第2話
歓迎式典は、王宮の大広間で執り行われた。
玉座の前に進み出たマルグリット・リュミエールは、王国語で挨拶を始めるなり声を震わせた。
「わ、わたくし、遠い国から参りましたので、皆様にご迷惑をおかけしないか、それだけが心配で……」
言葉が途切れ、大きな瞳から涙がこぼれる。広間に張りつめていた緊張が、一気にほどけた。貴婦人たちが微笑み、国王が「よく来られた」と穏やかに声をかける。
真っ先に動いたのはユリウスだった。彼は段を降り、自分の手巾を差し出した。
「泣かないでください、王女殿下。ここは貴女を歓迎する場所です」
「王太子殿下……ありがとうございます」
見上げる王女と、見下ろす王太子。まるで絵物語の一場面のようだった。広間のあちこちで、ため息が漏れる。
エレオノーラは指先を組み合わせ、静かにその光景を見つめていた。
(お優しい方だもの。当然だわ)
式典が終わると、ユリウスが足早に彼女のもとへ来た。久しぶりに彼が自分に向かって歩いてくる。それだけで、胸の奥が温かくなる。
「ノーラ、頼みがある。王女の滞在中、君が案内役を務めてくれ。君ほど宮廷に詳しい者はいない」
「かしこまりました。喜んでお引き受けいたします」
彼は「助かる」と笑い、それきり王女のもとへ戻っていった。振り返りはしなかった。
案内の日々は、思いのほか穏やかに過ぎた。
王立図書館、礼拝堂、王家の温室。マルグリットはどこへ行っても目を丸くし、子どものように喜んだ。そして決まって、エレオノーラの腕にそっと手を添えるのだった。
「ノーラ様のように何でもできる方は羨ましいわ。私、難しいことは苦手で」
「そんなことはございません。王女殿下は人の心を和ませる才がおありです」
「まあ、お世辞がお上手。でも、本当なのよ。数字を見るだけで頭が痛くなってしまうの」
甘えるような声に、エレオノーラはただ微笑んで頷いた。
温室の一角で、王家が帝国から取り寄せた珍しい花に見入っている間、エレオノーラの視線は少し離れた場所に立つ男へと流れた。
ベルトラン伯爵。マルグリットに随伴してきたリュミエールの外交官である。痩せた顔に穏やかな笑みを浮かべた紳士だが、彼が真剣に見つめているのは花ではなかった。温室の壁に飾られた、王国の港湾図だった。
三つの良港と、そこから内陸の穀倉地帯へ延びる街道。伯爵の目は、その線を丁寧に辿っていた。
(リュミエールは、不作と財政難だと聞いたわ)
穀物と港。海洋国家が今もっとも欲しているもの。それが、この王国にはある。
「ノーラ様? どうかなさったの」
「いいえ。何でもございません」
エレオノーラは首を振った。伯爵は既に視線を花へ戻し、王女に微笑みかけていた。考えすぎだ、と自分を叱る。外交官が他国の地図に興味を持つのは職務のうちだろう。
それでも、胸の奥に小さな棘のような引っかかりが残った。
その夜、エレオノーラは王妃から預かった帳簿を届けるため、遅くまで王宮に残っていた。
用を済ませて回廊を戻る途中、月明かりに照らされた庭園が目に入る。あの薔薇の垣根の向こう。幼い日の約束の場所。
ふと足が止まった。
垣根の傍らのベンチに、二つの影があった。金の髪と、金の髪。ユリウスとマルグリットが、肩が触れるほど近くに並んで座っている。王女が何かを囁き、ユリウスが笑って、彼女の髪に落ちた花弁をそっと払った。
他には誰もいない。護衛も、侍女も。
エレオノーラは、扉の陰で息を止めた。
(気のせいよ)
心臓が嫌な音を立てる。
(王女殿下は遠い国から来られて心細いのだわ。ユリウス様はお優しいから、慰めていらっしゃるだけ)
彼女は自分に言い聞かせ、静かに目を逸らした。踵を返し、足音を立てないように回廊を歩く。庭園の方は、二度と振り返らなかった。
その夜、帳簿の最後の一枚を確認する手は、いつもより少しだけ震えていた。




