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婚約破棄される前にこちらから捨てて、勇者様と『白い結婚』に逃げ込みました。~愛さない契約のはずが、いつの間にか契約違反の溺愛ライフが始まっています~

作者: 夢見叶
掲載日:2025/12/07

 鏡に映る自分の顔は、驚くほど冷静だった。

 白粉をはたき、紅を差し、煌びやかな宝石を身に纏う。それは夜会へ向かうための装いというよりは、戦場へ赴く騎士が鎧を着込む儀式に似ていた。

 侍女が震える手で、私のドレスの背中を締め上げる。彼女も気づいているのだろう。今夜の夜会で、主人がどのような扱いを受けることになるのかを。


 アステイル公爵家長女、リアンフィア。

 それが私の名前だ。

 そして、この国の第一王子ゼルディック殿下の婚約者――あえて過去形で言えば、「元」婚約者となる女の名前でもある。


 一月前、異界から「聖女」が召喚された。

 黒髪黒目の、小柄で愛らしい少女、マユ様。

 彼女が現れてから、城の空気は一変した。魔王討伐という大義名分のもと、聖女の精神的安定が最優先事項とされ、彼女が「不安だから」と側に置きたがったゼルディック殿下は、その務めを喜んで引き受けた。

 公務をキャンセルし、私の誕生日を忘れ、二人きりで庭園を散歩する姿が何度も目撃された。


 私は、愚かではなかった。

 10年に及ぶ王太子妃教育は、私に「感情を殺すこと」と「情勢を読むこと」を叩き込んでいたからだ。

 殿下の心変わりは明白。そして王家としても、希少な治癒魔法を持つ聖女を繋ぎ止めるために、殿下との婚姻を望んでいることも明白。

 ならば、邪魔者は誰か。

 ――私だ。


 古いしきたりで結ばれた、可愛げのない公爵令嬢。

 王家は今、私をどうやって穏便に排除するか、あるいはどうやって「私の方に非があった」ことにして婚約を破棄するか、その筋書きを練っている最中だろう。


「……お嬢様」


 侍女が泣きそうな声で私を呼ぶ。

 私は鏡の中の自分に、にっこりと微笑んでみせた。完璧な、貴族の仮面を被って。


「行きますよ。今夜は、私の新しい人生が始まる夜なのですから」


 そう。ただ捨てられるつもりなど毛頭ない。

 泥を塗られるのを待つだけの淑女など、物語の中だけで十分だ。

 どうせ捨てられるなら、捨てられる前に、こちらから捨ててしまおう。

 これは、私のプライドと未来を懸けた、最初で最後の反逆だった。


 ◆


 王城の大広間は、むせ返るような熱気と香水の匂いに包まれていた。

 オーケストラが優雅なワルツを奏でているが、人々の関心は音楽にはない。彼らの視線は、広間の中央に立つ人物たちと、そこへ遅れて現れた私に注がれていた。


 好奇、嘲笑、同情。

 粘着質な視線が肌にまとわりつく。

 彼らは待っているのだ。高慢な公爵令嬢が、聖女様に心奪われた王子によって断罪されるという、極上のエンターテインメントを。


 広間の中央、一段高くなった場所にゼルディック殿下がいた。その隣には、純白のドレスに身を包んだ聖女マユ様が、怯えた小動物のように殿下の腕にしがみついている。

 私が歩みを進めると、モーゼの海割りのように人垣が左右に開いた。

 カツ、カツ、とヒールの音がやけに高く響く。


「……リアンフィア」


 殿下が私を呼んだ。その声には、これから自分が為そうとしていることへの罪悪感と、それを正当化しようとする微かな苛立ちが滲んでいた。

 音楽が止まる。

 広間が静まり返る。

 誰かがゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた気がした。


「よく来た。今宵、お前に伝えねばならぬことがある」


 殿下が口を開く。

 来る。

 「真実の愛を見つけた」とか、「お前の冷徹さには耐えられない」とか、そういった定型文が。

 私は扇をパチリと閉じた。

 その乾いた音が、殿下の言葉を遮った。


「殿下」


 よく通る、凛とした声を意識して出す。

 殿下が「え?」と虚を突かれた顔をした。


「恐れながら、この場をお借りして私から申し上げます」


 私は一礼もせず、真っ直ぐに殿下を見据えた。

 周囲の貴族たちがざわめき始める。断罪されるはずの罪人が、王太子の言葉を遮るなど前代未聞だからだ。


「第一王子ゼルディック殿下との婚約を、アステイル公爵家の名において破棄させていただきます」


 時が止まったかのように、会場が凍りついた。

 殿下の口が半開きになり、隣のマユ様が「え、え?」と目を白黒させている。

 私はその隙を与えず、あらかじめ用意していた口上を、淀みなく紡いだ。


「理由は明白でございます。聖女召喚により、大陸の情勢は大きく変わりました。魔王の脅威に対抗するため、王家は聖女様という希望を完全に取り込む必要があります。その際、古い約定である私という存在は、聖女様の心を曇らせ、王家との結びつきを阻害する『不要な障害』となりかねません」


 あくまで、国のために。

 あくまで、王家のために。

 私は「身を引いて差し上げる」のだという論理を、淡々と、しかし会場の隅々まで聞こえるように並べ立てた。


「私が婚約者の座に居座り続ければ、派閥争いの火種となり、国力を削ぐことになりましょう。それは私の本意ではありません。よって、自ら退くことで王家に恩を売り――いえ、王家の憂いを断ち、アステイル家の忠誠を示したく存じます」


 そこまで一気に言い切ると、私はふう、と小さく息を吐いた。

 殿下の顔色は蒼白から赤へ、そしてまた蒼白へと変わっていく。彼が用意していたであろう「私を悪者にして婚約破棄する脚本」は、これで完全に紙屑となった。

 私が「国のために身を引いた悲劇の、しかし賢明な令嬢」になってしまったからだ。


 だが、これで終わりではない。

 ただ婚約破棄をしただけでは、私は「傷物の令嬢」として、辺境の好色な貴族の後妻にでも宛がわれるのがオチだ。

 王家は、私の口を封じるために、目の届かない場所へ追いやろうとするだろう。

 だから、次の手を打つ。

 私は視線を、会場の隅、壁の花となっていた黒衣の青年へと向けた。


「なお、私の今後の身柄につきましては……隣国の勇者、イグノート・ヴァルグレイ様との『恋愛関係を一切伴わない白い結婚』をもって保全いたします」


 その瞬間、悲鳴のようなざわめきが爆発した。

 

「勇者様だと!?」

「隣国の英雄が、なぜアステイル公爵令嬢と?」

「白い結婚? どういうことだ?」


 視線を向けられた当の本人は、突然の指名に驚いたように眉を上げていたが、すぐに状況を理解したようだった。

 彼はグラスをウェイターに預けると、長い脚で群衆をかき分け、私の隣へと歩み出てくれた。

 戦場で鍛え上げられた長身。

 整っているが、どこか人を寄せ付けない鋭さを持った美貌。

 隣国の勇者、イグノート・ヴァルグレイ。

 彼もまた、異世界から召喚された「異邦人」であり、そして聖女様とは違って、すでに魔王軍との戦いで多くの血を見てきた歴戦の戦士だ。


「……詳しい話は後ほどうかがいましょう、リアンフィア嬢」


 彼は私の隣に立つと、周囲を威圧するように鋭い視線を巡らせ、そして私にだけ聞こえる声で囁いた。


「驚いたな。本当にやるとは」


「やる、と言いましたでしょう?」


 私は震える膝をドレスの中で必死に抑えながら、気丈に微笑んだ。

 彼は「やれやれ」といった風情で肩をすくめると、殿下に向かって恭しく、しかし拒絶の意思を含んだ一礼をした。


「そういうことですので、殿下。彼女は私が預かります。……文句はございませんね?」


 殿下は、何も言えなかった。

 ただ呆然と、私たちが並んで広間を出ていくのを見送るしかなかった。

 背中で感じる視線の雨。

 その中を歩きながら、私は心の中で、10年間の恋と努力に別れを告げた。

 さようなら、ゼルディック殿下。

 貴方を愛するように自分を殺してきた、かつての私。


 ◆


 夜会を抜け出した私たちは、王城の一角にある客間へと移動した。

 扉が閉まり、人払いが済んだ瞬間、私は張り詰めていた糸が切れたようにソファへ崩れ落ちそうになった。

 それを、イグノート様の手が支えた。


「大丈夫か」


「……はい、申し訳ありません。少し、足に力が」


「無理もない。あれだけの見得を切ったんだ」


 彼は私をソファに座らせると、自分は向かい側の椅子に腰掛け、長い足を組んだ。

 その所作一つ一つに無駄がなく、美しい。けれど、その瞳はどこまでも冷たく、理性的だった。


「さて、リアンフィア嬢。君の素晴らしい演説のおかげで、俺たちは共犯者になったわけだが……改めて、事情と条件を確認しても?」


 彼の第一声は、感情を排した事務的なものだった。

 私は居住まいを正し、彼を見つめ返した。

 私たちが事前に交わしていたのは、簡単な密約だけだ。「夜会で私の身柄を預かってほしい、その代わり貴方にもメリットを提供する」という。


「事情は先ほど申し上げた通りです。私は、王家の都合で捨てられる運命にありました。ですが、ただ捨てられ、政略の駒として老いぼれた貴族に売られるのだけは我慢なりません」


「それで、俺を選んだと?」


「はい。貴方は隣国の勇者。この国における立場は特異です。王家といえども、貴方に強く出ることはできません。そして何より……貴方もまた、結婚を急かされて困っていると聞き及んでおります」


 イグノート様は、苦虫を噛み潰したような顔をした。


「……耳が早いな。確かに、魔王討伐の英雄として持ち上げられ、あちこちの貴族から娘を押し付けられそうになって辟易していた」


「でしょう? 私と結婚すれば、それらの縁談をすべて断る大義名分ができます。私は『傷物』ですが、家格は公爵家。身分的な釣り合いに文句を言える者はおりません」


「なるほど。利害は一致している」


 彼は淡々と頷いた。

 ここからが本番だ。私は、震えそうになる手を膝の上で固く握りしめ、最も重要な条件を切り出した。


「そこで、この結婚における契約条件を提示させていただきます」


 私はテーブルの上に、あらかじめ用意しておいた羊皮紙を広げた。

 そこには、魔法契約の術式が組み込まれている。


「条件は4つです」


 私は指を折って示した。


「1、肉体関係は一切持たないこと」

「2、恋愛感情を口に出さないこと」

「3、不当に相手を縛るような干渉をしないこと」

「4、1年後、ほとぼりが冷めた頃に、どちらかが望めば離縁すること」


 イグノート様が羊皮紙を覗き込み、眉をひそめた。


「……随分と、徹底しているな。特に2番目。恋愛感情を口に出さない、というのは?」


「言葉通りの意味です。好きだとか、愛しているとか、そういった言葉を一切禁じます」


「なぜそこまで?」


 彼の問いに、私は詰まった。

 言うべきか迷った。けれど、これから一つ屋根の下で暮らす相手だ。最低限の理由は伝えなければ、不信感を生むだけだろう。

 私は視線を落とし、ぽつりとこぼした。


「……怖いのです」


「怖い?」


「はい。恋をするのが、怖いのです」


 一度口に出してしまうと、堰を切ったように言葉が溢れ出た。


「私は、物心ついた頃から『王太子妃になる』ために生きてきました。自分の好みも、趣味も、考えも、すべて殿下に合わせるように矯正されました。殿下をお慕いすることが、私の義務であり、人生のすべてだと教え込まれました」


 そうして作り上げた「私」は、聖女様という、ありのままの魅力を持つ少女の前に、あまりにも無力だった。


「自分の心を殺して、誰かのために尽くしても、結局は都合よく切り捨てられる。……もう一度、ああして誰かに心を差し出す勇気が、私にはありません。誰かを好きになることも、誰かに期待することも、もうしたくないのです」


 だから、白い結婚。

 感情の介在しない、安全な契約関係。

 それが、今の私が望める唯一の避難場所だった。


 しばらくの沈黙が落ちた。

 イグノート様は、じっと私を見ていた。

 その瞳の中に、ふと、同情ではない、共感のような色が浮かんだ気がした。


「……俺も」


 彼が低く呟いた。


「俺も、似たようなものだ。ある日突然、見知らぬ世界に召喚され、『勇者』という役割を押し付けられた。魔王を倒せ、世界を救えと期待され、そのためなら死ぬことも厭うなと強要された」


 彼は自嘲気味に笑った。


「人に期待され、利用されることには、俺も疲れ果てている。……君の言う通り、心安らぐ場所が欲しいと思っていたところだ」


 彼は羽ペンを手に取ると、さらさらと羊皮紙に署名をした。


「いいでしょう。この条件、呑みます。ただし、ペナルティはどうする?」


「……契約違反をした場合、双方に激しい苦痛を。そして最悪の場合、直近1年分の記憶を欠落させる術式を組み込みます」


「記憶を?」


「はい。契約を破るほど心を乱したのなら、いっそ忘れてしまったほうが幸せでしょうから」


「……厳しいな。だが、それほどの覚悟ということか」


 彼は署名を終えると、私に羊皮紙を差し出した。

 私もそれに署名をする。

 羊皮紙が淡く発光し、ふわりと空中に溶けて消えた。

 契約は成立した。


「よろしく頼む、リアンフィア公爵令嬢。……いや、これからは妻と呼ぶべきか」


「公の場以外では、名前で結構です。……これから1年間、よろしくお願いいたします、イグノート様」


 こうして、私たちは「夫婦」になった。

 愛のない、触れ合いのない、真っ白な紙のような夫婦に。


 ◆


 王都を離れ、隣国との国境近くにある離宮に移り住んでから、数週間が過ぎた。

 そこでの生活は、拍子抜けするほど静かだった。


 使用人は最小限。

 食事も掃除も、自分たちでできることは自分たちでする。それがイグノート様の流儀だった。

 最初は戸惑った。公爵令嬢として、家事などしたことがなかったからだ。

 だが、イグノート様は何も言わず、不慣れな私をサポートしてくれた。


 ある日の夕食時。

 イグノート様が厨房に立ち、スープを作ってくれた。

 戦場で覚えたというその料理は、野菜や干し肉を大雑把に煮込んだだけの、見た目は無骨なものだった。

 恐る恐る口に運ぶ。


「……あ」


 意外なほど、優しい味がした。

 塩加減が絶妙で、野菜の甘みが溶け出している。

 王城で食べていた、見た目ばかり豪華で冷めきった料理よりも、ずっと温かくて美味しかった。


「どうだ? 口に合わないか?」


 心配そうに覗き込んでくる彼に、私は思わず素の表情で微笑んでしまった。


「いいえ。……思ったよりずっと、美味しいです」


「『思ったより』は余計だが……まあ、よかった」


 彼は照れくさそうに鼻をこすり、自分の皿に向き直った。

 その横顔を見て、私はふと思った。

 この人は、「勇者」という記号でも、冷徹な契約相手でもなく、ただの不器用な青年なのかもしれない、と。


 また、別の日。

 私は離宮の書斎で、山積みになっていた帳簿と格闘していた。

 この離宮の管理はずさんで、経費の使い込みや記載漏れが散見されたのだ。

 数字を追うのは嫌いではない。むしろ、感情の入り込む余地のない数字の世界は、今の私には心地よかった。

 数時間後、整理を終えた帳簿をイグノート様に見せると、彼は目を丸くした。


「……これを、半日で片付けたのか?」


「はい。無駄な支出を削り、仕入れ先を見直せば、予算は3割ほど浮くはずです」


「すごいな。俺は数字を見ると頭痛がするタイプでね。……助かるよ、リアンフィア」


 素直な賞賛の言葉。

 殿下からは「小賢しい」「可愛げがない」と言われてきた私の能力を、彼は「助かる」と言ってくれた。

 胸の奥が、ほんのりと温かくなるのを感じた。


 けれど、私たちは一線を越えない。

 寝室は同じだが、ベッドは部屋の両端に離されている。

 廊下ですれ違うときは軽く会釈だけ。

 それが私たちのルールであり、守るべき距離だった。


 そんなある嵐の夜のこと。

 激しい雷鳴が轟き、窓ガラスを雨が叩きつけていた。

 私は、夢を見ていた。

 暗い、底のない沼に沈んでいく夢。

 水面の上から、殿下とマユ様が私を見下ろして笑っている。


『やはり聖女のほうがふさわしいわ』

『君は人形のようだ』

『愛嬌がない』

『つまらない女』


 やめて。

 私は、必死だっただけ。

 貴方に愛されるために、必死で自分を押し殺していただけなのに。


「……っ、いや……!」


 自分の叫び声で、私は目を覚ました。

 心臓が早鐘を打っている。

 全身が冷や汗で濡れ、呼吸がうまくできない。

 暗闇の中で荒い息をついていると、部屋の向こうで気配が動いた。


「……リアンフィア?」


 イグノート様の声だ。

 ベッドのきしむ音がして、彼が起き上がったのがわかった。

 足音が近づいてくる。

 けれど、彼は私のベッドの数歩手前でぴたりと止まった。


 契約がある。

 不当な干渉はしない。肉体関係は持たない。

 彼は私に触れて慰めることも、抱きしめることもできないのだ。

 その距離が、今の私にはもどかしく、そして同時に安堵でもあった。


「……悪い夢でも見たか」


 静かな問いかけ。


「……はい。昔の、ことを」


「そうか」


 彼はそれ以上、何も聞かなかった。

 ただ、暗闇の中に立ち尽くし、私の呼吸が整うのを待っていてくれた。

 稲光が走り、一瞬だけ彼の顔が浮かび上がる。

 彼は、とても痛ましげな、悲しげな目で私を見ていた。


「……リアンフィア嬢」


 彼が口を開く。


「ここは王都じゃない。お前を断罪する奴も、比較する奴も、ここにはいない」


 低く、落ち着いた声が、嵐の音に混じって響く。


「お前は、お前だ。誰かの代用品でも、失敗作でもない」


 その言葉が、凍えていた私の心にじんわりと染み渡った。

 涙が、一筋だけ頬を伝う。

 私はシーツを握りしめ、震える声で懇願してしまった。


「……リアン、と」


「え?」


「リアン、と呼んでくださいませんか。……昔、母だけがそう呼んでくれました。あの方の婚約者になる前の、ただの私を」


 沈黙が落ちる。

 契約違反ではない。呼び方を変えるだけだ。

 でも、それは私たちにとって、大きな一歩踏み込みすぎる行為のような気がした。


 やがて、彼が小さく息を吐き、優しく名を呼んだ。


「……リアン」


 ただ、名前を呼ばれただけ。

 それなのに、なぜだろう。

 冷え切っていた体が、芯から温められたような気がした。


「おやすみ、リアン。……俺はここにいる。誰も近づけさせない」


「……はい。おやすみなさい、イグノート様」


 その夜、私は久しぶりに、夢を見ずに眠ることができた。


 翌朝、私たちは昨夜の出来事には触れなかった。

 けれど、「おはよう、リアン」と彼が自然に言ったとき、私も「おはようございます」と返す声が、以前より少し弾んでいるのを自覚した。

 白い結婚。

 真っ白なキャンバスに、少しずつ、淡い色が乗り始めていた。


 ◆


 季節が変わり、庭の木々が色づき始めた頃。

 その平穏は、唐突に打ち砕かれた。

 王都から、一通の親書が届いたのだ。

 差出人は国王陛下。内容は簡潔かつ絶対的な命令だった。


『リアンフィアを直ちに王都へ帰還させよ』


 表向きの理由は、「聖女マユが精神的に不安定であり、リアンフィアとの和解を強く望んでいるため」というものだった。

 だが、行間からは別の意図が透けて見えた。

 聖女様を制御しきれなくなった王家が、彼女の精神安定剤として、あるいはサンドバッグとして、私を利用しようとしているのだ。


「……ふざけるな」


 親書を読んだイグノート様が、珍しく感情を露わにして机を叩いた。


「散々使い潰して捨てておきながら、都合が悪くなったら戻ってこいだと? モノじゃないんだぞ」


「……イグノート様、落ち着いてください」


 私は努めて冷静に振る舞ったが、指先は冷たくなっていた。

 王命には逆らえない。もし拒否すれば、アステイル公爵家に迷惑がかかる。


「行きましょう。……決着をつけなければならない時が来たのです」


 私たちは馬車に乗り、王都へと向かった。

 道中、イグノート様はずっと険しい顔をしていた。

 一度だけ、彼はぽつりと言った。


「俺が、守る。契約がどうあれ、君をあいつらの生贄にはさせない」


 その言葉が嬉しくて、そして苦しかった。

 もし、王家が私たちの結婚の「穴」を突いてきたら。

 私たちは、とんでもない選択を迫られることになる。


 王城に到着すると、私たちはすぐに謁見の間ではなく、神殿へと通された。

 そこには、国王陛下、ゼルディック殿下、聖女マユ様、そして数名の高位貴族と神官たちが待ち構えていた。

 異様な雰囲気だった。


「リアンフィアさん!」


 部屋に入るなり、マユ様が駆け寄ってきた。その目は赤く腫れている。


「ごめんなさい! わたし、ずっと自分の恋のことで頭がいっぱいで……。あなたのことを、ちゃんと見ていませんでした。あなたが傷ついていることに気づかなくて……」


 彼女は私の手を握り、涙を流した。

 純粋な善意。純粋な後悔。

 ああ、本当にこの方は「聖女」なのだ。悪意がない。自分が無自覚に私から奪ったものの重さを、これっぽっちも理解していない。

 貴女が悪人であれば、罵倒してやれたのに。

 こんなに純粋に謝られたら、私は許すか、あるいは黙って受け入れるしかないじゃないか。


「……マユ様。お顔を上げてください」


 私は静かに彼女の手を外した。


「謝罪は受け取りました。ですが、過ぎたことです」


「でも……!」


「それより、本題に入りましょう」


 私は視線を、国王陛下と宰相たちに向けた。

 宰相が進み出て、咳払いをした。


「……単刀直入に言おう。イグノート殿、リアンフィア嬢。貴殿らの婚姻には疑義が生じている」


「疑義?」


 イグノート様が低く唸る。


「うむ。調査の結果、貴殿らが離宮にて『夫婦としての実態』を持っていないという報告が上がっている。寝室での気配、使用人の証言……それらから判断するに、これは所謂『白い結婚』、偽装結婚ではないかとな」


 やはり、監視がついていたか。

 宰相は冷ややかな目で私を見た。


「夫婦関係を持たない婚姻など、国家間の同盟として極めて不安定だ。いつ破綻するとも知れない。そのようなあやふやな関係に、公爵令嬢を預けておくわけにはいかぬ」


 そして、彼は突きつけた。


「よって、王命を下す。今ここで、神殿の魔法契約により『真の夫婦』としての契りを結び直せ。さもなくば、この婚姻は無効とし、リアンフィア嬢の身柄は王家が預かるものとする」


 理不尽極まりない要求だった。

 白い結婚を解消して、私が城に戻り、聖女様の「お友達」兼「補佐役」という名の飼い殺しになるか。

 それとも、白い結婚を「普通の結婚」に変えるか。


 だが、私たちには契約がある。

 『肉体関係を持たない』『恋愛感情を口にしない』という契約が、すでに魔法的に結ばれているのだ。

 もし、これを無視して「真の夫婦」になろうとすれば――


「リアンフィア、無理をするな」


 不意に、ゼルディック殿下が口を開いた。

 彼は苦しげな、けれどどこか安堵したような顔で私を見ていた。


「お前はいつも、国のために自分を切り捨てすぎる。あの夜会での宣言も、私やマユを守るための芝居だったのだろう? ……戻ってこい。私が、お前の立場も保証する」


 殿下の言葉に、私は目眩がした。

 この人は、どこまでめでたいのだろう。

 私がまだ自分を愛していると、国のために身を引いたのだと、本気で信じている。

 その「優しさ」が、私をどれだけ傷つけてきたか、想像すらしていない。


「……殿下」


「なんだ?」


「貴方は、お優しいですね。……残酷なほどに」


 私は殿下から視線を外し、イグノート様を見た。

 彼は拳を握りしめ、震えていた。

 彼も理解している。

 今の契約を上書きして「真の夫婦」になるには、契約違反のペナルティを受けなければならない。

 そのペナルティは――直近1年分の記憶の欠落。


 私たちが出会ってからの、この数ヶ月の日々。

 不味いスープを笑い合ったこと。

 帳簿を見ながら感心してくれたこと。

 嵐の夜、名前を呼んでくれたこと。

 そのすべてが、消える。


 司祭が厳かに告げる。


「どちらかが、現行の契約を破棄する意思を強く示した場合、ペナルティが発動します。……さあ、どうされますか?」


 イグノート様が一歩、前に出た。

 その背中は、戦場で敵の大軍に立ち向かうときのように決然としていた。


「……俺が、破棄する」


 彼は私を見ずに言った。


「俺が一方的に契約を破棄すれば、ペナルティを受けるのは俺だけで済むはずだ。リアン、君の記憶は残る」


「な……っ」


「俺が記憶を失っても、君を妻として遇することは変わらない。だから――」


 また、この人は。

 自分の身を削って、誰かを守ろうとする。

 勇者だから? 男だから?

 いいえ。この人は、そういう優しい人なのだ。

 だからこそ、私は――


「お待ちください!」


 私は叫んだ。

 イグノート様の腕を掴み、彼を止める。

 あの夜会の日と同じだ。

 私はもう、守られるだけの、運命に翻弄されるだけの令嬢ではない。


「イグノート様。……いいえ、イツカ様」


 彼が一度だけ教えてくれた、異世界での本当の名前。

 それを呼ぶと、彼が驚いて振り返った。


「リアン、君……」


「私、あなたとの白い結婚を、ここで終わらせたいと願います」


 私の言葉に、神殿内がざわめく。

 ゼルディック殿下が「やはり、戻ってきてくれるのか」と顔を輝かせるのが見えた。

 けれど、私は殿下の方など見向きもしない。

 私の瞳に映っているのは、目の前の、不器用で優しい夫だけだ。


「白いままでは、もう足りないのです」


 私は一歩踏み出し、彼との距離を詰めた。

 心臓が破裂しそうだ。

 契約の警告か、頭の奥がズキズキと痛む。

 それでも、言葉を止めることはできない。


「怖くて、恋など二度としないと決めていました。また捨てられるのが怖くて、心を鎧で固めていました。でも……」


 彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。


「不味いスープを作ってくれる貴方が。私の仕事を認めてくれる貴方が。嵐の夜に、側にいてくれた貴方が」


 痛みが増す。

 魔法陣が赤く明滅し、警告音のような耳鳴りが響く。

 構うものか。

 私は叫ぶように、本音を叩きつけた。


「それでも、貴方を好きになってしまった私には、もう避難所ではなく、帰る家が必要なのです!」


 言ってしまった。

 「好き」という言葉は、契約違反の決定打だ。

 床の魔法陣がカッと強く輝き、激しい光が私たちを包み込む。

 記憶が消えるかもしれない恐怖。

 けれど、それ以上に、伝えたかった想いが溢れて止まらない。


 イグノート様が目を見開いたあと、ふっと破顔した。

 それは、今まで見たこともないような、憑き物が落ちたような、清々しい笑顔だった。


「……参ったな。俺も、同じことを言おうとしていた」


「え?」


「記憶が消えるのが怖くて、言い出せなかった。……勇者のくせに、臆病だったな」


 彼は光の中で、私の手を取った。

 力強く、確かな熱を持って。


「だったら、一緒に賭けましょう、リアン」


「賭け、ですか?」


「ああ。記憶を失っても、何度でもあなたを好きになるほうに」


 彼は私の手を引き寄せ、その場に跪いた。

 まるで、騎士が姫に忠誠を誓うように。

 いいえ、一人の男が、愛する女に求婚するように。


「神よ! 我々は白い結婚を破棄し、真の夫婦となることを誓う! ……この身が砕けようとも、この想いだけは消させはしない!」


 彼の叫びと共に、光が弾けた。

 視界が真っ白に染まる。

 頭を殴られたような衝撃が来る――と身構えた。


 けれど。


 訪れたのは、痛みではなかった。

 全身を包み込むような、温かく、柔らかな光のシャワー。

 頭の痛みも、胸の苦しさも、嘘のように消え去っていく。


 恐る恐る目を開けると、そこには、変わらぬ姿で微笑むイグノート様がいた。

 私の記憶は……ある。

 彼と過ごした日々のことも、今の告白のことも、鮮明に覚えている。


「……どうやら神々は、あなた方を祝福したようですね」


 静まり返った神殿に、司祭様のぼそりとした声が響いた。

 司祭様は、呆れたような、でもどこか嬉しそうな顔で、足元に落ちてきた古い石板を拾い上げた。


「古代の契約魔法の但し書きに、こうあります。『真に愛し合う二人が、その愛を証明するために契約を破棄した場合、ペナルティは免除され、祝福へと変わる』……と」


「そんな、都合のいい……」


 ゼルディック殿下が、力なく呟いた。

 殿下とマユ様は、呆然と私たちを見ていた。

 その目には、今度こそ、明確な「敗北」の色が浮かんでいた。

 偽りのない、本物の絆を見せつけられて、何も言えなくなったのだ。


 ◆


 神殿を出ると、空は夕暮れから夜へと移り変わる時間だった。

 白かった空が、鮮やかな茜色と群青色のグラデーションに染め上げられている。

 それはまるで、私たちの関係の変化を表しているようだった。


 人払いされた回廊を、二人で歩く。

 ふと、イグノート様が立ち止まった。


「……リアン」


「はい」


「手、繋いでもいいか?」


 彼は照れくさそうに、そっぽを向いて手を差し出した。

 これまで一度もしてこなかった、明確な「契約違反」の行為。

 いいえ、もう契約違反ではない。

 私たちにはもう、何の縛りもないのだから。


「……ふふ」


 私は思わず笑みをこぼし、彼の手のひらに自分の指を絡めた。


「試してみてもいいですよ」


「何を?」


「貴方の妻として、手を握る権利が、ちゃんとあるのかどうか」


 彼の手が、ぎゅっと力を込めて私の手を包み込んだ。

 大きく、温かい手。

 剣を振るってきた硬いタコのあるその手が、今は何よりも愛おしく、頼もしく思えた。


「……離さないぞ」


「離してくださらなければ、あるのだと思いますわ」


 彼は嬉しそうに笑うと、私の手を引いて歩き出した。


「帰ろう、リアン。俺たちの家に」


「はい。……イツカ様」


 名前を呼ぶと、彼が振り返り、優しく目を細めた。

 かつて真っ白だったはずの婚姻届は、いまや彼と過ごす日々の色で、見る影もなく鮮やかに染め上げられている。

 それを幸せと呼んでしまっていいのだと、私はようやく、自分に許すことができた。


 これからは、白い結婚ではなく。

 騒がしくて、温かくて、きっと呆れるほど甘い日々が始まるのだ。

 繋いだ手の温もりを噛み締めながら、私は未来への一歩を踏み出した。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!


理不尽な状況から自ら運命を切り開き、不器用な勇者様と「本当の幸せ」を掴み取る……そんな二人の溺愛ハッピーエンドでした。


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