第6話 推しと似てるなんて、そんな都合のいい話あるわけない
翌朝、鳴海すばるはいつもより十五分早く教室へ来た。
本人いわく、たまたま目が覚めただけで、別に特定の誰かを待っていたわけではない。
……という建前を、自分で自分に言い聞かせるために、教室へ入る直前までコンビニで買ったカフェオレを無駄に振っていたくらいには、少し落ち着きがなかった。
「いや、待ってないし」
小声で呟く。
「ただ確認したいだけだし」
何を確認したいのかと問われれば、答えは一つだった。
久瀬湊人の声が、どこまで“推し”に似ているのか。
昨日の昼休み、そして一昨日の何気ない会話、さらにその前の自己紹介。点と点だった違和感が、すばるの中で少しずつ線になり始めていた。
もちろん、理屈では分かっている。
人気VTuber《天瀬アルト》と、庶民派高校へ転校してきたちょっと変な地味男子が、同一人物であるわけがない。
そんな都合のいい話、あるはずがない。
あるはずがないのだが――。
「似てるんだよなあ……」
机に鞄を置きながら、すばるは小さくため息をついた。
声質だけなら、世の中には似ている人もいるだろう。
喋り方だって、丁寧な人はいる。
返し方が綺麗な人も、きっと探せばいる。
でも、そういう細かい要素が何個も重なると、オタクの勘は騒ぐ。
騒ぐのだ。
その時、教室の扉が開いた。
すばるは反射的にそちらを見る。
――違った。日野だった。
「おはよー、鳴海。早くね?」
「おはよ。まあちょっと」
「珍し。推しの朝配信でもあった?」
「それはない。ていうか朝からアルトが来たら逆に命が危ない」
「意味わかんねえ」
「わかんなくていい」
日野はいつものように笑って、自分の席へ向かった。
すばるはその背を見送りながら、心の中で再び自分に言い聞かせる。
落ち着け。
別に疑っているわけじゃない。
ただ、“似てる”の範囲を自分の中で整理したいだけ。
そう、それだけだ。
なのに、次に教室へ入ってきた人物を見た瞬間、やっぱり背筋が少し伸びた。
「おはようございます」
久瀬湊人。
今日も地味めの制服姿で、でも姿勢だけは妙にきれいで、朝の挨拶一つにも変な育ちの良さが滲む男子。
すばるはすぐに返事をした。
「お、おはよ!」
少しだけ声が上ずった。
久瀬はそれに気づいたのかいないのか、いつものようにやわらかく会釈した。
その会釈もまた、腹が立つほど自然だ。
なんなの、この人。
そう思っているうちに、久瀬は自席へ向かう。その途中で、前の席の日野に軽く挨拶を返し、後ろの席の女子が落としたプリントを何でもない顔で拾って渡した。
「はい、どうぞ」
「え、ありがと」
「いえ」
その“いえ”の音の置き方まで、少しだけ似ている。
すばるは机に頬杖をついたまま、じっと久瀬を見た。
朝の教室は雑音が多い。椅子を引く音、鞄を置く音、誰かの笑い声。だから普通なら、個々の声色なんてそこまで神経を向けない。
でも、推しの声を聞き続けてきた人間は違う。
高すぎない。
低すぎない。
耳当たりが柔らかいのに、言葉の輪郭がぼやけない。
それでいて、相手へ向かう時に妙な棘が立たない。
アルトだ、と思うほどではない。
でも、“近い”と思ってしまうには十分だった。
「……いやいやいや」
すばるは自分のこめかみを軽く押さえた。
「ないないない」
ない。
そんなはずがない。
なのに気になってしまうのは、もう病気だと思う。
そこへ、柊坂真白が入ってきた。
今日は昨日よりだいぶ顔色がいい。完全に本調子とまではいかないだろうが、少なくとも保健室へ直行しそうな雰囲気ではない。
久瀬がすぐに気づいて声をかける。
「おはようございます。今日は少し楽そうですね」
すばるの肩がぴくっと動く。
その言い方。
やっぱりちょっと、好きなタイプの声運びだ。
真白は席へ着きながら、いかにも微妙そうな顔で返した。
「朝一でそういうこと言う?」
「駄目でしたか」
「駄目っていうか……」
真白は一瞬だけ周囲を気にして、それから少し声を落とす。
「……昨日よりはマシ」
「それはよかった」
「その顔やめて」
「どの顔でしょう」
「安心してる顔」
「安心したので」
「だからそういうの」
会話の温度が昨日までと少し変わっている。
すばるはそれを見ながら、へえ、と心の中で感心した。
真白、だいぶ絆されてる。
いや、絆されているという言い方は少し違うかもしれない。警戒はしている。相変わらず“変”とも思っているだろう。
でも、昨日の一件で、久瀬の“優しさ”が単なる作法や表面上の丁寧さではないことは、かなり伝わったはずだ。
そしてその優しさの出し方が、すばるからするとまた妙に“アルトっぽい”。
押しつけない。
でも放っておかない。
距離を詰めすぎない。
でも、必要な時には迷わない。
そういうところが、似ている。
いや、だからって同一人物ではないのだが。
◇
一限目の数学が始まっても、すばるの頭の片隅にはその違和感が残っていた。
黒板の数式はちゃんと追えている。
ノートも取っている。
でも思考の別の場所で、久瀬湊人という存在を分解している自分がいる。
まず、声。
似ている。
次に、返し方。
変に雑じゃない。
むしろ丁寧なくらいだが、堅苦しすぎず、ちゃんと相手へ向く。
さらに、空気の受け方。
からかわれても本気で怒らない。
でも流しっぱなしにもしない。
自然に会話の形を整える。
ここまでなら、“そういう人”で済む。
実際、済むはずだ。
けれど、問題はその“そういう人”が、自分の推しの魅力のど真ん中と重なっていることだった。
「……ないってば」
小さく呟きそうになって、すばるは慌てて口を閉じた。
その時、隣の席の子が「鳴海、今なんか言った?」と聞いてきた。
「言ってない」
「言ってたよ」
「気のせい気のせい」
笑って誤魔化す。
自分でも分かっているのだ。
これはたぶん、推しを見すぎたオタクが、現実の人間に過剰に反応しているだけ。
いわゆる“何でも推しに見える病”の変種。
そう考えるのが一番平和だし、一番自然だ。
ただ、平和で自然な結論ほど、オタクの心はなかなか納得しない。
◇
二限目と三限目の間の休み時間。
すばるは、かなりどうでもいい話題から自然に久瀬へ話しかけることにした。
「ねえ久瀬くん」
「はい」
「昨日の現代文の宿題、どこまでやった?」
「ああ、あれは最後の設問まで」
「早」
「難しくはなかったので」
「そういう言い方ちょっと腹立つな」
「すみません」
「いや、そこは冗談だから謝らなくていいって」
ここまでは普通。
何の問題もない。
すばるは机の上へノートを広げながら、さりげなく次の一手を打つ。
「ていうかさ、久瀬くんって家でもその喋り方なの?」
「家、ですか」
「うん。なんかずっと丁寧じゃん」
「そうですね……たぶん、あまり変わらないと思います」
「へえ」
「変でしょうか」
「変っていうか、珍しい」
「よく言われます」
「だよね」
ここでもう少し、声を聞きたい。
そう思った瞬間、自分の思考がかなり危ない方向へ行っていることに気づき、すばるは心の中でセルフツッコミを入れた。
私は今、何をしている?
同級生男子の声サンプルを取りたいオタクか?
そうだよ、という答えが即座に返ってきそうで困る。
「鳴海さん?」
「え?」
「少しぼんやりされていましたが」
「いや、ちょっと考えごと」
「それは失礼しました」
「だからそうやってすぐ丁寧に引くのずるいんだって」
「またずるいと言われました」
「それカウントしてる?」
「印象に残りやすいので」
「そこも好きなんだよなあ」
言ってから、すばるははっとした。
教室の空気が一瞬だけ止まる。
しまった。
今の“好き”は完全に推しトーク文脈の“好き”だったのに、切り取り方によってはだいぶ危ない。
前の席の日野が即座に振り返った。
「え、なに今」
「違う違う違う!」
すばるが机を叩く勢いで否定する。
「今のはそういう意味じゃなくて、喋り方の傾向として好きっていうか、いや違うな、音の置き方が好きっていうか、もっと違う」
「余計だめじゃん」
真白が冷静に刺してくる。
「だって本当なんだもん!」
「鳴海、そのままだとただの危ない人」
日野が笑う。
「危なくない! 私は常に真剣なだけ!」
「それが一番危ないんだって」
「日野うるさい!」
わあっと笑いが起きる。
久瀬本人は少し困ったように笑っていた。
その笑い方。
また、少し似ている。
すばるは思わず目を細めたが、今はさすがに追及しなかった。これ以上やると、自分が完全に不審者になる。
いや、もう半分なっている気もするが。
◇
昼休み、いつものように三人で窓際の場所を確保すると、真白が牛乳パックを机へ置きながら言った。
「鳴海」
「なに」
「朝からちょっとうるさい」
「ひどくない?」
「推しが絡むといつもうるさいけど、今日は特に」
「それは……まあ、少しだけ認める」
「認めるんだ」
すばるはストローを刺しながら、わざとらしくため息をついた。
「だって気になるじゃん」
「何が」
「いや、だから」
そこで一度言葉を切り、久瀬を見る。
「……久瀬くんの声」
真白の眉がぴくっと動いた。
「またそれ?」
「またそれ」
「飽きないわね」
「飽きないよ。推しに関することだもん」
「違う人間かもしれないのに?」
「違う人間だよ!」
すばるは即座に言い切った。
「そこは分かってる。分かってるんだけど、似てるの!」
「なんでそんなに言い切れるの」
「言い切ってない。揺れてる」
「どっちよ」
「だから、理性では違うって分かってるけど、耳が“いやちょっと待って”って言ってるの!」
自分でも何を言っているのか分からない。
でも、この感覚は本当にそうなのだ。
理屈では違う。
でも感覚が引っかかる。
真白は面倒くさそうにしながらも、少しだけ考え込んだ顔をした。
「……たしかに、聞きやすいとは思う」
「でしょ!?」
「でも、天瀬アルトかって言われたら違うでしょ」
「それはそう」
「なんでそこは素直なのよ」
「いや、さすがにそんなドラマみたいなことある?」
「ないと思う」
真白が言う。
「でしょ? 学校では地味で、配信では人気者とか、そんな都合のいい設定」
「いやまあ、そうなんだけど……」
すばるは口を尖らせた。
「でもね、たまにあるんだよ。現実の方が盛るじゃん、みたいなこと」
「なにそのオタク特有の言い回し」
「事実だから」
久瀬はその会話の間、表面上は静かにたまごサンドを食べていた。
でも、さっきから返事のタイミングがほんの少しだけ慎重なのを、すばるは感じていた。
気にしすぎかもしれない。
ただの偶然かもしれない。
でも、そういう細い揺れがまた、推しの“ちょっと困った時の間”に近く見える。
「……いやいや」
自分で自分へブレーキをかけるように、すばるは首を振った。
「ないないない」
「何が」
真白が聞く。
「私の脳がいろいろ飛躍してるだけ」
「そうしなさい」
「でも推しに似てる同級生って、普通にちょっと楽しくない?」
「それは分からなくもない」
「え、真白が乗った」
「少しだけね」
「やった」
「ただし、久瀬本人を変な方向で観察するのはやめなさいよ」
「してないし!」
「してるでしょ」
「してないって!」
「今のやり取りだけで十分してる」
「くっ……否定しきれない」
また笑いが起きた。
久瀬も小さく笑っていた。
その笑いを見ながら、すばるはふっと肩の力を抜く。
たしかに、都合のいい話なんてあるわけがない。
人気VTuberと同級生が同一人物だなんて、ライトノベルじゃあるまいし。
でも、その“あるわけない”の余白に、オタクの想像力は住みついてしまうのだ。
◇
その日の放課後、すばるは一人で帰りながら、ずっと同じことを考えていた。
もし本当に久瀬がアルトだったら――なんて、ありえない妄想だ。
でも、もしそうだったら、すごい。
いや、すごいどころじゃない。
学校であの落ち着き方なのも、変に返しが綺麗なのも、いろいろ納得がいく。
けれど同時に、あまりに納得がいきすぎる仮説ほど危ない。
人は、説明のつきやすい物語を勝手に組み立ててしまう。
だからこそ、オタクは自制が必要だ。
「……よし」
すばるは歩道橋の途中で立ち止まり、小さく拳を握った。
「証拠がない限り、決めつけない」
大事。
とても大事。
たとえ声が似ていても。
返し方が近くても。
笑い方や間がちょっと引っかかっても。
それだけで“本人だ!”になるのは暴走だ。
推しに関してだけは暴走しがちな自覚があるからこそ、そこは線を引かなければならない。
うんうんと頷きながら家に帰り着く。
靴を脱ぎ、制服のままベッドへ倒れ込み、そして三秒後にはスマホを開いていた。
「……まあでも、比較はしていいよね」
だめかもしれない。
でもやってしまうのがオタクだ。
まずは今日の学校での久瀬の声を思い出す。
次に昨夜のアルトの雑談アーカイブを再生する。
『少し新しい種類の熱量に触れる機会がありまして』
配信の声。
『気のせいだと思います』
昼の久瀬の声が脳内再生される。
「…………」
似てる。
いや、やっぱ似てる。
でも違う。
いや、似てる。
「うわあああもう!」
枕に顔を埋めた。
自分で自分が面倒くさい。
客観的に見れば、ただの偶然の一致かもしれない。
世の中には声が似ている人も、丁寧に話す人も、気遣い上手な人もいる。
なのに、耳が引っかかる。
“推しに似てる”というだけで、その人の全部が少し気になってしまう。
それはきっと、鳴海すばるが筋金入りのオタクだからだ。
しばらく枕に顔を埋めて唸ったあと、すばるは勢いよく起き上がった。
「よし、決めた」
誰もいない部屋で宣言する。
「明日からは、もっと自然に聞く」
何をだ。
自分でも分かっている。久瀬の声と、会話の運び方だ。
ただし、露骨にはやらない。
あくまで自然に。
あくまで同級生として。
推しの面影を重ねすぎないように、自分で自分を制御しながら。
……できる気はあまりしないけれど。
夜になり、配信アプリの通知が鳴る。
天瀬アルトの枠ではない。別のライバーだ。
すばるは画面を眺めながら、ふと昼のことを思い出した。
真白の言葉。
“そんな都合のいい設定、ある?”
ない。
たぶん、ない。
でも、もしないと分かっていても、ちょっとだけ夢を見てしまうのがオタクという生き物だ。
久瀬湊人は、きっとただの同級生。
少し変で、妙に声が良くて、たまに推しを思い出させるだけの男子。
そう、自分に言い聞かせる。
言い聞かせるのに、その“たまに推しを思い出させる”が、想像以上に厄介だった。
すばるはスマホを抱えたまま、ベッドへ寝転がる。
「……似てるんだよなあ」
誰にも聞こえない声で、もう一度だけ呟いた。
推しと似てるなんて、そんな都合のいい話あるわけない。
分かっている。
ちゃんと分かっている。
それでも明日、教室で久瀬の「おはよう」を聞いたら、たぶんまた少しだけ、耳が勝手に期待してしまうのだろう。




