳もわからないまま、声に従って体を捻った。一方、空義は東門に向かって威嚇射撃をしていた。空気を切る音が捺由の耳にまで届く。
「な、なにがあったの!?」
「お前だと分が悪い。ここは俺に任せろ」
吐き捨てた空義は捺由を一瞥した。その顔には焦りが浮かんでおり、捺由も戦慄する。新たな襲撃者がやってきたに違いなかった。
「相手は大物だろう。十中八九、狙いは奏都だ」
「だったら、なおさらあたしがやる。空義は足が……」
あたしの所為で、と捺由は付け加えた。
「お前では無理だ。恐らく……あれは――っ!」
制止の声は届かず、果敢にも捺由は走り出した。ぬかるむ地面を勢いよく踏みつける度に靴の重さは増した。
「――ガルデニアだ!」
東門のそばで季節はずれの漆黒のドレスを身に纏った少女が唇の端を持ち上げた。喪服なのか、それとも個人的な趣味なのか、ひらひらのゴスロリは人形のためにあしらわれた衣服のようだった。
高校生の時に二年かけて書き上げました。自分の好きな雰囲気にまとまり、気に入っています。今後もこのような作品を書いていきたいです。と思っていますが、当作品の流れを汲む作品『永獄永劫のプリゾナス』は休載中です。