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第1話 普通になりたい僕は、初日からちっとも普通じゃない

 春の朝というのは、どうしてこうも人の決意を試してくるのだろう。


 まだ少しだけ冷たい空気。通学路に浮かぶ白い光。新品の制服に袖を通した生徒たちの、妙に浮ついたざわめき。校門前に立った瞬間、久瀬湊人は胸の奥で小さく息を吐いた。


 ――大丈夫。今日はただの転校初日だ。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 目立たない。波風を立てない。誰かの記憶に強く残らない。


 それが、今日からこの学校で生きていくための最重要方針だった。


「普通に……普通にいこう」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 だが、その「普通」が湊人にとって最も難しいことだと、本人だけがよく知っていた。


 校門をくぐる直前、反射的に立ち止まる。先に入ろうとしていた女子生徒がいたからだ。無意識に身体を半歩引き、手で軽く進路を示す。


「どうぞ」


「あ……え、あ、うん」


 女子生徒は一瞬きょとんとした顔をして、それからぺこりと頭を下げて通り過ぎた。


 しまった、と思ったのは、その直後だった。


 別に、そんなことをしなくてもよかったのだ。校門など広いし、譲り合うほどの狭さでもない。なのに、身体が勝手に動いた。


 家では当たり前だった。誰かと鉢合わせれば、相手を先に通す。とくに女性や年長者ならなおさら。何も考えず、呼吸のように染みついている。


 でもここは、そういう場所ではない。


 湊人は自分の額に手を当てて、小さく項垂れた。


「初手からだめじゃないか……」


 校舎に向かう途中、何人かの生徒とすれ違った。誰も彼も、新しい年度特有のそわそわした空気をまとっている。クラス替えに一喜一憂しているらしい声があちこちから聞こえてきた。


 そんな中、湊人はなるべく俯きがちに歩いた。背筋まで丸めすぎると今度は不自然だ。だから、ほんの少しだけ視線を落とし、気配を薄くする。あくまで自然に。あくまで地味に。


 ……のつもりだった。


「ねえ、あの人かな」

「転校生って」

「え、なんかすごくない?」

「なにが?」

「いや、なんか……雰囲気?」


 小さなひそひそ声が耳に届く。


 反射的に聞こえてしまうのも困りものだった。湊人は聞こえないふりをしながら、心の中で泣きそうになった。


 いや、待ってほしい。まだ何もしていない。今日はまだ校門で一人先に通しただけだ。なのに、どうしてもう“なんか”で見られているのだろう。


 答えは分かっていた。


 たぶん姿勢だ。歩き方だ。目線の配り方だ。あるいは制服の着方かもしれない。自分では普通のつもりでも、長年の習慣というのは厄介なもので、気を抜くとすぐ滲み出る。


 普通の男子高校生は、たぶんもっと無造作に歩く。


 もっと気軽に片手をポケットに突っ込んで、もっと雑にネクタイを緩めて、もっと遠慮なく欠伸をするのだろう。


 湊人はそれら全部を知識としては知っている。だが、いざ自分がやろうとすると、ぎこちなくなる。似合わない。無理をしているのが自分でも分かる。


 教室へ向かう廊下で、もう一度深呼吸する。


 今日さえ乗り切れば、きっと大丈夫だ。初日は転校生として見られるのは仕方ない。問題は二日目からだ。今日を無難に終えられれば、その後はいくらでも地味になれる。


 そう信じて、湊人は二年三組の扉の前に立った。


 教室の中は、まだ始業前のざわめきに満ちていた。笑い声。机を引く音。スマホを覗き込む数人の輪。そのすべてが、転校生という異物の到来に向けてぴたりと薄くなる。


 担任らしい男性教師が、湊人に気づいて手招きした。


「お、来たか。じゃあ入って」


「はい。失礼します」


 ――失礼します、は言いすぎたかもしれない。


 入った瞬間、教室の視線が集まる。前から二列目の女子グループ。窓際の男子。後ろの席の眠そうな生徒まで、全員の視線が一斉にこちらを向いた。


 湊人は内心で縮み上がりながら、表情だけはどうにか保った。


 教師が黒板の前に立ち、軽く咳払いをする。


「今日から二年三組に入る転校生だ。自己紹介、頼む」


 頼まれてしまった。


 逃げられない。分かっていたが、いざ注目されると心臓が変な音を立てる。湊人は一歩前に出て、教壇の横で頭を下げた。


「久瀬湊人です。今日からお世話になります。まだ慣れないことも多いと思いますが、よろしくお願いします」


 静かな教室に、自分の声が思ったよりもよく通る。


 しまった、とまた思う。もっと、こう、普通の男子っぽく、もう少し砕けた方がよかったのではないか。よろしくっす、くらいの方が自然だったのではないか。


 だがもう遅い。


「……なんか礼儀正しくない?」

「声いいな」

「え、ちょっと王子っぽくない?」


 前の方で女子が小さく囁き合う。


 王子っぽい、は今この場でもっとも聞きたくない単語だった。湊人は笑顔を貼りつけたまま、心の中で机に頭を打ちつける。


 教師は気にした様子もなく、教室の一角を指した。


「席はあそこ。窓際の後ろから二番目。柊坂の隣な」


 その名前に反応したように、一人の女子が露骨に嫌そうな顔をした。


 栗色がかった髪を肩の辺りで切りそろえ、整った目元には少しきつい光がある。制服は着崩していないのに、座っている姿勢から妙な威勢の良さが滲んでいた。


 柊坂真白。


 たぶん、その子がそうなのだろう。


 湊人が席へ向かうと、真白はじろりとこちらを見たあと、ふいと視線を逸らした。歓迎していないのがよく分かる。こちらとしても大歓迎される方が困るので、ちょうどいいのかもしれない。


「よろしく」


 小声で言うと、真白は間を置いてから、


「……別に」


 とだけ返した。


 すごい返しだな、と湊人は思った。よろしくに別にで返ることがあるのか。


 席に着いてからも、教室のそわそわはしばらく続いた。休み時間になると、案の定、何人かが話しかけに来る。


「前の学校どこ?」

「部活やる?」

「好きな教科なに?」

「彼女いる?」


 最後だけ急に角度がおかしい。


 湊人は質問を一つずつ丁寧に返した。前の学校は都内です。部活はまだ考えていません。教科は現代文が比較的好きです。彼女はいません。


 いません、と言った瞬間、なぜか周囲の空気が少しだけざわついた。意味が分からない。いたらいたで面倒なのに、いないとそれはそれで反応されるらしい。高校という場所は難しい。


 だが、本当に難しかったのはその後だ。


 休み時間が終わり、二限と三限をなんとかやり過ごし、昼休みがやってきた。クラスの多くが立ち上がり、学食や購買へ向かい始める。


 湊人は少し悩んだ末、購買へ行くことにした。初日から誰かと食べる流れになるよりは、一人の方が楽だと思ったからだ。


 だが、その判断がいけなかった。


 購買前は思っていた以上に戦場だった。


「焼きそばパン最後!」

「え、ちょっと待って!」

「カレーパン取って!」

「押さないでって!」


 人、人、人。熱気。叫び声。腕が伸びる。パンが飛ぶ。これが本当に高校生の昼休みなのか。戦国時代の補給線争奪戦の方が、まだ秩序があるのではないかと思うほどだった。


 湊人は人波の外で立ち尽くした。


 どうしよう。


 これに突っ込んでいくのか。


 転校初日に。


 目立たずに。


「……無理だ」


 小さく呟いた時、横から呆れた声が飛んできた。


「なに突っ立ってんの、アンタ」


 振り向くと、真白がいた。片手に財布を持ち、いかにも慣れた様子で購買前の地獄を眺めている。


「いえ、その、少し想像以上で……」


「購買が? は?」


「皆さん、たいへんお元気ですね」


「なにその言い方」


 真白は眉をひそめた。それから、じっと湊人を見て、何かを確信したようにため息をつく。


「アンタ、もしかしてこういうの初めて?」


「ええと……似たような経験は、あまり」


「そう……」


 その「そう」に、なぜか深い納得が混じっていた。


「じゃあ、そこにいたら何も買えないから。欲しいの言って」


「え?」


「だから、欲しいパン。言いなさいっての」


「いや、でも」


「いいから。どうせアンタ一人じゃ押し負けるでしょ」


 否定できない。


 湊人は少し迷ってから、「では、もし残っていれば……たまごサンドを」と言った。


 真白の顔が一瞬止まる。


「……“では”ってなに」


「すみません」


「あと、たまごサンドって。もっとなんか男子っぽいのないの」


「男子っぽい、ですか?」


「焼きそばパンとか」


「焼きそばパンは、食べたことがあまりなくて」


「は?」


 本日何度目か分からない“は?”を頂戴した。


 真白は呆れた顔をしながらも、さっさと人波の中へ消えていった。動きに無駄がない。押されても崩れないし、欲しい物へ一直線に手が伸びる。購買における近接戦闘の熟練者だった。


 ややあって戻ってきた真白は、たまごサンドとパックの牛乳をこちらへ突き出した。


「はい」


「ありがとうございます」


 受け取る前に、反射的に頭が下がる。


 真白がまた変な顔をした。


「……アンタさ」


「はい?」


「いちいち礼が丁寧すぎる」


「そうでしょうか」


「そうよ。コンビニ店員さんにありがとうございましたって深々と頭下げるタイプ?」


「下げますね」


「やっぱりズレてる」


 ずばり言われた。


 でも、否定はできない。湊人は小さく苦笑した。


「助かりました。お礼は、何か別の形で」


「いいわよ別に。ていうか重い。パン一個で恩返しとか要らないから」


「そうですか……」


「その“そうですか……”もなんか変」


 真白は疲れたように額を押さえた。


 そのくせ、彼女はそのまま立ち去らなかった。購買脇の窓際へ移動し、「ここ、空いてるから」とぶっきらぼうに言う。どうやら一緒に食べろということらしい。


 ありがたいが、なぜだろう。さっきから歓迎されているのか警戒されているのか、まったく分からない。


 二人で並んで簡単な昼食を取ることになった。


 真白はメロンパンを齧りながら、横目で湊人を見る。


「で。転校生」


「はい」


「その喋り方、素?」


「え?」


「なんか丁寧すぎるし、変に落ち着いてるし。無理してるなら気持ち悪いんだけど」


 言い方が容赦ない。


 湊人はたまごサンドを持ったまま、少し考えた。


「……無理、ではないです。たぶん、昔からこうなので」


「昔から」


「はい」


「へえ」


 真白は明らかに納得していない顔だった。


「なんか育ち良さそうっていうか」


 その一言に、湊人の心臓が小さく跳ねた。


「そんなことは」


「あるでしょ。さっきも購買の列見て本気で引いてたし」


「ええと、あれは単純に勢いに圧倒されただけで」


「“圧倒されただけで”」


「はい」


「ほんと変」


 でも、その“変”には朝より少しだけ棘がなかった。


 昼休みの終わりが近づく頃には、湊人は妙な疲労感を覚えていた。授業よりも会話の方が、よほど神経を使うらしい。地味で普通の高校生を演じるつもりが、むしろ自分の“普通じゃなさ”を少しずつ露呈している気がした。


 午後の授業でも、それは続いた。


 教師に指名されれば、つい背筋を伸ばして返事をしてしまう。プリントを回す時も、受け取った相手に「ありがとうございます」と口に出してしまう。机が傾いていた女子のために、何も考えず机の脚を調整してしまった時など、周囲の視線が一瞬こちらに集まった。


「なにそれ。執事?」

「いや分からんけど、なんか自然だった」


 そんな声まで聞こえる。


 執事ではない。少なくとも本人にその自覚はない。だが、そう見えてしまうのなら問題だった。


 放課後。


 ホームルームが終わり、生徒たちがそれぞれ帰り支度を始める。湊人も素早く鞄を持ち、目立たないうちに帰ろうとした。


 だが、席を立った瞬間、机の端にかかっていた真白のトートバッグが床に落ちた。


 ほぼ無意識だった。


 湊人はしゃがみ込み、落ちたバッグを拾い上げる。持ち手の向きを整え、相手が受け取りやすい角度で差し出す。


「どうぞ」


「……あ」


 真白の目が、一瞬だけ丸くなる。


 バッグを拾う。それ自体は普通だ。だが、拾い方と差し出し方が、なぜか妙に滑らかだった。本人にも分かっている。しまったと思った時にはもう遅い。


 真白はバッグを受け取りながら、じっと湊人の手元を見ていた。


「ありがとう」


「いえ」


「アンタさ」


「はい?」


「そういうとこ、ほんと変」


 またそれだった。


 けれど今度は、単なる悪口ではない気がした。疑問と観察が混じっている。真白は湊人の顔を少しだけ見上げ、何か言いかけてやめた。


「……別に、いいけど」


 最後にそう言って、視線を逸らす。


 その耳が、ほんの少しだけ赤かったことに、湊人は気づかないふりをした。


 学校を出た頃には、夕方の空に薄い橙が差していた。


 帰り道で、湊人はようやく一人になる。校内では張りつめていた呼吸が、少しだけ楽になるのを感じた。


「疲れた……」


 思わず本音が漏れる。


 たった一日だ。たった一日なのに、ひどく長かった。


 だが、休んではいられない。


 家に着くなり、湊人は玄関で靴を脱ぎ、足早に自室へ向かった。部屋は静かで、整っていて、学校の喧騒が嘘のようだった。机の上にはPC、オーディオインターフェース、マイク、ミキサー、モニター。配信者としての自分を形作る機材一式が、いつも通りそこにある。


 制服の上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。鏡の前で前髪を軽く整え、呼吸を一つ。学校では極力消していた声の張りや表情の柔らかさを、少しずつ戻していく。


 画面を立ち上げ、事務所用のチャットを確認する。マネージャーからの連絡は簡潔だった。


『本日21時より雑談配信。切り抜き許諾済み。先日の歌枠の話題も少し触れられれば』


 問題ない。


 湊人――いや、天瀬アルトは、小さく頷いた。


 配信開始五分前。待機画面にはすでに大勢の視聴者が集まっている。コメント欄が流れる速度だけで、今の自分がどれだけの人数に見られているかが分かった。


『待機』

『きたー!』

『今日も王子待ってます』

『学校終わり助かる』

『雑談楽しみすぎる』


 王子、という単語に、湊人は思わず苦笑する。


 学校では、その単語を一番遠ざけたいのに。

 配信では、それが期待される役割の一部になっている。


 開始時間になり、配信ボタンを押した。


「こんばんは、天瀬アルトです。来てくださってありがとうございます。今日はゆっくり雑談しながら、少し近況もお話できればと思います」


 声を出した瞬間、自分の中で何かが切り替わる。


 学校での久瀬湊人は、なるべく目立たないように呼吸を潜めていた。けれどここでは違う。言葉は滑らかに出てくるし、間の取り方も自然だ。コメントの流れを拾い、相手の感情を想像し、空気が荒れそうなら先回りして丸く収める。


 それはもはや“演じている”というより、もう一つの自分だった。


『今日も声が良すぎる』

『助かる』

『王子〜!』

『学校とか仕事で死んでたから染みる』

『アルトくん聞くと落ち着く』


「ありがとうございます。皆さんもお疲れさまでした。新年度で環境が変わった方も多いと思いますし、無理はしすぎないでくださいね」


 コメント欄の流れが少し和らぐ。


 学校では自分が疲弊していたのに、配信では自然に誰かを労う側に回っている。その落差が、自分でも少し可笑しかった。


『アルトくんは今日なにしてたの?』

『近況聞きたい』

『なんか春っぽい話して』

『今日も優勝』


「今日はですね、少しばかり新しい環境に触れていました。慣れないこともありますが、そういう時ほど急がず、一つずつ整えていくのが大事かなと」


 嘘は言っていない。ただ、言い方を変えているだけだ。


 コメント欄が勝手に広げてくれる。


『新しい案件かな?』

『環境変化ってことは収録?』

『大変そう』

『無理しないでね』


「ありがとうございます。皆さんにそう言っていただけると助かります」


 柔らかく笑う。


 その後も配信は安定して進んだ。歌枠の裏話、最近飲んだ紅茶の話、リスナーからの相談コメントへの返答。少し踏み込みすぎた話題が飛んできても、角が立たないようにやんわり逸らす。


『アルトくん絶対モテるでしょ』

『彼女いそう』

『どうなんですか!』


「どうでしょう。皆さんのご想像にお任せします、と言いたいところですが、こういう話題はほどほどにしておきましょうか。切り抜きの皆さんが喜んでしまうので」


『かわしたw』

『返しがうますぎる』

『治安良』

『王子〜〜』

『好き』


 学校で女子に彼女いる?と聞かれた時とは、同じ質問でもまるで違う。こちらでは、自分のペースで空気を制御できる。変に狼狽えなくて済むし、笑いに変える余裕もある。


 湊人は改めて思った。


 やっぱり、自分はこっちの方がずっと楽なのだ。


 でも同時に、ここでの自分が知られたら、学校での“普通”は完全に終わる。


 だから隠すしかない。


 配信は一時間半ほどで終わった。最後に「今夜もありがとうございました。あたたかくして休んでくださいね」と締め、マイクを切る。


 静寂が戻る。


 その静けさの中で、湊人は椅子にもたれた。配信の心地よい疲労感と、昼間から引きずっている学校での気疲れが混ざり合っている。


「……今日もなんとかなった、かな」


 画面には、まだ余韻のようにコメントの残像が見えていた。


『今日も王子だった』

『癒やしありがとう』

『明日も頑張れる』

『最強』

『今日も王子』


 王子、王子、王子。


 教室でひそひそ言われたそれとは違う意味を持ちながら、同じ単語が画面に並んでいるのが少しだけおかしかった。


 PCを閉じる前に、湊人はふと昼間のことを思い出した。


 購買前での真白の呆れ顔。たまごサンドを渡された時の、半ば面倒見の良い態度。落ちたバッグを拾った時に向けられた、あの妙な視線。


「……柊坂さん、だったか」


 あの子は、少し鋭い。


 単に口が悪いだけではない。人の違和感を、ちゃんと見ている目だった。


 面倒な相手になりそうだ、と思う。けれど不思議と、嫌な感じはしなかった。


 一方その頃、真白は自室で鞄を机に置き、制服のリボンを緩めながら、昼のことを思い返していた。


「なんなのよ、あいつ……」


 転校生、久瀬湊人。


 見た目は地味だ。派手さもないし、いかにも目立ちたくありませんという顔をしている。喋り方も静かで、別に押しが強いわけでもない。


 なのに、どうにも気になる。


 変なのだ。


 礼の仕方。ものの渡し方。立ち姿。急いでいないのに乱れない所作。誰かの邪魔にならないように立つ癖。バッグを拾って差し出す、あの自然な角度。


 たぶん多くの人は、そこまで気にしない。


 けれど真白は、そういう小さな違和感が妙に目につくタイプだった。家庭の事情で、上っ面だけ整えた人間も、逆に礼儀がまるでなっていない人間も、嫌というほど見てきた。


 だからこそ分かる。


 あれは“いい格好をしようとしている”人の動きではない。

 もっと、ずっと深いところに染みついた何かだ。


「……地味なくせに」


 ぽつりと呟く。


 地味なくせに、変に目につく。


 大人しそうなくせに、妙に堂々として見える瞬間がある。


 弱そうなくせに、何かを隠しているみたいで腹が立つ。


 真白はベッドに座り込み、手元のスマホをいじった。通知がいくつか来ていたが、適当に流す。何気なく動画アプリを開くと、おすすめ欄の上位に人気VTuberの切り抜きが出てきた。


 タイトルにはこうある。


『天瀬アルト、今日もやんわり神回避』


「またこの人」


 名前だけは知っていた。学校の女子の間でも、たまに話題になるくらいには有名だ。綺麗な声で、落ち着いていて、優しくて、でも返しが上手い。いわゆる“王子様系”の人気VTuberらしい。


 真白はなんとなくタップした。


 動画の中で、顔の見えないその配信者は、少し困ったように笑いながらコメントをかわしていた。


『先輩、それを今ここで言うと誤解が増えてしまいますから』

『嬉しいですけど、皆さんの前では穏便にいきましょう』


 柔らかい。耳触りがいい。たしかに人気が出そうな声だ。


「ふうん」


 そこまで興味があるわけではない。でも、なぜか少しだけ引っかかった。


 今日の転校生も、似たように“柔らかくかわす”空気を持っていた気がしたからだ。


 ――いや、まさかね。


 真白はスマホを伏せ、ため息をついた。


「……ほんと、変」


 同じ頃、別の部屋で、湊人は配信後のログを確認しながら、明日の学校のことを考えていた。


 今日だけだと思いたい。初日だから目立っただけ。明日からはもっと上手くやれるはずだ。もっと普通に、もっと地味に。


 そう思っているのに、脳裏に浮かぶのは、真白のまっすぐな視線だった。


 たぶんあの子は、また何か言ってくる。


 そして自分は、きっとまた上手く普通を演じきれない。


 窓の外では、春の夜風が静かに街を撫でていた。


 学校では地味でいたい。

 配信では人気者でいなければならない。

 そのうえ、まだ誰にも見せられない秘密まである。


 そんなややこしい日常の始まりが、どうやら今日だったらしい。


 そしてその夜もまた、コメント欄の向こうでは、何も知らない無数の視聴者たちが楽しげに言っている。


『今日も王子』

『やっぱりアルトくん最高』

『こんな人、現実にいないでしょ』


 ――いや、いるんだけど。


 そう心の中でだけ返して、湊人は苦笑した。


 明日も、普通でいる努力をしよう。

 たぶん、あまり上手くはできないだろうけれど。

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