第24話
手紙は、二枚だった。
『フォルスター補佐官へ。
返事はいりません。読まずに捨てていただいても、構いません。
私は、あなたの十年を、当たり前だと思っていました。
帳簿も、予定表も、要点を添えた一枚目も。それがあなたの手で作られていることを、知ろうとしませんでした。いつもそこにあったからです。
あなたを側妃にと言ったとき、私はそれを誠意だと思っていました。今は、それが何だったか分かります。あなたに何も渡さず、あなたからすべてを受け取り続けるための言葉でした。
あなたが去ってから、私は自分の一週間を初めて自分で組みました。頭痛の日に謁見を入れ、決裁を三ヶ月滞らせました。あなたがいた十年間、私は一度もそれを経験しなかった。
回廊で、あなたは言いました。私が愛したのは、何も求めないあなただと。
そのとおりです。そして私は、何も求めないあなたに、何も返しませんでした。
言い訳は、ありません。
明日から、宰相府で働きます。あなたが「有能な官吏に頼め」と言った場所で、私自身が末端の官吏になります。学ぼうとはします。
あなたが帝国で、あなたの名前で生きていることを、喜んでいます。それを言う資格がないことも、分かっています。
ただ、謝りたかった。
申し訳ありませんでした。
ユリウス』
エレオノーラは、二度読んだ。
言い訳は、本当に一つもなかった。ただ、自分が何をしたかが、彼自身の言葉で書かれていた。
彼女は手紙を畳み、封に戻した。
返事は、書かなかった。
翌朝、出発の準備をする客間に、セドリックが来た。
「姉上。兄上の手紙、読んだ?」
「ええ」
「……どうだった」
エレオノーラは、少し考えてから答えた。
「殿下は、少しだけ大人になれるかもしれません」
「少しだけ?」
「ええ。人は一度に大人にはなれません。でも、自分が何をしたかを言い訳なしに書ける人は、少しずつなら変われます」
セドリックは、頷いた。
「僕、兄上に帳簿を教える。月末の締めから」
「そうしてさしあげてください」
彼女は、少年の金の髪を撫でた。
王妃アデライードは、正門の前で待っていた。
見送りの列から少し離れて、一人で立っている。エレオノーラが近づくと、王妃は珍しく、先に口を開いた。
「あなたを手放したのは、この国の一番の損失だった」
「王妃様」
「息子の失態も、条約の危機も、すべてあなた一人を軽んじたところから始まった。私はそれを分かっていて、止められなかった」
王妃の声は、静かで、疲れていた。
「今さら遅いことは分かっています。それでも、言っておきたかった」
エレオノーラは、王妃を見た。
「目を逸らすのも上手いのね」と言った人。推薦状を書いてくれた人。この人だけが、ずっと見ていてくれた。
「王妃様。私は、手放されてよかったのです」
王妃が、目を上げた。
「あの国で、私は一度も自分の名前で何かを成したことがありませんでした。手放されなければ、それを知ることもなかった。帝国で、私は初めて、示されたと言われました。王妃様の推薦状が、そこへ連れて行ってくれたのです」
強がりでは、なかった。それが本心であることを、王妃はその声から聞き取ったらしい。
王妃アデライードは、初めて、エレオノーラの前で微笑んだ。
「……そう。ならば、よかった」
それだけだった。それ以上は、二人とも何も言わなかった。
帰路の馬車は、東の街道を進んでいた。
向かいの席には、ラインハルトが座っていた。団長と補佐官が同じ馬車に乗る慣例はない。彼が「そうする」と言っただけだった。
半年前、逆の方向へ走ったのと同じ道だった。あのとき「自分のために生きる」ということが、ひどく頼りなく思えた。
今は、そう思わなかった。
「補佐官」
ラインハルトが、窓の外を見たまま言った。
「帝都に着いたら、話がある」
「……はい。どのような」
「帝都に着いたら、だ」
それきり、彼は黙った。
エレオノーラは、自分の鼓動が、街道の石を踏む車輪の音より速いことに気づいていた。




