第十二面:壁を穿ちて奇縁を結び、香雲が情けに耽る事
書斎の孤独と「美人帖」
未央生は、艷芳を妻に迎えてより、昼も夜もその境なく、睦言を交わす日々に身を委ねていた。ほどなく艷芳の懐妊がわかると、未央生の喜びはひとしおであった。「人の手を加えた我が身では、子宝は望めぬかもしれぬ」という、かつて術師が囁いた不吉な言葉も、今は昔のこと。彼は胸をなでおろしたのである。
しかし、月満ちて艷芳の腹が五ヶ月を過ぎる頃には、肌を合わせるにも、次第に障りを感じるようになった。艷芳は「しばしのお辛抱でございます。お身体を慈しみ、子が生まれ落ちた暁には、また存分に…」と未央生を諭し、二人は寝所を別つこととなった。
書斎に独り寝の夜が続くと、満たされぬ心の隙間に、かつての放埒な心がむくりと頭をもたげた。
「…かつて廟で見かけた、あの天女のような二人。あれほどの花であれば、艷芳と並び咲き、我が庭を彩るにふさわしいものを。行方も知れぬとは、返す返すも口惜しい。…致し方あるまい。慰みに、あの『美人帖』の中から、次なる花を探すとしよう」
彼は艷芳の目を忍んで書斎の扉を固く閉ざし、かつて己の審美眼を頼りに作り上げた美女たちの名簿をめくった。その中で、ひときわ熱のこもった筆致で記された名が、彼の目を射抜いた。「香雲」と。彼女に寄せた評言は、他の誰へのものよりも情のこもったものであった。
評に曰く、
その美貌、他に類を見ず。その佇まい、艶なること限りなし。
身のこなしは、掌にて舞う蝶のごとく軽やかで、その風情は、古き絵画より抜け出でた仙女のようである。
風に乗って漂う香りは蘭麝にも勝り、語らう声は鶯の喉をも凌ぐ。
まさに、美の至宝、閨の至純と呼ぶべし。
未央生の脳裏に、二十代後半と思しき、えもいわれぬ色香を纏った婦人の面影が甦った。去り際に彼女がふと落としていった、詩のしたためられた扇を、今も肌身離さず大切にしている。その彼女の住まいを調べてみたところ、未央生は我が目を疑った。今宵、己が寝しているこの部屋を、ただ一枚の壁で隔てた隣家であったとは。
壁の隙間と秘密の覗き穴
「天が結んだ縁とは、まさにこのことか」
未央生は、狂喜した。隣家の主は軒軒子という五十過ぎの秀才で、香雲を後妻に迎えたのだという。その軒軒子は、遠方で塾を開いており、月に一度か二度、顔を見せる程度らしい。
未央生は書斎の壁を丹念に調べた。厚い煉瓦造りであったが、屋根に近い妻壁の一部が、板張りになっているのを見つけた。彼は道具箱から密やかに蚤や鋸を取り出すと、梯子をかけ、音を忍ばせて数枚の板を慎重に取り外した。
震える手で開けた隙間の向こう、一人の婦人が、ちょうど厠に立っているところであった。彼女が身をかがめて桶の蓋に手をかけた折、あらわになった腰の線の美しさに、未央生は息を呑んだ。やがて顔を上げたその人こそ、まぎれもない香雲であった。
ここで不意に声をかけては、いたずらに彼女を驚かせ、事を荒立てるだけやもしれぬ。まずは、こちらの存在に気づかせ、気を惹くのが先決だ。未央生は、かつて彼女の扇に記されていた李白の「清平調」を、まるで舞台役者が吟じるが如く、朗々と歌い始めた。
「雲には衣裳を想い 花には容を想う…」
一通り詠じ終えると、今度はわざとらしく、手にした扇に語りかけた。
「ああ、この扇よ。そなたの持ち主ゆえに、我が心は病み衰えた。いずこにおわすのか。叶うことなら、この手でお返しし、この恋の病から解き放たれたいものを」
すると、壁の向こうから、震えるような吐息が聞こえ、やがて鈴を転がすような声が応えた。
「…その扇の持ち主は、ここにおります。どうか、お返しくださいませ」
未央生は、さも今気づいたかのように驚いてみせ、板壁の隙間から顔を覗かせた。
「これは…! まさか、これほどの天女が、これほどの間近におられたとは。あなた様のおかげで、私の命は繋がりましたぞ」
彼は梯子を駆け上がると、壁を乗り越え、ためらう香雲の手を優しく取った。
すれ違う想いと和解の儀式
再会を喜び合ったのも束の間、香雲はふと表情を曇らせた。
「ここに越してきて半年にもなりますのに、なぜ、今まで一度もお声をかけてくださらなかったのですか。あなたはあまりに薄情なお方。…その扇も、もはや不要ですわ!」
香雲は、手渡された扇をずたずたに引き裂くと、嗚咽を漏らしながら部屋の奥へと消えてしまった。
思い当たる節はなく、未央生は途方に暮れた。その夜、彼女が寝静まった頃合いを見計らい、隣室へと忍び込むと、香雲は彼に背を向けて寝たふりをしている。
「どうか、お許し願いたい。ご主君がおられる身の上と知り、軽々しくは近づけなかったのだ」
未央生はそっと夜着に滑り込み、彼女の震える肩を抱き寄せた。
香雲は、むせび泣きながら胸の内を打ち明けた。
「わたくしが怒っておりますのは、あなたがわたくしを無視して、あの三人のご婦人ばかりをご覧になっていたからでございますわ! 廟にてあの方々には跪いて拝礼までなさったというのに、わたくしの前は知らぬ顔で通り過ぎてゆきました。わたくしの顔かたちが、あの方々に見劣りするからなのでございましょう?」
その言葉に、未央生はあの日のすべてを悟り、真実を告げた。
「あの拝礼は、半分は神仏へ、そしてもう半分は、ただの戯れ心。あなたの美しさに勝るものなど、この世にありはしない。この私の無礼、幾重にもお詫びいたそう。この場で何度でも、あなた様に拝礼を捧げます」
未央生が寝台の上で幾度も恭しく頭を下げると、香雲はとうとう堪えきれずに微苦笑を浮かべ、ようやく彼を受け入れたのだった。
香雲の秘密と新たなる野望
やがて二人の肌が重なり合うと、香雲の身体から、えもいわれぬ芳香が立ち上ってきた。それは、焚きしめた香とは異質の、肌の内側から薫り立つような、甘く蠱惑的な芳香であった。
「これは…、世にまたとない香りだ。いかなる香をその身にまとっているのか?」
「いいえ。これは、わたくしが生まれ持ったものなのです。生まれた日、部屋に紅の雲が満ちたことから『香雲』と。汗ばむたびに、毛穴という毛穴から、この香りが立ち上るのでございますわ」
未央生はその香りに酔いしれ、彼女の隅々までを慈しんだ。その肌のなめらかさ、そして、より奥深くから漂う濃密な香りに、我を忘れて没頭する。己が舌をもって彼女を愛撫し、その身が歓喜に打ち震える様を見届け、未央生は確信した。
「これほどの宝をその身に宿す女は、天下に二人といるまい。もはや片時も、離したくはない」
香雲もまた、未央生の類稀なる資質の力強さに、身も心も蕩かされていた。
「夫は老いて久しく、閨房はいつも冷え切っておりました。これほどの悦びを知ってしまった今、もうあなた様なしでは生きられませぬ」
睦言のさなか、香雲はついに、あの三人の美女の正体を明かした。
「あの方々は、わたくしの縁者なのです。二人のうら若い方は義理の妹、そして年上の方は叔母にあたりますの。彼女たちが、あなた様から拝礼を受けたと自慢げに語るものですから、わたくし、嫉妬に狂いそうでしたのよ」
それを聞いた未央生の心に、さらに大きな野心が芽生えた。香雲との縁を一層深めるのみならず、その美しき縁者たちともまた、契りを結びたいと願ったのである。
香雲は、未央生の燃えるような情熱と誠意、そして彼の授ける至上の悦びに免じて、彼を親族たちに引き合わせることを約束した。
「良きことは、分かち合うべきもの。彼女たちにも、この世にこれほどの至宝があることを、教えて差し上げましょう」
こうして、未央生と香雲は、夜ごと壁を越えて逢瀬を重ねるようになった。果たして、二人の義妹たちをいかにしてその腕に抱くのか。物語は、さらなる奇縁へと続いていく。
作者曰く、
この一章の奇抜さは、他に類を見ない。読み手は、香雲の嫉妬の源泉がどこにあるのか測りかねたまま物語に引き込まれ、その果てに、いかにも「女心」らしい当然の帰結に深く頷くことになるだろう。初めは影も形も見えぬ嫉妬に狂い、次いで理にかなった愛らしき嫉妬心をのぞかせ、ついには自ら仲立ちとなって三人の美女を夫に手引きする。これこそ、婦人の常情を突き抜けた、奇絶の妙というべきである。
第十二回解説:壁一枚の奇縁が拓く、情欲と嫉妬の新たな扉
この第十二回は、主人公・未央生の際限なき色欲が、奇想天外な「縁」によって新たな段階へと突入する、物語の大きな転換点です。単なる情事の描写に留まらず、人間の心理と運命の不思議さが巧みに織り交ぜられています。
Ⅰ. 物語の要約:壁一枚が隔てた、運命の再会
妻・艷芳の懐妊により閨事を絶たれ、書斎で孤独な日々を送る未央生。有り余る情欲を持て余した彼は、かつて蒐集した美女のリスト『美人帖』をめくり、ひときわ心惹かれた女性「香雲」を思い出します。驚くべきことに、彼女の住まいは今いる家の壁一枚隔てた隣家でした。
隣家の主人が留守がちであることを知った未央生は、書斎の壁に穴を穿つという大胆な行動に出ます。そして、かつて彼女が落とした扇に書かれていた李白の詩を朗々と吟じ、その気を惹くことに成功。壁越しに運命的な再会を果たします。
しかし、香雲はなぜか怒りを見せます。その理由は、かつて廟で会った際、未央生が自分ではなく他の三人の美女にばかり見惚れ、跪拝までしていたことへの嫉妬でした。未央生が誤解を解き、彼女の美こそが至上であると誓うことで二人は和解し、晴れて結ばれます。
情事の最中、未央生は香雲の身体から生まれつき類い稀な芳香が発せられることを知ります。さらに、彼女が嫉妬の対象であった三人の美女の縁者(義妹と叔母)であることを告げられ、未央生の野心は、香雲を通じて彼女たち全員を手に入れんとする、次なる目標へと向かっていくのでした。
Ⅱ. 各場面の魅力の深掘り:奇想と官能の交差点
この回は、読者を引き込む魅力的な場面の連続で構成されています。
1.書斎の孤独と『美人帖』:静寂から生まれる情念
妻の懐妊という幸福な出来事が、主人公の新たな浮気の引き金になるという皮肉な導入が見事です。静かで知的な空間であるはずの「書斎」が、最も猥雑な欲望の起点となる対比が鮮やかです。『美人帖』というアイテムは、未央生の女性に対する審美眼と収集癖を象徴しており、彼の欲望のカタログとして物語を動かす重要な装置となっています。
2.壁を穿つ背徳とスリル:禁忌を破る快感
「壁を穿つ」という行為は、この物語のハイライトです。これは単なる物理的な障害の突破ではありません。隣家との境界、すなわち社会規範や、人妻との隔たりという倫理観を、自らの手で破壊する行為です。覗き見という人間の根源的な好奇心を刺激するサスペンスと、禁忌を犯す背徳感が、読者に強烈な印象を与えます。
3.詩吟による風雅な誘惑:知性と色欲の融合
未央生が香雲の気を惹く手段として、暴力や脅しではなく、「李白の詩吟」という極めて風雅な方法を用いた点が本作の格調を高めています。「雲には衣裳を想い 花には容を想う」という詩句は、香雲の美しさを讃える最高の口説き文句であり、未央生が単なる好色漢ではなく、教養と才覚を兼ね備えた人物であることを示しています。高尚な文化が、男女の密会という目的のために使われるギャップが、独特の面白さを生み出しています。
4.嫉妬の告白と和解:女心のリアリティ
香雲が怒っていた理由が、自分がないがしろにされたという純粋な「嫉妬」であったことが明かされる場面は、この物語に人間的な深みを与えています。これにより、香雲は単なる美貌の客体ではなく、プライドを持ち、愛する男性の一番でありたいと願う、生身の女性として立ち現れます。未央生が寝台の上でひれ伏して謝罪する場面は、男女の力関係が逆転するコミカルなやり取りの中に、恋愛の駆け引きの機微を描き出しています。
Ⅲ. 物語の背景にある意味の検証:偶然と必然、そして欲望の拡張
この奇想天外な物語の背景には、いくつかの重要なテーマが隠されています。
1.「奇縁」という名の必然性
意中の相手が隣人だったという展開は、まさに「奇縁」です。しかし、これは単なるご都合主義ではありません。作者は、人の力の及ばない大きな「縁」や「宿命」の存在を示唆しています。未央生の個人的な欲望が成就するためには、天の采配とも言うべき偶然(=奇縁)が必要であるという、仏教的な因果思想が物語の根底に流れています。彼の欲望は、この奇縁によって必然の出来事へと昇華されるのです。
2.香雲の「芳香」が象徴するもの
香雲の身体から発せられる芳香は、彼女が天賦の魅力を持つ、特別な存在であることを象徴しています。人工的な香水ではなく、生まれつきの体臭であるという設定は、彼女の美しさが表面的なものではなく、内側から滲み出る本質的なものであることを示します。この「香り」という嗅覚に訴える官能的な要素は、未央生が彼女に完全に心酔する強い説得力となっています。
3.欲望の無限拡張という構造
最も重要なのは、物語の結末です。香雲との結合がゴールになるのではなく、彼女を通じてさらに三人の美女へと繋がる「次なる野望」が提示されます。これは、未央生の欲望が決して一つの対象に留まることなく、常に拡張し、連鎖していく本質を持つことを示しています。一つの欲望の成就は、次なる欲望の始まりに過ぎないのです。この「欲望の無限拡張」こそが、『肉蒲団』という物語を前進させる強力なエンジンであり、人間の飽くなき業の本質を鋭く突いていると言えるでしょう。




