第3話 推しの話になると、人は急に早口になる
柊坂真白による“購買チャレンジ予告”を受けた翌朝、久瀬湊人はいつもより少しだけ複雑な気分で登校していた。
別に約束をしたわけではない。
ただ、流れで「明日、購買チャレンジする?」と言われ、「ご指導いただけるなら」と返し、「その言い方ほんとやめて」と怒られただけだ。
……改めて思い返すと、だいぶ妙な会話だった。
転校三日目にして、隣の席の女子と購買の攻略法を共有することになるとは予想していなかった。高校生活とはもっとこう、静かに、薄く、気配を消しながら進んでいくものではなかったか。
いや、たぶん普通の人にとってはそうなのだろう。問題は、自分が“普通の人として振る舞うこと”にあまり向いていないことだ。
校門をくぐりながら、湊人は小さく息を吐いた。
「今日は、余計なことを言わない」
「変に丁寧にしすぎない」
「あと、なるべく目立たない」
いつものように心の中で三つほど目標を立てる。
しかし、この手の目標はだいたい午前中のうちに崩れる。自分でも学び始めていた。
教室に入ると、真白はまだ来ていなかった。窓際の席に鞄を置き、湊人は少しだけ肩の力を抜く。真白がいると落ち着かないわけではないのだが、あの鋭い観察眼を朝一番から浴びるのは、さすがに気疲れする。
そんなことを考えていると、教室の後ろの方から元気のいい声が飛んできた。
「お、久瀬おはよー」
前の席の男子――日野直純が片手を上げる。明るくて、距離の詰め方が早いタイプだ。悪い人ではない。むしろかなり話しやすい部類だが、話しやすい相手ほど、うっかり素が出そうで怖い。
「おはようございます」
「また丁寧だなあ。もうちょい力抜いていいって」
「努力はしているんですが」
「努力でどうにかするもんなんだ、それ」
笑われた。
最近、笑われる機会が多い気がする。いや、配信でも笑われることはある。ただ、あちらは“そういう流れ”を自分で作っている時が多い。学校では、こっちにそのつもりがないのに笑いが起きる。そこが難しい。
真白が教室に入ってきたのは、その少しあとだった。
朝の光を背に、少し眠そうな顔で鞄を肩にかけている。こちらに気づくと、彼女はいつものように一瞬だけ目を細めた。
「……おはよう」
「おはようございます」
「それ、先生にも同じテンションで言ってるでしょ」
「挨拶は平等にと思いまして」
「意味わかんない」
でも、その返しにはもう完全に慣れた調子があった。
自席に着いた真白は、机に鞄を置きながら小声で言う。
「で」
「はい」
「昼、逃げないでよ」
やはり本気で購買チャレンジをやるらしい。
「逃げませんよ」
「昨日みたいに“購買は文明が未発達ですね”みたいな顔しないで」
「そんな顔はしていません」
「してた」
「していません」
「してた」
「……少しだけ」
「ほら」
言い合いのようでいて、妙に静かに会話が続く。
その様子を、前の席の日野が何となく振り返って眺めていた。
「二人、もう結構しゃべるよな」
「しゃべってない」
「しゃべってます」
「なんでそこは肯定すんのよ!」
朝から真白の声が一段上がる。周囲で何人かが笑った。
湊人は自分でも不思議だった。真白とは合わない部分の方が多い気がするのに、会話はなぜか成立する。向こうが遠慮なく踏み込んでくるからかもしれないし、自分がそれを本気で拒んでいないからかもしれない。
その理由を考える前に、一限の開始ベルが鳴った。
◇
三日目ともなると、授業の流れや移動教室のタイミングも少しずつ掴めてくる。初日と比べれば、視線もだいぶ落ち着いた。転校生としての珍しさは薄れつつあり、代わりに“変なやつだけどクラスにいる人”として認識され始めている気がする。
それは決して悪い傾向ではない。
少なくとも、“ただ者ではなさそうな転校生”よりは、“ちょっとズレてるけど話しかければ返してくれる人”の方が、まだ平穏に近い。
そして、その平穏に新しい角度から切り込んできたのが、昼休みだった。
四限が終わるやいなや、教室の後ろの方から勢いよく椅子を引く音がした。
「よしっ!」
誰かがやたら気合いの入った声を出す。
振り向くと、眼鏡をかけた女子が、机の上にスマホと財布を広げて何やら確認していた。肩までの黒髪、細いフレームの眼鏡、制服の着こなしはきっちりしているのに、動きだけがやたら落ち着かない。
その子は湊人が見ていることに気づくと、目を輝かせた。
「あっ、久瀬くん」
「はい」
「ごめん、ちょっと今からすごく大事な話していい?」
「まだ何の話かも分かっていませんが……」
返す間もなく、その女子は湊人の机の横まで来ていた。
「今日のお昼、教室で食べる予定ある?」
「ええと、いえ……」
「よかった! じゃあちょっと付き合って!」
「なににですか」
「推し活」
推し活。
その単語を聞いた瞬間、湊人は反射的に警戒した。
嫌な予感がする。かなり具体的に嫌な予感がする。
真白が横からじっとその女子を見上げた。
「鳴海。また始まったの」
「始まったの。ていうか聞いて真白、今日の十二時半からアルトの切り抜き上がるんだよ」
「あると?」
「天瀬アルト! 知らない? いやさすがに名前くらいは聞いたことあるでしょ? 今いちばん声が国宝で、返しが美しすぎて、王子様っぽいのにちゃんと人の生活感に寄り添ってくれるあの――」
「待って」
「なに」
「早い」
「え?」
「喋る速度」
「これでも抑えてるけど」
「抑えてそれなの?」
なるほど、この子が鳴海すばるか。
名前は席替え表か何かで見た気がする。クラスの中でもオタク寄りで、話し出すと止まらないタイプなのだろう。少なくとも今の時点で、会話の速度だけでそれが伝わってくる。
湊人の脳内では警報が鳴っていた。
天瀬アルト。
当然、それは自分の配信名だ。
どうして転校三日目にして、しかもクラスの中で、本人の目の前で推し語りが始まろうとしているのか。運が悪いとしか言いようがない。
「久瀬くん、興味ない感じ?」
「いえ、そういうわけでは」
「ほんと? じゃあ見込みある!」
「何の見込みでしょうか」
「沼に落ちる見込み」
「怖い言い方をしますね」
「実際そうだから!」
鳴海すばるは、そこから止まらなかった。
「まずね、天瀬アルトって“ただ声がいい人気V”じゃないの。そこ勘違いされがちなんだけど、違うの。確かに声もいいし顔――あ、顔はないけどビジュもいいし、全体に王子っぽいのはそうなんだけど、本質はそこじゃないのよ。あの人って空気の整え方が異常にうまいの。コメントが変な方向に流れそうになった時とか、コラボ相手が暴走した時とか、やんわり受けて、でも冷たくなくて、しかもちゃんと笑いにして収めるの。分かる? 分からないよね、今から分からせるから聞いて」
一息だった。
本当に一息でそこまで行った。
湊人は思わず「すごいですね」と言いそうになってやめた。そこに感心している場合ではない。これはかなり危険な状況だ。
何しろ、鳴海すばるの語る“天瀬アルトの魅力”は、おおむね正しい。正しすぎる。本人ですら「そこをそんなふうに見てくれているのか」と少し照れるくらい正しい。
だが今、照れてはいけない。
真白はそんなすばるの暴走を半分呆れながら眺めていた。
「アンタ、毎回そうやって初見の人に長文投げるよね」
「長文じゃない、イントロ」
「十分長い」
「いやでも天瀬アルトを説明するには最低限これくらい必要でしょ」
「必要ないでしょ」
「あるの!」
そのやりとりの間に、周囲の何人かも面白がってこちらを見始めている。
困る。とても困る。
湊人はできるだけ自然に、しかし慎重に言葉を選んだ。
「鳴海さんは、その……天瀬アルトさんがお好きなんですね」
「好きとかいうレベルじゃない」
「そうですか」
「推し」
「なるほど」
「いや、その返し、距離遠くない?」
いきなり詰められた。
「え」
「“好きなんですね”“そうですか”“なるほど”って、他人事みたいじゃん」
「他人事……では」
「他人事じゃないならもうちょい食いついて?」
「難しい要求ですね」
「難しくないよ。普通、“え、どんな人なの?”とか聞くでしょ」
「では」
「うん」
「どんな人なんですか?」
「わざとらしいなあ!」
教室に笑いが起きる。
湊人は曖昧に笑ってやり過ごしたが、内心はかなりひやひやしていた。自分のことを自分で“どんな人ですか?”と聞くのは、思っていた以上に精神が削られる。
しかし、鳴海すばるはそんなこちらの事情など知らない。
「よし、じゃあ聞いて。アルトはね、声がまずいい。これ大前提。だけどそこだけじゃなくて、言葉の選び方がとにかく綺麗なの。丁寧なんだけど堅苦しくなくて、優しいんだけど軽くなくて、ちゃんと相手を立てるのに自分の立ち位置は崩さないの。で、たまに出る天然もあざとくなくて、もう……なんていうか……品があるのに生活感があるの!」
「矛盾していませんか」
「してない! そこがすごいの!」
「僕にはまだ少し難しいです」
「でしょ!? 私も最初は意味分かんなかった!」
分からなかったのか、と真白が小さく突っ込んでいる。
湊人は相槌を打ちながら、なるべく顔に出さないよう気をつけた。
正直に言うと、かなりむず痒い。
褒められること自体は、配信者である以上、珍しいことではない。ありがたいし、嬉しいとも思う。だが目の前で、学校のクラスメイトに、本人だと知られないまま熱量高く語られると、喜びと気まずさが綺麗に五分五分になる。
「……へえ」
横から、真白がぽつりと声を漏らした。
「なに、その“品があるのに生活感がある”って」
「えっ、食いついた?」
「別に」
「食いついてるじゃん!」
「うるさい」
真白はうるさそうに眉を寄せたが、すばるはむしろ勢いづく。
「真白ってこういうの興味なさそうだけど、アルトはたぶん刺さるよ。変なチャラさないし、軽くないし、でも説教臭くないし」
「いや、興味ないけど」
「そう言う人ほど一回見たら落ちる」
「落ちない」
「じゃあ賭ける?」
「なんでよ」
そのやりとりを聞きながら、湊人は少しだけ肩の力を抜いた。
どうやら今日は、自分が直接疑われているわけではなさそうだ。すばるは純粋に“推しを広めたいオタク”として暴走しているだけらしい。なら、ここは無難に受け流して終わればいい。
そう判断した矢先、すばるが思い出したように顔を上げた。
「そうだ、久瀬くんって声ちょっといいよね」
「え」
急に踏み込まれた。
「朝の自己紹介の時から思ってたんだけど、通るし、なんか聞きやすい」
「そんなことは」
「あるよ。しかも言い方がちょっと綺麗」
「綺麗とは」
「だから、その、語尾とか言葉の置き方? なんかアルトみがあるというか」
「あるとみ」
「うん、アルトみ」
新しい概念が生まれている。
真白もそこでこちらを見た。
「……あー」
「なに、その“あー”って!」
「いや、言われてみればちょっと分かるかも」
「でしょ!?」
「ちょっとだけね。ほんとにちょっと」
「でもやっぱそうだよね!? なんか喋り方が普通の男子と違うっていうか」
「違う」
「違うんですか」
「違う意味じゃなくて、違うの」
真白の説明もだいぶ雑だ。
しかし二人分の視線を向けられると、さすがに湊人も落ち着かない。気づかれた、というほどではない。ないが、あまりこの方向の話は続けてほしくない。
「たぶん、ただ丁寧に話しているだけだと思います」
「ほら、その言い方」
「はい?」
「“丁寧に話しているだけだと思います”って、もうそこがちょっとアルトなの!」
「その判定はさすがに理不尽では」
「理不尽じゃない、解釈」
「オタクってすごい」
「真白、それ悪口?」
「半分褒めてる」
また笑いが起きる。
教室の空気はどこか和やかで、すばるの熱量も面白がられている。湊人としては気が気ではないが、周囲から見れば“推し語りのうるさいオタク女子と転校生が絡まれている”くらいの図なのだろう。
問題は、すばるの観察眼が想像以上に鋭いことだった。
「ねえ久瀬くん、一回だけ切り抜き見てみない?」
「今ですか」
「今! 三分だから! 三分で人生変わるから!」
「三分で変わる人生は少し怖いですね」
「ほらその返し! やっぱ好きなタイプの話し方なんだよなあ!」
危うく、自分で自分の切り抜きを教室で見せられるところだった。
それだけは避けたい。さすがにその場で平静を保つ自信がない。
「昼休みは、できれば静かに食事を」
「わ、断られた」
「すばる、押し売りしすぎ」
「押し売りじゃない、布教」
「似たようなもんでしょ」
真白が横から容赦なく切る。すばるは不満そうに唇を尖らせたが、完全にはめげていない。
「じゃあせめて、今日の夜の雑談枠だけでもアーカイブ見て」
「検討します」
「その返事は見ないやつ」
「検討は本当に検討です」
「怪しいなあ」
「鳴海」
「なに、真白」
「そろそろ購買行くんだけど」
「あっ、そうだった!」
購買チャレンジ。
すっかり忘れかけていたが、今日の本題はそれだった。
真白が立ち上がり、いかにも面倒そうに湊人を見る。
「行くよ、転校生」
「はい」
「行くの!? え、なに、真白が久瀬くんを購買に!?」
「ちょっと黙って」
「なにそれ面白い、私も行く」
「来なくていい」
「行く」
結局、三人で購買へ向かうことになった。
◇
昼休みの購買前は、やはり今日も戦場だった。
だが昨日と違うのは、湊人に一応“指導役”がいること、そしてその指導役が思った以上に厳しかったことである。
「まず、ぼーっと立たない」
「はい」
「次に、どこに何があるかを最初に見る」
「はい」
「迷うな」
「努力します」
「努力じゃなくてやる」
「はい」
「あと、人に遠慮しすぎない」
「それが一番難しいです」
「なんでよ」
真白は本気で意味が分からないという顔をしている。
だが難しいものは難しい。自分が取ろうとしたパンに別の手が伸びていたら、反射的に引いてしまう。そういう教育を受けてきたわけではないが、気づけばそういう癖がついている。
一方、すばるは横でけらけら笑っていた。
「なにこれ、真白が新人兵士育ててるみたい」
「アンタはうるさい」
「でもさ、久瀬くんってほんとこういうの慣れてないんだね」
「……そう見えますか」
「見える見える。というか隠してないレベルで見える」
それはそうだろう。
現に今も、どのタイミングで列へ入るのが正解なのか完全には掴めていない。
「ほら、次」
真白が顎で示す。
「あそこ、今なら入れる」
「はい」
半歩前に出る。人の流れを読む。伸びる腕。ずれる肩。購買のおばさんの「次ー!」という声。そこへ合わせて手を伸ばす――前に、別の男子生徒の手が被った。
反射的に引きそうになる。
その瞬間、真白の声が飛んだ。
「引かない!」
叱咤だった。
湊人はぎりぎりで手を止め、男子生徒の動きを待つ。相手は焼きそばパンを取り、その隣が空く。そこへ素早くたまごサンドを取った。
取れた。
しかも今回は、自力で。
「……取れました」
「だから言ったでしょ」
「すごい」
「何が」
「達成感が」
「大げさ」
真白は呆れたが、ほんの少しだけ満足そうでもあった。
すばるはそんな二人を見て、なぜか妙に嬉しそうに笑う。
「なんかいいね、その感じ」
「どの感じ」
「学園ラブコメっぽい感じ」
「どこがよ」
「いや、ツンツンしながらも世話焼いてる女子と、妙に育ち良さそうな地味男子の組み合わせって強いでしょ」
「強いとか言うな」
「でも分かる」
「久瀬くんはどう思う?」
「え?」
急に振られた。
「いや、その……柊坂さんには助けられてばかりで」
「ほら! その返し!」
「なにが」
「優等生すぎる!」
「褒めているんですが」
「そういうとこも含めて!」
すばるがまた早口になる。購買前だというのに、話題の中心がパンから人間関係へ飛んでいる。高校生というのは切り替えが早い。
結局、その日も三人で窓際に移動して昼食を取ることになった。
昨日までは真白と二人だった場所に、今日はすばるがいる。そのおかげで、空気はかなり賑やかになった。
「で、久瀬くんは昨日アルト見た?」
「いえ、まだ」
「見てない!」
「忙しくて」
「なにがそんなに忙しいの」
「いろいろと……」
「その“いろいろと”って、絶対ちゃんと説明しない人のやつ」
するどい。
だが、そこを具体的に聞かれる前に、真白が横から割って入った。
「鳴海」
「なに」
「さっきからずっとアルトの話しかしてないけど、飽きないの」
「飽きるわけないでしょ。推しだよ?」
「推しってすごいのね」
「すごいよ。ていうか真白も絶対見た方がいい。なんなら今日の夜、一緒にアーカイブ」
「見ない」
「即答!」
「だってアンタの話聞いてるだけでお腹いっぱい」
「それは私のプレゼンが上手いってこと?」
「情報量が多いってこと」
会話のテンポが速い。真白とすばるはタイプが違うのに、噛み合うところでは妙に噛み合うらしい。
湊人はたまごサンドを食べながら、静かに観察していた。
鳴海すばるは、思っていた以上に“推しを見る目”が細かい。ただ叫ぶだけのファンではなく、言葉の選び方や会話の温度までちゃんと拾っている。これは、配信者としてはありがたい。ありがたいが、同時に怖い。
こういう視聴者ほど、小さな共通点に気づく。
「ねえ」
「はい」
「やっぱり久瀬くんの声、なんか好きだな」
「またですか」
「また。なんていうか、アルトの“夜雑談でコメント読む時の低めの声”にちょっと似てるんだよね」
「限定的すぎませんか、その例え」
「でも分かるんだよなあ」
真白がそこでちらりと湊人を見た。
「……そう言われると、たしかにたまに聞きやすい」
「ほら真白も!」
「でもあくまで“聞きやすい”だけね」
「分かってる分かってる。さすがに同一人物だとは思ってないし」
「……ですよね」
「え、なにその反応」
「いえ、ほっとしただけです」
本音が少し出た。
しまった、と思った時には遅い。すばるが眼鏡の奥の目を細める。
「……ほっとした?」
「そういう言い方すると怪しいわよ、アンタ」
真白も乗ってくる。
「怪しいことは何も」
「でも今の、“バレなくてよかった”みたいに聞こえた」
「鳴海、話飛びすぎ」
「だって面白いじゃん。久瀬くん実は人気VTuberでした、とか」
「それは……ずいぶん大掛かりですね」
「だよねー。顔も全然違うし、雰囲気も違うし。ないない」
「……はい」
心臓にはよくない冗談だった。
だが、今のすばるの笑い方からすると、本気で疑っているわけではない。せいぜい“ちょっと声の感じが好きな推しに似ている”程度の話だ。
それならまだ大丈夫。
問題は、その“ちょっと”が積み重なっていくことだ。
食事の終わり頃、すばるは財布をしまいながら言った。
「よし、決めた」
「何を」
「今度、久瀬くんに本気のアルト入門をする」
「やめて」
「なんで真白が止めるの」
「なんか面倒そうだから」
「面倒じゃない、人生が豊かになるの」
「言い方が宗教」
「失礼な!」
湊人は苦笑しつつ、心の中ではかなり真剣に思っていた。
それは本当にやめてほしい。
◇
午後の授業中も、すばるの“アルト入門計画”が頭の片隅に残っていた。
自分の活動が学校生活にここまで近づいてくるのは、予想よりだいぶ早い。もちろん有名配信者である以上、誰かしらが知っている可能性は最初から想定していた。だが、まさか同じクラスに、これほど熱量の高いファンがいるとは思わなかった。
しかも、そのファンは観察力がある。
声、言葉遣い、会話の間。そこに“似ている”を見つける。
まだ偶然の範囲だ。けれど、偶然が何度も重なると、人はそれを偶然として処理しきれなくなる。
窓の外を見ながら、湊人は小さく考える。
学校ではもっと、普通の男子高校生らしく話した方がいいのかもしれない。
もう少し砕けた言い方。
もう少し雑な相槌。
もう少し“整っていない”会話。
だが、それを今から不自然なくやれる自信はあまりない。
放課後、教室が少しずつ空いていく中で、すばるがまた机に寄ってきた。
「ねえ、今日は配信見る?」
「今日も、まずそこなんですね」
「そこ大事だから」
「検討します」
「またそれ」
「本当に検討はしています」
「じゃあ一個だけ質問」
「はい」
「癒やし系と雑談系、どっちが好き?」
「え」
「アルトはどっちも強いんだけど、どっち入口の方が刺さるかなって」
「入口、ですか」
「うん。久瀬くんを沼に沈める入口」
まっすぐ言われた。
真白が鞄を持ちながら眉をひそめる。
「まだ諦めてなかったの」
「諦める理由がない」
「その情熱、勉強にも向けなさいよ」
「必要な分は向けてますぅ」
すばるはわざとらしく唇を尖らせ、それからまた湊人を見た。
「で、どっち?」
「……雑談系でしょうか」
「おお! 分かってる!」
「そうなんですか」
「アルトの真価は雑談にあるの。歌ももちろんいいし企画も面白いけど、雑談はね、ほんとに人柄が出るの」
「なるほど」
「今の“なるほど”ちょっと好き」
「好きの基準が緩くありませんか」
「緩くない。解像度が高いだけ」
「また新しい言葉が」
「オタクは語彙が増える生き物だから」
そのまま、すばるは「じゃあ今日の夜は雑談アーカイブね!」と念押しして去っていった。
嵐のような人だ、と湊人は思う。
うるさいし、早口だし、押しが強いし、こちらの心拍数に悪い。けれど、嫌な人ではない。むしろ好きなものを好きだと堂々と言える強さは、少し羨ましいくらいだった。
鞄を持った湊人の横で、真白がぼそりと呟く。
「鳴海、あれで悪い子じゃないんだけどね」
「分かります」
「分かるんだ」
「はい。熱量がすごいだけで」
「それを“だけ”で済ませるのすごい」
「柊坂さんは慣れているんでしょう?」
「まあね。去年からずっとあんな感じだし」
真白はそこで、少しだけ面白そうな顔になった。
「でも、珍しい」
「何がですか」
「鳴海が男子相手にあそこまでグイグイ行くの」
「そうなんですか」
「推し語りはするけど、だいたい途中で相手が逃げるから」
「逃げる」
「アンタ、意外とちゃんと聞くじゃん」
「聞いてはいけない感じでしたか」
「そうじゃなくて。普通、あの熱量で来られたらもうちょい引くでしょ」
「……確かに、少し圧倒はされました」
「少しで済むんだ」
それは配信者としての訓練のたまものかもしれない。
熱量の高いコメントや、一方的な愛の言葉や、時に重すぎる感情。それらを受け止めつつ、傷つけずにかわして、でもきちんと届く言葉を返すのは、天瀬アルトとして何度もやってきたことだ。
だから鳴海すばるの“推しに対する愛”にも、湊人は本能的に拒絶より理解が先に来る。
……理解が先に来るからこそ、厄介なのだが。
「アンタって、ほんと変」
真白がいつものように言う。
「最近、その評価が安定してきましたね」
「だってほんとなんだもん」
「慣れてきました」
「慣れないで」
階段へ向かいながらの会話は、三日前よりずっと自然だった。
気づけば、クラスで話す相手も少しずつ増えている。
日野みたいに気軽に話しかけてくる男子。
鳴海すばるのように、好きなものの話になると止まらなくなる女子。
そして、何かと突っかかってくるくせに、結局ずっと隣にいる真白。
普通の高校生活というのは、案外こうして形になっていくのかもしれない。
――ただ、その中に“天瀬アルトの熱心な視聴者”がいるのは、少しばかり想定外だった。
◇
家に帰ると、部屋の静けさがいつもより強く感じられた。
学校では常に誰かの声がしている。教室、廊下、学食、購買。気づけば人の気配に囲まれている。だが自室に戻れば、あるのは機材の待機ランプと、窓の外の遠い車の音だけだ。
鞄を置き、制服の上着を脱ぎ、机の前に座る。
スマホには事務所からの連絡がいくつか入っていた。夜の配信は予定通り。軽めの雑談枠。切り抜き歓迎。新規層も入りやすいテーマで、というマネージャーのメッセージがある。
「……新規層」
鳴海すばるの顔が脳裏をよぎった。
“今日の夜は雑談アーカイブね!”
本人の前で、本人の雑談配信を薦められる。冷静に考えるとだいぶおかしい。
PCを立ち上げ、音声チェックをし、待機画面を確認する。すでにコメント欄には多くの視聴者が集まっていた。
『待機!』
『王子待ってます』
『雑談たすかる』
『今日も来ました』
『癒やしください』
王子。
教室でちらりと出た単語を、今度はいつものようにコメント欄が埋めていく。
学校でその単語を聞くと神経が立つのに、配信で見ると妙に落ち着くのが不思議だった。たぶんここでは、それが自分に期待されている役割の名前だからだ。
開始時間。
ボタンを押し、マイクを通して声を出す。
「こんばんは、天瀬アルトです。来てくださってありがとうございます。今日はのんびりお話ししていければと思います」
途端に、身体の中で別のスイッチが入る。
学校での久瀬湊人は、言葉を選びすぎて遅れる。
天瀬アルトは、言葉を選びながらも流れを止めない。
コメントが流れる。
『今日も声がいい』
『王子きたー!』
『待ってました』
『雑談うれしい』
『今日ちょっとしんどかったから助かる』
「それはお疲れさまでした。こういう日は、あまり頑張りすぎずに、少し気を抜いて聞いていってくださいね」
自然に出る声。やわらかい間。コメントの温度に合わせて返していく感覚。
やはり、自分はこっちの方が得意だ。
しばらく雑談を進めたところで、ふと今日の昼のことを思い出し、少しだけ苦笑が混じった。
『どうしたの?』
『なんか今笑った?』
『かわいい』
『何かあった?』
「いえ、今日は少し、新しい種類の熱量に触れる機会がありまして」
『新しい熱量?』
『なにそれw』
『案件?』
『コラボ?』
「好きなものを好きだと言える人の勢いって、すごいなあと。改めて思いました」
それは、かなり本音だった。
鳴海すばるの早口。溢れる語彙。推しを語ることへの一切の遠慮のなさ。あれは確かに、一種のすごさだ。
『オタクの話?』
『分かる』
『好きなものの話してる時の人って早いよね』
『アルトくんもそうなることある?』
「僕ですか? どうでしょう。自覚はあまりないんですが、もし好きなものの話をしている時に少し早くなっていたら、あたたかく見守ってください」
『絶対かわいいやつ』
『見たい』
『早口アルト助かる』
『好きなもの何?』
「何でしょうね。紅茶とか、音楽とか、そういう話は比較的長くなりやすいかもしれません」
コメント欄が穏やかに盛り上がる。
学校で“アルトみがある”と言われた時はひやりとしたが、ここでの自分はやはり自然だ。何万人相手でも、言葉を乗せる場所としては落ち着いている。
でもその一方で、昼の教室で、自分のことを熱量高く語るクラスメイトの姿が思い出される。
推しってすごい。解像度が高いだけ。
すばるの言葉が妙に残る。
もし彼女が本気でこちらと自分を見比べ始めたら、どこまで気づくだろうか。
声。
返し方。
言葉の置き方。
間の取り方。
今はまだ、ただ“少し似ている”だけだ。
だが、その少しが積み重なった時、どうなるのか。
『アルトくん?』
『ちょっと考え込んでた?』
『だいじょうぶ?』
「すみません、少しだけ考えごとをしていました」
『珍しい』
『何考えてたの?』
「……内緒です」
『かわされた』
『王子の回避きた』
『こういうとこ好き』
『ずるい』
コメント欄が楽しげに流れていく。
その流れを見ながら、湊人は心の中で小さく呟いた。
学校では、こんなふうに上手くはかわせない。
真白にも、すばるにも、たぶんこれから増えていく誰かにも。
配信みたいに綺麗に受け流して、傷つけずに、疑いだけ消して終わる――そんな器用なことが、現実ではどれだけできるのだろう。
配信が終わる頃には、時刻は夜もだいぶ更けていた。
最後の挨拶をしてマイクを切り、しばらく椅子にもたれたまま天井を見る。
「……鳴海さん、見てるのかな」
つい独り言が漏れた。
見ている可能性は高い。むしろ高すぎる。今日あれだけ話していたのだから、夜の雑談枠を見逃すタイプではないだろう。
自分の目の前で自分を推しだと語るクラスメイト。
学校では正体を知られたくない自分。
その両方が、同じ時間に現実に存在している。
なんともややこしい。
PC画面を落とす前に、湊人は一度だけ事務所の共有タイムラインを確認した。誰かが新人ライバー・小毬こはくの今日の配信を褒めている。緊張はまだあるが、少しずつ自分の空気を作り始めている、と。
湊人はその名前を眺め、静かに思う。
学校でも、配信でも、人は少しずつ“自分の場所”を作っていく。
自分も、そうなのだろうか。
ただ目立たずに過ごしたいだけだったはずなのに、真白とは隣席らしい会話をし、日野とは軽口を交わし、すばるには推しの話を延々と聞かされている。
それは当初の予定からすれば、かなりずれている。
ずれているのに、少しだけ悪くないと思っている自分がいるのも事実だった。
ベッドへ入る前、スマホが一度だけ震えた。
クラスの連絡用グループに、新着メッセージが入っている。送り主は鳴海すばる。
『今日のアルトの雑談、やっぱり最高だったので共有します』
その下に、配信アーカイブのURLが貼られていた。
湊人はしばらく無言でそれを見つめたあと、枕に顔を埋めた。
「早い……」
行動が早すぎる。
しかも、共有先がクラスの連絡グループというのも大胆だ。そこにさっそく数人が反応している。
『また始まった』
『鳴海の推し布教』
『あとで見る』
『真白も見なよ』
『転校生もこれで沼だな』
その流れの中に、自分がいる。
そして誰も、自分がそのURLの配信者本人だとは思っていない。
当たり前だ。そんなこと、普通は思わない。
でも、普通じゃないくらい熱心に見ている子が一人いる。
明日、教室で何を言われるのだろう。
そう考えた瞬間、少しだけ胃が痛くなった。
転校三日目にして、学校生活は思っていたよりずっと騒がしい。
そしてその騒がしさの中には、自分の“もう一つの顔”に一番近い方向から迫ってくる気配が、たしかに混ざり始めていた。




