第十三面:執念の刃、鉄扉の内へ
愛妻・艶芳をその手に売り渡してより、絹商人の権老実が、燃え盛る憤怒と消えぬ恨みを抱えて世間から姿を消すまでに、さほどの刻はかからなかった。商いの暖簾を静かに下ろした彼は、陽の光も届かぬほどに閉ざされた家の奥で、ただ独り、屈辱の記憶を反芻する日々を送っていた。
ある日、彼はまだ十二歳の小女を眼前に据え、氷のように冷たい声で真実を問い質した。
「奥様と、あの長身の男との仲はいつからだ。誰が間を取り持った」
女主人の苛烈な仕置きを恐れて固く口を閉ざしていた小女も、もはや艶芳が二度とこの家に戻らぬと悟ると、堰を切ったようにすべてを語り始めた。いつ、どのようにして密会が重ねられていたか。向かいの家の女が、いかにして閨を共にしていたか。そして、何よりも衝撃的であったのは、艶芳の肌に実際に触れたのはあの無骨な大男ではなく、優雅で顔立ちの美しい若者であったという事実。大男は、その逢瀬を手引きするための駒に過ぎなかったのだと。
次々と明かされる背信の数々に、権老実の全身は激しい怒りでわなないた。やがて、艶芳が未央生という男の側室に収まったとの噂が風の便りに届くと、彼は執念深くその素性を洗い上げた。未央生はこの土地の者ではなく、故郷には正妻がいるらしい。
権老実は、暗い思考の海に深く沈んだ。
……もし相手が、あの神出鬼没の怪盗『賽崑崙』本人であったなら、この復讐は来世に持ち越すほかなかったろう。だが、実際に妻を寝取ったのが、ただの色好みの若造であったならば話は違う。この身を焦がす恨み、晴らさずにいられようか。役所に訴え出たところで、背後には賽崑崙がいるのだ。金で役人を買収されれば、惨めな思いをするのはこちらに決まっている。
……ならば。
彼の心に、ひとつの毒々しい計略が芽生えた。
奴の故郷へ乗り込み、いかなる手を使ってもその奥座敷に忍び込み、奴の正妻を我がものとする。奴が私の妻を奪ったように、私もまた奴の妻を奪うのだ。命を奪うよりも深く、永続的な屈辱を。それこそが、この胸を蝕む怨念に報いる唯一の道なのだ。
決意は、鋼のように固まった。権老実は、幼い小女から家財道具の一切に至るまでを売り払い、そのすべてを旅の資金に変えると、二度と戻らぬ覚悟で故郷の土に別れを告げた。
数日後、未央生の故郷に辿り着いた権老実は、宿に身を落ち着けるや、翌日からすぐさま彼の屋敷の周辺を探り始めた。しかし、現実は彼の想像をはるかに超えて困難であった。商人の家とは違い、由緒ある家柄や学者の家門というものは、比べ物にならぬほどに固く閉ざされている。血縁者か、よほど親しい友人でなければ、門をくぐることすら叶わない。とりわけ未央生の家、すなわち彼の舅である鉄扉道人の屋敷は、その名の通り「鉄の扉」を閉ざしたかのような厳格さで知れ渡っていた。
だが、権老実はひるまなかった。
「千里の道を越えてここまで来たのだ。いまさら『鉄扉』の二文字に怖じ気づいてなるものか」
彼は屋敷の周りを何度も歩き、侵入の糸口を探った。屋敷はぽつんと孤立しており、近くに身を寄せられるような貸家一軒すらない。途方に暮れ、天を仰ぎかけたその時、屋敷の傍らに立つ大樹に括り付けられた一枚の木札が、まるで彼を誘うかのように目に飛び込んできた。
『荒園招墾、初種免租』
――荒れ地を耕す者を求める。初年度の小作料は問わぬ。
これだ、と権老実は心の中で膝を打った。小作人としてこの地に根を下ろせば、屋敷の内情を探る好機が訪れるに違いない。
近所で聞き込みをすると、主の鉄扉道人は大変な偏屈者で、小作料は相場より高く、食事も与えず、屋敷の雑用まで無償で言いつけるため、誰も長続きしないとのことだった。
権老実は、人の不幸を己の幸運として、ほくそ笑んだ。
(他人が嫌うほどの悪条件、私にとっては願ってもないこと。金も食事も要らぬ。ただ、あの門の内側に入るきっかけさえあれば。いずれ婿の未央生が戻ってきた時のために、顔を知られぬよう、名も変えてしまおう)
彼は自らを「来遂心」と名乗ることにした。この地に来たりて、心を遂げる。復讐の成就をその名に込めたのである。
翌日、権老実は門前で主人が現れるのを辛抱強く待ち続けた。やがて姿を見せたのは、いかにも厳格そうな顔つきの老人、鉄扉道人その人であった。権老実は深々と頭を下げ、荒れ地の開墾を申し出た。
「私は、もとより骨身を惜しまぬ働きには慣れております。住む家も結構です。自分で粗末な小屋でも建てて寝泊まりいたしますゆえ、どうかお使いください」
道人は、権老実のがっしりとした体つきを一瞥し、これならば荒れ地の開墾のみならず、屋敷の力仕事も任せられるだろうと判断し、彼の申し出を受け入れた。
権老実は、屋敷のすぐ傍らに草庵を結ぶと、夜が明ける前から日が暮れるまで、一心不乱に土を耕した。主の道人が床を離れるよりも早くから働き始め、屋敷の雑用を頼まれれば、手間賃ひとつ要求せず、食事の誘いさえも固辞して、ただ黙々と務めに励んだ。
道人の娘、すなわち未央生の妻である玉香は、どれほどの醜女かと恐る恐るその姿を窺えば、彼の予想は心地よく裏切られた。そこにいたのは、息を呑むほどの美貌の持ち主であった。
(これほどの妻を故郷に残しながら、なお他人の妻を求めるのか……。断じて許すことはできぬ)
憎悪が、新たにどす黒い嫉妬の色を帯びて、彼の胸中で渦を巻いた。権老実は、その牙を剥きたい衝動を理性で押し殺し、ひたすらに「誠実で無口な男」を演じ続けた。玉香の前を通り過ぎる時でさえ、深く頭を垂れ、声ひとつ立てず、目を合わせようともしなかった。
数ヶ月が過ぎる頃には、鉄扉道人はこの勤勉な男の働きぶりにすっかり感銘を受け、彼を正式な下男として召し抱えようと考え始めていた。
(この男は身寄りもない独り者だ。いつかふらりと姿を消してしまうやもしれぬ。屋敷の下女を妻として与え、家族という名の枷をはめれば、生涯、我が家に忠義を尽くすことだろう)
道人は権老実を呼び、その考えを打ち明けた。
「そなたの忠勤ぶりには感服しておる。どうだ、正式にわしに仕える気はないか。身代金はこちらで払い、家の下女を娶らせてやろう」
権老実は、身に余る光栄です、と恭しく応じながらも、さらに計算高く無欲を装った。
「旦那様、お言葉だけで十分でございます。身代金などとんでもない。妻を娶ることなどもってのほか。今はただ、旦那様のために身を粉にして働くことこそが私の望み。いずれ年老いて、力が衰えた頃にお情けをいただければ、それで満足でございます」
この謙虚な言葉に、道人はますます彼への信頼を深めた。
「これほどの忠義者は、またとあるまい」
道人はその日のうちに証文を取り交わし、権老実に下女を娶らせることを決めた。そして、屋敷の外の草庵を取り壊させ、彼を屋敷の中に住まわせることにしたのである。
当初、道人は彼のことを「来遂心」と呼んでいたが、やがて親しみを込めて姓を省き、ただ「遂心」と呼ぶようになった。そして、彼にあてがわれた妻の名は「如意」。
復讐の機会は、今や完全に彼の手中にあった。
妻の名が如意ならば、夫の名は遂心。「意の如く、願いは遂げられる」。
あたかも、これから起こるであろう悲劇を予言するかのように、二つの名が、鉄扉の屋敷に不吉な響きをもたらし始めていた。
第十三回の解説:執念という名の毒、静かに根を張る時
この回は、物語が新たな局面へと大きく舵を切る、極めて重要な転換点です。前半の主人公・未央生の放蕩な冒険譚から一転、物語の視点は彼の行いによって人生を破壊された男、絹商人・権老実に移ります。静かな筆致の中に、人間の執念の恐ろしさと、運命の皮肉が緻密に描かれた、文学性の高い一章と言えるでしょう。
1. 簡潔なあらすじ(要約)
愛妻・艶芳を未央生に寝取られ、売り払う羽目になった絹商人の権老実は、世間体を捨てて復讐の鬼と化す。彼は、直接未央生を殺すのではなく、彼の故郷にいる正妻を犯すことで同じ屈辱を与えようと決意。財産をすべて売り払い、故郷を捨てて未央生の舅・鉄扉道人の屋敷へと向かう。
「来遂心」と偽名を名乗った権老実は、小作人を装って屋敷の近くに住み着き、その異常なまでの勤勉さと忠誠心で、偏屈な主人・鉄扉道人の信頼を少しずつ勝ち取っていく。最終的に、道人は彼を屋敷に縛り付けるため、下女を娶らせて正式な下男として迎え入れる。それは、権老実の復讐計画が、完璧な形で完成に近づいた瞬間であった。
2. 各場面を淡々と叙述
この回は、いくつかの印象的な場面の連なりによって、読者の心を静かに、しかし確実に引き込みます。
第一の魅力:静かなる狂気の「復讐計画」
物語の冒頭、権老実の復讐計画は、単なる激情によるものではありません。「奴を殺すより、よほど胸がすくわい」という思考に、彼の商人らしい損得勘定と、屈辱に対する執拗なこだわりが表れています。物理的な死よりも、精神的な破滅を与えること。彼が選んだのは、最も残酷で、最も甘美な復讐の形でした。この冷静さと計画性こそが、彼の復讐者としての人格を深く印象付けます。
第二の魅力:「鉄扉」と「木札」の対比が生むサスペンス
未央生の舅の屋敷は、その名も「鉄扉」。これは物理的な堅牢さだけでなく、侵入者を拒む社会的な結界をも象徴しています。権老実の前に立ちはだかる、まさに絶望的な壁です。しかし、その傍らで偶然見つけた『荒園招墾』の木札。この一枚の木札が、鉄壁に穿たれた唯一の小さな穴となります。絶対的な障壁と、か細い希望の光という劇的な対比が、物語に強い緊張感とカタルシスを生み出しています。
第三の魅力:完璧な「仮面」と燃え上がる憎悪
権老実の真骨頂は、その徹底した演技力にあります。憎き相手の妻・玉香の類稀なる美貌を目の当たりにし、嫉妬と憎悪の炎が内側で燃え盛るのを抑え、彼は「誠実で無欲な労働者」という完璧な仮面を被り続けます。頭を下げ、視線も合わせず、ただ黙々と働く姿。その静かな行動の一つひとつが、復讐という最終目的に向かうための緻密な布石となっており、読者は彼の息詰まるような心理戦に引き込まれていきます。
第四の魅力:運命の皮肉が導く「不吉な結末」
この章の最も優れた点は、皮肉な運命の描き方です。鉄扉道人は、権老実という優秀な労働者を逃さぬよう、家族という「枷」を与えて屋敷に縛り付けようとします。しかし、その深謀遠慮こそが、結果的に復讐者の潜入を完璧に手助けし、最も安全なはずの城内に、最も危険な毒を招き入れることになるのです。そして、与えられた妻の名が「如意(意の如く)」、権老実の偽名が「遂心(願いを遂げる)」。二人の名が合わさることで完成する「意の如く、願いは遂げられる」という不吉な暗示は、作者の巧みな構成力を感じさせずにはいられません。
3. 物語の背景にある意味の検証
この第十三回は、単なる復讐劇の序章にとどまらず、物語全体を貫くテーマを深く問いかけています。
因果応報という宇宙の法則:
未央生が自身の欲望のために他人の家庭を破壊した行為が、時を経て、姿形を変え、今まさに自分自身の家庭を内側から蝕もうとしています。彼の知らないところで、復讐の種は静かに芽吹き、根を張り始めているのです。これは、物語全体を貫く「因果応報」というテーマが、最も静かに、そして最も恐ろしい形で動き出したことを示しています。
人間の内なる獣性:
温厚で実直な商人であった権老実が、一度尊厳を踏みにじられると、いかに冷徹で残忍な復讐者へと変貌しうるか。この物語は、社会的な立場や人格というものが、いかに脆いものであるかを突きつけます。人間の内側には誰しも獣が潜んでおり、その引き金が引かれた時、人はどこまでも非情になれるという、人間の本質的な恐ろしさを描いています。
安全な場所など存在しないという真理:
物語の舞台は、未央生にとって最も安全なはずの「故郷」であり、最も信頼すべき「家族」のいる場所です。しかし、その安全神話こそが最大の油断を生み、危機は外からではなく、最も無防備な内側から、信頼という仮面を被って侵入してきます。これは、真の脅威とは、目に見える敵ではなく、足元で静かに進行する内なる腐敗であることを示唆しています。
この第十三回は、血飛沫の舞うような派手な復讐劇ではありません。しかし、水が岩を穿つように、静かに、執拗に、そして確実に破滅へと向かっていく人間の執念を描ききった、傑出した一章と言えるでしょう。




