無道無乃(八)
男は濡れた身体に衣服を身につけていく。素足に深靴を履き、慣れた手つきで素早く革帯をしめる。髪を高く結い上げると筒袋を手にして満足そうに頷いた。
「あんたは我氷津に脅されている身だ。もし青菊がこの船にいないと感づいたら、あんたを責めるかもな」
無乃はおっとりと微笑んだ。
「それは、どうだろうね」
確かに我氷津は青菊の為に多くの医者を呼んだようだが、どうやら姪の病については無関心だ。その証拠に、船主は一度も無乃を呼び出さなかった。普通、親族なら症状の善し悪しを聞きたがるはずなのに。
納得できないのことはもう一つあった。わざわざ男の彼が厚かましくも女装までしてこの船に乗り込んだことだ。むしろ無乃にはそちらの方が重要に思えた。
「君が青菊のふりをしてこの船に乗り込んだのは、どうしてかな」
男は無乃に背を向け窓枠に手をつく。川の様子を眺め下ろしていた。生来、饒舌な性格であるらしい。顎を揉みながら答え倦ねていたが、ついに軽口を交えて白状した。
「一週間も女の格好をさせるなんて、あり得ないだろ。退屈で仕方がない。おまけにあんたみたいな変な医者まで来るし……それでも俺が女のふりをしてこの船に居続けたのは首魁の遺言を実行するためだ」
「首魁……?」
「翠致幇だ」
無乃の胸にチクリと刺すような痛みが走る。
「翠致幇だと……?」
翠致幇の首魁。その人物は王家奇家の公主を下賜された、軍港の将軍だ。一時は水路要地の全交通網を支配する荷華幇と匹敵するほどの勢力図を広げたが、首魁は奇家の凋落とともに十年前に征伐され、翠致幇も解散。その名は最近ようやくちらりと耳にするほどであった。
その残党がまだ活躍していたことに無乃は驚いていた。
冷たい月明かりを背にした男に、無乃はそっと息を吐く。
「何をはじめるつもりだ? 首魁の遺言状に従うなんて。彼は、とっくに死んだんだよ」
「ある人物がこの船に乗り込むという情報があったんだよ。待っていたが、どうやら偽情報を掴まされたらしい。乗り込んできたのは、貧乏な痩せた医者だけだった」
無乃は自分の姿を見おろして、確かに痩せてはいると苦く笑う。
「この舟が綾風渚に向かって困るのは君の方だ。私が捕吏を呼ぶからね。本物の青菊の居場所を教えてくれれば、君のことは一旦見逃してあげてもいい」
「その、綾風渚に俺たちも向かうことになった。まさか、うら若い乙女を見殺しにするわけがないよな? 俺より先に彼女を見つけないと、どうなるか分からないぜ、無乃先生」
男はにやりと笑い、後ろ手に窓を開け放つ。
「窓……? まさか、外は川だ!」
すでに闇深い夜更けで、危険を冒してまで川に飛び込むとは想定もしていなかった。慌てて引き留めようとしたとき、
「無乃!」
蹴り破る勢いで羅冴流と羊群が押し入ってくる。無乃は彼らの焦った顔をチラリとも見ずに川の中へ落ちていく男を窓際まで追いかけた。真っ暗にうごめく波の中に、すでに男の姿は消えていた。
急いで甲板へ出ようとするところに羊群が慌ただしく干し草を押しつけるので、無乃はやにわに声を上げる。
「羊群、干し草は今は……」
問題でないよ、と言おうとする最中にも廊下の方がひとたまりもない騒がしさである。
視線をあちこちに忙しなく彷徨わせた末に羊群がたまらず叫んだ。
「盗賊団です! 旦那様にはよくしていただきましたから、それだけは伝えようと思っていたのに、あなたを探し回ってついに今日になってしまいましたよ!」
半ば泣きそうな目で羊群が訴えた。
無乃は「ああ、」と納得して手を叩く。
「夜な夜な歩き回っていたのは、私を探していたからか」
のんびりと無乃はいった。その言葉がまだ終わらないうちに、羊群は被さるように口を開く。
「そうなんです! しかも私は本当は盗賊団で、この舟に忍び込んで下準備をしていたときに我氷津に下男と間違われ、あなたを連れてくるように言われてしまって!」
両腕に泣きすがる羊群に息を吐きつつ無乃は鼻水を垂らす顔だけは遠ざけた。
「悪いが、今は盗賊団に構っている暇はないよ、青菊を追わないと……」
しかし無乃は羊群に恩を返されるほどのことは何もしていないので、何か特別なことをしただろうかと、よくよく思い返そうとした。けれどやはりどれほど考えてみても何も思い出せない。当然、盗賊団であれば広く乗客を襲って金品や女性を奪うに尽きるのだが、羊群の噂がたつほど無乃を探し回っていたということは、盗賊団の目的はもしかして盗みではないのだ。
はたして羊群は、無乃の胸の内にしめていく疑問に答えるように言い放った。
「盗賊団の狙いは、旦那様ですよ!」
羊群の脇を通って廊下へ出ようとした無乃は、思わずどきりとして立ち止まる。
「私か?」
「恨みを買ったのか?」
それまで静かにやり取りを見ていた羅冴流が喉をならして笑った。それを一瞥し、無乃は困ったように額を覆う。
心当たりなどなければどれほど良いだろうか……
恨みを買ったのかと聞かれれば、大いに買っている。
というのも、折れた骨を反対側にもう一度折ればなおるよと教え、胸焼けがするという老人にはそれは火傷だと適当に答えて、氷嚢を三十日間そこに置くように指示をした。あれは身包みを剥いだ盗賊たちを相手にしていたときだ。しかもそのとき丁度、意識もままならないほどの寒気と目眩に襲われた不調のときで、次から次へと人に掴まってつい気が立った挙げ句の盗賊だったのだから、仕方がない。確か、小山のお猿と呼ばれていたような……山猿のお頭だったかな……?
「……随分、心当たりがあるんだな」
深く考え込む無乃に羅冴流が呆れた声で低く笑った。
「私は善良ではないらしい……」
無乃は眉間をもみほぐすように指を押し当てる。疲れ切った息を重く吐き出した。
盗賊団はきっと治療のお礼に来たに違いない。
「とりあえず、私は逃げないとまずそうだ」
「川に飛び込め。運がよければ綾風渚に流れ着く」
いいながら、羅冴流は困惑する無乃をすでに抱き上げていた。
「まさか、投げ飛ばす気じゃないだろうね?」
無乃の頬を冷たい夜風が打っている。足元の黒々とした川を見ると思わず肝が冷え、羅冴流の肩に回す指先が強ばった。それを感じた羅冴流が声高に言う。
「怖ければ目を、閉じていればいい!」
真っ青な顔でしがみつく無乃に、剣を背にして羅冴流はさっと飛びおりた。騾馬を抱えた羊群までもがその後に続き、夜の川に二つ、大きな水飛沫があがった。
「どうして君たちまで――!」
無乃の叫び声は呆気なく波の中に飲み込まれ、獣のような巨船の軋みや、揺れる提灯の明かりは遠ざかり、ゆらゆらと川に押し流された無乃らは翌朝、近くの川岸に引っかかっていた。




