第九面:女心と秋の空 ― 秘かなる試験 ―
権老実の妻、艶芳は、田舎で塾を営む教師の娘として生を受けた。幼き日より読み書きに親しんだ彼女は、稀に見るほどの聡明さを備えていた。その美貌も相まって、両親はありきたりの縁談には決して首を縦に振らなかったが、彼女が十六の時、将来を嘱望された一人の秀才に嫁がせた。しかし、その幸せは長くは続かなかった。夫は祝言からわずか一年で病の床に就き、帰らぬ人となったのである。艶芳は一年間の喪に服した後、権老実を新たな伴侶として迎えたのだった。
艶芳という女性は、情愛には人一倍の情熱を秘めながらも、深く分別をわきまえていた。巷の女たちがあだ名を流すのを耳にするたび、人知れず鼻で笑うような一面があった。彼女は常々、女仲間たちにこう語っていた。
「私たちは、前世の定めゆえか女として生を受け、生涯のほとんどを屋敷の内で過ごす身。閨での悦びを唯一の慰めとするのは、ある意味で女の性と申せましょう。けれど、天が定め、親が認めた夫と心を通わせることこそが、人の道というもの。他の殿方に心を移すのは、礼を失い、分を越える行いです。夫に知られれば手ひどい仕打ちを受け、世間に知られれば後ろ指をさされる。何より、睦み合いというものは、肌もあらわに、二人きりで心ゆくまで没頭してこそ、その極みに達するものでしょう。浮気のように、いつ誰に見咎められるかと怯えながらの慌ただしい逢瀬に、一体どれほどの趣があるというのでしょう。まるで、空腹の時には食事ができず、満腹の時に無理に詰め込まれるようなもの。そのような不自然は、身を損なうばかりですわ。不義に走る方々は、どうして浮相手を選ぶその眼力で、初めから最良の婿君を選ばれなかったのかしら。風雅がお好きなら才ある方を、お顔立ちがお好きなら美貌の方を。もし実利、つまり夜の営みそのものを求めるのであれば、ただひたすらに生命力に溢れた、逞しい殿方を選べば間違いありません。自分の夫を差し置いて、よその殿方を求める必要など、どこにもないはずですのに」
女たちは彼女の言葉に、ただ感心したように深く頷き合った。「さすがはご経験豊かな方のお言葉は重みが違いますわ。一言一句が、深く心に染み入ります」
彼女がこれほどまでに達観するには、理由があった。まだ娘であった頃の艶芳も、才智に焦がれ、美しき貌に憧れ、そして夜ごと満たされることを夢見ていた。そして最初に嫁いだ夫は、才も貌も申し分のない人物であった。しかし、実際に閨を共にしてみると、肝心の男としての力量があまりに心もとなく、その営みも長くは続かなかった。ようやく昂り立ったかと思えば、情熱が肌を温める間もなく、すぐに萎えてしまう。情熱的な艶芳が、そのような物足りなさを許すはずもなかった。彼女は夫を励まし、奮い立たせようと努めた。だが、もとより器の大きくない殿方が、その熱情の求めに応えきれるはずもなく、一年と経たぬうちに肺を病み、儚くなってしまったのである。
この苦い経験から、彼女は学んだ。「才」や「貌」というものは、しょせんは上辺の飾りに過ぎず、実用的ではないのだ、と。三つの望みをすべて満たすのは叶わぬ夢。ならば、虚飾を捨てて実を取ろう。そう心に決めた彼女が、再婚相手として選んだのが、不格好で口下手ではあるが、内に狼や虎のごとき精力を秘めた権老実だった。初めはただ生命力さえ強ければ良いと考えていたが、実際に肌を合わせてみると、彼の男としての力量は、彼女の想像を遥かに超える比類なきものであった。その逞しさは、まさに彼女が求め続けた理想そのものであった。艶芳は歓喜に震え、それ以来、他の男に心を動かすことなど微塵もなくなった。家計を助けるために一日中糸を紡ぎ、夫が安楽に暮らせるよう、献身的に尽くしていたのである。
ところが、そんな穏やかな日々に、ある変化が訪れる。ある日のこと、艶芳がふと簾を上げた拍子に、門前を通りかかった若者、未央生と視線が合った。いや、未央生が一方的に、彼女の姿をじっと見つめたのだ。艶芳は近眼であったため、誰かが行き来する影が見えたに過ぎなかったが、その美しい横顔をしかと目に焼き付けた人物がいた。向かいの家に住む、三十過ぎの女である。
この女の夫は権老実の同業者で、商いの旅に出る際の相棒でもあった。女は器量こそ良くなかったが、その本性はひどく淫らであった。しかし、容姿に恵まれぬゆえに言い寄る男もなく、その上、夫が気性の荒い腕力自慢であったため、かろうじて貞淑を装っていたに過ぎない。女は未央生の様子の一部始終を見届けると、彼が立ち去るや否や、艶芳のもとへと駆け込んできた。
「ねえ、あなた。たった今、驚くほどの美男子が、あなたのことを何度も何度も振り返って見ていたのよ。お気づきになって?」
艶芳は素っ気なく答えた。
「わたくしは目が悪いですから。それに、この家の前を殿方が通り過ぎるなど、日常茶飯事ではありませんか。好きに見させておけばよろしいのよ」
「あら、いつもの男たちとは格が違うわよ。あの方になら、三日三晩見つめられていたって本望だわ」
「まあ、それほど見目麗しい方だったの?」
「見目麗しいどころの話じゃないわ。極上よ。毎日門に立って往来の男たちを眺めているけれど、あんなに肌の綺麗な方は見たことがない。目も鼻も耳も、どこもかしこも絵に描いたよう。あのように雅やかな方が現実にいらっしゃるなんて、見ているだけで溜息が出てしまうわ」
艶芳は微笑んで言った。
「大げさな方ね。たとえそのような方がいたとしても、わたくしには関わりのないことですわ」
「あなたがそう思わなくても、あちらはあなたのことで頭がいっぱいのようだったわよ。まるで魂を抜かれたようなお顔で、離れがたい様子で何度も戻ってきては、あなたのお部屋を覗き込んで……。ああ、お可哀想に。もしあなたがあの方を見ていたら、きっと恋の病に落ちていたことでしょうね」
「あら、本当はあなたご自身があの方に懸想なさったのではなくて? わたくしの名を使って、照れ隠しをしていらっしゃるのでしょう」
「わたくしがこんな顔で、相手にされるはずがないでしょう! 本当にあなたのことを見ていたのよ。信じられないのなら、きっとまたいらっしゃるわ。その時は教えてあげる。あなたも外に立って、あのお顔を拝んでみるといいわ」
数日後、未央生は再び糸を買い求める客として現れた。艶芳はその顔を一目見て、かつて向かいの女が熱を込めて語っていた美男子がこの若者だと確信した。確かに、その容姿は一級品と言えよう。だが、その内実はどうだろうか。別れ際、彼が口にした「今宵、早速これを試させていただきましょう」という言葉は、あからさまな誘いであった。
(もし本当に今夜、彼が忍んで来たら……。わたくしは拒むべきか、受け入れるべきか。女の一生の操が、この一瞬で決まってしまうのだわ)
思案に暮れていると、またしても向かいの女がやって来た。
「ねえ、さっきの殿方、わかったでしょう?」
「ええ、確かに見目麗しい方でしたわね。でも、少し軽薄な気もして、まともな君子とは思えませんわ」
「あら、お堅いことを! まともな君子がわざわざ女の部屋を覗きに来るものですか。男は見た目が良ければそれで十分よ」
「でも、うちの主人がいないのを良いことに、あんなあからさまな素振りをなさるなんて……。もし主人がいたら、どうなっていたことか」
「どんな風に誘われたの? 教えてちょうだいよ!」
好色な女は「誘惑」という言葉を耳にしただけで、もう居ても立ってもいられない様子だ。艶芳の体に触れ、しつこく聞き出そうとする。艶芳はほとほと困り果てて答えた。
「ただ、言葉の端々に情を匂わせ、目配せをなさっただけですわ」
「だったら、あなたも少しは気のある素振りを見せてあげればよかったのに。あんな美男美女、まるで天が定めた夫婦のようだわ。たとえ添い遂げられずとも、一度くらい肌を合わせなければ損というものよ。権旦那のような無骨な方だけでは、物足りないこともあるでしょう? まるで牛の糞に咲いた美しい花のよう。もったいないわ。もし彼がまた来たら、わたくしが仲を取り持ってあげる。人生、一度くらい素敵な思いをしなくちゃ!」
女の熱弁に耳を傾けながら、艶芳の頭の中では冷静な計算が働いていた。
(この女、あの若者にすっかり夢中ね。もしわたくしが彼を受け入れるにせよ、向かいに住むこの女を味方につけておかなければ、後々面倒なことになるかもしれない。それに、あの若者が閨で「使える」男かどうか、まだわからない。よし……まずはこの女に『毒見』をさせてみよう。彼女を試験官にして、あの男の腕前を試させるのだわ。もし彼が見事な男であれば、後でわたくしが本番を務めればいい。こんな醜女に寵愛を奪われる心配はない。もし彼が期待外れなら、そのまま追い返してしまえばいいだけのこと。そうすれば、わたくしの名誉も傷つかずに済む。これこそ名案だわ)
艶芳は、にっこりと微笑んで女に言った。
「実を申しますと、わたくしにはそのような大それたことはできません。でも、もしあの方がまたいらっしゃるなら、わたくしの代わりにあなたが相手をして差し上げてはいかがかしら?」
「まさか! わたくしのような不器量な女を、あの方がお相手にしてくださるわけがないわ」
「いいえ、考えがございますの。もしかしたら、今夜あたり、彼が忍んでくるかもしれません。幸い、私たちの夫は二人とも商いの旅に出ていて留守。今夜はあなたの家の戸締りをして、わたくしの家で一緒に休みましょう。そして、明かりを消した闇の中で待つのです。もし彼が来たら、あなたはわたくしに成りすまして、彼と契りを結べばいい。暗闇の中では、彼にだって見分けはつきませんわ。どうか、わたくしの身代わりとなって、わたくしの操を守ってくださいな」
女の目が、らんらんと輝いた。
「……そんな、夢のようなお話、断れるわけがないじゃない! でも、あなた、どうしてご自分でお相手をなさらないの?」
「わたくしはね、もう房事の悦びは知り尽くしているのです。うちの主人に勝る殿方など、この世にそうはおりますまい。豪華な宴を知る者が、道端の粗末な料理に興味を持てないのと同じですわ。ですから、名誉を汚してまで危険を冒したくはないのです」
「……なるほど、権旦那の『器』が凄すぎて、他の男では物足りないというわけね。つまり、わたくしが先鋒となって、あの男の実力を測ってこい、と。いいわ、わたくしにとって損のない話だもの。でも、一つだけ約束して。わたくしが良いところの時に、あなたが割り込んできて邪魔をするなんて、絶対に無しよ。『僧に施しをするなら、腹一杯にさせよ』と申しますでしょう?」
「ええ、ご心配なく。あなたに、そのような幸運が訪れることはないでしょうから」
二人は固くそう約束し、静かに夜の帳が下りるのを待った。思いもよらず醜い女のもとへ舞い込んできた、美しき若者との逢瀬の機会。新たに世に出たばかりの若き才人の奏でる音色が、長らく渇望していた器にいかに響くのか。その答えは、間もなく深い闇の中で明らかになる。
第九回:多角的解説
この第九回は、物語の新たな展開を告げる極めて重要な章です。単なる情事の序章ではなく、主人公の一人である艶芳という女性の類稀なる個性を読者に深く印象付け、今後の波乱を予感させる、知的な駆け引きに満ちた回と言えるでしょう。
1. 第九回の簡潔な要約
貞淑でありながらも房事への深い哲学を持つ人妻・艶芳。彼女は過去の結婚の失敗から、男の価値は才覚や美貌といった「虚飾」ではなく、夜の営みにおける「実質」にあると達観していた。現在の夫、権老実のその一点に満足し、平穏な日々を送っていた彼女の前に、絶世の美男子・未央生が現れる。彼の露骨な誘いに心揺れるも、艶芳は自身の名誉と過去の教訓から、すぐには応じない。そこで彼女は、未央生に懸想する向かい家の好色な醜女を利用し、自分に成りすまさせて未央生と一夜を共にさせるという奇策を思いつく。それは、自らの手を汚さずに男の実力を試すための、周到に仕組まれた「試験」であった。
2. 各場面の魅力の深掘り
この章の魅力は、艶芳の卓越した心理描写と、対照的な二人の女による密談の緊張感にあります。
魅力①:艶芳の哲学 ― 人物像を確立する独白
物語序盤、艶芳が女仲間へ語る持論は、彼女が単なる好色な女ではないことを明確に示します。彼女の言葉は、一度目の結婚で才色兼備の夫が「実用」に至らなかったという、痛烈な失敗体験に裏打ちされています。この経験が彼女を「虚」を捨て「実」を取る徹底した実利主義者へと変えました。読者はここで、彼女がこれから直面する未央生という「才も貌も優れた男」を、いかに冷静に、かつ過去の経験に照らし合わせて値踏みするであろうかを予感させられます。これは後の奇策への説得力を持たせる、見事な伏線となっています。
魅力②:二人の女の対比 ― 物語を動かす密談
向かいの家の女の登場は、物語に大きな「動」をもたらします。彼女は、理性を欠いたむき出しの欲望の化身として描かれます。艶芳が「静」と「知」の存在であるならば、この女は「動」と「本能」の存在です。この二人の対比が実に鮮やかです。女が未央生の美貌をただただ称賛し、艶芳をそそのかす場面は、艶芳の冷静な思考を際立たせる鏡の役割を果たします。欲望に駆られて思慮を失う女と、その欲望すらも手玉に取り、自らの計略の駒として利用しようとする艶芳。この静かな部屋での密談は、女同士の欲望と理性が火花を散らす、本作屈指の心理戦と言えるでしょう。
魅力③:「毒見」の計略 ― 知略と皮肉の極致
この章のクライマックスは、艶芳が醜女に「身代わり」を提案する場面です。これは単なる嫉妬や自己保身から来るものではありません。「私の名節も汚さずに済む」「男の腕前を試させる」という目的を持つ、極めて戦略的な一手です。醜女にとっては降って湧いた幸運ですが、彼女自身が男を評価するための「道具」にされていることには気づきません。この状況が生み出す皮肉は強烈です。艶芳は、閨という戦場に赴く前の「偵察」として、最も信頼できない隣人を送り込む冷徹な将軍さながらです。読者は艶芳の恐るべき知略に舌を巻くと同時に、これから始まる「試験」の結果に固唾を飲むことになるのです。
3. 物語の背景にある意味の検証
この章は、単なる好色文学の枠を超え、より深いテーマ性を探求しています。
検証①:「虚」と「実」の探求
本章の根底に流れる最大のテーマは、「虚(見た目や評判)」と「実(実質的な価値・能力)」の対立です。艶芳は、最初の夫との結婚で「虚」の無意味さを学びました。彼女にとって未央生は、才と美貌を兼ね備えた、かつての夫を彷彿とさせる「虚」の塊に見えます。だからこそ、彼女は彼が閨における「実」を伴っているのかを、何よりも知る必要があったのです。この物語は、人間の価値、特に男女関係における価値の本質はどこにあるのか、という普遍的な問いを投げかけています。
検証②:制約された世界における女性の知性と主体性
艶芳は、「一生を屋敷の中で過ごす身」という、極めて制約の多い社会を生きています。彼女は自由に恋愛相手を選ぶことも、社会で自己実現することもできません。そのような閉ざされた世界の中で、彼女が唯一、自らの主体性を発揮できる場所が「閨」であり、そのために用いる武器が「知性」です。彼女は運命をただ受け入れるのではなく、限られた選択肢の中で、知恵を絞って自らの欲望と名誉を両立させようと画策します。艶芳の行動は、抑圧された環境下で女性がいかにして自己の尊厳と利益を追求しようとするかを描いた、力強い人間ドラマとして読み解くことができます。
検証③:人間の欲望への風刺
向かいの家の醜女は、理性を失い、ただ欲望の赴くままに行動する人間の滑稽さを象徴しています。彼女は目先の快楽に目がくらみ、自分が利用されていることに気づきません。一方、艶芳は欲望を完全に理性でコントロールしようとします。この両極端な二人を通して、作者は人間の持つ抗いがたい欲望というものを、ある時は滑稽に、ある時は冷徹に描き出し、人間存在そのものを風刺していると言えるでしょう。
この第九回は艶芳という知略に長けた女性の人物像を確立させると同時に、「虚実」「知性」「欲望」といった深遠なテーマを提示する、物語の重要な転換点なのです。これから始まる未央生の「試験」は、単なる情事の結果報告ではなく、これらのテーマに対する一つの答えを読者に示すことになるでしょう。




