第5話 優しくしただけなのに、ちょっと距離が近くないか
その日の朝、教室の空気はどこか落ち着いていた。
転校して一週間にも満たないのに、久瀬湊人はすでに二年三組の景色の中へ、うっすらと溶け込み始めている。
もちろん、本人の理想からすればまだまだ目立ちすぎだ。
隣の席の柊坂真白にはことあるごとに“変”と言われるし、鳴海すばるには相変わらず推し布教の対象として狙われている。日野直純はもう最初から友達みたいな距離で話してくるし、クラスの何人かも「転校生」ではなく「久瀬」として話しかけるようになってきた。
それはたぶん、学校生活としては悪くない兆候なのだろう。
だが湊人の中では、まだ「目立たず、普通に」が最優先事項であることに変わりはない。
問題は、その“普通”が日に日に遠ざかっている気がすることだった。
「おはよう、柊坂さん」
席に着きながら声をかけると、真白は机に突っ伏しかけた姿勢のまま、ゆっくりと顔を上げた。
「……おはよう」
返事はあった。
けれど、いつもより少しだけ覇気がない。
湊人は何となくその顔を見る。いつものようにきつめの目元ではあるが、今日はそれに加えて、微妙な白さがあった。肌の色も、ほんの少し冴えない。髪も乱れてはいないけれど、朝の整え方に余裕がなかったような気配がある。
「どうかしましたか」
「なにが」
「少し、お顔の色が」
言った途端、真白の眉がぴくりと動いた。
「……は?」
いつもの“は?”だ。
だが今日は切れ味が鈍い。鋭く返したいのに、そのための元気が足りていないように聞こえる。
「いえ、その、体調でも悪いのかと」
「悪くないし」
すぐに返ってきた否定は、しかし内容ほど強くなかった。
湊人は少し迷う。
こういう時、どこまで踏み込むべきなのかは難しい。心配を装って距離を詰めすぎるのは違うし、逆に気づいていながら何も言わないのも落ち着かない。
真白の方は、こちらの視線を嫌がるようにふいと逸らした。
「ただちょっと寝不足なだけ」
「そうですか」
「そう。だから変な顔で見ないで」
「変な顔に見えましたか」
「見えた」
「失礼しました」
そう返すと、真白は少しだけ唇を曲げた。
「そういうとこ」
「はい」
「素直に謝るの、たまにずるい」
「ずるいですか」
「こっちが強く言いづらくなるから」
「それはすみません」
「ほらまた」
小さく交わされた会話は、それだけだった。
だが湊人の中には、少しばかり引っかかりが残った。
寝不足。それだけならいい。けれど、今の真白からは、単純な眠気とは別の、身体の重さのようなものがにじんで見えた。
気のせいならいい。
ただの考えすぎなら、それで構わない。
だが、考えすぎで終わらなかった。
◇
一限目の途中、真白は二度、小さくシャープペンを止めた。
授業は現代文だった。教師が黒板に板書し、教科書の一節について解説していく、ごく普通の授業。教室の空気も穏やかで、窓の外からは春らしい明るい光が入っている。
その中で、隣の席の真白だけが、少しずつ沈んでいくように見えた。
ノートを取る手が止まる。
指先でこめかみを押さえる。
視線が黒板から机へ落ちる。
かと思えば、はっとしたようにまた顔を上げる。
湊人は授業を聞いているふりをしながら、視界の端でそれを追っていた。
無理をしている。
少なくとも、そう見える。
だが、だからといって授業中に「大丈夫ですか」と囁くのも不自然だ。まだ転校して日も浅い自分が、隣席の女子をあからさまに気遣えば、それはそれで周囲の目を集める。
結局、一限目はそのまま終わった。
チャイムが鳴ると同時に、真白は机に伏した。
その伏し方が、いつもの“かったるい”感じではない。雑に突っ伏しているのではなく、本当に身体を支えるのが面倒になった人間の落ち方だ。
湊人は小さく息を飲んだ。
「柊坂さん」
「……なに」
返事はある。
あるが、机に顔を伏せたままなのがよくない。
「保健室へ行かれた方が」
「行かない」
「ですが」
「平気だから」
「平気な方は、そういう声になりません」
「……それ、口説いてる?」
「違います」
反射的に否定してしまったが、その一言が出る程度にはまだ元気があるらしい。
少しだけ安心しかけたところで、真白が顔を上げた。
その瞬間、やはりと思った。
目元がうっすら赤い。熱があるのか、ただだるいのかは分からない。でも少なくとも、快調な顔ではない。
「ほんとに大丈夫です」
真白は、妙に丁寧な言い方でそう言った。
丁寧な時ほど、押し返すために力を使っているのが分かる。
「朝より顔色が悪いですよ」
「……見すぎ」
「隣ですから」
「そういうとこよ」
「何がです」
「自然にそういうこと言うとこ」
それは責めているというより、半ば諦めたような口調だった。
ちょうどその時、日野が前の席から振り向いてきた。
「柊坂、だいじょぶ?」
「別に」
「いや、別にじゃなくない?」
「うるさい」
「顔白いって」
「日野まで何なの」
もう一人、後ろの女子も心配そうに覗き込む。
さすがに周囲にも分かる程度には、真白の不調は表に出てきていた。
真白はそれを嫌がるように姿勢を正したが、その動きの途中で、ほんの少しだけ顔をしかめた。立ちくらみでもしたのかもしれない。
それを見た湊人は、もう迷わなかった。
「次の休み時間、保健室まで行きましょう」
「行かない」
「行きます」
「なんで決定なのよ」
「倒れられると困ります」
「困るって何よ」
「僕が」
「は?」
思わず本音が先に出た。
周囲が一瞬だけ黙る。
日野が「おお」とでも言いたげな顔をしたのが視界の端に入って、湊人は遅れて少しだけ後悔した。
言い方がよくなかったかもしれない。
「いえ、その……隣の席ですし、気になりますから」
言い直すと、真白はじっとこちらを見た。
熱っぽく鈍った目のまま、でもその奥だけは妙にまっすぐだ。
「……アンタ、ほんとそういうのずるい」
「本日二度目ですね」
「数えてるの?」
「いえ、印象に残ったので」
「それもずるい」
よく分からない評価をされたところで、二限目開始のベルが鳴った。
真白は結局、その時間も教室に残った。
◇
二限目は英語だった。
だが真白の集中は明らかに切れている。教科書のページは開いているのに、視線がその上を滑っているだけで、意味までは追えていない顔をしていた。
湊人はもどかしさを感じていた。
配信なら、相手の声色一つで「今日は無理をしているな」と分かる。
コメント一行で、落ち込んでいる人、疲れている人、甘えたい人、ただ静かに聞いていたい人、それぞれに合わせて言葉を変えることができる。
でも教室では、そうはいかない。
誰か一人だけを露骨に気遣えば、それ自体が目立つ。
しかも相手は柊坂真白だ。押せば素直に「ありがとう」と言うタイプでもない。
けれど、だからと言って何もしないのは、やはり違う。
二限目が終わるなり、湊人は小さく声をかけた。
「立てますか」
「……何それ」
「保健室です」
「だから行かないって」
「今の顔で言われても説得力がありません」
「アンタ、ほんと」
「嫌われますか?」
「そういう聞き方しないで」
真白は机に片手をついて立ち上がった。
その瞬間、ふっと身体が揺れる。
湊人は反射的に手を伸ばした。
肩に触れる直前で、ぎりぎり手首のあたりへ触れて支える。あまりに自然に触れすぎるのも違う気がして、最後の瞬間で力の置き場をずらした。
「……ほら」
「っ」
「やはり無理があるじゃないですか」
「今のは……ちょっと」
「ちょっとでも立ちくらみは立ちくらみです」
「正論やめて」
「では詭弁にしますか」
「そういうとこだってば」
口ではそう言うものの、真白はさすがに今ので自覚したのだろう。
強く拒む力が少し抜けていた。
日野がすかさず乗ってくる。
「柊坂、行っとけって。次倒れたら先生も面倒だろうし」
「日野、言い方」
後ろの女子がたしなめる。
「いやでもほんと心配なんだけど」
「……みんなして大げさ」
「大げさじゃないです」
湊人が静かに言うと、真白はまたこちらを見た。
その視線の温度が、いつもより少しだけ弱い。
刺すための力が足りない分、むしろ無防備に見えた。
「……分かったわよ」
ようやく、真白が折れる。
「ただし、保健室までね」
「はい」
「それ以上はついてこなくていいから」
「状況によります」
「何その返し」
「心配していますので」
「だからそういうの……」
最後までは言わず、真白はため息をついた。
その頬が、ほんの少しだけ熱を持っているように見えたのは、体調のせいだけではないのかもしれない。
だがそこまで考えるのは、自意識過剰というものだろう。
◇
教室を出て、保健室へ向かう廊下は、授業中の静けさに包まれていた。
扉の向こうでは授業の声がして、窓の外では運動部の掛け声が遠く響く。その中を、二人分の足音だけがゆっくり進んでいく。
真白は普段より明らかに歩く速度が遅い。
でも無理に支えようとすれば、たぶん怒る。
だから湊人は半歩だけ前へ出すぎない位置を保ちながら、歩幅を合わせた。
「……過保護」
真白がぼそりと言った。
「何がですか」
「歩く速さ」
「普通ですが」
「普通じゃない。合わせてるでしょ」
「ばれましたか」
「ばれるわよ」
「それは失礼しました」
「そうやってすぐ謝る」
かすれたような声でも、ちゃんといつもの調子が混じっている。
少し安心する。
「でも、助かる」
真白は前を向いたまま、続けた。
「え?」
「今のは聞こえなくていい」
「聞こえました」
「じゃあ忘れて」
「難しい注文ですね」
「難しくない。忘れる努力をしなさい」
「努力で忘れられるなら苦労しません」
「アンタ、たまに変なとこ頑固よね」
「そうでしょうか」
「そう」
短い会話。
でもその温度は、最初の日よりずっと近い。
保健室の前まで来たところで、真白が少しだけ立ち止まった。
「……ありがと」
あまりにも小さな声だったので、聞き間違いかと思った。
「はい?」
「だから、ありがとって言ったの」
「……どういたしまして」
「なんでそんなちゃんと返すの」
「お礼をいただいたので」
「そこ、流してもいいとこでしょ」
「大事ですから」
「ほんと変」
いつもの“変”なのに、今日のそれは随分やわらかかった。
湊人が保健室の扉をノックしようと手を上げた、その時だった。
真白の身体が、また一瞬だけ揺れた。
今度はさっきよりも明確に。
足元から力が抜けたように見えた。
「柊坂さん」
考える前に、湊人はその肩を支えていた。
今度は躊躇っている余裕がなかった。
ぐらりと倒れかけた身体を、片手で背中から、もう片方で腕を支える。体温が思ったより高い。軽い、とは思わないが、無理をして立っていたことははっきり伝わった。
真白は一瞬だけ目を見開き、それからぎゅっと眉を寄せた。
「……最悪」
「倒れる方が最悪です」
「そういう意味じゃなくて」
「では、どういう」
「今、顔近い」
「すみません」
「だから謝るとこじゃないって……」
真白の耳が赤い。
熱のせいかもしれない。
でも、それだけではなさそうな赤さだった。
保健室の中から先生が気づいて扉を開ける。
「どうしたの?」
「少し体調が悪そうで」
湊人が説明すると、先生はすぐに状況を察し、真白を中へ招き入れた。
「柊坂さん、こっち。熱あるかもしれないから、とりあえず休みましょう」
「……はい」
真白は最後に一度だけこちらを振り返った。
その目には、照れと気まずさと、少しだけ素直な感謝が混ざっているように見えた。
「アンタ、戻っていいから」
「ですが」
「いい。ほんとに」
「分かりました。では、後ほど」
「その“後ほど”何」
「また様子を」
「来なくていい!」
「元気そうで安心しました」
「元気じゃないから来てるんでしょうが!」
保健室の先生が思わず笑う。
真白は顔を赤くしたまま、カーテンの向こうへ消えていった。
◇
教室へ戻る廊下で、湊人はようやく息をついた。
心配はまだ残っている。
だが、とりあえず保健室へ送り届けるところまではできた。
今の自分にできるのは、そこまでだろう。
……本当は、もっと何かしたい気持ちがあるのも事実だった。
水を買うとか、連絡事項を代わりに聞いておくとか、放課後に荷物を運ぶとか。
でもそれを全部やれば、今度はやりすぎになる。
まだ自分たちは、そこまでの距離じゃない。
少なくとも、表向きには。
教室へ入ると、日野が真っ先に振り向いた。
「柊坂どうだった?」
「保健室で休んでいます」
「やっぱしんどかったんじゃん」
後ろの女子もほっとしたように言う。
「よかった、ちゃんと行ってくれて」
「アンタが連れてったの?」
別の男子が、どこか面白そうに聞いた。
「ええ、まあ」
「へー」
その“へー”に、なんとなく余計なニュアンスを感じる。
湊人はその気配を察しながらも、どう返すのが正解か少し迷った。
すると、日野が先に割って入る。
「いや普通に隣だし。久瀬、最初から気にしてたしな」
「へえ、やさし」
「そういうんじゃないでしょ」
後ろの女子が言う。
「体調悪そうなら普通に連れてくよ」
「でも柊坂って自分から行かなそうだし」
「まあなー」
教室の空気は軽い。
からかいの手前で止まっている感じがある。
それに少し救われる。
自席に戻ると、真白の机だけがぽっかり空いていた。
いつもそこにある存在がないだけで、思った以上に隣が静かだ。
湊人は自分でも不思議に思う。
転校してきたばかりの頃は、隣席に誰がいようと大差ないと思っていた。
むしろ話しかけられすぎない方が助かるくらいに。
なのに今は、そこが空いていることに少し落ち着かなさを覚える。
授業が再開しても、その感覚は完全には消えなかった。
◇
昼休み。
真白はまだ戻ってこなかった。
鳴海すばるは、その空いた席を見てすぐ状況を察したらしい。
「え、真白まだ保健室?」
「はい」
「大丈夫かな」
「少し立ちくらみもあったので」
「うわ、やっぱ無理してたんだ」
すばるは珍しく素直に心配そうな顔をした。
「朝からちょっと変だったもんね」
「鳴海さんも気づいていたんですね」
「気づくよ。あれだけ顔色悪かったら」
そこで、すばるはじっと湊人を見る。
「……久瀬くん、最初に言ってたでしょ」
「え」
「顔色悪いって。ああいうのちゃんと見てるんだ」
「隣でしたから」
「それだけじゃない気がするけど」
「それ以上でもありませんよ」
「ほんとかなあ」
すばるは少しだけ意味ありげに言ったが、それ以上は掘ってこなかった。
その代わり、昼食の途中でぽつりとこぼした。
「なんかさ」
「はい」
「真白、ああいう時に連れてってくれる人が隣でよかったね」
「……そうでしょうか」
「うん。だってあの子、自分から平気って言い張るタイプだし」
「それは、少し分かります」
「でしょ」
すばるはストローを咥えたまま笑う。
「だから今日の久瀬くん、ちょっとポイント高い」
「何のポイントですか」
「人としての」
「曖昧ですね」
「でもそういうの大事だよ」
人としてのポイント。
ずいぶんざっくりした評価だったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
ただ、湊人の胸の内には別の落ち着かなさが残っている。
真白が今どうしているのか。
熱はあるのか。
ちゃんと休めているのか。
それが気になって、昼食の味が少し薄い。
◇
五限目の前、真白は戻ってきた。
教室の扉が開き、その姿が見えた瞬間、湊人は思わず顔を上げた。
朝よりは少しましだ。
けれど、まだ完全ではない。
頬に熱っぽさが残っているし、歩く速度もいつもより慎重だ。
彼女は自席に戻ってくるなり、こちらを見ずにぽつりと言った。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
「その返し、なんか家みたい」
「では何と」
「別に、そのままでいい」
声はまだ少し低い。
だが、朝に比べればずっとしっかりしている。
「熱は」
「微熱。休めって言われたけど、テスト範囲のとこだったから戻った」
「無理をしないでください」
「アンタ、保健室の先生みたいなこと言うね」
「同じことを考えているということでしょうか」
「自分で言う?」
「自分で言いました」
「ほんと変」
その“変”には、もうかなり慣れてしまった。
授業の準備をしながら、真白は少しだけこちらへ身を寄せた。
本当に少しだけ。
机と机の隙間が狭いから自然にそうなった、という程度の距離だ。
でも、湊人にはそれが妙に近く感じられた。
「……さっきは」
「はい」
「ありがと」
「いえ」
「あと」
「はい」
「腕、ちゃんと支えたのは助かった」
「それはよかったです」
「でも」
「でも?」
「自然すぎてちょっと腹立つ」
「なぜですか」
「女子が倒れそうになって、あんなすぐ動けるの、慣れてるみたいじゃん」
「慣れてはいません」
「ほんとに?」
「はい」
「……ならいいけど」
“ならいいけど”の意味はよく分からない。
けれど、その言い方は朝よりずっとやわらかかった。
そして授業が始まったあとも、真白は時々こちらを見た。
いや、正確には見ていたというより、何か考えていた。
その視線は、いつものように“変なやつを見る目”ではなかった。
もっと別の、距離の測り方が少し変わり始めた目だった。
◇
放課後、真白は帰る準備をしながら、小さく言った。
「今日は寄り道しないで帰る」
「その方がよろしいかと」
「うん。さすがにだるいし」
「家まで一人で大丈夫ですか」
「……またそれ」
「心配しています」
「知ってる」
真白はそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。
「でも、もう大丈夫」
「そうですか」
「うん。だから送らなくていい」
「送るつもりだと顔に出ていましたか」
「ちょっとだけ」
「それは失礼しました」
「失礼っていうか……」
真白はそこで言葉を切る。
「……ありがたいけど」
小さな声だった。
「でも、そこまでされると困る」
「困る」
「だって、距離近いじゃん」
その一言に、湊人は少しだけ息を止めた。
距離が近い。
自分では、やりすぎないよう気をつけていたつもりだった。
保健室へ連れていくのも、倒れそうになった時に支えるのも、隣席として自然な範囲だと思っていた。
けれど相手から見れば、それはもう“少し近い”に入るらしい。
「……すみません」
考えた末にそう返すと、真白はすぐに首を振った。
「謝れって意味じゃない」
「では」
「その……」
真白は珍しく言い淀む。
「嫌とかじゃなくて」
「はい」
「慣れてないだけ」
「……そうですか」
「うん」
「それなら、よかった」
「そこですぐ安心した顔するのもずるい」
「またずるいと言われました」
「今日は三回目」
「数えておられたんですね」
「アンタが数えてるみたいに言うから!」
結局、最後はいつもの調子に戻った。
だが、そこに一つだけ新しいものが混ざっていた。
気安さとも、警戒とも違う、少しだけ触れたあとに残る意識のようなもの。
真白は鞄を肩にかけ、教室の出口で一度だけ振り返った。
「……今日はほんとにありがと」
「どういたしまして」
「だからその返しがちゃんとしてるのよ」
「悪いことでしょうか」
「悪くない」
真白は小さく笑った。
「悪くないから、困るの」
そう言って去っていく背中を見送りながら、湊人はしばらくその場に立っていた。
優しくしただけだ。
隣の席の子の体調が悪そうだったから、放っておけなかっただけ。
それ以上のつもりはない。
ない、はずだ。
なのに、最後に向けられたあの笑い方が、妙に胸の中へ残っている。
「……ちょっと距離が近い、か」
誰にともなく呟く。
たしかにそうかもしれない。
でも、その距離の近さを嫌だと思わなかった自分もまた、少しだけ問題なのかもしれなかった。




