第2話 地味な僕の隣席は、ぜんぜん優しくない
転校二日目の朝、久瀬湊人は目覚ましが鳴るより少し早く目を開けた。
窓の外は、まだ薄く青い。夜と朝のあいだにあるような静かな色だった。布団の中でしばらく天井を見つめ、それから小さく息を吐く。
「……今日こそ、普通に」
昨日も言った気がする台詞だった。
しかも昨日は、その決意が見事なまでに空回りした。初日だから多少は仕方ないとはいえ、購買で立ち尽くし、隣の席の女子には何度も“変”と言われ、ついでに教室では“王子っぽい”などという、この上なく困る評価まで受けてしまった。
目立たない高校生活への道は、想像以上に険しい。
だが、まだ巻き返せるはずだ。二日目から地味に馴染んでいけばいい。昨日の転校生フィーバーさえ抜ければ、きっと周囲の熱も落ち着く。落ち着いてくれないと困る。
ベッドを出て、顔を洗い、制服に袖を通す。ネクタイを締める手は、意識しないとすぐ整いすぎる。少しだけ緩めようとしてみて、鏡の中の自分を見てやめた。似合わない。無理をしている感がすごい。
「普通って難しいな……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
朝食を簡単に済ませ、家を出る。春の朝の空気はまだ少し冷たく、吐く息が完全には白くならないくらいの温度だった。通学路には同じ制服の生徒が点々と見え、二日目の湊人は昨日よりも少しだけ、学校へ向かう実感があった。
校門前に差しかかったところで、またしても反射的に道を譲りかけて、寸前で踏みとどまる。
危ない危ない。
普通の高校生は、毎回そんな丁寧な動きをしない。多分しない。少なくとも、昨日の自分のように“なんか雰囲気ある”認定を受けるほどにはしない。
今日は気をつけようと決めて、教室へ向かう。
廊下を歩きながら、湊人は昨日の隣席――柊坂真白のことを思い出していた。
口が悪い。目つきが鋭い。妙に噛みついてくる。
でも、購買では助けてくれたし、完全に嫌っているわけでもなさそうだった。というより、あれは嫌っているというより“放っておけないから腹が立つ”に近い空気だった気がする。
そういう相手は正直、苦手だ。
何を考えているのか分からない人より、分かりやすすぎる人の方が、時として対処に困る。
教室へ入ると、昨日ほどではないが、やはり数人分の視線が向いた。転校生への興味はまだ完全には消えていないらしい。湊人はそれに気づかないふりをして席へ向かう。
真白はすでに来ていた。
机に肘をつき、頬杖をつきながら、窓の外を見ている。朝日が横顔に当たっていて、少し不機嫌そうな顔立ちが妙に綺麗に見えた。
湊人が「おはよう」と声をかけると、真白はちらりとだけ視線を寄越した。
「……おはよう」
昨日の「別に」よりはだいぶ進歩している。
内心で少し驚いていると、真白の方が先に口を開いた。
「なに」
「え?」
「その、今の顔」
「顔、ですか」
「“思ったより返事してくれるんだ”みたいな顔してた」
見抜かれていた。
湊人は少し困って笑う。
「いえ、失礼しました」
「ほらそういうの」
「どういうのですか」
「すぐ謝るとこ。転校して二日目なのに、妙に完成してる感じ」
完成している、という表現は初めて聞いた。
だが、何となく分からなくもない。きっと真白の中では、湊人は“普通の男子高校生として雑に扱いづらい何か”なのだろう。
それはとても困る。
「できれば未完成でいたいんですが」
「意味わかんないこと言わないで」
真白は呆れたように言って、でもほんの少しだけ口元を緩めた。
それだけのやりとりなのに、昨日よりは確実に距離が縮まっているのを感じる。学校というのは、こうして少しずつ他人が“隣の人”になっていく場所なのかもしれない。
ホームルームが始まり、授業が進む。
数学、英語、現代文。転校直後は先生側も多少気を遣ってくれるらしく、露骨に当てられることはない。そこは助かったが、その代わり周囲の様子を観察する余裕があった。
二年三組は、思っていたより空気が軽い。
派手に騒ぐクラスというほどでもないが、静かすぎるわけでもない。何人か中心になる生徒がいて、そこに自然と会話が集まり、でも一人でいても浮きすぎない程度のゆるさもある。
要するに、かなり過ごしやすい部類だ。
……自分が変に目立たなければ、の話だが。
問題は三限と四限の間の短い休み時間に起きた。
前の席の男子が振り返ってきて、何気ない調子で言ったのだ。
「久瀬ってさ、今日昼どうすんの?」
「昼、ですか」
「学食? 購買? それとも弁当派?」
なぜその質問がそんなに怖く聞こえるのだろう。
昨日の購買戦線を思い出し、湊人は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……まだ決めていません」
「昨日、購買で固まってたもんな」
真白がぼそっと横から刺してきた。
しっかり見られていたらしい。しかも共有されている。
「固まっていたつもりはないのですが」
「いや固まってたでしょ。鹿みたいに」
「鹿」
「突然明るい場所に出た鹿」
「僕はあんなに目が丸くなっていましたか」
「なってた」
即答だった。
前の席の男子が吹き出す。つられて周囲の何人かも笑った。悪意のある笑いではない。むしろ場が和んだ感じすらある。だが、本人としては和んでほしくないところで和まれている。
「じゃあ今日、学食行く?」
「それとも購買リベンジ?」
「いや、購買リベンジって単語ある?」
軽いノリで会話が転がっていく。
ここで断ってもいいはずだ。だが、二日目にしてずっと距離を取っているのも不自然かもしれない。湊人が判断に迷っていると、真白が面倒そうにため息をついた。
「……学食にしとけば」
「え?」
「購買はまだアンタには早い」
「購買に熟練度が必要みたいな言い方ですね」
「必要でしょ。少なくともアンタには」
また笑いが起きる。
気づけば、昼は自然と学食へ行く流れになっていた。
◇
昼休みの学食は、購買ほどの戦場ではなかった。もちろん混んではいるが、列があり、順番があり、トレーがあり、少なくとも“奪い合い”ではない。それだけで湊人にはかなり文明的に思えた。
「そんなに安心する?」
トレーを取りながら真白が言う。
「はい。購買に比べれば、かなり」
「真顔で言うと面白いんだけど」
どうやら真面目に答えると笑われるらしい。理不尽だ。
学食のメニュー表の前に立って、湊人は少し迷った。
ラーメン、カレー、定食、うどん、日替わりランチ。どれもいわゆる“高校の学食”らしい値段と内容だ。安い。驚くほど安い。昨日からうっすら感じていたが、この学校の食事情は湊人の金銭感覚にじわじわとダメージを与えてくる。
「なに悩んでんの」
「いえ、その、皆さんは普段なにを」
「まさか値段で迷ってる?」
「……少しだけ」
「なによ少しだけって」
「想像以上にお手頃で」
「その言い方やめて」
まただ。
真白は本当に、湊人の言葉尻にいちいち引っかかる。
だが今日は昨日と違って、そこにわずかな楽しさが混ざっているように見えた。多分、本人は認めないだろうけれど。
「アンタ、もしかして普段もっと高いもの食べてるとか?」
「そんなことは」
言いかけて、湊人は危うく口をつぐんだ。
“そんなことは”の後に続く内容によっては、一瞬で地雷になる。
普段は専属の料理人が――などと言うわけにはいかない。
「……家庭の事情で、あまり外で食べる機会がなかったので、相場に疎いだけです」
ぎりぎりで嘘ではない言い方に着地する。
真白は少しだけ眉を上げた。
「ふうん。箱入りって感じ」
「箱入り、ですか」
「男子に使うのか知らないけど、そんな感じ」
それは否定しづらい。
結局、湊人は一番無難そうな日替わり定食にした。真白は迷いなく唐揚げ丼だ。席に着き、向かい合って食べ始める。
湊人は箸を持ち、いただきます、と小さく呟いてから食べた。
すると真白がじっとこちらを見ている。
「……なんですか」
「いや」
「はい」
「やっぱりアンタ、家でちゃんと躾けられてる感じする」
心臓が跳ねる。
「そう見えますか」
「見える。箸の持ち方も綺麗だし、食べ方も変に静かだし」
「変に、ですか」
「普通の男子ってもっと、がっつくでしょ。あ、でも別に気取ってる感じじゃないのが余計に変」
褒められているのか警戒されているのか、本当に分からない。
だが湊人にも一つだけ分かったことがある。
柊坂真白は、よく見ている。
人の服装や顔立ちではなく、仕草とか、間とか、そういうものを見ている。そして気づいた違和感を遠慮なく口に出す。
それは大変に厄介な資質だった。
「柊坂さんは」
「なに」
「よく人を見ていますね」
何気なく言ったつもりだった。
だが真白は一瞬だけ動きを止めた。唐揚げを持つ箸が空中で止まり、数秒の間が落ちる。
「……別に」
それから、そっけなくそう返す。
昨日の“別に”より、少しだけ低い声だった。
何かまずいことを言ったのかもしれない。湊人はそう思ったが、深入りするのも違う気がして、それ以上は聞かなかった。
昼食が終わる頃には、周囲の会話にも少しずつ混ざるようになっていた。前の席の男子――たしか日野と名乗っていた――が部活の話を振ってきたり、別の女子が「転校前の学校ってどんな感じ?」と聞いてきたりする。
湊人はそのたび、当たり障りのない範囲で答えた。人と会話するのが嫌いなわけではない。むしろ配信では毎日何万人と話している。ただ、学校という場では、その何倍も“普通らしさ”の調整が難しいだけだ。
そして、その難しさは午後に入ってさらに形を変えた。
◇
五限は体育だった。
転校二日目にして体育。かなり心の準備が要る。
男子はグラウンドで軽い球技。女子は校舎裏のコートで別メニューらしい。更衣室の空気、まだ名前を覚えきれていない同級生たちとの距離感、そして何より“どの程度動ける人間として振る舞うか”の問題がある。
目立たず、でも不自然に動けなさすぎず。
非常に難しい。
「久瀬って運動できんの?」
ジャージ姿で、日野が気軽に聞いてくる。
「得意ではないと思います」
これは本音だった。少なくとも“学校体育で求められる上手さ”とは、方向性が違う。走る、投げる、受ける、といった基本運動は一通りできるが、無邪気に全力を出して目立っていい立場でもない。
「思います、って。自分のことなのに曖昧だな」
「まあ見れば分かるだろ」
そう言って笑われる。
その程度ならまだいい。
問題は実際にボールを使い始めてからだった。
今日の種目はバレーボールの基礎。二人一組でのパス練習から始まる。教師が適当に組めと言ったため、湊人は近くにいた日野と組むことになった。
「んじゃ、軽くな」
「よろしくお願いします」
「そこまで丁寧じゃなくていいって」
言われながらボールが投げられる。
湊人はそれを受ける。問題なく受ける。軽く返す。問題なく返す。
一往復、二往復、三往復。
日野がじわじわと怪訝な顔になった。
「……あれ?」
「どうしました」
「いや、久瀬ってもっと運動ダメな感じかと思ってた」
「そうですか?」
「なんか、こう……購買で死にそうな顔してたから」
購買が基準にされている。
しかし言いたいことは分かる。昨日の印象からすれば、運動も不得手に見えるのかもしれない。
湊人は返す球の力を少しだけ弱めた。自然に、でも目立ちすぎないように。
「体力はあまりありませんよ」
「いや、それにしてはフォーム綺麗じゃね?」
余計なことに気づく人が多い。
バレー経験者ならともかく、そうでないなら気にしないでほしい。だが日野は深く追及する前に、「まあいいや、続けよう」と流してくれた。
助かった――と思ったのも束の間。
授業の最後に、教師が「じゃあせっかくだし転校生にも一本サーブ打ってもらうか」と言い出したのだ。
なぜ“せっかくだし”なのか分からない。
体育教師特有の謎のサービス精神は時として残酷だ。
「久瀬、軽くでいいから」
「はい……」
ボールを受け取る。周囲の視線がそれなりに集まる。ここで派手に失敗するのも違うし、綺麗に決めるのも違う。加減。大事なのは加減だ。
湊人は深く考えすぎた結果、むしろ自然に打った。
ぽん、と音がして、ボールはきれいな弧を描いて相手コートに入った。特別すごい一撃ではない。だが初心者が偶然入れたというより、“普通に慣れてる人のサーブ”だった。
「おお」
「入った」
「うまくね?」
微妙なざわめきが起きる。
しまった。
「いや、今のフォーム普通に綺麗だったぞ」
「久瀬、ほんとになんなんだよ」
知らない。こっちが聞きたい。
教師が「まあ初回ならこんなもんか」と流してくれたのが不幸中の幸いだった。だが授業が終わって教室へ戻る途中、女子側の列からも視線を感じた。
その先頭にいた真白が、ジャージ姿のままこちらをじっと見ている。
「……なにか」
「別に」
またその返しだ。
しかし今回は、その後に続きがあった。
「アンタってさ」
「はい」
「できなさそうなのに、たまに普通にやるよね」
「それは褒められているんでしょうか」
「知らない」
知らないと言いながら、真白はどこか納得いかない顔をしていた。
◇
放課後。
今日は昨日より少しだけ、帰るタイミングが遅くなった。日野たちに軽く話しかけられ、ノートのことや教室移動のことを確認していたら、自然と時間が過ぎていたのだ。
それ自体は、悪くない。
むしろ普通の学校生活としては歓迎すべきことなのだろう。だが、湊人の中では別の時計も動いている。夜の配信準備、事務所からの連絡確認、収録スケジュール。学校の“放課後”が、必ずしもそのまま自由時間ではない。
なるべく早く帰ろうと鞄を持ったところで、真白の声が飛んできた。
「ちょっと」
「はい」
「これ、職員室に持ってくの手伝って」
彼女の机の上には、プリントの束が二山積まれていた。どうやら学級委員かなにかの仕事らしい。
断る理由はなかった。
「分かりました」
そう言って、湊人は自然に軽い方ではなく重い方の束を持った。
真白がぴくりと眉を動かす。
「……普通、女子の前でそっち取るの」
「重い方が効率的かと」
「効率の話してないんだけど」
「すみません」
「だからすぐ謝るなって」
廊下を並んで歩く。
教室の喧騒が遠ざかるにつれて、校舎の夕方の音が近づいてくる。部活へ向かう足音、窓の外の運動部の声、どこかの教室から聞こえる吹奏楽の調律。
その中で、二人分の足音だけが近い。
「アンタ、今日も変だった」
職員室へ向かう途中、真白が突然言った。
「どの件でしょうか」
「全部」
「全部」
「学食で値段に戸惑うとこも、体育で中途半端にできるとこも、あと……」
「あと?」
「……なんか、いちいち人に気を遣いすぎるとこ」
最後だけ、少し声が小さかった。
湊人は言葉を選んだ。
「人に気を遣うのは、悪いことではないと思いますが」
「それはそうよ。でもアンタの場合、自然すぎるの」
「自然すぎる」
「うん。見せようとしてやってないでしょ」
「たぶん」
「だから余計に変」
真白はそこで足を止めた。ちょうど職員室の前だった。
プリントを受け取った教師が中へ戻っていくのを待ちながら、真白は壁に軽く寄りかかる。夕方の斜めの光が、彼女の髪の輪郭を少しだけ柔らかく見せていた。
「……ねえ」
「はい」
「アンタ、前の学校でどんな感じだったの」
質問は何気ないようで、少しだけ踏み込んでいた。
湊人は一瞬だけ答えに迷う。
どんな感じだったのか。正直に言えば、普通ではなかった。普通であろうとしてもなれない場所で、ずっと“そういうもの”として扱われてきた。
けれどそんな話を、ここでできるわけがない。
「静かに過ごしていました」
「絶対嘘」
即答された。
「嘘ではありません」
「じゃあ絶対“静かに過ごしてるつもりだった”でしょ」
それは、かなり近い。
湊人は思わず言葉に詰まり、真白はそれを見て少しだけ笑った。
「図星なんだ」
「……否定はしません」
「やっぱり」
その笑い方は、昨日までより柔らかかった。
噛みついてくるばかりだと思っていた隣席の女子が、今こうして少し楽しそうに自分を見ている。その変化が、湊人には少し不思議だった。
「柊坂さんは」
「なに」
「最初から、ずいぶん率直ですね」
「悪い?」
「いえ。ただ、遠慮がないなと」
「遠慮してほしいの?」
「どうでしょう。半々くらいで」
「なにそれ」
真白は吹き出すように笑った。
ほんの短い笑いだったのに、印象が変わる。普段のきつい顔立ちが少しほどけて、年相応の女の子に見えた。
その瞬間だった。
「真白ちゃーん、まだいたの?」
廊下の向こうから、女子が二人歩いてくる。真白の友人らしい。こちらを見るなり、にやにやした顔になった。
「え、なに、転校生と二人?」
「ちょっと、もしかしてもう仲良し?」
「違う」
「違います」
ぴったり声が揃った。
女子二人が余計に面白そうな顔をする。なぜ揃ってしまったのか。息が合ってしまったこと自体が、仲良さそうに見える材料ではないか。
真白はあからさまに不機嫌そうに眉を寄せた。
「プリント運んでただけ」
「へえー」
「でも柊坂が男子とこうしてるの珍しくない?」
「転校生くん、苦労してそう」
半分面白がられている。
湊人は曖昧に笑ってやり過ごしたが、真白の方は完全に面倒くさそうだった。友人たちに「じゃ、またあとで」と乱暴に言い残し、踵を返す。
廊下を戻りながら、真白はぼそっと言った。
「……余計なこと言うし」
「人気者なんですね」
「全然嬉しくない言い方やめて」
「そういうつもりでは」
「あるでしょ。ちょっと笑ってたし」
見抜かれている。
しかも今日は、朝よりずっと会話が軽い。口調は相変わらず刺々しいのに、会話そのものは昨日よりもずっと自然に続く。
教室へ戻る手前で、真白がふと足を止めた。
「アンタ、今日帰ったらまたなんか忙しいの」
「え?」
「昨日もさっさと帰ったし。今日もそんな感じだったから」
そこを見られていたか、と湊人は内心でひやりとした。
「……少し、やることがありまして」
「ふうん」
問い詰めるような声ではない。だが、試されている感じはある。
配信です、とは当然言えない。だからといって、曖昧すぎる言い方も怪しまれる。
「家の都合で」
結局、最も便利で、最も不便な言葉を使う。
真白は一瞬だけ目を細めた。
「家の都合、ね」
「はい」
「……まあ、いいけど」
いい、と言いつつ、明らかに納得はしていなかった。
それでもそれ以上踏み込んでこないあたり、彼女なりの線引きがあるのだろう。そこには少しだけ救われる。
教室へ戻って荷物を持ち、今度こそ本当に帰る時、真白が何気ない調子で言った。
「明日、購買チャレンジする?」
「チャレンジ、なんですね」
「どうせ今のままだと一生たまごサンドしか買えないでしょ」
「たまごサンドは好きですが」
「そういう話してない。で、するのしないの」
これはつまり、付き合ってくれるということだろう。
言い方はひどいが、内容は親切だ。
湊人は小さく笑った。
「……ご指導いただけるなら」
その瞬間、真白は露骨に顔をしかめた。
「その言い方、ほんとやめて」
「すみません」
「ほらまた!」
教室の出口で、二人して同時に立ち止まる。
そしてなぜか、少しだけ笑ってしまった。
今の自分たちは、昨日より確実に隣席らしい会話をしている。たった二日なのに、人との距離は思ったより早く変わるらしい。
それが良いことなのか、厄介なことなのかは、まだ分からない。
◇
家に帰り着いたのは、昨日より少し遅い時間だった。
玄関を閉めた瞬間、学校の空気がすっと剥がれる感覚がある。自室に入り、制服の上着を脱ぎ、鞄を机の脇へ置く。スマホには事務所の連絡がいくつか来ていた。
今夜は配信ではなく、短めの収録と、先輩ライバーのコラボ配信への通話参加だけ。
学校と比べれば、ずっと得意な領域だ。
機材を立ち上げながら、湊人は今日のことを思い返す。
学食。体育。放課後のプリント運び。購買チャレンジの予告。
すべてが、学校という場所に少しずつ自分を結びつけていく出来事だった。
「……普通になりたいのに」
願いとは裏腹に、隣の席の女子は遠慮なく踏み込んでくるし、クラスメイトは案外気さくに話しかけてくるし、自分自身もそれを嫌だと思い切れない。
それは少し困る。
困るのに、悪くないとも思ってしまう。
配信開始前、共有サーバーに一件だけ通知が入った。
AstraLink全体チャット。新人ライバーの名前が上がっている。話題の主は最近デビューした小毬こはく。今日の配信で緊張しすぎて入りを噛んだらしい。先輩たちが面白がりながらも優しくフォローしている。
湊人はそのログを眺め、少しだけ口元を緩めた。
会ったこともない後輩。けれど同じ事務所で、それぞれ別の時間帯に頑張っている仲間だ。
学校には学校の距離感があり、配信には配信の距離感がある。
その二つを行き来するのが、自分の日常だ。
やがて通話の時間が来る。
マイクを入れた瞬間、声の温度が変わる。
「こんばんは、お疲れさまです。天瀬アルトです」
学校での久瀬湊人とは違う、落ち着いて、柔らかく、人を安心させるための声。
通話の向こうで、先輩ライバーが明るく笑った。
『アルトくん来た! ちょっと聞いてよ、新人ちゃんが今日かわいく事故っててさあ』
『助けてあげてよ王子〜』
「皆さん、すっかり楽しんでいらっしゃいますね。新人さんが泣いていなければいいんですが」
『その返し方が優しいんだよなあ』
『ほらこういうとこ王子』
『リスナーの前でもそれやって』
「今日は先輩方が主役ですから。僕は端で静かにしております」
『絶対静かにしないくせに』
『いやでも空気整うんだよな、アルトくん来ると』
自然と笑いが起きる。
学校では購買一つで固まっていた自分が、こちらでは何の苦もなく言葉を返せる。その差に、少しだけ苦笑したくなる。
けれどそれもまた、自分だ。
通話を終え、明日のスケジュールを確認し、機材の電源を落とす頃には、夜もかなり深くなっていた。
ベッドに腰を下ろした時、ふと思い出すのは、放課後の真白の顔だ。
“家の都合、ね”
あの一言。
きっと彼女は、納得していない。
あまり良くない傾向だと思う。よく見ていて、妙に勘が鋭くて、しかも遠慮がない。隠し事を抱えた人間にとって、かなり相性の悪い相手だ。
なのに、不思議と、そのことが少しだけ楽しみでもある。
「……いや、よくないな」
自分で自分に釘を刺す。
学校では目立たない。余計な関係を増やしすぎない。普通に過ごす。
その方針は変わらない。
変わらないはずなのに、明日の購買チャレンジのことを考えてしまっている時点で、すでに少しだけ計画は揺らいでいた。
隣の席の女の子は、ぜんぜん優しくない。
でも、だからこそ、こちらのペースを簡単には許してくれない。
そんな相手がいる学校生活は、思っていたよりずっと、普通から遠いのかもしれなかった。




