第13話
留学生が外交補佐官に任命される。
その報せは、皇宮を一日で駆け巡った。実力主義の帝国でも、来て二ヶ月の他国の娘に外交の肩書きを与えるのは前例がなかった。
「皇太子殿下は、何をお考えなのだ」
「アルディアの令嬢だろう。あの国の内情を売り込んだのではないか」
「顔がよいからだ、という噂もある」
廊下のささやきは、エレオノーラの耳にも届いた。ミレーヌが拳を握り、ゾフィーが「言わせておけばいいのよ」と肩をすくめた。エレオノーラは何も言わなかった。反論する場所は、廊下ではない。
御前会議は、皇帝の臨席のもと、大広間で開かれた。
長い卓に帝国の重臣たちが並ぶ。その末席に、深い紺の礼装を着たエレオノーラが座っていた。補佐官の色だった。
「アルディア王国との関税協定について、見直し協議の申し入れを提案いたします」
彼女は立ち上がり、帝国語で始めた。
「現行協定は、リュミエール王国との友好条約が成立すれば履行不能になります。王国の穀物の三割がリュミエールに流れ、帝国向けの供給は契約量を割ります。違約金の請求権は得られますが、穀物そのものは手に入りません」
「その程度のことは分かっている」
財務卿が鼻を鳴らした。反対派の筆頭だった。
「問題は、なぜ帝国が先に動くのかだ。王国が勝手に条約を結び、勝手に協定を破るなら、違約金を取ればよい。わざわざ使節を送る理由がどこにある」
「違約金は金貨で四万枚です。しかし帝国が王国から輸入している穀物の年間相当額は、金貨十二万枚です」
エレオノーラは、手元の紙を見なかった。数字は頭に入っていた。
「違約金を取って穀物を失うより、協議で協定を守らせて穀物を確保する方が、帝国には八万枚分の利があります。さらに、王国がリュミエールに港を貸せば、西の海路に他国の艦船が入ります。帝国の商船の保険料は、少なくとも二割は上がるでしょう」
「保険料の根拠は」
「一昨年、南方で同様の事例がありました。通商局の記録に残っています」
通商卿が部下に記録を確認させた。数分後、部下が小さく頷いた。
財務卿は口を閉じた。
「もう一つ」
エレオノーラは続けた。
「王国内にも、この条約に反対する勢力があります。王妃と宰相府です。帝国が先に協議を申し入れれば、彼らは帝国との協定を理由に条約を止められます。帝国は使節を送るだけで、王国の内政を一切汚さずに、目的を達成できます」
広間は静かだった。
反対派の誰かが何かを言おうとして、言葉を見つけられなかった。数字と理路の前で「留学生ごときが」と言えば、自分の無能を晒すことになる。全員がそれを理解していた。
沈黙を破ったのは、上座のラインハルトだった。
「能力で示せと言った。示された」
それだけだった。
皇帝が頷き、使節の派遣が決まった。
会議が終わると、廊下でゾフィーが待っていた。
「見ていたわ。兄様が誰かを庇うの、初めて見た」
「庇っていただいたのでしょうか。私にはただ、事実を確認されただけのように」
「それが兄様の庇い方なのよ」
ゾフィーは笑い、それから真顔になった。
「財務卿が黙るところなんて、私、生まれて初めて見たもの」
その夜、宿舎の窓辺で、エレオノーラは一人で茶を飲んでいた。
体は疲れていた。けれど胸の奥には、疲れとは別のものが灯っていた。
(達成感、というのかしら)
十年間、帳簿を読み、書類を整えた。それは確かに誰かの役に立っていた。けれど、誰かが「示された」と言ってくれたことは、一度もなかった。自分の名前で、自分の口で、何かを通したことも。
(あの国では、この喜びを一度も知らなかった)
悲しい気づきのはずだった。けれど今夜の彼女は、少しだけ笑っていた。
翌朝、皇宮から一通の通達が発せられた。
『グランツ帝国は、アルディア王国に対し、関税協定の見直し協議のため使節を派遣する』
添えられた使節団名簿の三番目に、彼女の名前があった。
エレオノーラ・フォルスター。外交補佐官。




