【短編】貴女が可愛すぎるので、星よりも堅牢なドレスを織りました。 ~虚弱な深窓の令嬢は、レースの要塞で無双する(本人は気づいてない)~
第1話 『銀河を縫う指先』
「きついのは嫌でしょう? だから、じっとしていてね」
震える新雪のように白い肌の背中に、冷たいメジャーを這わせる。
でも。ふふ、これは形だけ。
だって、こんなものなくても私の、灼熱の金の瞳は一瞥しただけで服の上からでも正確に。
それこそ体内の状態まで、計測できる。
そもそも。
この私が、リラの体型を一瞬たりとも分からなくなるなんて、ありえない。
だからそう、これは儀式。
私の指先が、この世で最も尊い硝子細工に触れて、その息遣いを、心地よい滑らかさを、感じるための。
「ん……くすぐったい、わ。ラズリ」
吐息のような声。唇から零れたその音が、私の鼓膜を甘く震わせ、脳髄を直接撫で回す。
ああ、愛おしい。狂おしい程に。思わず食べてしまいたくなるほどに。
目の前に立つのは、私のリラ。私だけの、リラ。
月光を紡いで織り上げたようなプラチナシルバーの髪は、窓から差し込む陽光に透けて今にも光の粒子になって消えてしまいそう。ペールパープルの瞳は、どこか夢見がちで、欲深い人間どもの汚濁がその瞳に映る事は私が断じて許さない。
「動かないで。……サイズが変わってしまう」
嘘。
変わるわけがない。毎日、毎分、毎秒、貴女を見つめている私は既に、織り上げるべきドレスのサイズなんてわかってる。
けれど。
背中から、今度は前へ。私は慰撫するように、彼女の華奢な鎖骨に指を滑らせた。
もし、その存在を知る者があれば、彼女は『生きているだけで奇跡』と呼ばれる。
虚弱な少女。
肉体に見かけの欠陥があるわけではない、むしろ神の寵愛を一身に受けた白雪のような儚い美貌は、女神が裸足で逃げ出すこと間違いなし。
けれど、この地に満ち、この地の星の、全てを創る魔力と触れ合う負荷で。たとえほんの僅かであろうと。彼女の身体はそれこそ吐息に吹かれた粉雪のように、さらさらと、己を構成する魔力を吹き散らされて、消えていってしまう。
そういう、特質。
この地に生きる事を、許されない、特異体質。
世界から、この星の創造神から、見放された異端の美少女。
「ひゃぅ……」
「いい子。そのままで」
血管が透けるほど薄い、淡雪が薄い氷膜に変じたような肌。
そこに私の、黒いレースの手袋に覆われた指が這いまわる、背徳的なコントラスト。
後ろめたい幸福感に、唇が緩みそうになる。
日々の重力すらも彼女には過度な負担。
王侯貴族向けのシルクですらも、私に言わせればあまりに平凡な、『普通の荒い生地』。
人の世で手に入るような絨毯では彼女の桃のように繊細で、瑞々しく、柔らかな足裏を支えるには不適格。
だから私は、常に微弱な重力魔法で彼女を包み込み、全ての負荷を跳ね除ける。
それは足裏すらも例外ではなく、常にわずかに、人の目には見えないほどわずかに。浮かんでいる。
『天の川の主』。夜空の星々を統べる神話級の天竜たる私になら造作もない事。
「ねぇ、そこは恥ずかしいから……だめよ、ね?」
恥じらいに桜色に染まるリラ。上目遣いに私を見上げる、潤いを帯びた瞳の破壊力ときたら。
内股へと伸びかけた私の指が、虚空を彷徨う。
あぁ、あぁ、いけない。溢れ(あふれ)出してしまう、漏れ出してしまう。
深紅のコルセットで無理やり人の形に押さえつけてある私の本質が。
この星すら指先一つで消し飛ばす、私の本体が。
必死で押さえつける。
「……ラズリ? 苦しいの?」
心配そうな声に、また一つ私の理性のタガが外れかける。
慌てて瞼を閉じる。
見せてはいけない。今の私の、爬虫類のように縦に裂けた瞳孔を。
欲望に歪んだ、醜い眼差しを。
「いいえ。……ただ、貴女が美しすぎて、目が眩んだだけ」
「もう、ラズリはいつも冗談ばっかり。美しいのは貴女でしょう? こんな……私の貧相な身体なんて」
大きく息を吐き出し、コルセットの締め付けをきつく意識する。
物理的な締め付けが、理性を繋ぎ止める楔になる。
「ほら、息が苦しそう。きっと、大きなお胸なのに、お腹をそんなにきつく締めつけているからよ?」
「それは関係ないよ、大丈夫」
ええ、それは本当に関係ないの。
愛おしいリラを、このまま飲み込んでしまいたいという捕食者の本能的欲求が、喉の奥で焼けるように暴れている。ブレスにして吐き出してしまえば楽になるけれど……だめよ、そんなことをしたら星がいくつ消え去るか分かったものじゃない。
「じゃあ、すぐに仕上げてくるから少しだけ待っていてね。いつもの御紅茶を入れてあげる」
「綺麗な花びらを浮かべてね!」
「ええ、もちろん。今日はビオラにしましょう。貴女の瞳の色にとっても合う、綺麗な花びらよ」
「素敵♪」
今朝焼いておいたレモンのパウンドケーキを添えて、ティーテーブルをセッティング。
「だめよ、ケーキは一緒に食べるの。お紅茶を戴いて待っているから、早くね!」
本当に可愛くて、いじらしくて、愛おしい。
私だけのリラ。
◇ ◇ ◇
『仕立て屋ラズリの秘密工房』
なんて、可愛らしい文字で書かれた看板のかかる別室へと入る私。
リラが一生懸命、私に文字の教えを請いながら書いてくれた、扉札。
リラを待たせてはいけない。手早く、けれど私の全てを込めて仕立て上げなければ。
がらんどうの部屋の中。リラにすら立ち入ることを許していない、私のこの地での部屋。
中に入った私は、拘束具でもあるコルセットドレスを脱ぎ捨てる。
深紅のコルセットに、スリット入りのロングスカート。
ガーターベルトで固定された『無数の針』と『裁ち鋏』はいざというときの、『お直し』用。
まあ、この地の物如きが私の仕立てたドレスを害する事などできるはずも無し。
もはやリラのための、私を『仕立て屋の私』として見せるための小道具ね。
さあ、やりましょう。
今までの飾り立てるだけのドレスとは違う。
今日はいよいよ、『特別なドレス』を仕立てる日。
リラの自由を求めて外に旅立つ、そのためのドレス。
これからは、そんな特別なドレスをたくさん仕立てていかないと……そんな一着目。
もう、デザインは決めてある。
自由を取り戻した私は星の海を渡る、転移の魔法を発動する。
瞬きの間。
ここは星々が私が定める秩序に従う、宙の果て。
星々すら呑み込む天竜の身へと戻った私が練り上げる、天の魔力。
流星は私の針。無数の星が縦横無尽に宙を舞う。
天の魔力が紡ぎだす深淵の糸が、星の交差に編み上げられていく。
この身を成す鱗を、血潮を、涙の雫を、そっと織り交ぜ紡ぎだされる、太陽よりも大きな、とっておきのドレス。
「いい出来」
満足した私は、ぎゅーっとぎゅーっと。今度は、ドレスを小さく小さく。
何よりも、この世界よりも愛おしい、儚い少女の。今のこの身体には豆粒よりも小さな体に合わせて、小さく小さく。
ぎゅっと小さく、圧縮する、調整する。
◇ ◇ ◇
――「さあ、できたわ。……目を開けてごらん、リラ」
工房の扉をそっと閉め、リラの待つダイニングへと、うきうき踊り出る私。
スキップなんてしたら、この星が割れてしまうから、そっと、そーっと、優しくね。
そっと覆いをとったトルソーにかかる、純白のドレス。
パーっと華やぐ、リラのお顔。
サクランボのような唇がそっとほころぶ。
「まぁ、まぁまぁまぁ、素敵。素敵よラズリ! 今日のドレス、なんて軽やかで、繊細なの♪ 光を透かす貴女の毛先のように美しいわ!!」
「そんな風に言ってくれるのは貴女だけよ?」
まあ、そもそも? 私の織り上げるドレスを見る事を、リラ以外に許す事なんてなかったのですけれどね?
この地から私の瞳で見上げる宙のように、青い色を帯びた漆黒の髪。毛先に行くほど、水晶のように透明になる私の髪。青や紫に煌くその毛先は私も気に入っている。なにせ、少しでもリラに似せたくて、彼女の瞳の色を想ってこの『人の身体』を構成したのだから。
「『天使の産衣』そう名付けたわ。ささ、着てみましょう」
一見すれば、何の変哲もない純白のドレス。
最高級シルクオーガンジーなんて、人が見たらいうのかしら? 幾重にも重ねた、ふんわりとしたエンパイアラインのティアードドレス。色はリラと同じ『純潔の白』のみ。
天の魔力を凝縮した純白の白糸と、私の涙の雫から削り出した輝く宝石だけで、星々に織り上げさせた、百合の透かし刺繍入りの生地。
この地の魔力を一滴たりとも含まない、『リラが着る事ができる』、私だけが織り上げられるドレスがまた一着生まれた。
「軽い……まるで、綿菓子みたい」
リラが目を輝かせ、ふらふらと(もちろん、足は浮いているけれど)ドレスに歩み寄り、手を触れる。
華奢な指先が、フリルを愛撫するようになぞる。
あぁ、その触れる指先を見つめるだけで、ぞくぞくと私の肌に甘い痺れが走る。
「ええ。貴女の肌に、重さなんて感じさせないわ」
「ありがとう、ラズリ! 今日のドレスも、最高に可愛いわ!」
その笑顔を守るためなら、星々だって、織り機の代わりに使ってあげる。
今日のドレスはいつもよりも『特別』なのだけれどね? けれど、ええ、リラ。貴女がそんなことを気にする必要はないのだわ。
「さあ、着替えてみましょう? リボンを結んであげる」
私は、この後の『お着替え』への期待に震える手を隠して、彼女の背中に回った。
◇ ◇ ◇
第2話 『赤き災厄、あるいは、ただのトカゲの勘違い』
世界が、赤く染まった。
前触れはなかった。
窓から差し込んでいた穏やかな陽光が、唐突に喰らわれたかのように消え失せる。
代わりに室内を満たしたのは、肌を焼くような熱気と、鼻をつく硫黄の臭気。
「……ラズリ?」
不安げな彼女の隣にそっと寄り添う私。
袖を掴む細い指先が、小刻みに震えているのが伝わってくる。
直後。
ドゴォォォォォンッ!!
大気を殴りつけるような轟音が、私とリラの今日までを包み込んでいた愛の巣。もとい、知る者などほとんどいないアトリエを揺るがせた。
「きゃぁっ!?」
「リラ!」
実際の衝撃は微塵も伝わっていないけれど、驚きに、立ち上がろうとして自分の足につまづいたリラを、反射的に抱きすくめ、その場にうずくまる。
ふくよかな私の胸、リラがいつも心地よいと、うずもれて喜んでくれるこの身がクッションとなるように。
来るはずのない客向けに、形ばかり据えてあったショーケースのガラスが共鳴し、悲鳴を上げる。
吊るされた小さなシャンデリアが激しく揺れ、光の破片を撒き散らす。
――敵襲。 それも、並大抵のものではない。
いくらこの地、この世界を消し飛ばさないようにと、遠慮に遠慮を重ねた素材で組み上げたとはいえ。このアトリエは、私が作り上げた物。
まあ……不慣れで非力な、制御の効かない。人間の身体に合わせた搾りかすみたいな魔力で、無理やりくみ上げたので……ええ、ちょっと……いえ、かなり? ああもう、いいわよ。へたっぴなのは認めるわよ。
そうはいっても、小国の軍隊程度なら、びくともしない魔力強度は備えている一軒家。
それを、こうも容易く揺らす馬鹿がいるなんて。
「……っ、ぁ……」
腕の中で、リラが小さく呻いた。
いけない……不安が生み出す魔力が、彼女の内側を蝕もうとしている。
彼女自身が生み出す魔力までもが、彼女の敵。何という理不尽。
「大丈夫。大丈夫よ、リラ」
私はそっと彼女の耳をふさぎ、視線を窓の外へ投げる。
いくら私の魔力がこの地の物ではないと言っても、出力の桁が大きすぎて、彼女自身の魔力の代わりに満たそうとすれば、彼女の存在そのものを破壊し尽くしてしまいかねない。
何とも歯がゆい、いつもの葛藤。
魔力制御なんて、さかしらな人間どもは技術を磨くらしいけれど。
そんなちんけな魔力量ではないのよ、この天竜たる私は。
窓の外。そこにいたのは、人が呼ぶ『厄災』の一角だった。
空を覆い尽くす、巨大な翼。
溶岩のように赤く輝く鱗。
口からは黒煙と炎を吐き出し、深紅の瞳がギラギラと、このアトリエ――いいえ、私の腕の中にある『極上の魔力』、濃密な天の魔力の塊たるドレスを睨め付けている。
『エンシェント・レッドドラゴン』。
人間たちが『赤き厄災』と呼び畏れる、伝説級の怪物。
この地の大陸の一つくらいなら、ブレス一発で焦土に変える、覇者。
……ああ、鬱陶しい。
こんな物、本来の私にとっては、ただの羽の生えたトカゲ以下。
本来の私なら、睨みつけるだけでも魔力の塵に返せる、塵芥のような存在。
けれど。
GGRYuuuuugaaaaAaa!
ドラゴンが大きく口を開けた。 口腔の奥で、極大の熱が白い閃光となって膨れ上がる。
――さすがに撃たせるわけには、いかない。
私は片手をかざす。
人間の、華奢で無力な手を。
天の魔力を編んだ障壁が、アトリエを包み込む。その負荷に、逆にこのアトリエの外壁が剥離し始める。
大地が過負荷に悲鳴を上げる。
なんとままならない……こんな脆弱で奇特な星を造った阿呆な神を、ぶん殴りに行きたい。
障壁に込めた、天の魔力を極限まで減らす……この星基準の強者ならこの程度かしら? わかるわけないじゃない……。
刹那、極太の熱線が結界に激突した。
ジュッ、ゴッ、ジュッワァッッッ!!
周辺の大地が融けて蒸発する。
溶岩と化した、地中の鉱石がどろどろと流れだす。
リビングの壁が焼滅している。
「ぐ、ぅ……ッ!」
熱い。ひりひりとして、痛い。
私が張った魔力の障壁を破られたわけではない。
結局、私に、この惰弱な星基準の制御なんて無理だった。
あのまま展開していれば、リラごと周辺全てが崩壊しかねなかった。
だからやむを得ず、胸の中に抱いたリラにだけ、結界を強めて。外の結界を解除。
この、偽りの身体で残りの熱線、『赤き厄災』のブレスを受け止めた。
今の私は、あくまで人間の身体。
天の魔力で満ちているとはいえ、この『深紅のコルセット』で本性を、本質を、無理やり人間の器に圧縮して押し込めている。
自身の本来の魔力で素直にこの偽りの身を満たしてしまえば。リラでなくとも、身体が跡形もなく弾け飛んでしまう。
壊してしまえば、楽になれる。コルセットの枷を解き、正体を現せばいい。
そうすれば、あんなトカゲ、瞬きする間に消し去れる。
けれど。そうしたら、この星も消し飛ぶ。
アトリエだって、跡形もなく消し飛ぶ。
まあ、もうボロボロすぎて、立て直さないとだめではあるだろうけれど……。
よく考えれば、私の内緒の工房だって、実はただの空き部屋。
リラに内緒で、転移するためだけの部屋。
2人の想い出の品もほとんどは、私の空間収納の中。
あら? 実はもっとやりようもあった? 星の核さえ無事ならリラが生きる大地くらい生み出せたわよね?
人類滅亡くらい別に。
なんて、暢気に考えていたのがいけなかった。
いえ、それもこれも、相手が脆弱すぎる木っ端のトカゲだったのがいけないのよ。
緊張感を持てという方が無理。ええ、私は悪くない。
「……ラズリ、いや……血、血が……!」
リラが悲鳴を上げた。
私の側頭部から、つーっと赤い筋が、割と尋常じゃなく流れ出ているのが分かった。
折わるく、右目に流れ込んだ鮮血で視界がふさがる。
もう、人の身体はこれだから、面倒。
瞳を保護する多層の被膜も無ければ、触れる異物を消し飛ばす魔力も纏っていない。
「平気よ……リラ。ただの、かすり傷」
強がって笑おうとしたけれど、彼女が見ていたのはそこではなかった。
ふわり。甘い香りが鼻腔をくすぐる。
私が織り上げたばかりの純白のドレスを靡かせて。
するりと腕の中を抜ける、最愛の白い少女。
「……え?」
しっかりと抱きしめていたはずなのに。
……あ、右腕がなくなってる。
迂闊だった。
脆すぎるこの身体、しかもこんな損傷を受ける機会もなかった。
こんな辺境に隠れ潜む生活ではなかったから、不慣れに過ぎた。
私の腕の中から消えた温もり。ついさっきまで震えていたはずのか細い気配が、私の背へと、踊り出た。
『赤き厄災』と私の間に立ちはだかる、プラチナシルバーの髪。
「ラズリをこれ以上、傷つけさせない!」
鈴を転がすような声。そこに、恐怖の色はない。
具体的な何かができるはずもない。彼女自身は魔力を練る事もできなければ、満足に『この地』の道具を、賢しら(さかしら)な人間達が生み出した受け継がれし知恵の集大成を、扱う事すらできない。
それでも、両手を広げ、小さな身体で、必死に私を背にかばう。
いけない。
彼女の想いに、歓喜に打ち震えている場合ではなかった。
「さがって、リラ!!」
私の絶叫は、轟音にかき消された。
アトリエの残りを打ち砕き、ドラゴンの巨大な爪が無防備な少女の頭上へと、容赦なく振り下ろされた。
くっ。やっぱり、この地を消し飛ばしてでも、本来の身体に戻ってしまえば!
ヒトの器ではどうしようもない。
リラ用の特別なドレスと違って、この地の素材に少し手を加えた程度の黒いレースのボレロはズタボロに消し飛んでいる。けれど、唯一自身を封じる、本気で織り上げた拘束器具でもある『深紅のコルセット』は、汚れ一つなく健在。
これさえ外してしまえば!
覚悟を決めて。
リラ、ごめんなさい。
貴女の隣に寄り添うただの『仕立て屋』は、ここで終わり。
内側からこのコルセットの形をした、封印の拘束具を弾け飛ばさせようとした、その時……。
◇ ◇ ◇
第3話 『白亜の絶望、あるいは最強の愛の証明』
時間が、凍りついたようだった。
無駄な思考で後手に回った私は間に合わなかった。
貧弱な基準に合わせる準備が全然できていなかった、後悔はいつも遅れて襲ってくる。
振り下ろされた『赤き厄災』、この地最古の竜の爪が、リラの頭蓋を……。
すっ――。
そこに音は無かった。
肉が潰れる音も。
骨が砕ける音も。
まして、真白き愛しの乙女が悲惨な末路をたどるような、破滅の音も。
パリン――。
遅れて、甲高い音が一つだけ、静寂を切り裂いた。
まるで、薄氷を踏み抜いた時のような、あるいは極上のクリスタルグラスが床に落ちた時のような、繊細で涼やかな音色。
「……あ?」
間の抜けた声を出したのは、私か、それとも『赤き厄災』か。
リラは立っていた。
傷一つなく。
何が起きたのかわかっていない、きょとんとしたお顔で。
珍しい彼女の表情を見逃すまいと、全てを理解した私は彼女の前へと回り込み。そっと彼女を抱きしめる。
ああ、状況が飲み込めず、きょろきょろとあたりを見回し始めるリラ――可愛い。
まだ目の前にいる巨大なトカゲにおどおどしているリラ――可哀想なのに、可愛い。
いけない、私の心に新しい、とっても危うい甘美な魅力を放つ扉が開きそう……。
そんな暢気な私を、胸の谷間に顔をうずめたまま、見とがめたリラ。
「あの……ラズリ?」
「はい」
ふにふに。柔らかいお胸の中にそっと彼女を抱き留める。
こっそり生やし直した右腕も、この柔らかな感触を楽しむのに参加させる。
私の背後で巨大な空気の動きが起きる。
『赤き厄災』などと呼ばれる存在。プライドの高さはとんでもなかろうが、愚か者では断じてない。
「いったい何が……?」
「私がいつでも、貴女を護っています。だから、安心していいのですよ」
「え……え?」
名残惜しくも彼女をそっと解放し、後退る竜をしかと見据える。
真紅の瞳が、恐れと恐怖に染まっているのをしっかりと確認する。
消滅した爪。
その一振りで、宮廷魔導士を結界ごと斬り裂けるはずであろう、爪。
その一本が見事に消し飛んでいた。
あの瞬間。
『天使の産衣』の名の通り、背中にあつらえた天使の羽を休ませているかのような、大きな純白のリボンが、風もないのに優雅に舞い上がり、ドラゴンの爪を受け止めていた。
違う。
ただ、受け止めたのではない。
リボンに触れた瞬間、ドラゴンの爪が――消滅していた。
圧倒的な密度で容赦なく織り込まれた天の魔力。
星一つの魔力すら超える、埒外の存在密度。
それに加え、執拗に混ぜ込んだ本来の私由来の素材達。
天然の歩く要塞と化した、締め付けの一切ない、ふんわりとしたエンパイアラインのドレスは見事その役割を果たしていた。
今去るなら、見逃す。
そっと視線で語り掛ける私。
一時の逡巡。
そもそも、いきなりここに現れたのも、特異な魔力。とんでもなく濃密で魅力的な、このドレスの放つ天の魔力の薫りに誘われての事だったのだろう。
その危険性、下手に手を出せばどうなるか、今のこのトカゲには嫌というほどわかっている。
大きく広げられる翼。
せめてもの意地なのだろう、傷ついた誇りを隠すこともなく、堂々と天空へ。
全身を見せつけ悠然と舞い上がった、『赤き厄災』
大空で大きく旋回すると、その身は刹那の内に人の身では見えぬ果てへと消えていた。
「な、なんだったのかしら」
「気にしなくていいのよ。でも、今度はもっと、ただあなたを守るだけではない。恐怖の源を先んじて消し飛ばす。そんなドレスを編み上げてあげないといけないわね」
「……?」
きょとんと私を見上げるリラ。
うふふ、良いのよ、分からなくて。
て、そういえばあのトカゲ。置き土産すら置いて行かずに逃げたわね?
ちっ、今度取り立てに行ってやろうかしら。
これからありとあらゆる、この地の素材を集めないといけないのに。
あいつの心臓なんて、ちょっと試してみるのにちょうど良い、リラの体質を治す薬の材料になったかもしれないのに。
なんて物騒なことを考えているなんて、つゆ知らず。
「けれど、どうしましょうラズリの大切な工房が」
見渡せば、もはや天井も消し飛び、工房という名目の一軒家は辛うじて基礎の一部が残るだけ。
そちらに気を取られて、いつの間にか生え変わっている私の腕に、気が付かないでくれているのを良い事に。
「せっかくだし……旅に出ましょうか」
「旅?」
私はリラの華奢な身体を、もう一度。
壊れ物を扱うように抱きしめた。
ふわりと、甘い香りが鼻腔を満たす。
私の生み出した最強の鎧は、抱きしめる私の腕のなかで、柔らかく、優しく馴染む。
「約束するわ、リラ。何者にもあなたを害させない」
ええ、今度は微塵の不安すらも、退けて見せる……この不自由な人の身体でも。
あなただけのための『仕立て屋』として。
私は彼女の耳元で、愛を囁くように誓う。
「この世界中のどんな理不尽にも、貴女に傷ひとつ付けさせない。貴女はただ、私に愛されて、綺麗なお洋服を着て、笑っていればいいの」
「ふふ、なぁに? プロポーズ? でも、ダメよ、貴女が傷つくのがダメ。だから、約束して? ラズリも、傷一つ負わないって」
「ええ。ええ、そうね。約束するわ」
私用のドレスも新しく仕立て直さないとね。今度こそリラに完全な安寧をあげられるように。
ひ弱なこの星が私の力に耐えられないのなら。ええ、私はただの『仕立て屋』として、貴女を護りましょう。
私は、彼女の白い首筋に、所有の証を刻みつけるように唇を寄せた。
視界の端で、私の影――隠し切れないこの地の何よりも深い、闇と星の輝きを包み込む人外の影が、歓喜に打ち震えるように揺れた。
化け物の正体なんて、墓場まで持っていけばいい。
私は、生涯をかけて、この手で貴女を彩り続けよう。
共に歩む私自身も、ええ。貴女が望むなら、飾り立てよう。
そして私達は旅に出る。
リラが望む、旅の『仕立て屋』ラズリとして。
この地に、世界に忌み嫌われた、消え入りそうな硝子細工の少女に。
外の『世界』を見せて……ううん、共に見るために。




