第8話
男は志望書をめくり、添付された書類の一枚で手を止めた。
エレオノーラが留学の審査用に添えた、「アルディア=帝国間関税の改定案」だった。三年前に書いたものを、今回のために清書し直した。自分の実力を示せるものが、他になかったからだ。
男は黙って読んでいる。一枚、二枚。列の後ろで誰かが咳払いをしたが、彼は顔を上げなかった。
やがて、灰色の瞳が彼女を捉えた。
「これは君が書いたのか」
「はい」
「いつ」
「三年前です。今回、清書し直しました」
男は書類を机に置き、指先で軽く叩いた。
「王国宰相府が二年前に帝国へ提出した改定案と、ほぼ同じ内容だ。穀物の段階関税、港湾使用料の相殺、条文の構成まで。違いは、こちらの方が一年早いということと、こちらの方が丁寧だということだ」
エレオノーラは、意味が分からなかった。
「……宰相府の、改定案」
「知らないのか」
「私は三年前、この案を殿下にお渡ししました。匿名で。私の名前が出ると、宮廷で角が立ちますので。殿下が良いと思われたら、適切な部署へ回してくださると」
言いながら、彼女は理解していった。
殿下は回した。宰相府へ。そして宰相府は、それを自分たちの案として帝国へ送った。名前を消して。おそらく殿下は、誰が書いたかを言わなかった。あるいは、言う必要を感じなかった。
そして自分は、それを三年間、知らなかった。
「なるほど」
男は短く言った。そこに同情の色はなかった。ただ、事実を確認した者の声だった。
「帝国では功績は本人の名で残す。覚えておけ」
「……はい」
「留学は認める。特待の審査は帝都で改めて受けろ」
彼は志望書に印を押し、後ろの官吏に渡した。そして、初めて彼女の目をまっすぐに見た。
「エレオノーラ・フォルスター。この案は、君の名で帝都に届ける。宰相府のものではなく」
「あなたは……」
「ラインハルト・フォン・グランツ。この砦の視察中だ。次」
皇太子。
その名前を、エレオノーラは知っていた。帝国の外交を束ねる若き皇太子。無駄と追従を嫌い、氷の皇太子と呼ばれる男。
彼女は膝を折り、礼をした。ラインハルトはもう次の者の書類を見ていて、こちらを見なかった。
砦を出た馬車の中で、ミレーヌは怒っていた。
「お嬢様のお仕事を、宰相府が横取りしていたなんて。しかも殿下は、それを黙って」
「殿下は、悪気はなかったのだと思うわ」
「悪気がないのが、一番たちが悪いのです」
ミレーヌはきっぱりと言い、腕を組んだ。エレオノーラは苦笑して、窓の外を見た。
(功績は本人の名で残す)
不思議と、怒りは湧いてこなかった。代わりに、あの冷たい声が繰り返し胸に響いていた。
三年前の自分は、名前を消すことを当然だと思っていた。殿下の役に立てば、それでよかった。誰が書いたかなど、どうでもよかった。
けれど今日、初めて誰かが言った。これは君のものだと。
(あの方は、私の名前を呼んだ)
砦で書類を見ただけの、初対面の男が。十年隣にいた人が一度もしなかったことを。
それが妙に胸に残って、エレオノーラは長い間、灰色の瞳のことを考えていた。
帝都グランツは、王都の三倍はある大きな街だった。
石畳の大通り、高い尖塔、行き交う人々の早足。留学生用の宿舎は皇宮の敷地の一角にあり、馬車が門をくぐると、待ち構えていたように一人の少女が駆け寄ってきた。
黒い髪。灰色の瞳。あの人と同じ色だ。
「あなたがエレオノーラ・フォルスター様ね?」
少女は目を輝かせ、返事も待たずに続けた。
「私、ゾフィー。ゾフィー・フォン・グランツ。兄が留学生を褒めるなんて初めてよ。どんな方かと思って、朝からずっと待っていたの」
「兄……皇太子殿下が、私を?」
「ええ。『あれは使える』ですって。兄にとっては最上級の賛辞よ」
皇女はくすくすと笑い、エレオノーラの手を取った。
「ようこそ、帝都へ。きっと退屈はさせないわ」




