表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
欲望の教科書 肉蒲団 ―史上最も過激な仏教的自己啓発書―  作者: 光闇居士


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/23

第二面:老いたる頭陀、皮袋を空しく背負い 若き居士、肉の蒲団に座を占める

挿絵(By みてみん)

『秋庵問答図』

秋庵の室、水墨に映ゆ。

孤峰、静臥し、未央生、問う。

色即是空、空即是色、

薄明の夢、葉舞い散るが如し。


【しおの】


序章:孤峰長老の三つの戒め

時は元朝の至和年間。浙江省の括蒼山中に、一人の修行僧が庵を結んでいた。法名を正一、道号を孤峰という。

彼とて、もとは処州の学問所では名の知れた秀才であった。されど、生まれながらに仏縁が深かったものか、まだ襁褓にあるうちから、抱かれながらも「あー、うー」と、あたかも学徒が経文をそらんずるかのような、意味の知れぬ声を上げていたという。両親はその謂れを解しかねていたが、ある日、托鉢に訪れた僧が、母の腕に抱かれる赤子の、泣くでもなく笑うでもないその様を見、その声に耳を澄ました。やがて僧は深く頷き、「このお子は『楞厳大蔵真経』を唱えておられる。まさしく高僧の再来でございます」と述べ、弟子に迎えたいと懇願した。しかし両親は、それを取り合わず、いかがわしい戯言として退けた。

やがて成長し書を教えれば、一度目を通すだけで暗誦してしまうほどの才気煥発ぶりであった。だが、彼は立身出世を望まず、幾度となく儒学を捨て仏門に入らんとし、そのたびに両親から厳しく罰せられ、俗世に引き留められた。致し方なく科挙の道に進み、若くして秀才の呼び声も高く、その後も抜きん出た成績を修めたのであった。

両親が相次いで世を去り、二年の喪が明けると、彼は万金にも及ぶ家財のすべてを親族に分け与え、自らは大きな革袋を一つ縫い上げた。その中に木魚や経典を収めると、髪を落として山深くへと分け入り、ひたすら修行の道に入った。事情を知る者は彼を孤峰長老と敬い、知らぬ者はただ、その風体から「皮袋和尚」と呼んだ。

この孤峰和尚は、他の僧とは一線を画していた。酒肉や淫事を厳しく戒めるは当然のこと、僧侶としてのあるべき姿についても、自らに三つの戒めを課していたのである。

その三戒とは、第一に「縁を募らず」、第二に「経を講ぜず」、第三に「名山に住まわず」というものであった。

ある人が、なぜ寄進を募らないのかと問うた。すると和尚は静かに答えた。

「仏道修行の門は、すべからく苦行より入るべきもの。筋骨を労し、五体を飢えさせ、飢えと寒さの不安が常に身に迫るようでなければなりません。その不安があればこそ、淫欲の念は生じようもなく、穢れは去り、清浄の心が訪れる。これを久しく続ければ、おのずと仏心に至りましょう。もし、耕さずして食らい、織らずしてまとい、ただただ施主の供養に頼るならば、満腹になればそぞろ歩きを好み、身が温まれば安逸な眠りを貪るようになります。そぞろ歩きは見るべきでないものを見、安逸な眠りは妄想を招く。仏の道が成らぬばかりか、地獄に落ちる様々な行いが、求めずとも向こうからやってくる。ゆえに私は、自らの力で生き、縁を募らぬことを戒めとするのです」

またある人が、なぜ経を講じないのかと問うた。

「経典の言葉は、仏や菩薩が説かれたもの。仏や菩薩にあらざれば、その真意を解き明かすことなどできはしない。それ以外の俗人が経を説くは、あたかも痴れ者が夢を語るに等しい。古の陶淵明は、書を読んでその意味を深くは求めなかったと申します。漢土の人が漢土の書を読んでさえそうなのです。ましてや、我ら漢土の者が、天竺の書を読み、それを軽々に解釈しようなど、なおさらのこと。私は、仏や菩薩の功臣になろうとは思いませぬ。ただ、仏や菩薩の罪人となることだけは避けたい。この浅智ゆえに、愚直を守り、経を講じぬことを戒めとしているのです」

さらに、なぜ名だたる山に住まないのかと問うた。

「修行の身は、見るべきでないものを見ず、心を乱されぬようにせねばなりません。人の心を惑わす欲望の種は、なにも美しい声や姿、財や利だけではない。肌に心地よい清風、心を慰める皎々たる月、耳を楽しませる鳥のさえずり、舌を喜ばせる山の幸に至るまで、愛おしく、恋しく思うものすべてが、欲望の的となりうるのです。名の知れた景勝の地に住まえば、山川の精霊は詩心を誘い、月白き風は座禅の妨げとなりましょう。ゆえに、名山で書を読む者は学業が成らず、名山で道を修める者は名声への執着を断ち難い。まして、どこの名山に、線香を供えに来るご婦人や、寄進に来る役人がおらぬでしょうか。月明かりの柳の陰で過ちが起きるは、古くからの戒めでございます。私が名刹を捨て、この荒山に住むは、ただひたすらに、耳目から欲望の種を遠ざけたいという一心からに他なりません」

問いを発した者は、その言葉に深く感服し、古の高僧すら及ばぬ見識であると称賛した。

この三戒を己に課したゆえに、彼は名声を求めずとも、その名は日増しに高まっていった。遠近を問わず、彼の徳を慕い、弟子入りを願う者は後を絶たなかったが、和尚は決して容易に人を受け入れなかった。真に仏縁深く、俗世への未練が塵ほども無いと見定めた者だけを、弟子として剃髪を許した。わずかでも疑念があれば、固く入門を拒んだ。それゆえ、出家して長きにわたるが弟子は数えるほどしかおらず、谷川のほとりに粗末な茅葺きの庵を建て、自ら土を耕して食を得、岩清水を飲んで静かに暮らしていた。


未央生の来訪

ある日のこと。秋風が蕭条と吹き渡り、木々の葉は舞い落ち、虫の音が寂寥を誘う頃であった。和尚は早暁に起き、門前の落ち葉を掃き清め、仏前の水を替えると、静かに香をたき、蒲団を下ろして中堂で座禅を組み始めた。

その静寂を破るように、一人の若き書生が、二人の供を連れて庵へと入ってきた。

その書生の佇まいは、魂は秋水のごとく澄み、立ち姿は春の雲のように優美であった。ただ、その双眸は、常人とは異なり、一際妖しい光と輝きを放っている。それはおそらく、人を正面から見据えることを好まず、横目で流し見るような、そんなまなざしのせいであろう。他のことには役に立たぬが、こと女性の姿を盗み見ることにかけては、比類なき働きをする目であった。

彼は、女性に近づく必要すらない。たとえ数十丈離れていようとも、ただ一瞥をくれるだけで、その女性が美しいか否かを見分けることができた。そして美しき人に行き会うと、すかさず目線で誘いの火を送る。もし相手が貞淑な気性の婦女子であれば、うつむいて通り過ぎ、彼の視線は空を切るだけであろう。しかし、もしその女性が彼と同じ気性の持ち主であれば、こちらが視線を送れば、向こうからも視線が返り、まなざしだけで艶書を交わし、断ち切れぬ縁を結ぶことになる。

ゆえに、男であれ女であれ、このような目を持って生まれることは、良からぬ兆しと言えよう。名誉を失い、操を破るは、すべてこれに起因するのである。読者諸賢の中に、もしこれに類する目をお持ちの方がおられれば、くれぐれも慎まれよ。

さて、この書生は庵に入ると、仏前に四度、和尚にも四度、深く拝礼し、傍らにすっと立った。和尚は深い瞑想に入っていたため、すぐには応じられず、やがて静かに禅定を解いてから蒲団を降り、同じく深く四度の返礼をなした。

席が定まると、和尚は彼の名を尋ねた。書生は答えた。「それがしは遠方より参りました。蘇州、浙江のあたりを旅しております者で、未央生と申します。師父が一代の高僧、現世の生き仏とのお噂を耳にし、身を清めて罷り越し、ご高説を拝聴したく願った次第でございます」

和尚が姓名を問うたにもかかわらず、彼が本名を名乗らず別号を語ったのはなぜか。読者諸賢にご理解いただきたい。元朝の頃は士人の気風も独特で、知識人たちは本名を明かすことを好まず、互いを別号で呼び合うのが常であった。ゆえに、士人には皆、表徳と呼ばれる号があり、「某生」「某子」「某道人」などと称した。おおむね、若者は「生」、中年は「子」、老境の者は「道人」と名乗った。その号の文字にもそれぞれ意味があり、あるいは情の注ぐところ、あるいは性に近しきところから二字を選んで名付け、自らが得心すればよく、他人に知られる必要はなかったのである。

この書生は、もとより色事を耽溺する性分で、昼を好まず夜を愛し、夜も更ける頃よりは宵の口を好んだ。彼は『詩経』に「夜未だ央ばならず(夜はまだ半ば)」という一句があるのを見つけ、その一部を己がものとし、自らを「未央生」と名付けたのであった。


禅と妄念の対話

その時、和尚は未央生が自分を過度に称賛するのを聞き、恐縮して謙譲の言葉を返した。折しも、土釜で炊いた粥が湯気を立てていたので、和尚は彼を呼び止め、共に朝餉を囲んだ。

二人は向かい合って禅の問答を交わしたが、交わす言葉も、互いの才気が火花を散らすかのようであった。未央生は天性聡明な質で、儒教、仏教、道教をはじめとする三教九流の書物にことごとく通じていた。禅の問答においても、常人ならば千言万語を尽くしても悟れぬところを、彼は和尚がひと言を発するだけで、その奥義をことごとく理解した。

和尚は心のうちで密かに思った。――なんという才気に満ちた若者であろうか。だが、天は何ゆえ、このような器を彼に与えたもうたのか。仏道を学ぶ心を宿すその胸に、どうして罪を招く相貌をお授けになったのか。彼の立ち居振る舞いから察するに、まごうことなき天性の色好み。もし彼をわが法力のうちに収めなければ、いずれ必ず、壁に穴を穿ち、垣根を乗り越えるような、人の道に外れた行いに走り、婦女子の貞節を汚す災いを引き起こすに違いない。そうなれば、この天地の間で、どれほどの婦人が彼の毒牙にかかることであろうか。今日、このように道理に背く者を見て、人々を災禍から救わねば、それこそ慈悲の道に背く行いではないか。

そこで和尚は、未央生に向かって口を開いた。「拙僧が出家してより、多くの人々を見てまいりました。善を求めぬ愚かな男女は言うに及ばず、禅を学びに参る学者や、説法を聴きに来られる高官でさえ、そのほとんどが門外漢で、真に禅の機微を悟れる者は稀でございます。誰が思いましょう、居士ほど聡明な方がおられようとは。このまま禅の道を進まれれば、数年にして三昧の境地に達することも夢ではございません。

人がこの世に生を受け、得やすいのは肉体ですが、得難いのは天賦の才。過ぎ去りやすいのは時ですが、乗り越えがたいのは定められた劫罰でございます。居士は仏となるべき資質をお持ちなのですから、修羅の道へお進みになってはなりませぬ。どうか、その若き活力が尽きぬうちに、愛欲の絆を断ち切り、仏門にお入りなされ。拙僧は俗骨の凡僧ではございますが、他山の石として、居士の助けとなることもできましょう。もしこの大いなる願いを起こし、この大いなる因果に身を投じるならば、百年後には、僧伽の列にその名を連ね、羅刹の裁きを受けることもないでしょう。居士、これについていかがお考えかな」

未央生は答えた。「それがしも、仏門に入る心は久しく持ち合わせております。いずれは必ず、この法門に帰依いたしましょう。ただ、それがしにはまだ二つの願いが果たせておらず、すぐには俗世を離れがたい事情がございます。まだ若輩の身、一度俗世に戻りて二つの用向きを済ませ、数年の楽しみを味わった後、その時に髪を落とし、仏に帰依しても遅くはないと考えております」

和尚は尋ねた。「居士の二つの願いとは、いかなるものでしょうか。まさか、朝廷に名を馳せて学問の恩に報い、異国の地で功績を立てて朝廷の恩に報いるという、その二つではありますまいな」

未央生は、静かに首を横に振った。「それがしの願いは、その二つにはあらず」

「その二つでなければ、一体どのような願いなのですか」

「それがしの願いは、自らの力で成し遂げられることであり、決して妄想ではございません。師父には何も隠し立てはいたしますまい。それがしの読書の記憶力、道を悟る力、文章を綴る筆力は、いずれも当代随一と自負しております。昨今の名士など、ただ書を暗記し、他人の文章を継ぎ接ぎして数編の作をなし、一冊の詩文集を世に出しただけで、文壇に名を成そうとしておりますが、それがしに言わせれば、それはまがい物に過ぎませぬ。真の名士たるもの、天下のあらゆる書物を読破し、天下のあらゆる奇人傑士と交わり、天下のあらゆる名山を踏破した後に、静かに書斎にこもり、後世に残る著作を成すべきでございます。幸いにして科挙に合格すれば、朝廷のために尽くすもよし。万が一、文運に恵まれず、貧窮のうちに老いたとしても、千古に名を残す人物となることは疑いありませぬ。ゆえに、それがしの胸中には、密かに二つの願いがございます。一つは、この世で一番の才子となること……」

「それが一つ目の願いですな」と和尚は頷いた。「では、二つ目は」

未央生は口を開きかけたが、また言葉を飲み込み、何やら言い出しにくそうな様子を見せた。

和尚は静かに言った。「居士が言い渋るのであれば、拙僧が代わりに申しましょう」

「それがしの胸の内など、師父にお分かりになるはずもございません」

「もし拙僧の言葉が外れたならば、いかような罰でも受けましょう。ただし、もし言い当てたならば、居士、しらを切って否定なさいますな」

「師父が言い当てられたならば、それはもう菩薩にあらずんば神仙。どうして偽りを申せましょうか」

和尚は少しも慌てず、静かに言った。

「それは、天下で一番の佳人を娶ることでしょうな」

未央生はこれを聞き、驚きに目を見開き、言葉を失った。しばらくして、ようやく口を開いた。

「師父は、まこと常人ならざるお方。この二つの願いは、それがしが一日も忘れず心に念じていること。まるで傍らで聞いておられたかのように、ひと言で言い当てられるとは」

和尚は言った。「人の密やかなる声も、天には雷鳴のごとく響くと申します」

「理を申せば、情欲にまつわる言葉は師父に申し上げるべきではございません。しかし、師父がすでに見抜かれた以上、もはや隠し立てはいたしますまい。それがしの仏道への心はまだ浅く、欲望の念はいまだ深いのです。古より『佳人』と『才子』の縁は分かちがたいもの。才子あれば必ず佳人が寄り添い、佳人あれば必ず才子が夫となるべきもの。それがしの才はさておき、この容貌も人並み以上と自負しております。時折、鏡に向かえば、かの潘安や衛介が今に蘇ったとしても、一歩も引けはとりますまい。天が私を才子としてこの世に生み出した以上、どうして私にふさわしい佳人を生み出さぬことがありましょうか。今、この世に佳人がおらぬならそれまで。しかし、もしいるのであれば、その佳人を求めるは、この私をおいて他にございますまい。ゆえに、それがしは二十歳を過ぎても、いまだ妻を娶っておりませぬ。自らの才と美貌を、疎かにしたくないからでございます。まずは佳人を見つけ、夫婦の契りを結び、一子をもうけて家を継がせる。その時こそ、我が願いは成就し、もはや他に望むものはございません。そうなれば、自らが仏道に帰依するばかりか、妻にも勧め、共に極楽浄土を目指したいと存じます。師父は、これについていかがお考えでございましょうか」


肉の蒲団と地獄への道

和尚はこれを聞き、冷ややかに微笑んだ。「なるほど、居士のお考えには一分の隙もございませぬな。ただ、人を創りたもうた天帝が、少しばかり手違いをなされたようです。もし居士に醜い姿を与えておられたなら、居士は曇りのない霊性を保ち、あるいは真の悟りを得られたやもしれぬ。古来、重い病に罹ったり、手足に不自由を負うた者が、天の罰を受けることでかえって仙人となることがあるのも、この理屈でございます。

居士がこのような類稀なる肉体をお授けになったのは、天帝が居士を甘やかしすぎたゆえでありましょう。それは親が子を慈しむのと同じ。幼き頃は、肌を傷つけまい、機嫌を損ねまいと、叩くことも叱ることもできぬ。しかし、その子が長じると、己が体と性情は天から授かり、親に育まれたものと驕り、好き勝手に悪事を働く。やがて罪を犯して官府の鞭を受け、朝廷の刑罰に遭って初めて、親が甘やかしすぎたせいだと悔いるのです。その類稀なる美しい肉体と、驕り高ぶる気性は、決して良い兆しではございません。

居士は、ご自身の容貌が一番の才子たる証しゆえ、一番の佳人を求めると申される。その佳人が得られるか否かはさておき、仮に一人を得たとして、その佳人の額に『一番』と記されているわけではありますまい。もし彼女を凌ぐ女性を見かけたなら、また心は移ろい、さらに良きものを求めるのではありますまいか。その佳人が、居士と同じく、容易に嫁がず一番の才子を待つような気性ならば、あるいは妾として迎えることもできましょう。しかし、万が一、その女性にすでに夫がいた場合、居士はどうなさるおつもりか。もし千方百計を尽くして願いを遂げようとなさるなら、地獄に堕ちる様々な行いが、そこから生まれることになりましょう。居士は、地獄に堕ちたいのですか、それとも天国へ昇りたいのですか。甘んじて地獄に堕ちるお覚悟なら、一番の佳人をお探しなさい。もし天国へ昇りたいと願うなら、その妄念を捨て、拙僧と共に出家なされ」

未央生は言った。「師父が『天国』だの『地獄』だのと説かれるのは、少々ありきたりに過ぎ、高僧のお言葉とは思えませぬ。禅の道理は、ただ自らが悟ることにございます。この身を、生まれもせず滅びもしない境地に置けば、それが仏。どうして本当に天国へ昇ることなどありましょう。たとえ、多少の風流な過ちを犯したとしても、それは儒教の教えを汚すだけで、どうして本当に地獄に堕ちることなどありましょうか」

和尚は静かに応じた。「『善を行えば天国へ、悪を行えば地獄へ』という言葉は、確かにありふれた決まり文句でございましょう。しかし、あなた方学者は、何事も型から抜け出そうとなさるが、我が身を修め、行いを正すことだけは、いささかも型から外れることはできぬのです。天国も地獄も、疑いようもなく存在する。たとえ天国がなかったとしても、天国を善へ向かうための階と見なさねばなりません。たとえ地獄がなかったとしても、地獄を悪を戒めるための楔と見なさねばなりません。あなたが決まり文句を厭うのであれば、未来の冥罰について語るのは止めましょう。しかし、現世の応報について語るのも、やはり決まり文句となりましょうな。古語に『我、人の妻を犯さずんば、人もまた我が妻を犯さず』とあります。この二句は、極めてありふれた決まり文句です。しかし、世の色好みのうち、この決まり文句から逃れ得た者は一人もおりませぬ。人の妻や娘を犯せば、己が妻や娘もまた人に犯される。もしこの決まり文句から逃れたいと願うなら、姦淫を止めるほか道はない。もし姦淫を行うつもりなら、この決まり文句の通りになることを免れはしない。居士は、この決まり文句から逃れたいのですか、それともその中へ入りたいのですか。もし入りたいのなら、一番の佳人をお探しなさい。もし逃れたいなら、その妄念を捨て、拙僧と共に出家なされ」

未央生は言った。「師父の仰ることは、いずれも理に適っております。ただ、愚かな者に法を説くには、情け容赦なく、彼らが恐れおののくほどでなければ、警戒心も生まれぬでしょう。しかし、我々のような者に道理を説くには、そこまで頑なである必要はないかと。天の定めは厳しいと申しますが、その執行は必ずしも厳格ではありますまい。姦淫の報いを受ける者が多いとはいえ、受けぬ者も少なくないはず。もし、家々を訪ねて姦淫を調べ、人の妻や娘を犯した者には、その妻や娘をもって償わせるというのであれば、天帝もまた、みだらな行いに加担していることになりましょう。結局のところ、因果応報の理というのは、人々を善導するための大いなる方便。どうしてそこまで頑なに固執なさるのですか」

和尚は言った。「居士の仰る通りならば、世の姦淫には報いのない場合もあると? いや、天の法は、決して人を見逃しはしないと拙僧は思います。あるいは居士が情に厚いがゆえに、見逃された例があると誤解しておられるのかもしれませぬ。拙僧が見る限り、人の妻や娘を犯して報いを受けなかった者は、古今一人としておりませぬ。書物や俗説で伝わる例は、数え切れぬほど多い。居士、よくお考えくだされ。人の妻や娘を犯すのは、得をしたことゆえ、人は喜んで他人に語ります。ゆえに、知る人が多い。己が妻や娘を人に犯されるのは、損をしたことゆえ、人は語りたがりませぬ。ゆえに、知る人が少ない。中には、妻が夫に隠し、娘が親に隠し、果ては当の本人さえも気づかぬ場合があり、それを見て、姦淫の報いなどないと申すのです。棺の蓋を閉じる時になって初めて、古人の言葉に偽りがなかったと信じるのですが、その時にはもう、その悟りを誰かに伝えることはできませぬ。

人の妻や娘を犯せば、その妻や娘をもって償うことになるばかりか、姦淫の念が動いたその瞬間に、その者の妻や娘の心も、知らず知らずのうちに、多くの過ちを犯しているのでございます。たとえば、己が妻の容貌が醜く、夜の交わりで十分な興奮を得られぬ時、心に昼間見かけた美しき女性を思い浮かべ、妻をその女性に見立てて、悦に入ることがある。その時、妻の心もまた、夫の醜さを厭い、心に昼間見かけた美しき男を思い浮かべ、夫をその男に見立てて、悦に入っていないと、どうして言えましょうか。このようなことは、誰の身にも起こりうること。それはたとえ貞節を損なわぬとしても、堅固なるべき操の心を傷つけている。これもまた、男の色好みに対する報いなのでございます。

心に念じただけでこの通り。ましてや、実際にその閨房に入り、その身を重ねたにもかかわらず、鬼神が見ず、天帝が怒らず、その妻や娘が貞淑でいられるはずがありましょうか。拙僧のこの言葉は、決して決まり文句ではございません。居士は、そうは思われませぬか」

未央生は言った。「師父の仰せは、まことに理の極み。ただ、もう一つお尋ねしたい。妻や娘を持つ者が人の妻や娘を犯せば、その妻や娘をもって償わせるという報いがある。しかし、もし妻も娘も持たぬ者が人の妻や娘を犯した場合、何を以て償いとすればよいのでございましょう。それでは、天の法も行われなくなってしまいましょう。もう一つ。一人の男が持つ妻や娘の数には限りがあるが、天下の女色は無限にございます。たとえば、自分には一、二人の妻妾と一、二人の娘しかおらぬのに、天下の無数の女性を犯した場合、たとえ妻や娘が不貞を働いたとしても、元手が少なく利息が多すぎることになる。天は、これをどう処罰なさるのでございましょうか」


菩薩の予言と肉の蒲団

和尚はこれを聞き、この若者が、いかに動かしがたい頑なな心の持ち主であるかを悟り、静かに彼に向かって言った。「居士の弁舌は鋭く、拙僧にはとてもかないませぬ。しかし、この種の道理は、口で説いても益なきこと。実際にその身で体験してこそ、初めて明らかになるものでございましょう。

居士よ、どうか、ご自身で佳人を娶られた後、その肉の蒲団の上から悟りを開いてごらんなさい。そうしてこそ、真の道は得られましょう。拙僧は、居士が凡俗を超越し、聖人の域に達する資質を持ちながら、それをみすみす見捨てるに忍びない。

万が一、居士が豁然と大悟なさった後には、必ずや再び拙僧を訪ね、仏門への道をご相談くだされ。拙僧は明日より、日な一日、目を見開いてお待ちしております」

そう言うと、和尚は一枚の紙を取り、筆を手にすると、五言四句の偈をさらさらと書き記した。

 願わくは 皮袋を抛ち

 去って肉の蒲団に坐せよ

 須らく生時の悔いに及ぶべし

 蓋棺の嗟きを休めよ

和尚は書き終えた偈を未央生に手渡し、言った。「私は無学な頭陀であり、遠慮を知りませぬ。この偈はあまりに激しい言葉ではございますが、ひとえに老婆心から出たもの。どうか居士、これをお持ちになり、後日の証しとしてくだされ」

そう言って立ち上がると、すでに見送ろうとする気配であった。未央生は、和尚に突き放されたことを悟り、また彼が高僧であることを思い、無礼に立ち去ることもできず、深々と頭を下げて詫びた。「それがしの天性は愚かで頑固なため、ご高説を受け入れることができませぬ。師父の広大なるお心にて、どうかお許しくだされ。後日、必ずや再び参りますので、その折にはお見捨てなきよう、お願い申し上げます」

そう言うと、彼は再び四度拝礼した。和尚もまた同じく礼を返し、彼を門前まで送って、静かに別れた。

孤峰和尚の物語は、ここで一旦幕を閉じる。この後は、未央生が女色に迷う話が続くため、しばらく孤峰長老の姿は語られない。彼の結末が明かされるのは、物語の最終回においてである。


作者曰く:

未央生はこの物語の正しき主人公であり、孤峰は脇役である。他の作者が筆を執れば、必ずや未央生から物語を始め、孤峰を通りすがりの人物として描くだろう。しかし、この作者はあえて孤峰の来歴を詳細に語り、読者に「この高僧が後になって堕落するのではないか」とさえ思わせるが、決してそうはならない。座禅の場面に至って初めてその真意が明かされ、主役と脇役の境界を曖昧にする。これは、これまでの小説には見られなかった新たな試みであり、作者が古い型を打ち破った妙技と言えよう。他の者がこの手法を用いれば、主題は混乱し、筋道は乱れ、読者は誰が主役かを見失うだろう。しかし、この作品は主題が明確であり、読者は物語の本質に触れるまで、すべてを理解することができる。そして最後に数行を加えて、再び物語の道筋を示し、読者を迷わせないように配慮しているのは、まさしく老練な作者の筆致である。

第二回の要約

【登場人物】

孤峰和尚こほうおしょう: 超ストイックな修行僧。悟りのプロ。

未央生みおうせい: 天才でイケメンだけど、自信過剰で女好きなエリート青年。

【あらすじ】

山奥でガチな修行をしている孤峰和尚のもとに、若くてイケメンの天才エリート、未央生が訪ねてきます。二人は哲学的な話で意気投合。和尚は未央生の才能に感心しつつも、「この男は才能がある分、女好きの相が出まくっている。放置すれば世の女性たちを不幸にするだろう」と見抜きます。

そこで和尚は「君ほどの才能があるなら、俗世を捨てて今すぐ出家しなさい。悟りを開けるよ」とスカウトします。

しかし、未央生は丁重に断ります。彼には二つの壮大な野望がありました。

1.この世で一番の才子(天才文化人)になること。

2.天下で一番の美女と結婚すること。

「この二つを達成して、人生を味わい尽くしてから出家しても遅くはないでしょう?」と彼は主張します。

それを聞いた和尚は、冷静に、しかし厳しく警告します。

「その考えは危険だ。君のその類まれな才能と美貌は、君を甘やかすための天の罠かもしれない。一番の美女を探す過程で、もし人妻に手を出せばどうする?『他人の奥さんを寝取れば、自分の奥さんも寝取られる』というカルマの法則からは、誰も逃れられない。欲望の道は、必ず地獄に通じている」

しかし、未央生は「カルマなんて、昔ながらの脅し文句でしょう? 俺みたいな人間には当てはまらない」と、知性で論破しようとします。

言葉では彼を救えないと悟った和尚は、最後にこう告げます。

「分かった。ならば、その道を行きなさい。俗世の快楽という『肉の蒲団(女性の肉体)』に座って、そこから悟りを開いてみなさい。しかし、生きているうちに後悔することになるだろう。本当に困ったら、またここへ来なさい」

そう言って、和尚は「生きているうちに悔い改めよ。死んでからでは遅い」という意味の予言めいた詩を未央生に渡し、彼を見送るのでした。

________________________________________

時代と文化が示すメッセージの解読

この文学作品は、単なる好色文学(エロティックな物語)ではなく、その背後に深い哲学的、宗教的なメッセージが込められています。


1. 時代背景:価値観が揺らぐ乱世

この物語が書かれたのは17世紀、中国の明王朝が滅び、清王朝が興った激動の時代です。長年続いた王朝が崩壊する中で、それまでの伝統的な儒教道徳や社会秩序が揺らぎ、人々の間では「本当に信じられるものは何か?」という問いが生まれていました。このような混乱期には、個人の欲望を肯定するような思想や、刹那的な快楽を求める風潮が強まる傾向があります。未央生というキャラクターは、まさにこの時代の空気を体現した存在です。


2. 欲望の徹底追求とその果て

作者が示したかった最大のテーマは「人間の欲望を、才能ある者が知恵の限りを尽くして追求したら、一体どうなるのか?」という壮大な社会実験です。未央生は金も、才能も、美貌もすべて持っています。彼はそのすべてを武器に「快楽の頂点」を目指しますが、物語が進むにつれて、彼が得たものはさらなる渇望と苦しみ、そして悲劇的な結末であることが描かれていきます。これは仏教の「諸行無常」「一切皆苦」という根本思想を、極めてエンターテイメント性の高い物語に落とし込んだものです。


3. 仏教的因果応報のエンターテイメント化

孤峰和尚が説く「因果応報(カルマの法則)」は、仏教の基本的な教えです。しかし、作者はそれを堅苦しい説教としてではなく、「読者がハラハラドキドキしながら体感できるジェットコースターのような物語」として提示しました。特に「人の妻を犯せば、自分の妻も犯される」という警告は、後の物語で文字通り、そして皮肉な形で実現します。読者は未央生の破天荒な冒険を楽しみながらも、目に見えない「カルマの法則」が確実に作動していることに気づかされ、最終的にその恐ろしさを学ぶことになるのです。


4. 「肉の蒲団」というタイトルの意味

このタイトル自体が、作品の核心を突いています。「蒲団」とは、本来僧侶が座禅を組み、悟りを目指すための道具です。しかし、それに「肉」という一文字が付くことで、「女性の肉体(=性的快楽)を悟りのための修行の場とする」という逆説的な意味が生まれます。

これは、

表面的には: 快楽に溺れることへの皮肉。

深層的には: 人間は、欲望の世界にどっぷりと浸かり、その苦しみと虚しさを骨の髄まで味わい尽くさなければ、本当の意味で悟り(=欲望からの解放)を得ることはできないのではないか、というラディカルな問いかけでもあります。


5. 知識人階級への皮肉と警鐘

主人公の未央生は、ただの遊び人ではなく「秀才(エリート知識人)」です。彼はその知識や弁舌の才能を、世を良くするためではなく、自分の欲望を正当化し、女性を口説くために使います。これは、当時の知識人階級(士大夫)が、口では立派な儒教道徳を説きながら、裏では私利私欲に走っていたことへの痛烈な皮肉です。「頭でっかちの理屈だけでは、人間は救われない。痛い目に遭って、体で学ばなければ真理は分からないのだ」という、作者からの厳しいメッセージが込められています。


この回は、人間の赤裸々な欲望を徹底的に描き出すことで、逆にその欲望の虚しさと、仏教的な救済の必要性を読者に強く印象付ける、という非常に高度な構造を持った文学なのです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ