ドイツ騎士団~ドイツ中世の過ち
眩い輝きで魅せる琥珀は美しき涙をひとしきり流すことがある。
1889年経済が停滞する欧州諸国に激震が走る。大戦後続く冷戦の燻りが氷解しようとしていたのである。
東西分裂のベルリンは今まさに歴史的瞬間が訪れようとしていた。
ワアォ~
ぶち壊せ~
大観衆に後押しされたデブッとした中年男。ハンマー片手によっこらしょと城壁に登ろうとする。
城壁はベルリンの壁と呼ばれ東西ドイツの‘負の象徴‘となっていた。
ワアォ~
ワアォ
城壁に登り上がる巨漢は紳士の象徴である濃紺の背広を城壁隅に脱ぎ捨てる。
オオッ~
早くやれ
大観衆の声援が渦巻く。ワアワアという驚声ザワメキに男は拳を振り上げて応えた。
さあっ~
やるぞ~
巨漢は歴史的瞬間を予見し両手を高く掲げアピールをする。
背広を脱いだら白いワイシャツとオレンジ色のネクタイ姿になっていた。
男の胸にあるオレンジ色のネクタイに神々しき輝きを放つ琥珀の装飾ネクタイピンがあった。
大観衆には小さな琥珀は僅かにその存在を見せているのみである。
巨漢の男は大観衆の見守る中ハンマーを握りしめ高く高く振り上げた。
グイッ
振り上げた!
ネクタイピン琥珀は男の汗と勢いあるハンマーに振り回された。
ガッツン
ガッツン
巨漢男は西ドイツのコール首相である。巨体をユサユサ揺るがし満面の笑みをこさえ東西ドイツのベルリン市民に応えた。
消えてしまえ~
ベルリンの壁!
ガッツン
西ドイツのコール首相の微笑みは分断国家ドイツの政情を如実に物語るものである。
腕力に自信のある巨漢のコール首相。城壁を破壊するため真新しいハンマーが両手に握られている。
"ベルリンの壁"
優秀なるゲルマン民族ドイツは大戦後の爪痕(分断)を象徴するベルリンの城壁が立ちはだかってやまない。戦後にそれは米ソ冷戦の歴史の象徴として長々と存在した。
1989年初冬。辣腕政治家コール首相の手腕で崩れ落ちることになる。
「このドイツ分断の壁を崩す。我々ドイツが統一され世界に渦巻く冷戦は崩壊する。ドイツに栄光あれ」
東西のドイツ民はわいわいと騒ぎ壁に押し寄せ大声援を巨漢コールに送る。
いけー
コール首相~
そんなもんぶち壊せ~
城壁にあがったコールは顔面が真っ赤だった。胸にあるオレンジ色ネクタイは緊張のコールの心情を見透かすかのように鮮やかに見え微笑んだ。
コールのネクタイ琥珀とともにコールの演説を聞き観衆は興奮状態になる。
首相の派手なデモンストレーション。
破壊ハンマーを振り上げるたびに琥珀はユサユサと揺れ動く。
民衆の視線は巨体のコールに注がれた。コールがハンマーを持つ姿はメディアを通し世界に伝えられた。
日本にある岩手県久慈にもオレンジネクタイのコール首相は伝えられた。(久慈は琥珀の産出地)
コール首相のオレンジ色ネクタイは全世界のテレビの画像に鮮やかに映えた。ネクタイピン(琥珀)はキラキラと光り輝きコールの決断を象徴し微笑んだ。
エエッーイ
コールの一太刀が電光石火放たれる。ガッツーンと城壁の石は砕かれる。
巨漢コールの城壁破壊シーンは見応え充分で迫力満点だった。
どうだぁ~
ネクタイピン琥珀もテレビ映像に映る。振り下ろされたハンマーの衝撃をモロに受けてしまいイヤンっと顔を叛けたほどである。
ぶち壊れたベルリンの城壁。東西ドイツの民たちは割れんばかりの拍手をする。
フゥ~やったぞ
「やったあ~今ここにドイツは統一された。コール万歳。偉いぞゲルマンはひとつだ」
オレンジネクタイ琥珀はゆらゆらと動く。
琥珀はコールのハンマーが振り回されるたびに乙女の涙を流す。平和を願う琥珀。西ドイツの決断に乙女の涙・琥珀の祈りがハラハラと流れ落ちた。
一滴の涙のネクタイ装飾(琥珀)はバルトのクライペダ産出である。
穏やかな素顔の琥珀は平和を誰よりも願っている。
「ベルリンの壁がなくなって清々した。やれやれだわい」
大役を終えたコールは傍らに脱いだ背広を抱え持つ。
オレンジネクタイは背広に隠れ琥珀はその影を潜めた。
コールに琥珀ネクタイピンを送ったのは最愛の妻であった。愛の形として贈呈された琥珀は大役を仰せつかり世界平和を恒久的に願っている。
冷戦に幕を降ろし統一されたドイツは東西の経済格差を克服し現在に至っている。
同じく自由経済が欲しい東欧諸国はドイツに続けと西欧化に突き進む。
西欧化に憧れ自由を求める風潮が一気に押し寄せ社会主義を離れ自由主義国家への道を歩み始める端緒となる。
ロシアからウマウマと独立をしたバルトは息が洗い。
有史以来バルトの沿岸では平和的な民族が漁業を営んでいた。海洋民族バルトである。それはいたって閑かな生活であり牧歌的なもの。自然を相手にした生活はあくまでも平和で温厚な民族である。
天候に左右される自給自足生活はほのぼのとした牧歌的な温かさを感じさせるものであった。
バルト沿岸にあるロシア共和国カリニングラードに博物館がある。
1945年大戦以降ソビエト連邦の領地となったカリーニングラードだがプロシア=ドイツの異国時代のものはほとんど展示されていない。
その数少ないプロシアを彷彿させるのはでっかい絵画。バルトにいたらしい原始人がマンモスと共有生活をする絵が飾りつけられていた。
原始人は古過ぎだが有史以来の先住民はバルト海沿岸で4っの異民族が互いの領土で生活をする。
魚を採る。または小高い農地に野原に農作物を耕していく。平和を絵に描いたようなバルト族の日常である。
その閑かなるバルトに中世にドイツ騎士団が現れてしまう。
"招かざる客"は突然に平和な牧歌的なバルトに現れた。
12~13世紀のチュートン(騎士)は獰猛さを前面に出しバルト民族に対し完全武装に強烈な武力を誇示をした。
戦いを知らぬ暢気なバルト民族をアッという間に支配してしまったのだ。
武装勢力チュートンはバルト入りを易々とする。
あとは思うがままに我がもの顔に領地であると略奪を繰り返した。
バルトをかの地を好きなだけ手に入れて我が物顔となっていく。
まったくもって穏やかな民族バルトにとんでもない厄介者が来てしまったものだ。
この完全武装したドイツ騎士団はなにか。
チュートン騎士団
DeutscherOrden
Teutonic Knights
正式名はドイツ人の聖母マリア騎士修道会
Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum
ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つ。本来は12世紀後半の聖地巡礼者の保護が目的。
イスラム教徒に根拠地を奪われたパレスチナを目指す。
1226年バルト海のクルムラントを異教徒から防衛するために招聘されプロイセン王国の東方植民(バルトを含む)の先駆けとなる。
ドイツ騎士団(前身)はエルサレム王国がアイユーブ朝に攻勢をされてしまう。
パレスチナ領土を失いつつあった12世紀後半に第三次十字軍の一員としてパレスチナに赴いたドイツ出身の戦士たちを保護するために結成をされている。
ドイツ北部の港湾都市のブレーメンやリュベックの貿易商が資金を提供しアッコンに設立したエルサレムのドイツ人の聖母マリア病院修道会が根底になっている。
病院運営の兄弟騎士団は1191年にローマ教皇クレメンス3世によって公認され教皇庁の保護下に置かれた。
1198年騎士の身分出身の騎士修道士を中心とする。
聖堂騎士団を模とし総長を頂点する騎士修道会に再編成されていく。
1199年ローマ教皇インノケンティウス3世はドイツ騎士団を騎士修道会として公認した。
ドイツ騎士団はパレスチナのキリスト教勢力の後退からパレスチナを撤退する。
1210年に第4代騎士修道会総長になった騎士ヘルマン・フォン・ザルツァ(de)はハンガリー国王アンドラーシュ2世の招きに応じて翌1211年にハンガリー領に移り同国王からトランシルヴァニア(現ルーマニア領)のプルツェンラントをドイツ騎士団の所領として付与され周辺のクマン人に対する防衛を担った。
聖地エルサレムの防衛でなく異教徒に対する"尖兵"としてのドイツ騎士団の性格(武力行使)を決定させる。
ヘルマン・フォン・ザルツァは優れた政治家でやがてハンガリー王国の従属からドイツ騎士団の国を創り上げようとした。
1224年ザルツァはローマ教皇ホノリウス3世にプルツェンラントをハンガリー王国から切り離させ教皇支配地とすることを要請し教皇に直轄領と宣言させることに成功した。
この動きに激怒したアンドラーシュはローマ教皇の命令を無視し1225年騎士修道会をトランシルヴァニアから追放してしまう。本拠地を再び失ったドイツ騎士団。1225年ワルシャワ周辺を中心に勢力を持つマゾフシェ(マソヴィエン)公コンラートに招かれバルト海の異教徒からクルムラントの防衛を担うよう要請された。
※この要請は後にポーランド史上最大の誤りと言われ後悔してもしきれない。
ハンガリーでの失敗に懲りたザルツァは周到に準備を行い神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世と交渉して1226年のリミニ金印勅書で騎士団にクルマーラントとプロイセンラントにおける領邦主権者としての法的地位を認められた。
これは異教徒の原住プロイセン人(独:Baltische Pruzzen,英:Baltic Prussians)の土地を征服、領有権を保証するものである。
1230年にはローマ教皇グレゴリウス9世から異教徒たちを打ち倒すことが神の意に叶うと罪を贖う救済行為であるとして武力によるキリスト教化を正当化する教勅を与えた。
原住プロイセン人の土地の征服に着手する。
騎士団は1283年まで50年以上を費やして徐々に征服していく。
原住民に異教の信仰を放棄させ征服した土地にドイツ人の農民が次々と入植しドイツの農村が建設されてしまう。
圧力の前に原住プロイセン人はドイツ人やポーランド人に同化し民族語である古プロイセン語も消滅をしてしまう。
ドイツ騎士団は本拠地をマリエンブルク(de)(現マルボルク)に置き選挙選総長を頭に宗教的共和国統治体制を築いた。
騎士団国家は14世紀には最盛期を迎える。騎士団の勃興と同じ時期に経済的に発展し始めた西ヨーロッパに穀物を輸出し経済からハンザ同盟都市と深く結びついていた。
ケーニヒスベルク(カリーニングラード)
エルビンク(現エルブロンク)
ドイツ騎士団の下で発展した貿易都市である。
バルトのカリーニングラード沿岸などは閑散とした漁村がぽつんとあるのみだった。
そこにチュートンが来て開拓をしてくれたお陰で大助かりとなった。
大河の河口に位置し川沿いの穀物を集散して交易をして栄えていく。
一方エルビンクとライバル関係にあったダンツィヒ(グダニスク・ソポト)はドイツ騎士団による支配を極端に嫌悪した。無理もないチュートンは粗暴であり唯一無比なる権力者である。
グダンスクの自治のためポーランドの庇護を望んでドイツ騎士団と何世紀にもわたり抗争を繰り返すことになる。
騎士団は1237年ラトヴィア征服を進めていたリヴォニア帯剣騎士団を吸収し事業を続行した。
エストニアの領有をめぐっては北欧のバイキングと恐れられたデンマークと争う。東の東方正教徒のルーシ(ロシア)との争いでは1242年チュード湖の氷上の戦いでアレクサンドル・ネフスキー率いるノヴゴロド公国の軍に大破させられた。
異教徒のリトアニア大公国が誕生しドイツ騎士団はこの強国との間で恒常的な戦闘を続ける。
14世紀後半騎士団の専権的な支配は在地勢力や都市や地方領主などの反感を買うようになりポーランド諸公国が統一されて誕生したポーランド王国を頼るようになった。
ポーランド王国もまた騎士団が神聖ローマ皇帝の権威を後ろ盾にポーランド国王の権威を蔑ろにしポーランド北部のクヤーヴィ、ポモージェ、ドブリンの諸地方を横領し、マゾフシェにも来るのかと敵対心を募らせていた。
バルト海沿岸には居城のマルボルクがある。
1382年にハンガリー生まれのポーランド国王ルドヴィク1世が没し、9歳の娘ヤドヴィカが女王となるとドイツ騎士団に対抗する強力な指導者を望むポーランドの貴族はリトアニア大公ヤギェウォに白羽の矢を立てた。
1385年ヤギェヴォはキリスト教に改宗。ヤドヴィカと結婚しポーランド国王ヴワディスワフ2世として即位した。
リトアニアの改宗によりバルト海のキリスト教化存在理念として騎士団国家の存立の危機となった。
1410年には騎士団はヴワディスワフ2世率いるヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合王国とのタンネンベルクの戦いに大敗を喫し西プロイセンを失った。
15世紀のドイツ騎士団は強大なポーランド・リトアニア連合の脅威に晒される。
騎士団は復権に向けて様々な努力を行うが勝つことはできない。ポーランドによってただ圧倒されるばかりであった。
1466年騎士団は大都市ダンツィヒや首都マリエンブルクを含む東ポモージェをポーランドに割譲し残る領土はわずかにケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンのみとなった。
東プロイセンもポーランド王の宗主権の及ぶ地域と定められ騎士団総長はポーランド国王と封建関係を結ぶ臣下となった。
1510年に総長に選ばれたアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(Albrecht von Brandenburg)は、1523年にマルティン・ルターと面会して感銘を受け支配下の騎士とともにルター派に改宗した。
こうしてカトリック教会の騎士修道会国家は歴史的な役割を終え1525年にポーランド王国の宗主権下にブランデンブルク公家を世襲の公とする世俗の領邦であるプロイセン公国に変る。
アルブレヒトの血統が絶えると彼の親戚筋のブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントが併合。以降ホーエンツォレルン家の飛び地領土となる。
これが後にプロイセン王国の名称が生まれる源である。騎士団国家の消滅後も騎士団自体はドイツ南部にもつ封土を中心にカトリック教徒のドイツ人によって保持されヴュルテンベルク地方で主にハプスブルク家の成員を総長として続いた。
騎士団は1809年に世俗的な領土を失い第一次世界大戦でハプスブルク家の後援が断たれたが騎士団は慈善団体となり現在も存続している。
バルト・ドイツ人(ドイツ語:Deutsch-Balten)とはバルト海南岸の現エストニア、ラトヴィアに植民したドイツ人のこと。
中世まではドイツ人の居住地はエルベ川西岸まで広がっていた。13世紀頃からドイツ騎士団やリヴォニア帯剣騎士団によるキリスト教化の進展に従いドイツ人は東方植民を始めベルリンのあるシュプレー川流域からプルセン人やスラブ人やフィン・ウゴル族の居住するヴァイクセル川、メーメル川流域へ移住した。
ドイツ人はバルト地方にタリン(エストニア)リガ(ラトビア)都市建設をする。
プロイセン地方にダンツィヒ(ポーランド)ケーニヒスべルク(カリーニングラード)などの港湾都市を建設した。
これらの町はハンザ同盟に加盟し繁栄した。
ドイツ騎士団は1525年にポーランド王国のズィグムント1世の宗主権を認めプロイセン公国となる。
1701年ブランデンブルク辺境伯のホーエンツォレルン家が神聖ローマ帝国皇帝からプロイセンの王権を認められた。
現在の首都タリンやリガはスウェーデン王国やロシア帝国の版図に組み入れられた。
スウェーデン支配地は17世紀を通じてスウェーデン絶対主義に支えられ教育の推進、農民の解放、衰退期のハンザ同盟に代わるバルト海貿易による商業活動によって、バルト地方の繁栄の時代をもたらした。その主役にはバルト・ドイツ人がいた。特にリガはスウェーデン第二の都市とまで呼ばれその公用語はドイツ語であった。
「幸福なスウェーデン時代」
リガ、タリン、ナルヴァなどの都市が発展する。
18世紀までにロシア帝国に組み込まれた場所でも、バルト・ドイツ人による直接支配は保たれ新たな支配者ロシア帝国もバルト・ドイツ人を重用した。
ドイツ人によって行われた啓蒙運動によってエストニア人やラトビア人の民族覚醒が起きている。
19世紀のナポレオン戦争の後ドイツ民族意識の高揚がある。
「ドイツ語響く所ドイツであれ」
謳われてもいる。
「ドイツの国歌」
メーメル川まで我々のドイツと歌われている(ゲルマニズム)
1871年のドイツ帝国成立はバルト海沿岸の
「バルト・ドイツ」
も帝国領とされた。
ドイツは第一次世界大戦に敗戦。三分割されていたポーランドが125年ぶりに世界地図に復活をしてくる。
独立を勝ち取るとポーランド回廊によって東プロイセンが飛び地となりそれを原因に第二次世界大戦が勃発する。
第二次世界大戦にドイツは大敗。ヤルタ会談の取り決めによってケーニヒスべルクはカリーニングラードと改名されソビエト連邦に編入されていく。このあたり短期間にめまぐるしく国家が国境が変化をしている。かの地に住む民族は多大なる迷惑を被る。
ポーランドは国境を西にずらしダンツィヒ(グダニスク)まで延ばされプロイセンがポーランド領とされた。
ドイツ国境はオーデル・ナイセ線へと西方向に後退をしていく。
バルト・ドイツ人は悉くオーデル川の西に追放されてしまう(ドイツ人追放)
現在のドイツの領土は東方植民運動が始まる前の状況に戻った。この世界情勢を眺めると台風一過なのか鳴山胎動鼠一匹とも言うべきだろうか。
平和なる土壌であったバルトの民族は農民でもあり海洋民族である。閑な牧歌的な農耕民族・海洋民族のまま今世紀を迎え入れたらばどうなっていたことであろうか。恐らく文明らしき文明もなく文化の胎動も緩やかなままであろう。
文化の先駆者的役割を担うドイツ人気質は認めたくなくても重要となる。
ドイツ的なチュートンを無視をしてバルトは発展を遂げたかどうか疑問である。
次に視野をバルト海沿岸と見ると民族は多種多様に存在していた。スカンジナビア半島はバルト沿岸になる。
スカンジナビアのバイキング(デンマーク・スェーデン)もバルト海に進出で暴れ回る。
チュートンだけをバルト民族は敵対視をしていたわけではなかった。スカンジナビア半島なる北欧諸国が大西洋とバルト海に面していたことが禍を招く。海の覇者としてのプライドがバイキングにはあるようでありとあらゆる海で君臨をしてみたくなる。
「我々はバイキング(海洋民族)である。海の覇者は我々以外にいないのである」
勇猛果敢な海洋民族バイキングは大海なる大西洋に出て行く前にバルト海を領地化していく。
バイキングの軍事侵攻をまともに受けたバルト民族。舟と船の違いもあり暢気なバルト民族はバイキングにやられてしまう。
バルトの海洋民族は海洋に出ては魚や魚介類は採るが戦いなんてしたこともないし第一に見たこともない。バイキングという海の勇者には勝てる見込みはなかった。
北欧バイキングが欲しがったバルト領地。北から順にエストニア・ラトビア・リトアニア・プロシア(プロイセン)
異民が来ない前には4民族が領地争いもなく暮らしていた。狭い領地の4民族が互いに侵略戦争もなく暮らしていたのは奇跡的なことかもしれない。
バルトの領地化は早い順にスェーデン・デンマーク・ドイツ騎士団となる。
タリン(エストニア)はデンマークやスェーデンが領地化。
リガ(ラトビア)はスェーデンが領地化をして街そのものを開発し都市に仕上げた。このまま各都市は発展していたらよかったが。それは世界史が許してくれない。
次の支配者ドイツ騎士団がドッと入植をして領地化してしまう。
ドイツ騎士団はベルリンを拠点。バルト海岸を北上し制服を繰り返す。
「我々はドイツのためにドイツ人が住める領地を拡大したい。軍事力を駆使してそれバルトを支配するぞ」
最初の犠牲者はプロシア・バルトだった。チュートンはありとあらゆる武力を行使する。植民地・領地化を免れたいため手向かうプロシアを殺していく。温厚なプロシア人はすぐに降参をしてしまう。無惨な人殺しなんぞはごめん被りたいというのが本音だ。
「わっわかった。もう手向かわない。黙ってチュートン・ドイツの支配下に入る。我々は降参をしている」
ものの数日でチュートンはプロシアを支配しそのまま入植をしている。世界史のドラマとしては実にあっけない幕切れである。
残りはリトアニア・ラトビア・エストニア。チュートンは軍隊を編制して武力行使に出る。だが隊長は考えた。3回も交戦していては身が持たない。
「我が軍隊は優秀だが幾度も戦いをしていては兵隊が疲れてしまう。3回も同じ戦を繰り返してはつまらない」
チュートンの隊長は非武力によるバルト領地化を突き進めた。敢えて武力を行使しても負けないから無用な戦いは避けたいと先見の明である。
ラトビアの首都リガではこんなエピソードが残っている。
チュートンの隊長はリガの市民に演説をした。プロシアバルトを制服したチュートンの自慢話を繰り広げてみる。優秀な軍隊があるチュートンに手向かったとしてもつまらないぞと威嚇の意味で演説を繰り広げた。
「我々チュートンドイツの支配下になると素晴らしい。領地税も無理なことはいわない。ひょっとして今の税金より楽になるかもしれない」
チュートンドイツはリガ市民に黙って支配をされるように話を持ち掛けたのである。話し合いでカタがつくならこんな楽なことはない。リガの市民を代表して長老が聞いた。
「しかし税金が楽になるとしてもワシらはお前らの家来になるのか。面白くない」
この一言に短気なチュートンドイツの隊長はカチンとくる。
リガの野郎。大砲のひとつぶっぱなさなければわからぬ奴らだ。
「ならば交換条件を出してみよう。私は紐でリガに領地を作ってみる」
チュートン隊長はポケットから短い紐をヒョイっと取り出した。右手に持ち高々と掲げた。リガ市民はなんだろうと思うだけである。
「この紐で囲まれただけの領地をリガ市民から貰いたい。この程度であればソナタも憤りを見せることもないであろう。紐の範囲だけの話さ。よいだろう」
リガの長老は紐程度の話でチュートンの隊長は満足をするのか。あんな短い紐でリガを領地にしてやるとはたかが知れている。僅かな含み笑いをして見せた。
「いいよそんなくらいな領地なら(なんでもくれてやる)」
紐で囲う領地なんて。ワシらが見える範囲の広場程度だ。この隊長は大した知恵もない奴だ。
目の前にブラブラと巻き尺のような長い紐を見せ今から囲う素振りを見せる。
「うんかたじけない。ならば遠慮なく紐でリガをラトビアを囲うとするか」
隊長は頭を下げニヤリとする。
いや単に御礼をするかと思えばクルリっと後ろを向いた。幾多かのチュートンの軍隊に激しい口調で命令を下す。
「皆の者よいか。この紐の届く限りの土地はいただくぞ。リガからラトビアから我らがドイツ領地にしてしまえ」
人数に優るはドイツ騎士団の軍隊である。アッという間に『紐の約束を反故』とし軍隊は列をなして領地化を進めていく。
軍隊は手際よくリガから街を奪い取る。数日後にはラトビア全体を占拠してしまう。チュートンの軍隊に手向かうラトビアバルトにはきつい口調で言う。
「長老との約束だ。この紐が目に入らぬか。邪魔をするな」
詭弁を使いあくまでも‘紐の包囲‘の話だと手向かう庶民を煙に巻いた。
リガの長老は嘆き悲しむ。後からリガの統治者(首領)が現れても後の祭りである。軍隊はすでに広場から分散化し国をまるごと占領してしまう。
「なっ、なんてこった。約束が違うじゃあないか」
長老は顔を真っ赤にしてチュートンの隊長に盾をついた。
隊長は何食わぬ顔をしてしまう。紐の範囲は咎であるとしてその場で長老は銃殺された。リガの市民は一様に黙ってしまう。
後ろからノコノコ現れたリガの首領は地団駄を踏んで悔しがる。血吹雪きをあげて倒れた長老を横目にみる。
「隊長殿。なんてことをなさる。あくまでも約束は約束ですぞ。話が違いますぞ。リガの長老が咎をなさるとは聞き捨てならない話ですな」
リガの首領がチュートン隊長に苦情を言うか言わぬか。
隊長の腰に大人しく収められていた剣はスゥ〜と軽やかに抜かれ空高く掲げられた。キラリと太陽の光に眩しく輝きをみせる。
リガの市民広場に悲鳴があがった。
「キャアー」
剣は一息に振り下ろされた。
リガの広場は再び血で染まってしまう。
チュートンは温厚な軍隊であり殺戮は好まない。これ以上の惨殺はリガの市民は我々にさせないようにと命じた。リガは一瞬にしてチュートンの領地化に同意せざるを得なかった。
リガを詭弁で領地化するとタリン(エストニア)もうまくチョロまかして簡単にドイツの領地にしてしまう。
バルト民族は人柄がよいの証拠とも言うべきか。
「ラトビアもエストニアも領地化は楽なもんさ。残りは難敵リトアニアだ」
バルトにある4民族の領地化。最後のトリはリトアニアとなる。
リトアニアはポーランドと連合を組みチュートン軍隊に最大なる抵抗を試みる。
軍力に優るのはドイツ騎士団チュートンである。
それに負けまいと抵抗を見せるリトアニア・ポーランド連合軍隊。リトアニアの軍略や指揮官の策略のうまさは特筆すべきである。
チュートン軍隊は真っ向からリトアニア・ポーランド軍隊に戦いを挑む。いかなる戦いも負けたことなど記憶にない常勝軍隊チュートン。バルトという小さな勢力などチュートンの敵ではないのだとばかり襲いかかる。しかしリトアニア連合軍は降参はしない。
「強いじゃあないかリトアニア。小さなバルトもこんなに歯向かう奴がいたとはな。ええい、引けぃ引けぃ。我々の負けだ」
リトアニアは領地化だけは免れた。
※戦いにリトアニア連合軍は勝つ。が勝ち戦は最初だけ。最後には軍事力の差が如実ゆえ負けが目立ち領地化されてしまう。
バルト民族の4地域は長い年月をかくてチュートンのものとなる。
バルトの最南、ベルリンに近いプロシアを領地化したドイツ騎士団チュートンは高らかに宣言をする。
「我々はかの地(プロシア=バルト)を東プロイセン=ドイツとして統治していきたい。偉大なるドイツ帝国の新たなる領地はプロシア=ドイツとなることぞ」
プロシアのドイツ領地化はドイツ騎士団の軍事侵攻入植とともに始まる。
エストニア・ラトビア・リトアニアも同じ領地化ではあるが入植とはならなかった。
特筆すべきは長い歳月を経てプロシア=バルトは混血しプロイセンと同化していく。プロシアからみたらバルト族・ポーランド系民族がドイツ民にみるみるうちに変わっていく。新たなる民族プロシア=ドイツとなり"プロシア人"はこの地球上から完全に消え失せた。異民族同士が同化され新民族となるのは世界民族地図を拡げてもあまり例がない。
東プロイセン(プロシア)の首都クライペダはバルト海沿岸の港町でもある。後のハンザ同盟の重要な交易の要所となって発展をしていく。
プロシアバルト時代にはほんの小さな漁村に過ぎないクライペダという漁村。後に東プロイセンの保護とバルト海を巡るハンザ同盟の繁栄から堂々とした港町・繁華街に成長していく。
チュートン=ドイツの統治支配が始まるとクライペダは交易の要所という商都一面がある。
クライペダ=プロシアはどんな生産品・交易品目があるか。ハンザ同盟の重要交易はベルリン=ドイツとしては何があるのであろうか。
魅力のあるクライペダ=プロシア。あるわあるわ交易の宝庫であった。
「東プロイセン(ドイツ)の繁栄は商都クライペダのこれからの繁栄に等しい」
クライペダの重要交易品目はロシア製の毛皮である。
歴史は遡りロシアがルースと呼ばれていた頃。当時のルースは領地だけは広いが小国の集まりであり単なる集落に過ぎなかった。一番発達していたのはリューリク隊長が興したノヴゴルド公国だった。後に首都となり一大勢力となるモスクワ公国は未熟なる小国に過ぎない。
ノヴゴルド公国には良質の毛皮がルース全域から集まる。
ノヴゴルド公国の毛皮は良質で高級感がある。ベルリン=ドイツやハンザの都市は欲しくてたまらなかった。
「ノヴゴルドの毛皮。キエフ公国の蜜蝋細工。いずれも見事な交易品になる。クライペダを経由してハンザ同盟港町で売り捌いて莫大な収益が見込まれる」
ルースの毛皮はバルト沿岸の港町クライペダに交易品目として並ぶ。
他にもタリン・リガ・リエパーヤとハンザ同盟の港町も同様である。交易が盛んとなると商人は人気品目を目敏く見つけてはハンザ同盟に売り込んでいく。プロイセンの商業的な保護も手伝いクライペダはどんどん発展をしていく。だがクライペダ繁栄はそれだけではなかった。
ルースから陸路で湊町クライペダにノヴゴルド公国やキエフ公国からの荷が着く。売れ筋ものばかりだから商人たちは我先に品を買い求める。
繁栄するクライペダ交易に多大な影響を及ぼすものが現れた。
海の宝石・琥珀である。
バルト海沿岸で産出される地下の宝石。これがクライペダの交易品目に加えられる。
※現在琥珀産出地はヤンタルヤー(カリーニングラード・ロシア領)のみ。地下500メートルを掘り大量の琥珀を採掘している。
ハンザ同盟の重要交易品目に琥珀が加わる。
「プロシアのクライペダには海の宝石・琥珀がある。今までに見たことも聞いたこともない輝きがある宝石だぞ」
噂はハンザ同盟商都に広がりクライペダの宝石は瞬く間に人気となる。
ハンザ同盟の港町。商人は最重要交易品にクライペダ宝石を数えていく。
「クライペダ宝石を手に入れたい」
商人にしてみると売れ筋商品の第六感が働く。
「他の品など交易取引しなくてもよい。クライペダ宝石だけあればことは足りる」
クライペダ琥珀は多大な需要が見込まれているがなにせ品数が薄い。ハンザ同盟の人気ナンバーワンに琥珀はランクされていく。
「とにかくクライペダ宝石じゃ。いかなる手を打っても欲しいものだ」
クライペダ宝石は商人達からは琥珀amberと名づけられた。売買の市場にて日毎に高値となっていく。
交易品目の中で最高値をカウンターされてからはクライペダ競争曲が奏でられていた。
「皆のものよいか。クライペダにあるという秘宝のamberを探せ。海岸に打ち上げられていると聞いた。バルト民がコッソリ民家に蓄えていると聞いたこともある。クライペダの秘宝amberを手に入れよ。あんな売れ筋交易品は他にはない。毛皮も蜜蝋も要らぬ。クライペダamberが欲しくてたまらぬ。欧州諸国の公王・女王さまは金に糸目をつけずいくらでも秘宝を買いなさる。いざクライペダへ行くのじゃ。さあさあいけ」
クライペダ宝石とはなにか。amberとはなにか。
琥珀のことである。
中国の故事
「"琥"は宝石の中に虎が入るほど魅惑的なことを意味する」
琥珀そのものは太古の松脂が地殻変動の活断層で数百メートル沈下して出来たもの。高圧・高熱により長年かけて圧縮し出来たものと言われている。
その地下深い活断層にある琥珀がバルト海の海辺に波打ちあげられていた。
琥珀は活断層の変動で海上に吹き上げられる。琥珀は海水に浮き偶然にも人の目につくものだけが手に入る。数が限られているのは偶然にしか手にできないからだ。
地下に埋没しているとわかったのは後のことだった。