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高遠の土地ナーランダ②

実在する桃源郷があったとしたら。。?

高遠の土地ナーランダ②



一方こちらはガントとレイカが旅立った後のナーランダ。


ガントの父ダレル「誰流」はひょろっとしてはいますが、筋肉の張ったその体で、今日も痩せ細ったパーチ畑を耕していました。



ダレルは「…もう昼か、そろそろめしにするか…」と一人ごちて、針葉樹の部材で出来た小さな平屋建の三角屋根で東洋風建築のような我が家へ昼食をとりに帰りました。



すると、最近少し痩せては来ましたが、やはり美しい瞳のガントの母、レミン(麗美)がテンペと、岩塩で揉んだ菜の花の茎をダレルの為に用意していました。



「お帰りなさい、今日は午後もまた畑に出るのですか?」とレミンはダレルに聞きました。


「ああ、もう少し水路の水を撒かなければな…これ以上パーチを減らす訳にはいかんからな。」とダレルは答えました。



二人で昼食をとっている時にレミンは言いました「あの子が旅立ってひと月になりましょうか?」


「ああ…」


「あなた心配ではないのですか?」


「もちろん心配はしているよ…。」


レミンは続けます「ひと月が経つのに帰って来ないんですよ。


私はあれから毎日あの子達の事が気になり、落ち着かないのです。」


「それは私も同じだよ…」とダレル。


レミンは「私は反対だったのです。畑を貰える事なんてどうでも良かったの…レイカの母も反対していたではないですか?。」と言いました。


「ああ…。」


「ああ…じゃないですよ、ほとんどあなたが行かせたようなものじゃないですか?。」と少し強い口調でいいました。



ダレルは言いました「…お前は覚えておるか?ガントとレイカが七つか八つの時、ルルベべ(留々辺々)の雪の岡でソリ遊びをしていて、レイカの乗ったソリが木にぶつかり、彼女がひどい怪我をした事があったな…。

レイカは左足首の骨を折ったのだ。


その時、ガントはレイカの家に毎日通い、レイカの左足の添え木の取り替えをしたり、動けない彼女の話し相手をしていた…。


レイカは動けない事がもどかしく、ガントに辛く当たったり、我が儘をぶつけたりした。

ガントはそんなレイカを上手くなだめた…。

七つか八つのガントが妙に大人びて見えたものだ。


レイカもそのうち目に涙を溜めて、ガントごめんね、ごめんね、と泣いたそうだ…。


女王の言う通り、あの子達の絆は国一番かも知れん…。


私は宿命があるとすれば、やはり彼等がこのナーランダに希望をもたらすと信じたのだ。

きっとガントとレイカは帰ってくる。一月経った今、私は、きっとガント達は世界の壁を超えて、パーチに替わる食料探しをして居るに違いと思っているのだ…。」と。


レミンは「そうでしょうか?と言い、少し涙ぐみました。」



昼食を終えてダレルはまた畑へ出かけて行きました。




ナーランダは6月に入りました。やはり例年より気温が高いようです。



その夜、宮殿の一室で物思いにふけるクーエンゾーは窓から星の見えない夜空を見つめ、一人ラモルと言う強い酒を少しづつ飲みながら思いました。


(ガントとレイカはどうしておろう…もうひと月か…。壁から落下したのであれば、そのむくろは壁の根元にあるはずだが、それも見られない…。


やはり外界は存在したのだろう…。


我々には我々の歴史を知る術は伝承のみ…我々は何処からきて何処へ向かうのだろう…?。


古い言い伝えは残っておる。それは…


ナーランダの民は赤土から神が創りたもうた。最初に女、次に男。

最初の女は次に創られた男と夫婦めおとになるのを嫌がり、自分の肉を切り、その肉から自らの分身を創り、それを最初の男の花嫁とし、自分は壁の外に居る悪魔の花嫁となったか…。


我々ナーランダの民は女が残した肉と、最初の男から生まれた。

と言う言い伝えか…。

最初に神に創られ、肉を自らの分身とした女の名前は「リルサ」(離類砂)…。


彼女は長い年月ナーランダに、地震や災害、飢饉を呼び起こす悪魔となったそうだが…。


パーチの減少もリルサの力だというのか?。

もしそれが誠であればガントとレイカはリルサとその夫の悪魔と戦わなければならんのか…?。


女の分身の肉と最初の男から我々が生まれたなどと考えたくはない。


やはり父上と母上の言うように壁の外から我々は来たとしか思えない…。



ガント、レイカよ、きっと自分たちの力で戻ってくるのだ。)と。




パーチの数は減るものの、穏やかな日々がナーランダにはまだ残っています。



6月になるとナーランダは農繁期に入り、畑には多くの人々の姿があります。


家族総出で作業をします。


ある女は生まれたばかりの乳呑み子を背負い、子供達は土遊びをしながら両親を手伝います。


ナーランダも、目にも眩しい新緑の季節になりました。






一方こちらは中国「西安」に向うため、モスクワ空港にニコライとナスターシャの姿がありました。



搭乗までの時間、空港のラウンジに腰掛け、二人でコーヒーを飲んでいます。



ニコライは「これだからここのコーヒーはいかんのだ…不味い…なんと薄いのだ…香りもしない。」とぼやきます。



「博士は本当にコーヒーグルメでらっしゃいます事。

そんなんではナーランダで暮らすのはご無理のようですわね。」とナスターシャは笑いました。


「そうだな…いくらナーランダに憧れても、私はコーヒーがなければ生きて行けない…勝手なものだ。」とニコライは笑いました。


そして続けます「いくらナーランダに憧れても、私はやはり現代生活を捨てる事は出来ん…。アンにも無事に大学院を卒業してもらいたい。イザベラにもセントラルヒーティングの新しい家を建てると約束したしな。まぁ、今回中国に行く為の旅費やガント達を連れ戻すための様々な費用の為に少し部屋数が減るかと思ったが…なんとか君のお陰でそうでも無くなりそうだよ…有り難う。」軽く微笑んでからニコライはまた続けます「…私は何が言いたいのかな?…またはしたいのか?。

やはりこの地球には干渉してはならない領域があると思うのだ…ガント達の世界、我々現代人の世界…」と。


ナスターシャは尋ねました。

「先日博士は学者にも知ってはならない世界があるとおっしゃいましたが、その事ですか?。」と。


「ああ…。矛盾だね、全てを明らかにしようとするのが学者…しかし私は医学博士と違い、医療科学にはうとい…。医療は人間にとって不可欠だ。病気になっても生きなければならん。その為に研究を必死で行う…しかし未だ治せない病は沢山ある。

それが今彼らが知りたくても知ることの出来ない領域さ。


民族学者の私は知りたくても知る事の出来ないナーランダを知ってしまったようだ。


とてつもない喜びの反面、とてつもない恐怖も感じるんだ。


カラサイのテントで聞いたレイカとガント達の話は、私にとったら非常に甘過ぎて、また同時に非常につらい話しだった。


ナーランダでの憧れの暮らしと、コーヒーを飲めない暮らし…。

そこで例えばナーランダにコーヒードリッパーとお気に入りのカップ、電気湯沸し器を持って行っても意味がない…って訳だ。


ガントとレイカも同じさ、ナーランダから降りて、普通の現代生活を送れるとは思えない。それぞれの領域を汚さず、お互いが尊重して過ごして行く事なのかな?。

何言ってるのだろう…私は…?。」と言い、また不味いコーヒーを飲み、苦虫を噛んだような顔をしてからまた微笑みました。

ナスターシャは「……分かるような気がします。」と優しく微笑みました。


その時、中国へ向かう便のアナウンスがありました。


二人はゆっくり立ち上がりました。














次回へ。


写真は中国は西安の仏塔「大雁塔」。


西安の人口は680万人。大都会です。


長い中国の歴史の中で、数々の時代の首都になった土地です。


いまや北京が中国の首都ですが、西安は古来、新、魏、隋、唐などの過ぎ去った国々の都だった街で、現在は「西安市」となりました。


「大唐西域記」(西遊記)の三蔵法師がインドを目指し旅立った「長安の都」でもありますね。



博士達は西安市の空港を出ると、真っ直ぐ西安市内の中国山岳民族研究所へ向かいました。


タクシーの運転手は粗暴で、ニコライとナスターシャに侮蔑とも取れる嫌な視線を送り、タクシー料金を吹っ掛けました。


博士とナスターシャは少し嫌な気分になりましたが、料金を支払い、タクシーを降りて中国山岳民族研究所に到着しました。


それは、五階建てで、少し古い茶色いレンガ造りの建物でした。


ドアを開けると、頬が赤く、てっぷりと太って、ふてぶてしい若い女が受付に座っていました。女はいかにも不機嫌そうで、入ってきたニコライ達を見ると、片言の英語で「どこからきた?何しに来た?」と、つっけんどうに聞きました。


博士は自分の名刺を彼女に見せて、「私はニコライ・プルジェリスキー、モスクワの民族学者です。彼女は私の助手のナスターシャです。」と、あまり上手くない英語で言いました。


女は怪訝な表情で「…用件は?。」とまた聞きます。


ニコライは「学者として、あの未知の山岳民族の少年に逢いたくて、モスクワから来たのです。彼に会わせて欲しいのです。」とまた訛った英語で答えました。


名刺を手にした女はそのまま奥の部屋に行き、しばらくすると一人の眼鏡をかけた小柄な男を伴って現れました。


男は「初めてまして、私はここの研究員の劉衡劾りゅう こうがいです。ニコライ博士の著者は何冊か読ませて頂きました。


まさかニコライ博士がいらっしゃるとは。


実はもう何人もの学者先生がここを訪れているのですよ。」と流暢な英語で言いました。


「そうですか、私をご存知とは光栄です。


で、彼等については何か分かりましたか?。」とニコライ。


劉は「それが羊の毛皮で出来た上着は何らかの木の樹液でしっかり張り付けてあり、糸で裁縫した物ではない事と言うぐらいで…。


何しろここへ来てから彼は一言も喋らず、暴れる事が多くて…。


なので言語の調査は全く出来ない状態なんですよ。」と言いました。


ニコライは思います(しめた!良く黙っていた。ガント、これでナーランダの大体の位地も奴らには分かるまい。)と。


「では、早速彼に会わせてくれませんか?」とニコライは言いました。


「もちろんですよ。でも彼は警戒心が強く、暴れる為、拘束してるので…話しをするとは思えませんが…。

さあ、こちらです。」

案内されたのは建物の五階で、この建物の最上階でした。


劉は少し古びたドアを開けました。


そこには拘束服を着せられて、かなり痩せてしまったガントがぽつんと椅子に座っていました。


ゆっくり顔を上げ、ニコライとナスターシャの姿を認識したガントの瞳にみるみる光が戻りました。


劉に見られないように、ナスターシャは口元に人差し指を当てて(しっ、なにも言わないように)とガントに合図しました。


そこには既に「北京民族研究所」とう名札をを着けた研究員二人がガントにカメラのフラッシュをたいたり、なにやら手帳にメモを着けています。


二人はニコライとナスターシャを見ると軽く会釈をし、またそれぞれの作業を続けました。


ナスターシャは「近づいてもいいかしら?」

と劉に聞きました。


「暴れると思いますが…。」


と劉が言うが早いか、ナスターシャはガントに近づきました。


ガントは暴れません。

ナスターシャはガントの耳元で彼にしか聞こえないナーランダ語で「ガント・助ける・待っててね」とささやきました。


ガントは微かに頷きました。


ニコライは「ほお、確かに見た事の無い民族だね。いつまでここに置いておくのです?。」

と劉に聞きました。


「そうですね、もう少し様子を見て、なんとか言葉を聞き出して、彼が何処から来たのか聞き出し、我々の研究所員で彼のふるさとに連れて行こうと思います。マスコミも連れて行きたいてすねぇ、何しろ大発見になるわけですから!。」と笑いました。


博士は、馬鹿が…と思いつつ「そうだねぇ、その時は私もご一緒させてもらいたいものだ。

ところで彼は食事をとっているかな?。」

と尋ねました。


劉は「それが何を出しても食べないんですよ。うちの職員が口元に運んでやるのですが、猿ぐつわを外すとすぐに大声をだすのです。(うおー!うおー!)とね…。水は少し飲んではいます。」と答えました。


博士は思います(やはりな…。早い方がよい、ガントの体力も限界だろう。今夜決行だな。)と。



そして暫くガントの観察をする振りをしてから、退室する間際、ナスターシャはガントに周りに聞こえない声で言いました「今夜・ガント・助ける・レイカ・今・無事・次は・レイカ・助けに行く。」と言いました。


ガントは頷きました。


帰りのタクシーの中でナスターシャは「それで、どうなさるんです?」とニコライに聞きました。


「私も今までやった事がない事をせざるを得ないな…。


完全犯罪かな?。」


「やはりそうですか…しかし、失敗したら…?。」


「まぁ、裁判になって何年喰らうか…?。だが、熱心な民族学者が研究のために、ガントとレイカを誘拐をしたとすれば、三、四年ってとこか…?。あるいは執行猶予がつくかも知れん…。」とニコライは言います。


ナスターシャは「いいんですか?…それでも?。」と聞きます。



「私は私の信念でやるのさ…。取っ捕まってから裁判官に(ナーランダはこれからも誰にも知られずに穏やかな歳月を過ごすべきだ!)と言ったところで、彼等の心には何も響かんさ…。数年なら臭いメシを食べたって構わないよ。」とガントは言いました。


ナスターシャは「…でもそれじゃあ奥さんとアンはどうなるの?。」と聞きました。


「…イザベラは私の事を分かってくれとる。事情を話せば必ず私の帰りを待ってくれる。

アンも最近ではあまり私に近づこうとしないが、やはり私の事は分かってくれるだろう…

アンは晩婚だった私が38歳の時に授かった子供なのだよ。


彼女は少しずつ私から離れて行くかもしれんが、私にとってアンは宝物だよ。パパを信じてほしい…いや信じてくれるだろう…。」と博士はいいました。



その後、サングラスをかけたナスターシャは偽名でレンタカーを借り、その後、スーツ1式を西安市内のデパートで購入しました。


ニコライは白い小さな金属板、手袋、マジック、両面テープ、ガラスカッター、ロープ、金鎚、ナイフ、太く長い釘などをそれぞれ別の雑貨店やスーパーで購入しました。



そして彼等は一旦ホテルにもどり、簡単な夕食をとりながら、打ち合わせを行った後、定めた時間が来るまでそれぞれの部屋で休む事にしました。



博士は持ってきたコーヒーとドリッパーを旅行鞄から取り出し、ホテルの小さな電気コイル式のコンロと、これまた小さなやかんでお湯を沸かし、コーヒーを炒れて、マグカップに注いでからゆっくりとそれをすすりました。


それからまた、鞄の中からモスクワから持参したサイレンサー付きのバッテリー式電気ドリルを取り出し、左手に携え、スイッチ押してみました。


ドリルは小さな音を立てました。(シュー…)と。

博士は思います(研究所の壁がレンガで良かった…、このドリルならスムースに穴を開けられそうだ…)と。


そしてホテルの窓を開けると、大都市特有の生暖かい濁った風が博士の頬や白い髪を通過しました。


ニコライは思います。(…本当に私は何をやろうとしているのだ?ナスターシャまで引き込んでしまって…。しかしこの世界はもはや私の常識や考え方は異端になりつつあるのか?…。愛し合った若い男女二人が、疑うことのない、かけがえのない愛すべき土地で子孫を残し、育て、人々がお互いを尊重し大切にし合うと言う当たり前の常識を子供に授け、死んで行く…。そんな当たり前の連鎖を私は守りたいだけなのだ…。)


そんな事を思っていると、ノックの音がしました。


ドアを開けるとナスターシャが立っており、「時間ですわ…。」

言いました。


時計の針は午前2時を指していました。



二人はホテルの駐車場に止めてある日本製のレンタカーに乗り込み、中国山岳民族研究所に向かいます。


研究所の五百メートルほど手前で車を止め、ナスターシャが適当にナンバーを書いた白い金属の板をレンタカーのナンバーの上から重ねて両面テープ張り付けました。


そしてゆっくり研究所の後ろに車を着けました。

正面の入り口付近では、深夜でも警備員が詰めているからです。


博士はナスターシャに「待っていてくれ…」と言い、黒い手袋をはめ、ディバックを背負い、研究所のレンガの壁に近づき、サイレンサードリルで直径15ミリほどの穴を開けて行きます。「シュー」と静かな音をたてて穴が開きました。


そこに太さは18ミリ長さ、15センチほどの大きな釘を差し込み、軽く金槌で打ち付けます。大きな音をたてないように「コンコン…」と。


博士は「ガント達が登った世界の壁の事を思えばこのぐらいの事…」と思うのですが、博士の体は震えていました。

博士は昔から運動は苦手でしたし、もう六十歳なのですから…。


それでもゆっくり確実に釘で足場を作り、研究所の三階辺りまで来た時、下を見ました。

もうレンタカーは遥か下方です。(うっ…下を見てはならん。)と思い、ひたすら五階を目指します。


五階の窓の横の壁に最後の釘を差し込み、それを打ち付けると、その釘にロープを縛り付け、下の地面までそれを垂らしました。


「さて…」と博士はつぶやき、ディバックからガラスカッターを取り出し、ガラスを切ろうとしました…しかしいくらガラスを切ろうとしても、ただガラスに傷がつくだけで一向にガラスは切れません…。


ニコライの額には冷や汗が滲み初めました。

ニコライは「これではらちが開かん…。ええい、なむさん!」と言い金槌でガラスを叩き割りました。


「ガッシャーン」と音がしたので、下で待っているナスターシャは車のドアを開け、研究所の壁のそばまで来て、五階を見上げました。


…しかし幸いにもその音は警備員には届かなかった様です。


「ほっ…」としたニコライは窓の内側の鍵に手をやり、それをはずして開けました。


ゆっくり五階の廊下に侵入すると、鍵の掛かったガントの部屋の前まで行き、ドアノブをカチャカチャと回しました、もちろん施錠されています。

「やはりな…。これで最後だ!」

と言い、金槌で思い切りドアノブを叩き付けました!。ガーン!ガーン!、と大きな音をたててドアノブは壊れました。今度はその音は警備室まで聞こえたようです。

ニコライは急いでドアを開け、まどろんでいるガントを起こし、拘束服をナイフで切り割き、ガントの右手を取り、廊下に出た時、明かりがつき、数人の警備員がニコライとガントに駆け寄ってきました。


ニコライは「こっちだ!」とガントに言い。先ほど侵入した窓まで行き、レンガの壁に打ち付けた釘にくくり付けたロープを指さしました。


警備員はほんの20数メートルまで彼等に迫りました。


博士はガントに最初にロープを掴ませて、白いタオルを彼に渡しました、ガントはそれを手に巻いて、一気にロープを下りました。


ニコライも黒い手袋でロープを掴み、一気に地面まで向かいました。


急いで二人はナスターシャの車に乗り込み走り去りました。


一キロほど走って、博士はナスターシャに車を止めさせ、先ほどのインチキナンバーを取り外しました。


そしてホテルへ向かう車中でガントは「ニコライ、ナスターシャありがとう!殺されるかと思ったよ。レイカは!?」と聞きました。


ナスターシャは「今は・まだ・大丈夫・それより・後ろにある・服・着替えて。」と言いました。ガントはそこにあるスーツ1式を手に取り「…これが服ですか…?」と不思議そうな顔をしました。




次回へ。
















二日後、中国、ロシア、日本、アメリカ、イギリスなどでは謎の山岳民族が何者かに連れ去られたと言う報道がテレビ、ラジオ、新聞などで伝えられました。


アメリカ国民の反響はあまり大きく無く、「そんなに謎の民族が大事なのか…?それよりアメリカ政府の今の現状に力を入れるべきではないのか?。


先日も狂った大学生が銃を乱射した事だし。

少しでも犯罪を減らす方が先だね。」などと言う意見が大半を占めています。


また日本では、拡がる格差社会問題や、国民健康保険税、消費税などの税率問題や、総理大臣に対する批判や、逆に総理を応援する声がニュースで取り挙げられ、謎の山岳民族についての報道にも、日本国民はさほど興味を抱きませんでした。


お茶の間でテレビを見ていたある日本の主婦は「あらまぁ、もの好きな人がいるのねぇ…、わけの分からない原始人を誘拐するなんて…何の得になるのやら…?。」とチャンネルを変えて芸能人のゴシップ報道を興味深げに見入るのでした。



アメリカや日本があまり騒がなかったのはニコライ達にとっては幸運でしたが、中国の報道は加熱し、中国の民族学者はニュース番組で声高に訴えます「我々のルーツかも知れない民族を何者かが連れ去るとは!。あの少年は知られざる我が国の桃源郷から来たに違いない。我々のこの広大な国土の何処かにその土地はある筈だ!あの謎の少年の民族的価値は計り知れない。

その価値を知る者の犯行に違いない!」とまくし立てます。



一方、ロシア考古民族アカデミーでも謎の民族の少年が何者かによって連れ去られた事を受け、レイカへの警備が一層強固になって行きました。



ロシア考古民族アカデミー副所長のミカエル・ロジトノフは副所長室の机に革靴の両足をのせ、葉巻をくゆらせながら大きな背もたれのある椅子に座り、じっと考えています「中国の奴らめ、だらしのないものだ。あのようにいとも簡単に少年を連れ去られるとは。しかもたった二、三人の仕業の様だ…。中国の奴らは必死になって少年の行方を探しているだろう。何処の誰かは分からんが、中国政府から身代金でもせびるつもだろう…下らん奴らだ。

まぁ少年の事は仕方がない。しかしこちらにはあの少女がいるのだ…。幾らでも彼女が何処から来たのかは聞き出せるはずだ…。


少年が発見される前に彼女の口を割らねばならん、いずれ中国の学者連中は少年を見つけ出し、彼等の故郷を知るだろう…。


そうなる前に彼女から彼等の故郷を聞き出さねばならん…。


しかし、天山山脈の調査は全て終了しておるし、衛生写真にも集落は見当たらなかった。

プロの登山家、アマチュアの登山家からもその様な集落があるとは聞いた事が無い……もしかしたらあの少年少女は愉快犯かも知れん……。


いや、でも彼等のあの顔立ち、装束、ここへ来てからは全く言葉を発しなくなったが、カラサイで彼等は聞いた事もない言葉を早口でしゃべったという……

分からん…。


あれからまた天山山脈にヘリを飛ばしたが、集落の様なものは一切確認できなかった…。

もしかすると神に護られし本物の桃源郷が…?。


いや、そんな筈はない。私は学者であり、無神論者だ。少しでもそんな考えを持ってはならん…。


とにかく警備を固めなければ、…残った少女を狙って中国の奴らや、その他の輩がやって来るだろう…。


…防犯システムか…センサー、カメラ。予算がかかるな…」と。



その時、副所長室のドア開き、所長のセルゲイ・コプチュークが部屋に入ってました。


ミカエルは慌てて両足を机から下ろし、葉巻を灰皿でもみ消し、椅子に座り直し「お早うございます所長。」と早口で言いました。


所長のセルゲイの歳はもう七十を過ぎており、真っ白な顎髭あごひげを蓄え、頭は両脇を残して綺麗に禿げ上がっています。

しかし彼はどことなく柔和な印象を周りの人々に与える人物です。


所長は「中国の少年が行方不明になったそうだが、ここは大丈夫かね?」とミカエルに聞きました。


「その事なのですが、ウチの警備を更に固める必要がありますな…。予算がかかります」

「うむ、分かってはおるが、なにぶん国からの補助金も大分削られておる、まぁ何とかしてみよう。


ところであの少女だが、随分沈んでいる様ではないか…食事もろくにとっていないようだし、早く故郷に帰してあげたいものだ…。そこが分かれば我々の研究所にも更に国から補助が出るだろう。」とセルゲイは言いました。


ミカエルは「それが彼女は頑としてしゃべらないのです。こうなったら力ずくでなんとか…。」と言いました。

セルゲイは言いました「それはいかん。彼女はまだ子供だ、力づくでは余計彼女を萎縮させるだろう。


優しさを持って接するのだ、彼女も我々と同じ人類なのだ。今は彼女のしたいようにさせるしかない…。人権保護団体が我々のやっている事が「誘拐」だと騒ぎ初めておるからな…。派手な事は控えるのだ。分かったな、後は頼んだぞ。」


と言い、部屋を出て行きました。


ミカエルは(何を甘い事を言ってるのだ、そんな事をしていたら、あの少女はいつまで経っても口を開くまい…。やはり力に叶うものは無いのさ…)と心で思いました。



少し時間を遡ります。


逃走中の車の中でナスターシャはガントに用意したスーツを着る様に言います。


しかしガントは何がなんだかサッパリ理解できず、窓の外の西安市内のネオンや街灯の明かり、黒いビルなどを呆けたように見つめて「…なんだ、この光は…あの塔はなんだ…?」とつぶやきました。

ガントの隣に座っていたニコライは、スーツのズボンを左手にとり、右手で羊革で出来たガントの太いズボンを下ろそうとしました。


ガントは「ニコライ!何をするんだ!」と言いました。


車を運転しているナスターシャは、「ガント・ナーランダの民族・ばれる・いけない・私達・似たような・服・着なさい」と後部座席のガントに言いました。

ガントは渋々ニコライからズボンとスーツを手に取り、何とか着ようと試みます。ズボンは何とか狭い車の中で履けましたが、ベルトが出来ません…。


ニコライが「こうするのだ」と言いベルトを締めます。

次に分厚い羊革の上着を脱がせると、博士もナスターシャも見た事の無い、粗っぽいTシャツのような物が現れました。薄暗い光の中でそれを見た博士は言いました「なんと言う事だ…。これは何らかの食物繊維か?あるいは木綿か?」と。


ナーランダには大型の蛾、「ロマーシパ」(露護糸羽)と言うカルデラに生息する固有昆虫の幼虫の繭から、絹に近い布を織り、それから下着を造るのでした。


博士は「こんな技術があるとは…。」

と言いながらも、下着の上からむずがるガントにシャツを着せて、ネクタイを締めてやり、上着を着せました。


ガントは「おお、なかなか似合うな…。」と言いました。


ナスターシャは「暗いし、ミラーじゃ良くわからないわ…。」と残念そうに言いました。

幸い研究所からの追手は、博士達が研究所を後にしてから3・4分後に出発したため、とても追いつく事は出来ませんでした。



ホテルに着くとニコライはガントを車から下ろしました。


駐車場の街灯の明かりに写ったガントの姿を見たナスターシャは「…素敵…これならまさかガントが未知の土地からやって来たとは誰も思わないわ…普通の西洋人に見えるわ」と言いました。


実際背も高く、掘りの深いガントにスーツは良く似合いました。


ですが、どこか挙動不審なのでした。


ナスターシャは「顔・上げて・背・伸ばして・ニコライの真似する!」とガントに言いました。


ぎこちない動作でニコライの真似をして、不自然なくらい背を伸ばしたガントは、ホテルのロビーに入りました。

フロントレディーはガントを見ても普通のロシア人の若者としか思っていません…。


ニコライとナスターシャはフロントで鍵を受け取り「親戚の子が仕事でやって来たんだ。もうひと部屋取れるかね?。」と尋ねました。

若いフロントレディーは「はい、空いておりますよ。少し離れた部屋になりますが、よろしいでしょうか?。」と答えました。


ニコライは「明日の朝早くに発つからね。どの部屋でも構わんよ。」と平静を装おって言いました。


そしてガントに変わり受け付け用紙に適当な住所と名前を記載し、エレベーターを上がり、三人はガントの部屋に集まりました。


そこではどうやってガントのパスポートを取るか?。そして警備の厳重なロシア考古民族アカデミーにいるレイカを如何にして連れ出すかを三人で相談を初めました。




一方、こちらは一人ぼっちのレイカ。


ガントと違い、彼女は暴れる事も無いために拘束はされていませんが、やはり部屋には外から鍵が掛けられ、内側から外に出る事は出来ません。


やはりガントと同じく水は飲みますが、与えられた食事には殆んど手をつけていません…。


食事は牛肉やジャガイモ、穀類、少しの野菜などでした。


全くレイカには食欲はありませんでした。


ここに来るまでのロシアのビルが立ち並ぶ街並み、見た事も無い沢山の人々、副所長や研究所の職員に対する恐怖感…。


彼女は思います。「やはりここはリルサの支配する土地だったのね…あの人達はリルサの子供達だわ…。


と言う事は悪魔も何処かにいるのね…。


私はナーランダに帰れなくてもリルサと悪魔がナーランダのパーチを減らす事を阻止しなければ…だけど私一人で何が出来ると言うの?。

リルサの息子達に閉じ込められてしまったのに…。


でも泣いてばかりは居られないわ…。

クーエンゾー様は私達の事をきっと今でも信じていて下さる。


ガント、ガント…。きっとガントが助けてくれる!。私はあのリルサの息子達に何もしゃべらないわ!絶対に!何があろうとも。お父さん、お母さん、レイカはリルサと闘います。」と気丈に思いましたが、やはりその青い瞳から流れ落ちる涙を止める事はできませんでした。

やはり、そんな大きな事を考えても、彼女はたった17歳の少女に過ぎないのですから…。




ミカエル・ロジトノフは今日もグレーのスーツに赤いネクタイを締めて助手と伴にレイカの居る部屋へ向かいます。


彼は今年で42才、ロシア考古民族アカデミーの副所長になったのは異例の速さでした。


彼はロシアの国立の大学院を卒業後、直ぐにこの研究所に就職しました。


入所当初から潔癖症で、頭が切れ、優秀な研究員として周りから評価される人物でした。


綺麗に7・3に分けた髪型、年の割に細面で色白な顔つき…。


とても優秀な彼でしたが、「人徳」と言うものにはいささか恵まれていないようです。


レイカの居る部屋に入るなり、冷たい声でレイカにささやきます。

「いくらだんまりを決め込んだところで何もならんぞ。いずれ口を割る時が来る。


何処から来たのか言うのだ。天山山脈のいずこから来た事は分かっている。


何故写真にも写らん?何故我々の技術でも発見できんのだ。


隠す事なく話すのだ。一言で良い。声をださんか!。」


と言いますが、レイカには理解できませんし、彼女は一言たりとも言葉を発する気はありませんでした。


ミカエルは思います。(ここまで一言も発しないとは…これではどんなに優秀な言語学者が付いていても何も分からん。


叫び声でもよい、何か声を出させてやる!。)

次の瞬間、ミカエルはレイカの髪を鷲掴みにして、それを強く上にひっぱり、大声でいいます。「これでも何も言わんのか!叫び声を聞かせろ!」と。


レイカは口を固く結んで目をつむっています。

ミカエルの力は次第に強くなり、その言葉も更に荒っぽくなって行きます。


ミカエルの服装や髪型も少し乱れました。


更にレイカの唇は固く結ばれて行きます。


「ええい、強情な女だ!何とか口を割らせるのだ!」とミカエルは助手に言い放ち、乱れた頭髪を手櫛で直しながら部屋から出て行きました。


レイカはまたうつむき、声を押し殺して泣きました…。


心の中で祈るように叫びますます。「ガント…ガント…!」と。


レイカはこんな毎日をもう一週間ほど過ごしているのです。


彼女の精神力も限界でした…。




一方こちらは西安市内のホテルにて、ニコライ、ナスターシャが如何にしてガントを出国させるかが議論されています。


何しろガントには国籍、職業、出身地などが全くの空白なのですから、検閲にあえば一発で疑われます。


その上、中国政府は血まなこでガントを探しているのですから。


ナスターシャが言います。「海路、陸路を使っても検閲は必ずあるし…。時間的に一番早いのはやはり飛行機ね。…パスポートって事になるわね…。」


ニコライは言います「…やれやれ、また悪事に加担しなければならんようだ…。

この中国のマイナスの力を借りねばならぬか…。

幸か不幸かこの国は何でもコピーしてしまう、DVD、CD、チケットなど…。


明日私は西安市内の闇市に言ってくるよ…。

うわさを聞いた事がある。


ナスターシャ、明日ホテルをチェックアウトしてから、ガントの証明写真を撮りに行ってくれないか?」と。


「…やはりそれしかないようね」とナスターシャ。


「やばい事ばかりさせてすまない…。しかし急がねばレイカが…」と博士。


ガントは二人のやり取りが分かりません。

そして「ニコライ、ナスターシャ、何の話をしているの?レイカ、レイカは!?」と言いました。


ナスターシャはまた少し上達したナーランダ語で「いま・レイカのところに・早く・どうやって行くか・ニコライと話していたの。」と言いました。


ガントは言いました「僕も何でも協力するよ!一刻も早くレイカを見つけなきゃ!」と。

それからニコライはホテル一階のインターネットブースへ行き、パソコンで何やら検索を初めました。




次の日、朝早くにホテルをチェックアウトした三人。



ガントとナスターシャは駅前の自動証明写真コーナーへ向かいます。

ニコライは公衆電話で別のホテルを予約し、それをナスターシャに伝え、西安市内の南部に位置する闇市へとバスを使って出かけました。


バスを降りると、そこには、簡単なタープのようなテントが軒を連ね、豚の頭部や、丸ごと一羽の鶏、、沢山の野菜、コピーしたCDやDVDなどを販売しています。


人々は盛んに大声を出して商売をしており、かなり活気に溢れています。


ニコライは(これが本当に闇市なのか…)と思い、陳列されて並んでいる有名ブランドの偽物バックやディズニーランドのキャラクターを真似たぬいぐるみに見入りました。


ニコライはその通りの一番奥にある中華飯店に向かいます。


きしんだドアを開けると、中華飯店のはずが、中はガランとしており、料理の匂いは全くなく、埃臭さが漂っています。


そこには切れるような目をした20代の男が立っており、聞き取り難い英語で言いました「ヤクか?女か?」と。

「…パスポートだ」とニコライも英語で答えました。


男はこっちに来い、とニコライをいざないました。


奥の部屋に入ると中国人民服を着て、黒ぶちの眼鏡をかけた品の良い80才ほどの老人がタバコを吸いながらニコライを見つめました。


そしてぼそっと英語で言いました。「パスポートは2万元だ(約30万円)、写真をもっておるか?」


「今は無い」とニコライ。


老人は「住所は?」


「ホテルだ…」


「ここで現金で払え」と老人。


ニコライは少しおぼつかない手付きで財布から両替した2万元を取り出し、老人の机に起きました。


「ホテルの住所、部屋番号を書け」と老人はメモとペンをニコライに差しだしました。


ニコライは先ほど予約したホテルの名前と住所、部屋番号を書き、老人に渡しました。


老人は言いました「…現金で払う奴もなかなか減って来た…見たところロシア人か?。


…我が国の家族達をみくびるなよ…。まぁ安心してホテルで待て。

もし他の者に口外すれば痛い目に合うぞ」と。


博士はびくつきながら中華飯店を後にしました。




ニコライ達は昨日のホテルとは別のホテルに泊ります。


一ヵ所に留まらない方が安全だからです。


その夜、三人はニコライの部屋で、パスポートが届くのをじっと待っています。


ナスターシャはぼおっとテレビを見ています。

その横でガントはやたら騒いでいます。「箱の中に小人がいる!」とか「光がまぶしい!」とか。


その時博士の部屋がノックされました。


博士がドアを開けると二人組の中年の男が立っており、メモを博士に渡しました。


二人は英語を喋れないようです。


メモには英語で(この二人にそいつの写真を渡し、しばらく待て。パスポートの情報は写真を見て、我々が上手く記載する。)と書いてあります。


ニコライはナスターシャに「写真を持って来てくれ」と言いました。


ナスターシャは小さなポーチからガントの写真を二人組に渡しました。


すると彼らはきびすを帰して階下へ降りて行きました。


ナスターシャは黒目がちな瞳で「大丈夫かしら…?」と言いました。


「私にも分からん…だがあの老人は嘘をつかんような気がする…。」とニコライ。


「かなりの出費でしたわね」


「いや、予想の範囲だよ」とニコライは言いました。


3時間ほどするとまたノックがします。


ドアを開けると今度は13才ぐらいの少年がおり、何も言わずにニコライにパスポートを渡しました。そしてまた何も言わず廊下から去って行きました。


ニコライはパスポートに目をやりました。


そこには見事なまでのガントのパスポートがありました。



「ナスターシャ…やった!完璧だ…」と博士は言いました。



西安のテレビでは、消えた桃源郷の少年の報道がされています。


ナスターシャは言いました。「次はレイカね…けど彼女の警備は更に厳重になっているはずよ、中国山岳民族研究所のようには行かないわ。

ロシアの近代警備をどうするの?」


ニコライは言います「奴らが力で来れば来るほど、やり甲斐があるかな…」と。


ナスターシャは「博士…あなた、本当にのんきだわ…」とあきれました。




その深夜、ガントは初めてのベッドに横たわり、テレビの突起を見ました、それはテレビのスイッチでした。それを恐る恐る押すと、そこには動く人間たちの映像が映りました。ガントは「魔法だ…」とつぶやきます。


そして思います。「ここは何て小さくて息苦しい部屋だ…妙に静かで、音がしない…。


でもこの不思議に落ち着いた気分はなんだろう…?、今日ナスターシャが昼に食べさせくれたもの(ハンバーガー)は、びっくりするほど濃厚で美味しかった…。リディアがくれた(チョコレイト)も、なんて甘くてほろ苦いんだ…。


この国にある高い塔や沢山の人々…。


綺麗な女の人も沢山いたな…。


ここには刺激でいっぱいだ…。


もう少しここで過ごしてからナーランダに帰っても良いのかな?」と。


しかしその夜、ガントは夢を見ました。


その夢とは、レイカが暗いところでしくしくと泣いています。


レイカ…とつぶやくと、いきなりレイカの背景は一瞬にしてナーランダの木々や緑が映ります。


するとレイカには笑顔が戻り、ナーランダの草原でガントと二人で追いかけっこをして遊んでいます。


少し疲れるとレイカの膝枕で休みます。


レイカの微笑みは暖かいのでした…。


そんな夢を見ながら、ガントの目からは涙がこぼれます。


次の朝、ガントは決意しました…「この世界はやはり僕らが居るところじゃない、命に替えてでも僕がレイカを…」と。


その朝、ガント達は西安空港に向かいます。

そして検閲が始まりました…。






彼らは西安空港のロビーに到着しました。


相変わらず辺りをキョロキョロ伺っているガントにナスターシャは「ガント・落ち着きなさい…。検閲では・パスポートを見せて・昨日教えた・THANK・YOUと言うのを忘れないでね」と言います。


ガントはまた博士の姿勢を真似します。


いよいよ検閲(税関)を通ります。先ずはニコライが、次にガント。


ガントのパスポートを見た検閲官は金属探知機の表示を見て、次にまたガントのパスポートを見て、あっさり「OK」と言いました。


そしてガントは「サ、サンキュー…」と言いました。


検閲官は何の躊躇も無く次のナスターシャの検閲を終えました。


しかしニコライとナスターシャの心臓は張り裂けるように踊っていたのでした。


検閲官は中国で報道された桃源郷から来た少年にはあまり関心が無く、その顔も覚えて居ないようでした。


まずはガントの搭乗は成功しました。


飛行機に乗り込んだ三人はホッとして座席に座りました。


飛行機はゆっくりと離陸します。


ナスターシャは他の乗客の視線を警戒し、「ガント・出来るだけ下を向き・顔を他の人に見られない事・分かったわね。」と言いました。


暫くして上空数百メートルに達すると、ガントは窓の外をちらっと見てしまいました。


「うわー!!」とガントは叫びました。


隣の席のナスターシャは慌ててガントの口を塞ぎ、「我慢するの・怪しまれてはいけないの!」と言いました。

直ぐにキャビンアテンダントが近づき、「いかがなされました!?」と言いました。


ナスターシャは「この子、飛行機が初めてでして…もう落ち着きましたわ、騒がせてごめんなさい。」とアテンダントに言いました。

ガントは何とか落ち着こうとしますが冷や汗が止まらず、鼓動も早くなって行きます。


じっと座席の下を見つめて震えています「空の上にいるなんて……いつ落ちるか分からない…」とガントはつぶやきました。


そしていよいよ夕刻、モスクワ空港に着くと、三人はまた検閲を受けます。


ガントのロシア系の顔つきはここでも功を奏し、また問題なく検閲を抜けました。



モスクワ空港から一路三人はナスターシャのマンションへ向かいます。


タクシーの中でガントはモスクワのビルや建物を見て、また騒ぎだしますが、タクシーの運転手に怪しまれないように、ニコライはガントを落ち着かせるのに必死でした。


ナスターシャはガントの耳元で「私の家に着くまでは・大人しくなさい…。あなたの正体がばれたら・元もこもないのよ。」とささやきました。


ガントは頷きましたが、やはり心中穏やかではありません。



ナスターシャのマンションに着くとリディアが三人を迎えました。

リディアは「あらー!ガント!素敵!。スーツが似合ってるぅ!」と言い、ガントに抱き着きました。


ガントの頬はまた真っ赤に染まります。


ナスターシャは「リディア!ハグも他の民族にとったら不快なものになるの!。気をつけなさい!」とたしなめました。


リディアは「だってガントの言葉は私には分からないんだもん。体で表すしかないのよぉ。」と言いました。


ナスターシャは「それもそうね…けど、ガントもレイカも今とても大変な時なの。彼らはデリケートだと言う事を忘れないでね…

リディアも夕食がまだでしょ?今夜は四人で食事にしましょう。

リディアも手伝うのよ。

ナーランダの言葉も教えてあげるわ!。」

と言い、二人で仲良くキッチンに立つのでした。


ナスターシャは「とりあえず冷蔵庫には何がある?」とリディアに聞きました。


リディアは「チキンがあるよ。」と言いました。

ナスターシャは「サワークリームは?」とまたリディアに聞きました。

「沢山あるよー。」とリディア。


ナスターシャは「じゃ決まりね、今日はチキンのスメタナ焼きね!」と言いました。


今夜のメニュー「チキンのスメタナ焼き」とはロシアでは定番の家庭料理です。


丸ごと一羽のチキンに塩、胡椒、香草で下味を付け、中にサワークリームとニンニク、オニオンを詰めて、その外側にもサワークリームを塗り、オーブンでこんがり焼き上げます。


そして野菜やレモンを添えるのです。


外側はカリッとした食感で、中は鶏肉の肉汁が溢れ、サワークリームの酸味と塩味の利いたロシアの定番料理です。


一時間程してチキンは焼き上がりました。


四人でテーブルに付き、食事が始まりました。

チキンを食べたガントは目を白黒させています。「酸っぱいなぁ、そして、しょっぱい…この肉は鳥かな?でもこんなにでっかい鳥なんてナーランダには居ないし…。何の鳥だろ?。

でもお腹が空いているから美味しいな!。」と思いつつガツガツと慣れないフォークさばきで食べました。


ナーランダでは通常箸を使うのですが…。


ニコライとナスターシャは久々の母国の料理を堪能しました。


四人の食事が終わりました。


ナスターシャは食前に少しワインを飲んでいたため良い気分です。


ガントは牛乳を飲んでいます。


リディアはハーブティーを、ニコライはもちろんコーヒーを飲んでいます。


ナスターシャは食後にまた少しワインを飲みました。


リディアは「ねぇねぇママ、もう少しガントの話が聞きたいわ!。ナーランダの言葉も教えてくれるんでしょ?」と言いました。


「そうね、カラサイでも聞けなかったガントの生活でも聞いて見ようかしら?」とナスターシャは言いました。

ナスターシャは随分上達したナーランダ語でガントと会話し、また幾つかのナーランダの単語をリディアに教えました。


リディアの聞きたい幾つかの事もガントに聞いてあげました。


ガントも楽しい気分でナーランダの事を沢山ナスターシャの通訳を介してニコライやリディアに伝えました。


二時間ほどガントと三人は楽しい一時を過ごしました。


ニコライは「もうこんな時間か…明日はレイカを取り戻すために、みんなに色々協力してもらわねばならん…。もう11時を過ぎたか、そろそろ家に帰るよ。

ガントを頼んだよ、決して明日までは他人をマンションに入れないようにな。」と言い、久々の我が家へ帰って行きました。


ガント、リディアもそれぞれの部屋で眠りにつきました。



午前零時を過ぎても、ナスターシャの酔いは覚めません。それでいて、眠気もあまり感じないのでした。


酔いが覚めないのはワインのせいなのか、ガントから聞いたナーランダの話のせいなのか…?。


彼女は大変だったここ数日を思い、ベランダに出てやわらかな風にあたることにしました。


38才のナスターシャは年の割に童顔ですが、その立ち振舞いは「大人」そのものでした。

学者ですが以外と目は良く、眼鏡はしていませんでした。


肌はロシア人特有の色白、目の色はブラウン。


束ねた彼女の茶色の髪を、このところ暖かくなり始めたモスクワの風が優しくなぜました。


彼女にとって沢山聞いたガントの話の中でもミディア(見出逢)の話が特に印象深いのでした。


リディアは思います。「彼らはたった三才で結婚相手を決められてしまうのね…。

それが当たり前で、何も疑わない…。子供のころからずっと信じ合って、子を宿し、育て、畑を耕し、時に野山で遊び、死んで行く。シンプルライフか…。


外界を知らないからこそ守り続けられた伝統なのね…。


この広い世界には彼らの知らない文化や欲望、快楽が沢山ある。テレビ、報道、歓楽街、一瞬を楽しむ出逢いと裏切り、多すぎる人々…。


彼らはやはり外界を知るべきではなかったのね…。


私は今まで何をして来たのだろう?…決して後悔はしてないけど。」と遠い昔を思い出します。


ナスターシャは学生の頃、大学の助教授と恋に落ちました。


彼はナスターシャより18才年上で、既に結婚し、子供も二人いました。


いけないと思いつつ、言語研究に対する考え方も共通し、まだ二十歳のナスターシャは、彼から世界中の文化や社交、お酒、食文化、文芸、大人の遊び方などを教えてもらい、とても優しい彼にどんどん引き込まれて行きました。


彼もナスターシャに真剣な感情を抱き初め、ナスターシャがリディアを身ごもった時を同じくして、家庭を捨ててナスターシャと結婚しました。


三、四年はとても上手く行きました。


ナスターシャは大学を卒業すると、甲斐甲斐しい妻、母としての幸せを獲得しました。


…しかし彼はまた同じ大学の女生徒と性的な関係を結びました。


ナスターシャは気付いていても気が付かないふりをしていました(私が妻なのだから!)と。


しかし彼の癖はいつまでも治りませんでした…。


ある時ナスターシャと夫の住むマンションに、彼と肉体関係のある女学生の両親が怒鳴り込んできました。


ナスターシャの夫は知らぬ存ぜぬを通しました。


しかしナスターシャには全てが分かっていました…。


それからナスターシャは泣き暮らす日々が続きました。


いくら夫を信じようとしても、彼とは口論が絶えなくなり、彼からの暴力にも堪えかね、リディアが四つの時に離婚しました。


もちろん夫の不貞が原因ですから、その頃はもう助教授から教授になっていた夫から裁判で多額の慰謝料を得ました。


リディアが大学を卒業し、就職するまで毎月慰謝料が元夫から振り込まれるのです。


今現在彼はもう別の女性と暮らしています。


夫と別れ、27才になったナスターシャは、再び民族言語学に目覚め、出身大学の院に入り、それから幾つかの大学の講師を歴任し、二年前にニコライの大学に赴任して来たのでした。


彼女にとってはもう色恋などはどうでも良かったのですが、本や荷物を運ぶのには、やはり男性の力が欲しい時もありました…しかし結局、ほとんどは自分でこなしてしまうのでした。


学生や仕事仲間の講師、教授などから誘いを受ける事もありましたが。ほとんどそれに応じる事はありませんでした。


夜の風にあたりながら、またナスターシャは思います「誰だって結婚した相手とは生涯を伴にする事を固く誓い合い、それを望むのに…。


だけど先進国のフランスやスウェーデンなどの離婚率は五割に近づいている…。


ガント達の国は離婚はめったに起きない事で、最後に離婚した夫婦は百年ほど前に一組あっただけだと言っていたわ。


…やはりナーランダのような男と結ばれる事は、私はこれから先ないかも知れない、いやないでしょうね…。


私にももう男性を愛し続けるなんて、そんなエネルギーはもう無いわ…。


…でも、ガントとレイカの瞳を見ていると、私の中の何かが鮮やかに蘇って来るのを感じるのも事実…。


ニコライも彼らの瞳から不思議な何かの力を得たはずね。


六十のお爺さんが無理しちゃって…。


レンガの壁はよじ登るは、中国マフィアに単身乗り込んだり。


ナーランダから教えられる事は数知れないわ…。


現代人が難しいと思う理想を、ナーランダの民は何を疑う訳でもなく当たり前に、平然とこなしてしまう…。


この現代文明は、彼らにとったら知らぬが仏なのかしら…。


いや、違うわ…。


ガントとレイカに出逢えた奇跡。


これは私の奇跡だわ。

ガント達はナーランダに帰ったら、ロシアや中国での経験を故郷の人々に話すかしら…?。

…それは彼らしだいね。

彼らの判断がこれからのナーランダの未来を決めるかも知れないのね…。


やはり彼らを出来るだけ早く故郷に帰してあげなければ…。


やはりナーランダは私達の胸にしまっておくべきだわ。



明日はロシア考古民族アカデミーに閉じ込められているレイカを救うために調査に行かなきゃ…。


中国山岳民族研究所のようにアナログな方法はもう通用しない。


ニコライ博士は何をするつもりかしら?。



結構風も冷えて来たわ、もう寝ましょう。


明日も早いし。」


ナスターシャはサッシを締めベッドに就きました。


6月のロシアの夜はまだ少し冷え込みます。

点灯している街の灯りの数は少ないですが、まだぼおっとした光を当たりに振り撒いていました。















次の日、ニコライとナスターシャそしてガントはロシア考古民族アカデミーのある、国内でも屈指の学術都市「アカデムゴロドク」に向かいます。


アカデムゴロドクはロシア科学アカデミー・シベリア支部の初代所長ミハイル・ラブレンチェフが構想した、あらゆる分野の学問を発展させるために計画された学問のための都市で、西シベリアのノボシビルスク市の南30キロの森の一部を切り開いた総合学術都市です。


モスクワからノボシビルスクまでは同じ国内でもかなりの距離があるため、ニコライ達は寝台列車でアカデムゴロドクのあるノボシビルスク市へと向かいました。


もうロシア国内ですからガントの検閲の心配などありません。



しかし一応、ガントはスーツに身を包み、さらに度の入っていない眼鏡をかけています。


眼鏡はナスターシャのアイデアです。


そのお陰で、やはり誰の目から見てもガントは少し色黒の普通のロシア人にしか見えません。


しかし、どうしても電車内では挙動が不審で、車窓から見える様々なビルや景色を見ては大きな声を出してしまうのでした。


それをナスターシャがたしなめる瞬間が幾度となくありました。


ガントは寝台列車で眠る事に慣れる事が出来ず、寝不足気味です。

無理もありません…、

ニコライやナスターシャでさえあまり寝台列車での睡眠は心地の良いものではないのですから。


ほぼ30時間以上をかけてニコライ一行はノボシビルスクの駅に到着しました。


その頃には少しだけガントも文明都市と言うものを見慣れて来たようです。


ほんの少しだけ彼のこの世界に対する動揺も治まりつつありました。


駅を降りると一行は予約してあったホテルへと向かいます。


今回はニコライとガントは同じ部屋。ナスターシャは一人部屋になりました。


三人はニコライ達の部屋に集まり、レイカの救出について話し合いました。


ナスターシャはニコライに聞きました「…それで博士、どうするおつもりなのですか?」


「明日は君と私とでアカデムゴロドクのロシア考古民族アカデミーへ様子を見に行くつもりだ。その為にアカデミーにはアポイントメントをとっておいた。私の名前を名乗ったら、副所長が対応してくれるらしい…。」と言い、ガントには「ガントよ・まる1日は・ホテルから出てはならんぞ。」

と、ニコライは少ししゃべれるようになったナーランダ語で言いました。


そしてまたニコライは「1日部屋に籠るのもつらいだろうが、テレビを見るのもあまり良くないかも知れないな…。

かと言って私とナスターシャがいなければ彼は退屈でテレビのスイッチをまた押してしまうだろうな…。」


ナスターシャは「…仕方ありませんわ…この国にいる限り、全く彼への情報を遮断する事は無理でしょうね…。

この国でガントが目にし、耳にした事を帳消しにはできませんから。

ナーランダに戻ったガントがナーランダの人々に、どうこの国の事を伝えるかは彼の良心しだいですから…」と言いました。


博士も「そうだな、レイカを救出し、蕎麦を渡し、ガントとレイカをナーランダに帰すのが我々の目的だが、ナーランダに帰った後、彼らがこの現代社会についてどう語るかは我々にもどうする事も出来んな…」と言いました。


三人はホテルのルームサービスで夕食を摂り。寝台列車よりも心地よい「揺れないベッド」で眠りにつきました。


寝る間際、ニコライの部屋でガントは博士に故郷の言葉で話しかけます。


「レイカはどうして居るだろう…。とても気になります。


…でも、僕はこの世界がそんなに悪いものでは無いと感じて来てるんです。食べ物、大きな塔、きらびやかな女の人達、面白い装束の沢山の人々…。


でも…そんな事に興味を持ち初めた自分が怖いのです。レイカを裏切ってしまいそうな自分を感じて恐ろしいのです。」


断片的にしか分からないガントのナーランダ語を聞きながら、博士はナスターシャから学んだ、まだ不馴れなナーランダ語でゆっくりとガントに語りかけました。


「ガントよ…・人は皆お前と変わらない・しかし・ナーランダには・計り知れない・価値がある事を・言っておこう・前にも話したが・この世界の文明は・計り知れない喜びと・計り知れない悲しみ・苦しみがある・この世界では・1日に数え切れない人が数え切れない人間を殺す・かと思えば・深い愛で相手を思いやり・優しく生きる人々も・数多くいる・ナーランダの民のように…・

この文明世界は・悪と善が極端ではあるが・やはりこの文明の多くの人々も協調と・愛を目指して生きたいのだ・しかし・それを分かっていても・また争い殺し合ってしまう…・これからも・この世界は百年の平和と・百年の混乱を・絶え間なく・繰り返して行くのではないかと思う・

その繰り返しは・この現代文明では・永遠に終わらないかも知れない・ガントよ・お前達のナーランダで・混乱や無秩序が現れた時・お前がこの世界で聞いた事・見たものが必ず・役に立つ。


これからも・愛の国・ナーランダを望むのであれば・それを導く術は・お前がナーランダの民に・この世界で知った事を・どのように伝えるかにかかっている・あるいは・全くしゃべらず・ナーランダの誰にも・この世界の事を・伝えないのか・それはガント…・お前しだいだろう…。」と言いました。


ガントがまた何か言おうと考えていると、博士は静かな寝息をたて初めました。


ガントは思います(…僕しだいか……。


とにかくレイカに一番早く逢いたい…お父さんとお母さんに逢いたい、ナーランダの人々、クーエンゾー様に逢いたい。


…やはりここは僕が住む国ではないと思う…。

ほんの少しだけど、ニコライが言おうとしていることが見えるような気がする)と。


そしてガントはまた故郷ナーランダの夢を見ながら眠りにつきました。



次の朝、ニコライとナスターシャはホテルを発ちました。


バスで南へ一時間ほど行くとアカデムゴロドクの様々な研究所やビルが見えてきました。


彼らはバス停を降りて辺りを見ると、様々な研究所の建物が林立しています。

文学アカデミー、科学アカデミー、歴史アカデミー、医学アカデミー等々。


15分ほど歩いて、彼らはロシア考古民族アカデミーに到着しました。


さすがに近代的な建物ではありますが、伝統的なロシア建築の要素も残してあります。


アカデミーのドアを開けると若い受付嬢が迎え、「どの様なご用意でしょうか?。」と笑顔で尋ねました。


博士は名刺を出して「モスクワから来たニコライ・プルジェルスキーです。副所長さんと今日お会いする約束をしているのですが…。」と言いました。


「少々お待ち下さい」と受付嬢は言い、手元の内線電話で副所長と話しをしてから、こちらへどうぞ。とニコライ達を一階の会議室へ案内しました。



会議室で暫く待つと、身なりの綺麗な40代の男性が現れ、「お久しぶりですね、博士、私は今、ここの副所長をしております。」と言いました。


ニコライも一応笑顔でミカエルと握手をしました。


ニコライとミカエルは数年前から学会で度々顔を合わせていましたが、それ程親交が深いとは言えませんでした。


ミカエルの民族学の捉え方と、ニコライのそれとは少し違っていたからでした。


ミカエルは「やはり今日いらっしゃったのはあの少女の事ですか?。」と言いました。


「そうだねぇ、大変な発見になるようだね。私達も彼女にに一目会わてもらいに来たと言う訳だよ。」と、わざとらしく笑いました。


「勿論結構ですよ、しかし今彼女はかなりナーバスになっていましてね…マジックミラー越しにしかお見せ出来ないのですよ。何しろここへ来てからはあまり食事も摂らず、健康状態も良いとは思えないのです。どうもかなり我々を恐れているようですね。


最高の環境を整えているのですが…」とミカエルは言いました。


ニコライは(レイカにとって最高の環境ならば、何故彼女が怯えるのだ、やはりこいつは何も分かっとらん…)と思いつつ。


「それで、彼女をこれからどうするつもりですか?」と聞きました。

「まだ彼女から言語らしきものは一言も発せられていないのですよ…、彼らの故郷の場所を聞き出さない事にはなんとも…。しかし彼らの故郷が分かれば、これは我々にとっては大発見になるわけですよ!、なんとか彼女から言葉を聞き出そうとしているところです。」とミカエルは言いました。


ニコライは「…そうですか。では早速彼女に会わせてもらえますかな?」と言いました。

「こちらへどうぞ」とミカエルは言い、ニコライ達をレイカに居る部屋へと案内しました。


廊下には監視カメラ、赤外線警報器があり、レイカの部屋の前には二人の警備員が立っていました。


ミカエルはその部屋の隣のドアを開け、ニコライ達をいざないました。


そこには大きなマジックミラーがあり、博士の目に痩せ細り、青ざめた顔のレイカの姿が映りました。


ニコライは(あんなに痩せてしまって…可哀想に…どれ程つらく、悲しかった事か…)と思いました。


しかしレイカのブルーの目の輝きだけは、カラサイで見た時より数段力強いのでした。


ニコライは(あんな目に遭っているのに、何故レイカの瞳は輝いているのだ…。まるで闘志のようなものを感じる)と、また思いました。


ミカエルは「今の所、彼女に対してはどうする事も出来ないのです。

一切口を開かないのですから…。博士、何か良い方法はありませんか?」とニコライに尋ねました。


ニコライはわざと謎めいた言葉で言いました。「人間の果てしなき探求心や向上心も通じない何かがあるはずだろう…それを見つめる事が彼女の心を開くかもしれん。」と。


ミカエルの表情は曇り、その心には疑問しか浮かびません。


ニコライはナスターシャと二人、マジックミラー越しにレイカを二・三分見つめていました。


ナスターシャはミカエルに聞こえないように「なんて痩せてしまったの…。試練にしてはあんまりだわ…我々の学問の興味のために、レイカがあんなになるなんて…」と言いました。


ニコライは「…だが、レイカのあの瞳を見ろ、最初に出逢った時より更に輝きを増している。彼女は決して希望を捨てておらんようだ…私達を、そして何よりガントを信じておるのだろう。」とナスターシャの耳元でささやきました。


ニコライはミカエルに尋ねました。


「明日ここへまた来ても構わないかな?」


「ええ…構いませんが…。」


「彼女に逢わせたい人物がいるのだ。」とニコライは言いました。


ミカエルは「はあ…。」と不思議そうに返事をしました。


その後、ニコライ達はアカデミーを後にしてまたノボシビルスクへのバスに乗り、ホテルへと向かいました。


その車中でナスターシャはニコライに尋ねました「…本当に…どうするおつもりですか?あの近代的な警備をご覧になったでしょう?中国の時とは違い、レイカを奪還するのは到底無理ですよ…。


…それにレイカに逢わせる人物って、どなたなんですか?」と。


ニコライは言いました「ガントさ。」


「えっ!?ガントを…!?それじゃ全ては水の泡になりますわ!。どういうおつもりなんですか!?」


「わしにも成功するかは分からないが、多分…これが最後の手段だ…。わしもこれ以上危険な事も出来ん…。

所長のセルゲイ・コプチュークにも同席してもらいたいのだが…。」



ホテルに帰ったニコライは、彼の部屋でガントとナスターシャの三人で、またルームサービスの夕食を摂りながらガントに言いました。


「明日はレイカのところへ行くぞ…。」


ガントは一瞬喜びの表情を浮かべましたが、しばらくするとまた深く考えるような表情をしました。


そして少し間を置いて、ナスターシャと博士に力強く「…はい。」と答えました。













さて、またこちらはガント達が旅立った後のナーランダ。



ガントの親友ザット(雑問)は結婚してから1ヶ月半ほどが経ちました。


ザットはずんぐりとした体型をしており、少しのんびり屋さんです。

彼の口癖は「~~だからなぁ」です。


体の動きはぎこちないのですが、物事をとつとつとこなすタイプで、その行動にはあまり間違いが無いのでした。


しかし、やはりガントと同じく力は人一倍ありました。


彼のお嫁さんの名前はキムル(来夢累)と言います。


彼女は背が高くスリムな東洋系の女性です。


ザットとは違い、物事をなかなか素早くこなすのでした。


今日も少し曇ったナーランダの午後、畑に出向いたザットのために、キムルは夕食にパーチの雑炊を準備しています。


そして、すでにキムルのお腹にはザットの赤ちゃんが宿っていました。


最近少しつわりがあり、体調は万全ではありませんが、彼女は幸せな新婚生活を送っています。


そして今日もザットはパーチ畑に水路の水を流しています。


まだ青いパーチの実を見つめながらザットは思いました。


「やはりパーチの実が去年より小さいなぁ…。

先頃亡くなったルンザ(類座)の息子は風邪に似た感染症だったようだけど、栄養があれば助かったと言うなぁ…。

ルンザの家は農地が少ないからなぁ…。


国中からパーチを集めようとしたけど、減ってきたパーチを多くの人々がルンザの家に渡せなくて、あまりパーチは集まらなかったようだなぁ…。


ルンザの息子が死んだのはパーチが少なかった事が原因なのか感染症が原因だったのか分からないけど、女王はひどく嘆き悲しんだようだなぁ…。


パーチが減っているのは本当だけど、それが原因でルンザの息子が死んだとはまだ思えないなぁ。


まぁ、クーエンゾー様はとても敏感なお人だからなぁ。」と考えながらまた畑作業を続けます。


ザットは幼い頃ガントと一緒に良く遊びました。

ルルべべの岡でのソリ遊び、ポトスの池での魚釣り。


ポトスの池にはナーランダの固有種の魚「レドヒス」(冷渡翡翠)と言う、鮎の仲間の冷水棲淡水魚が生息しています。


この魚を串焼きにして、ナーランダの岩塩を軽く振り、かぶり付いて食べると、さっぱりした味のする貴重なタンパク源です。


しかし、冷水棲淡水魚のレドヒスもナーランダの温暖化により少しずつその数を減らしつつありました。


ガントとザットは数年前、ポトスで釣りをしては、その場で火を起こし、焼けたレドヒスにかぶり付きながら、自分の許嫁いいなずけ自慢を良くしたものでした。


ザットは「そりゃ確かにレイカの方がカリムチ作りは上手かもしれないよ…でもキムルは、背が高いんだよぉ…。スラッとしててさぁ。ちょっとだけ料理は苦手みたいだけど…でも僕はキムルの雑炊が大好きなんだよぉ。これはレイカだってかなわないと思うよぉ。」


「レイカが背が低いだって?。僕はちっちゃいレイカでなきゃ駄目なんだよ!。ちっちゃいけど顔だって可愛いし、何よりレイカの声が好きなんだ!おまけにカリムチ作りも上手いし、レイカが作ったパーチの雑炊だって凄く美味しいんだよ。今度食べに来いよ、びっくりするぜ!。」とガントは返します。


「そうかぁ?」とザット。


「そうだよ!」とガント。


ポトスの池のほとりでそんな話しをいつまでもして、木漏れ日の光が映る水面を眺めながら共にゆっくりとした時間を過ごしたものです。


夕方になり、畑作業を終えたザットは新婚の住居に急いで足を運ばせながら思いました。「ガント達が旅立ってから随分経つなぁ…。どうしているんだろうなぁ…。結婚と同時に世界の壁を超えるなんてなぁ…。

僕にはおっかなくて出来ないなぁ。おまけにレイカまで一緒に行くなんて…僕はキムルとそんな旅は到底できないなぁ…。」と。


家に着くとキムルは「お帰りなさい、お疲れ様。お腹減ったでしょう?」と言いました。

ザットは「うん…」と言い、井戸の溜め水で手と顔を洗いました。

食卓に付き、二人でパーチの雑炊を食べています。


キムルは「ガント達はどうしているかしら?もうあれから随分たつよね。…まさか…」と言いました。


「僕もさっきその事を考えていたんだ…。でも、世界の壁は越えたのは事実らしいんだ。

クーエンゾー様の話しだと、壁の下に彼らが転落した形跡はないんだって。」


「…そう。ならいいけど…。

今年のパーチの様子はどう?」


「うん…、やっぱり去年より実は小さくなってるなぁ。

直ぐにどうこうなるもんじゃないけど、このまま放っておけば何れ…。」


「やっぱりガント達の帰りを待つしかないのね…。」とキムルは言いました。


パーチは古代のナーランダの民が品種改良した植物でしたが、人の名前などの名詞以外の文章を捨てた彼らには、もうパーチが如何にして改良されたかは謎なのでした。


キムルは「明日も早いんでしょ?」と聞きます。


「そうだなぁ。」


「じゃ早く寝ましょうか?。」そして「あ、そうだ今度またポトスの池に遊びに行こうね!」とキムルは言いました。


「うん!」とザットは言い。食事を終えて、キムルとポトスの池に行く計画などを話し合い、二人同じ羊の皮で出来た薄い毛布にくるまり眠りました。



ナーランダは夏に入り、草樹の緑はより深くなり、たまに見える空は更に青さを増しています。


世界の壁から湧き出す水はきらめき、そのほとりで水遊びをする子供達の姿がよく見られるようになりました。


ナーランダの民は農業の合間を縫っては良く家族ぐるみで遊びます。

ルルべべの岡やポトスの池のほとりで遊び、ナーランダにある2キロ四方の小さな森、「ボララス」(某裸来春)の森でキノコや野草を採集しました。


ナーランダの民はかなりの遊び好きなのでした。


しかしその遊びの全てが自然相手なのでした。


そして、ここはナーランダ唯一の医者「ゴウチ」(剛知)の診療所。

1日に3・4人が訪れるナーランダの民の診療を行うのが彼の仕事です。


ナーランダの医者は世襲制で、その医術も口承による一子相伝でした。


今日も一組の母子がゴウチの診療所を訪れました。


子供は風邪をひいたようです。


母は「ゴウチ様、この子、かなり熱があるのです。」


ゴウチは子供の額に手を当て、寝かせた子供のお腹を手で触ってから言いました。


「この薬草を煎じてあげよう。苦いがしっかりと飲ませるのだぞ、あとは出来るだけ栄養をとらせて温かくして汗をかかせるのだ。定期的に体を拭いてやり、下着を換えさせるのだ。」と言い、自ら薬草を煎じ、母子に手渡します。


母子は「ありがとうございました。」と言い、ゴウチにいくらかの高山野菜やパーチを置いて行きました。


代々ナーランダの医者は農地は持たずに、患者の家族から診療代として食糧を得るのです。


ナーランダの人々の平均寿命は95才前後。そのほとんどの死因は老衰や、肺炎、感染症、心臓病などです。癌はほとんどありませんでした。


長寿の理由は、殆んどが菜食であり、適度に羊肉を食べ、世界の壁から湧き出す水は清らかで、多くのミネラルを含んでいる事などが考えられますが、その他には現代人の様な極度なストレスもなく、適度なストレスを感じるのは農作業と家屋の建築や維持、子育てについての事ぐらいだからです。


自給自足ですから無論、「会社」などもありませんし、難しく複雑な人間関係もありません。「責任がある・妥協しない・突き詰める」と言う感覚もそんなに強くはありません。

また貨幣というものは無く、全てが物々交換です。


ナーランダには3・4件の店があり、衣服の店、雑貨屋、占い(お告げ所)などです。


お告げ所はありますが、ナーランダの民はさほど神がかりな宗教的思想は持っておらず、因果応報、自己責任が宗教の源で、彼等の神はキリスト、アッラー、仏陀のどれにも属しません。


信じ続ければ何か大いなる者が助けてくれると言う考えもありません。

ナーランダの民の一人一人の中に神が宿ると言う考え方が普通でした。


心の中に宿る神の名を彼らは「ジューチ」(心宇宙)と呼びました。

それぞれの心に宿るジューチこそ唯一の神で、最初のジューチがこのナーランダの赤い土で最初の人間を作り、そのそれぞれの心の中に住みついたとされています。


一番最初に作られた人間は女で、リルサとされていますが…。


ナーランダの民の宗教観はこう言ったものでした。



クーエンゾーは普段何をしているのでしょう?。


1日の殆んどをこの世界で言う「行政相談」をしています。午前中に二人、午後二人程の国民と合うのです。

これは順番があり、特に困った事がなくても、女王から呼び出し、国民の話しを聞く場合と、何かに困った国民が女王に相談にくる場合との二種がありました。


およそ130日くらいで全ての国民と会う事になります。


ですから年に二~三回は個人と対話をするのです。


国民一人一人の人となりを知るのが女王の主な仕事なのです。


ですから国民とクーエンゾーは友達の様な感覚もありました。


またクーエンゾーは執務の合間を縫って子供達とも良く遊びました。子供達にクイズの様な質問をして遊んだり、赤ちゃんを抱っこしてあげたり。

また、親の要請により、子供の名前をつけるのも大事な仕事です。

ですからこの国の女王は、国民の姉であり、母であり、娘であり、友人なのでした。


ですから女王に対しても国民は、あまり敬語も使いませんでした。

でもやはり国民の百パーセントが幸せではなく、ちょっとしたいさかいや、揉め事があります。


しかし国民の情報を全て知るクーエンゾーは問題を抱える国民達に対して的確な指導をしました。


女王の仕事はそれなりに大変ではありますが、自分の時間もしっかりありました。

62代目現クーエンゾーはラモルと言うナーランダ特産のお酒が好きで、毎晩晩酌をするのが楽しみでした。


ほろ酔いにまかせて様々な空想にふけります。

世界の壁の外に対する興味と同時に感じる恐怖など。


女王はまたガント達の事を今夜もラモルを飲みながら思います。「ガント達は今、誰に出逢ったのか?…リルサか、悪魔か、リルサの子供達か?。奴らはずる賢いだろうが、このナーランダを恐れてもいる。

外界からこのナーランダに干渉することはあるが、直接この国には来れないと言う。


それは我々の神ジューチが作られた結界のためだと言う伝説があるが・・・。





その伝説、を以下に記します。


(ある時、悪魔との夫婦生活に疲れたリルサはジューチに会いに来て「ナーランダに帰りたい」と言いましたがジューチはそれを決して許しませんでした。

ジューチはリルサに言いました。「お前の夫は悪魔だ、一度婚姻したならば消してそれを取り消す事はかなわん。

私に逆らったからではない、おぬしが自分で進んて悪魔の花嫁となったからなのだ、おぬしは悪魔の妻として生き続けなければならんのだ。それがおぬしの決意だったのだからな。」とジューチに言われ、リルサは再び肩を落とし、悪魔の元へ戻りました。


その後、リルサは力づくでナーランダに侵入しようとしましたが、ジューチの張った結界を破る事は出来ませんでした。)  


以上がその伝説の骨子です。


クーエンゾーはまた思います。「ジューチの結界の外に出たガント達…それは鎧を付けずに戦に行くようなもの。ああガントよ、レイカよ、私は間違っていたのだろうか?。今の私はガントとレイカの無事を私の中にいるジューチ様に祈るしかない。

どうか私の中のジューチ様、二人をお守りください。」と、

その日夜遅くまでクーエンゾーは自らのジューチへ、ガント達の祈りは続きました。



さて、こちらはシベリア、ノボシビルスクのホテルで眠りに着く前のガント。彼は思います。「明日こそレイカに会える。僕達の目的が達成されるかも知れないし、全ては水の泡になるかもしれない…。何れにせよ、僕らの試練の答えが出される日も、そう遠くはなさそうだ…。」と、少し寝付けない様子なのでした。











この晩、ノボシビルスクのホテルでの夜、ガントは、まんじりともしない夢うつつの中で、ナーランダの雲の切れ目から見える濃い青の空を感じています。


それは眠りに着けないただの思考なのか、幻なのか、あるいはただの夢なのか…?。


カラサイ、キルギス、中国、ロシアと言う恐ろしくもあり、興味深い世界に来てからもう一月半以上が経っていました。


今、ガントはホームシックを感じる時期です。


眠れないガントの脳裏には、幻の様にレイカの姿が浮かびました。

彼女は野原に居て、黄色い花が咲き乱れる中で、カリムチの原料になる杉科の植物「コグミ」(香汲)を探しています。


少し離れて、ガントはその姿を野原でうつ伏せになりながら眺めています。


ガントは思います「レイカは何やってんだろう…?コグミはすぐ左側にあるのに…。」


ガントは彼女に、うつ伏せになり右手で顎を支えながら叫びます「レイカー!左、ひだりー!」と。


レイカは左に体を向けてから「あっ、本当だー!あったー全然分からなかったー!」と叫びました。


レイカは「コグミのある場所が分かるなら一緒に探してくれればいいのに!。」とガントに言いました。


ガントは「だって見てると面白いんだもん…。」と。


レイカはガントに近づき、「もぉ~!」と言って、ガントの背中にのし掛かります。


ガントはすぐに仰向けになり、レイカを見つめ、笑いながら強く抱き締めました。


するとレイカの体は雪が溶ける様にすぅっと消えて行き、彼女の残り香だけが切なく残りました…。


ガントはすぐに野原に立ち上がり叫びました「レイカー!レイカー!!」と。


もうどこにもレイカの姿はありません…。


春の到来を示す風のように彼女の姿は消えました。


ひたすらレイカの名前を寝言で叫ぶガントをニコライが揺り動かし起こします。


「ガント、どうした、ガント?」と。


ガントは、はっとベッドから身を起こし、「夢か…」と、つぶやきました。


ニコライは「ずいぶん・レイカ!と・叫んでたぞ・大丈夫か?」と言いました。


その時ノックの音がして、ニコライがドアのホールを覗くと、ナスターシャの姿があり、ドアを開けました。

「いよいですね」彼女は言いました。


「ああ…」とニコライはナスターシャに言い、ベッドに腰掛けました。

そして「昨夜ガントに色々と伝えようとしたが、私のナーランダ語では果たして思いが伝わったかどうか分からん…。

ガントにこれから私が言う事を伝えてくれ。」と言いました。


ナスターシャはニコライの言葉をナーランダ語で訳し、彼に聞かせました。


(今日失敗すればある程度高みに至ったお前達民族はその崇高さを失い、現代世界の潮流に呑み込まれる事だろう。


そうなればナーランダには、魔法の様に便利で楽しい道具が幾つも伝わるだろう。


そうなればガント達の女王は力を失い、ナーランダでは農耕をする事もなく私利私欲を求める人間もいくらか現れて来る事だろう…。

そしてその魔法の道具の製作や維持にやっきになる組織も現れることだろう。


その組織の事を我々の世界では「会社」(カンパニー)と呼ぶのだ。

より快適な世界を突き詰めようとして、結局家族との安らぎの時間を捨てて仕事に明け暮れる人もいる…そうしているうちに本当の自分の目的や幸せも見失ってしまうのだ…。なんのための快適な世界なのか分からん…。


だが安心しても良いのだ…。


今日私が失敗したとしてもナーランダが消える訳ではない…。


私は中国政府に身柄を囚われ、ナーランダには観光地として、便利な道具を操る幾ばくかの人々が訪れる事になるり、食糧の心配もない。


そうなったとしてもお前達はお前達の神を信じ続けれていればそれで良いのだ。)これがニコライの言った内容です。


そのニコライの言葉を聴いたガントは少し考えてからナスターシャに、「ジューチ」「リルサ」「壁の外の悪魔」「リルサの息子達・娘達」などのナーランダの信仰、伝説を時間をかけて語って聞かせました。


ニコライはそれ聞いて「…なんと言う事だ…リルサとは…それはキリスト教・ユダヤ教・イスラム教などの宗教伝説に共通して登場する神が創った最初の女であり、悪魔でもある「リリス」の事ではないか!?。


宗教によって彼女はリリスとかリリトとよばれている…。


ナーランダではリルサと言うのか…!。


ナーランダにも神が創り給うた最初の女と悪魔の伝説が残っているとは…!。


それに自分の外側にいる神を信仰するのではなく、自分の内側に居る神を信仰するとは…。

他力本願では無いのだな…。

なんと興味深いのか…。」と思いました。




午後になり、三人はアカデムゴロドクに向かいました。


ロシア考古民族アカデミーの受付に来ると昨日と同じ受付嬢が「こんにちは。ミカエル副所長ですね。お話は伺っています。そちらの方は…?」とガントを見て訪ねました。


ニコライは「あの謎の民族の女の子に逢わせる人物です。」と言いました。


受付嬢は少しいぶかしげな表情でまたミカエルを電話で呼び出し、会議室へと案内しました。


会議室でしばらく待つとまた身綺麗にしたミカエルが入ってきて、椅子に腰掛けました。

「そちらの青年が、あの少女に逢わせる人物ですか?。もしや博士のご子息ですかな?。」とさっそく言い、少し微笑みました。


「いえ、名前をガントと言い、ナーランダから来た少年です。」とニコライは言いました。


「ナーランダ?何ですか?それは?」


「あの少女の故郷です。」


「なんですと!?。これはまたご冗談を!」とミカエルは言い、笑いました。


「ガントよ・恐れるな・自己紹介を・するのだ」とニコライはナーランダ語でガントに言いました。


ガントはナーランダ語で、恐る恐る自分を紹介しました。


その言葉を聞き、初めて聞く言語に、ミカエルは絶句しました。


ミカエルは「な、なんですか?今のは…!?」


「彼らの言語です。我々もこの言語分析には少々手間どりましたが、こちらのナスターシャ先生が、かなり解析し、理解できる様になりました。」


「本当ですか…?なんと言う事だ…。

では中国山岳民族研究所から少年を連れ去ったのは…」


「私です。」


「ニコライ博士!あなたは自分が何をしたか分かっているのですか!?」


「充分わかっているつもりです。」


「あなたはこの歴史的に重要な出来事を独り占めにするおつもりか!?。」


「違います。」


「いますぐ中国政府に知らせもいいのですよ!」


「かまいません。しかし最後まで私と対話して頂いてからでも遅くはないでしょう。私は逃げも隠れもしません。」


落ち着き払った博士の瞳を見つめてからミカエルは言いました。


「何ということだ……まぁ、よいでしょう…しかし話の向きでは、その少年を我々に引き渡してもらう事にもなりましょう。それでよいですな。」


ニコライは頷きました。

ミカエルは会議室の電話を手に取り、数人の職員と警備員を呼び出しました。


しばらくすると足音がして、職員と警備員が会議室の扉の外に待機したようです。



ニコライは言いました。「あなたも私も民族学者だ。何故この道をお選びになったのかな?。」


「いきなり何を…それとこれとどういう関係があるのです?。」


「私と最後まで対話して頂けるとおっしゃいましたね?」


「まぁ…。いいでしょう……。

私は幼い頃父に連れられてアフリカの原住民と数日を過ごした事があった。


彼らはとても気さくな人々だった。言いたくはないが、学校では少しいじめられていた私を家族の様に迎えてくれたのだ。良い思い出だ…。

彼らは衛生状態が悪く、幼くして死んで行く子供達が多かった。

生まれてから成人するのは約6割程…。

子供が死ぬと彼らは嘆き悲しむ。こんなに温かな彼らが何故いつもいつも悲しみに晒されなければならないのだ!。私は何とか彼らを救いたかった。医者にもなろうとしたが、やはり学校の科目では地理や歴史の方が得意だったからだ。

彼らと触れあうために大学では原始民族学科を先攻した。そして自分の存在を世に知らしめることで、彼らに帰依したいと思ったからだ。

そんなところですよ。」


「なかなか立派な心がけではないですか。…実は私は今でも何故民族学者になったのか良く分からない…とても人間が好きでもあるし嫌いでもある。


ただ冒険小説が好きだった…そこには極端な表現の原住民が登場する。それが面白かったのかもしれん…。


しかし12才の頃、ボルネオの原住民の本を読んだ…。あの冒険小説に出てくる首刈り族が実在する事を知ったのだ。恐ろしくもあり、興味も尽きなかった…。


私が言いたいのは「夢」ですよ。このまま彼らを夢として故郷へ帰してやって欲しいのです。」


「夢ですと?そのお歳になって夢ですか?。ははは。

夢であのアフリカの原住民の子供達を救えると言うのですか!博士は学問をまだお分かりになっていないようですな!。彼らの充分な調査も終わっていないのに故郷へ帰すですと?そんな事が言いたかったとは。彼女はまだ帰せませんし、あなたも覚悟をしてください。」と言いドアを開けようとしました。


するとドアが開き、セルゲイ・コプチュークが姿を現しました。


ミカエルは「所長…」と言いました。


「警備員や職員が呼び出されたと聞き、ドアの外で君達のやり取りを聞かせてもらいました。

ミカエル、座るのだ。私にもニコライ先生に伺いたい事がある。」とセルゲイは言いました。


「はぁ…」とミカエルは言い、渋々着席しました。


セルゲイは「彼らを帰すのは、調査が終了してからでも遅くはないでしょう?」とニコライに言いました。


「ほとんどの調査は終了していると言っていいでしょう…私がやりました。あの少女に関しても…。

彼らとはずいぶん話し合いました。ナスターシャのお陰でしたが…。

データが欲しければいくらでも提供しましょう。」とニコライは言った。


セルゲイは「…やはり金と知名度ですか…?」と少しがっかりして言いました。


「違います。一銭も要りませんし、私の名前も出して欲しくはないのです。


彼らの事はまだ謎の部分はありますが、八割方は分かりました。


突然ですが「大唐西域記」をモデルにした中国四大奇書「西遊記」のなかで、三蔵が目指した場所はニューデリーや天竺であったとされますが、本当はどこだったかセルゲイ所長はご存知ですね?」


「…インドのナーランダ仏教大学だが。」


「くしくもそのナーランダと言う呼び名をもつ土地が彼らの故郷なのです。」


「…本当かね?しかし何故?」


「これは私の推測ですが、彼らはあの未だ謎の土地に二千五百年程遠前から住み着いたようです。


大唐西域記が記載されたのは七世紀ですから、遥かその一千年以上前に、その「ナーランダ」と言う呼び名を持つ土地があったと言う事になります。


「ナーランダ」とはサンスクリット語で「自らが他人への無償の奉仕を喜んで望み、行う。」が主な意味で、愛と友愛、協調、繁栄、慈悲。などの仏教的な意味の込められた単語ですね。


遥か昔、いずこから伝わった桃源郷ナーランダの伝説が中国・シルクロードを経てインドに伝わり、慈悲の心「ナーランダ」を語源とし、その心を育成する大学として「ナーランダ仏教大学」と名付けられたのはではないかと思います。

絶縁されているナーランダの情報が、なぜシルクロードにまで伝わったかは、いまだ不明ですが・・・。」


ミカエルは「ではそのナーランダと言う土地も博士は特定したと言うのか!衛生写真にも写らず、調査隊もそんな所は天山山脈のどこにも無いと言う報告じゃないか!」と、いらついて言いました。


「…実は私にもナーランダがどこにあるのかはっきりとは分からないのです。天山山脈の南東ではあるようですが…。何しろ彼らはカンで帰るといいますし…。しかし実在する事は確かです。」とニコライは言いました。

セルゲイは「私もその実在は信じるよ、あの羊皮の装束は思い付きで作れる物ではない。」


ミカエルは「少女は一言も口を聞かない。これでは埒が開かん!所長!その少年の口を割りましょう!」と。


「あなたにナーランダの民が口を開くとは思えません…昨日見たあの少女は私が初めて会った時よりかなり痩せて憔悴しています。かなり怖い目に遭っていると思われます。」とニコライは言いました。




次回へ。









ニコライは続けます。「このガントをあの少女に逢わせて下さい。きっと彼女の心はほぐれ、精神も安定します、きっと言葉を発するはずです。」


ミカエルは「何故そんな事が分かる?」と聞きました。


「夫婦だからです。」


「夫婦だと?あの少女は見たところ15・6才ではないか。」


「17です。ナーランダでは全ての国民は17才で婚姻をします。その事もあなた達に証明したいのです。」


ミカエルは「二人を逢わせるのは危険です!。扉を開けた瞬間逃げるかもしれませんよ!。中国ではこの少年はかなり力任せに暴れたようです!。」とセルゲイに言いました。


セルゲイは「…ミカエルの言う事もしかりだが…。マジックミラー越しに見せても良いが、もちろん警備の者達と同伴だがね…。


しかし、ナーランダの場所をどうやって特定するのだね…?。

ニコライ博士は彼らを静かに故郷へ帰したいようだが、その場所もはっきり分からんとなると…。」


ニコライは「やはりこの年若い夫婦が一緒に知恵を絞り、もと来た道をたどらせ、二人の記憶を思い出させる他はありません。彼らは二人でこの土地にやって来て、二人の知恵で戻るのです。あの夫婦二人でなければナーランダに帰る道のりは分からないでしょう。


しかも彼らは二千五百年もの間、一度もナーランダから出たことがないようなのです。


とにかく我々は彼らの手助けをするのみです。」


ミカエルは「まあ、それならば良いだろう、そこが分れば我々の研究所の大発見ですな!。世界から注目を浴びますよ、所長!。」とセルゲイに言いました。


しかしニコライは毅然として言いました「それが目的ならば私はこのガントも、ナーランダの文化に関するデータも、言語データも全てお渡しすることは出来ません。あくまでナーランダの事はこの研究所でのみ極秘に研究され、各国のマスコミやテレビ、新聞には一切知らせてもらっては困るのです。


そしてもし仮に一度ナーランダに行ったならば、二度とそこへは行かないことを約束して下さい。これだけは絶対に譲れません。」


ミカエルは「なぜだ!勝手な条件を突き付けるな!」と言いました。

ニコライは言いました「我々は学者です…知りたい事はまだまだ山程あるでしょう…。無神論者の私も、ナーランダが何かしらの神々しいものに護られているように思えてなりません。だからこそあなた達も、更にナーランダの事を知りたくなるのでしょう…。


しかし今までの歴史の中で、アステカ文明、アメリカ先住民族、東南アジアやインドの庶民族。


彼らは大国に占領され、暴かれて来た経過があります。


その国々は今どうなったのでしょう?。現在彼らの抱える社会問題は、そこいらの近代国家と同じく山積みになってしまいました…。

私はもしかしたらこの地球上で最後かも知れない、平和と言う理想に最も近い世界を末永く存続させたいと強く思っているのです。


それこそが私の民族学者としての目的ではないかと…。彼らに出逢ってからそんな自分の職業の使命を強く感じたのです。


多くの民族に関する私の知識、調査、興味、それはこの時のためなのかも知れません…。」と。


ミカエルは「ばかな!あんたは狂っている!それが学者たる者の発言か!」と怒鳴りました。


「落ち着け!ミカエル!」とセルゲイは彼をたしなめ、ゆっくりニコライに言いました。「先ほどドア越しに聞いたあなたとミカエルの「夢」の話ですが、私も正直、何故民族学者になったかと聞かれれば、即答は難しいでしょうなぁ…。


ここの所長であるにも関わらず…お恥ずかしい話です。


私も少年の頃から歴史や地理、様々な国や地域の風習などに興味がありましたが、今こうしてロシア考古民族アカデミーの所長になってから、久しぶりに民族学にのめり込んでいた少年の頃を思い出しましたよ…。


今、私はそれなりの豊かさを得ました。妻も元気ですし、二人の息子も独立し、私に孫の顔も見せてくれました。順風満帆になったこの先、果たして私はここの所長としてこの先何をすべきか…?。

ニコライ先生、私にも「極秘のナーランダ研究。」そんな新しい目的が出来たのかも知れませんな…。」と言ってから悲しいのか、嬉しいのか分からない複雑な表情を浮かべました。

そしてまたニコライに尋ねました。「…それから、先ほどから気になっていたのですが、何故そんなに平和なナーランダからあの少年少女が出てきたのです?。」


「食糧難です。彼らが主食としている新種の麦があります。それも実物がありますのでこの研究所に提供しても構いません。その主食が地球温暖化により収穫量が減って来たのです。

やはり我々による近代工業化があの少年少女達をここへ導いた理由です。新種の麦に替わる主食となる植物を探しに国を出たそうです。ナーランダの統治者にその使命を託されて…。」とニコライは言いました。


「なるほど…やはり我々の責任と言う訳ですか…」


そしてセルゲイは続けました。

「分かりました。あの少女をこの少年に見せてあげましょう…。

それでもやはりあなた達の事、全てを信じた訳ではありませんから、警備員を連れて、マジックミラー越しに見せるのですが…。」と言いました。


ニコライは「それで構いません。」と言いました。


セルゲイは三人をマジックミラーのある部屋へ導きました。


その途中、廊下でガントはナスターシャに「さっきからニコライ達は長い事、何の話しをしていたんだい?」と聞きました。


ナスターシャは「あなたはあまり細かい事を知らない方がいいのよ…。とにかくこれからレイカの姿を見れるのよ。あまり興奮しないでね。」と言いました。


ガントの心には嬉しさと不安が湧いて来ました。


職員が鍵を使いドアが開かれ、ミカエルはニコライ達を部屋に導きました。


部屋は明るいのですが、ミラーは真っ黒で何も見えませんでした。

ニコライ達の後ろから数人の警備員が続いて部屋に入りました。


ガントはナスターシャに「何も見えないじゃないか!?」と言いました。


ナスターシャも「本当…鏡は真っ黒だわ…」とつぶやきました。


ニコライは「灯りを消してくれますね?」とセルゲイに言いました。

セルゲイの指示で研究所の職員はスイッチを押し、灯りを消しました。


すると鏡には椅子に腰掛け、うなだれているレイカの姿がぱっと映りました。


次の瞬間ガントは「あ!!」と言い、鏡に近づき、鏡を叩き「レイカー!レイカー!」と叫びました。


レイカは鏡の方から小さく聞こえるガントの声にすぐに反応し、鏡に近づき「ガント!そこにいるのね!?、ガント!」と叫びました。

ガントはいきなり鏡を蹴りました。


急いで警備員はガントを取り押さえました。

ニコライは叫びました「ガント!落ち着け!今はいかん!」と。


ナスターシャも「やめて!ガント!」と叫びます。


しかしガントは数人の警備員を信じられない力で跳ねのけ、もう一度鏡めがけて蹴りつけました。


次の瞬間鏡は「バリーン」と音をたてて割れました。


そのガントを再び警備員が取り押さえようとします。


しかしガントはまた渾身の力で警備員を跳ねのけ、レイカの部屋に入り、レイカを抱き締めました。


その姿をミカエル、ニコライ、ナスターシャ、セルゲイ、警備員達、研究所の職員達は呆気にとられたように見つめました…。


二人は抱き締め合いながら震えて涙を流しています。


レイカは「怖かった…来てくれたのね…信じてた…」と言いますが、上手く言葉になりません。


ガントはしっかりとレイカを抱き締め「ごめん、遅くなったよ…。」と言い、涙に濡れた自分の頬を、やはり涙で濡れたレイカの頬に強く押し当てました。


二人は溢れるように涙を流し、ただひたすら抱き締め合っています。


呆然とセルゲイは彼らを見つめながら言いました。「ミカエルよ…これでもまだ彼らをここに引き留めたいか…?。」と。


ミカエルは「あ、え、い、いや…その…。」と言いました。


ナスターシャも涙を流しています。


そしてナスターシャは一人ごちます「ガント…馬鹿ね、あれほど興奮するなって言ったのに…」と涙を拭くのも忘れ、その涙をただ床に落とすのみでした。


ニコライは涙も流さず、表情も変えず、じっと二人の姿を見つめています。


ここでニコライの役目のほとんどが終わった事を彼は自覚していましたが、最後の目的がまだあることをしっかりと自覚していました。


ニコライはホッとした気持ちでも無く、慌てた気持ちでも無く。残り少なくなった自らのエナジーを感じ、(もう一仕事だけ残っているな…)と寂白とした気持ちを感じ、同時にまた喜びを噛みしめました。


セルゲイは「…分かりましたよ…ニコライ博士…。長い議論をして来ましたが、あなた達の言いたい事が……。


「ペンは剣よりも強し」と言う言葉がありますが、どうやらペンや議論よりもあの二人の姿の方が強いようですな…。」と言いました。

ニコライも「…そのようですね。これは全く私の想像していた事態ではありませんが、セルゲイ所長のおっしゃる通りのようです…。」とセルゲイに同感しました。



ミカエルは言いました「…あんた達は馬鹿だ…しかし、馬鹿には勝てん…。」と。














その後、ガントとレイカには研究所の休養室が与えられ、レイカの体力の回復を数日待つ事になりました。


夜、セルゲイ、ニコライ、ナスターシャは休養室にてガント達と一緒に食事を摂っています。


ミカエルが居るとレイカが恐れるため、彼はその席から外されています。



ガントの左側に腰掛けたレイカは、すっかり安心して食欲も戻り、今日のメニュー「ボルシチ」を一心不乱に頬ばっています。


無理もありません、このところ彼女はほとんど食事らしい食事を食べていないのですから…。


ガントは微笑みながらレイカを見つめました。そして生まれて初めて食べるボルシチを口に入れて「これは濃い汁だなぁ…肉が入ってる?何の肉だろ…。油っこいなぁ、あれ、またあの白い酸っぱいのが乗っかってる」と思いました。


「酸っぱいの」とはサワークリームの事です。



食事を終えてセルゲイは言いました「ニコライ先生、もうあなたの中ではこの二人を帰す算段がなされているのでしょう?」と。


「まあ、そうですね…。はばかりながら、セルゲイ所長にお願いがあるのです。」


「何かね?」


ニコライは一枚の罫紙を上着の内ポケットから取り出して言いました。

「このメモに記載されているいくつかの植物の種を麻袋一杯に詰めて用意して欲しいのです。わたしが準備しても良いのですが、あまり時間をかけたくないのです。


副所長の動きも心配ですし…。」と。


セルゲイはメモを見て、「buckwheat(蕎麦)かね…。あとはヒエ、アワ、インディカ米の一種、それに高原野菜…?。こんな普通のもので良いのかね?。」


「ナーランダでは外界との接触がないため、植物の品種もかなり自然淘汰され、少ないようです。これらの植物をどのように栽培し、調理するかはファイルに図解で示し彼らに渡します。それに彼らはこれらの植物で我々の想像もしない食品を創り出すかも知れません。

特に蕎麦は寒冷地でも温暖な気候でも、日照量が少なくても育成します。これらを彼らに用意してあげてほしいのです。」


「それはたやすいが…。しかし、あとはナーランダの所在確認だが…?。」


「それはカラサイから上方の天山山脈の南東へ行ってみるしかありません…。


しかし彼らの話しを総合すると、高山にある深い窪地か、カルデラ、あるいは大きな穴の底に集落があると思われます。ガント達は「世界の壁」なる高い岩壁を時間をかけて登って来たそうです。」


セルゲイは「天山山脈にそのような地形は確認されておらんのに…それに、彼らにとったら帰る方が難しいのでは…?」と言いました。


「そうですね…彼らはカラサイに来る途中、高山病にもなったそうですし、「世界の壁」も降りなければなりません…滑落の危険も高いでしょう。


徒歩では無理でしょう…。


ですから私はヘリコプターをチャーターするつもりです。」とニコライは言いました。


ナスターシャは「…でも、幾らかかると思いますの?」と言いました。


セルゲイは「それならうちの研究所が頼めばすぐに用意できるが…。」と言いますが、ニコライは「いえ、ここで頼めばその支出は記録に残るでしょう?毎年ここへの補助金について国の監査が入りますよね?。セルゲイ所長にこれ以上ご迷惑をかける事は出来ませんし、その事でナーランダが公になる危険もあります…。私の蓄えでなんとかします。」と答えました。


ナスターシャは「…また全部自分一人で…私にも出資させて下さい!」と言いました。


セルゲイも「私も自費を出させて下さい。

口の固い信頼できるパイロットを知っております。どうですかな?

これでそれぞれ三等分と言う訳ですな。」と言い笑いました。


ニコライはしばらく顔を下にうつむかせて「…ありがとう御座います…。」と声を詰まらせました。





数日後、ガント達にはセルゲイが用意したパスポートが渡され、再び周囲の視線に配慮しガントはまたスーツに眼鏡、レイカは青いワンピースを身にまといました。


ナスターシャは出発前の休養室で彼女の姿を見て「レイカ!なんて似合うの?とても可愛いらしいわ!」と言いました。


確かにそのワンピースは彼女に良く似合いました。


そしてレイカは顔を少し赤らめました。


ガントは不思議そうにレイカを見つめています。


ニコライ、セルゲイも、まるで孫の顔を見るようにレイカの姿を見て、表情が緩んでしまうのでした。



一路モスクワ空港からキルギスに向かい、キルギス空港からヘリに乗り替えてカラサイを目指します。


雄大な草原や、大きなイシククル湖、整然と区画整備されたカラコルの街並み、そして天山山脈が近づきます。

レイカとガントはしっかりと手を握りあったまま、少しこわばり、無言でそれらの景色に見入っています。


カラサイの平原に着陸すると、セルゲイの知り合いのパイロットが言いました。「キルギス空港からここまでは随分燃料を喰いました。

ここでもう一度燃料を補給します、じきに燃料を積んだトラックが来ます。」と。


しばらくすると大きなタンクを積んだトラックがやって来て、パイロットとトラックの運転手は30分程かけて給油作業を終えました。


再びヘリは舞い上がり、天山山脈へと向かいます。


40分ほどしてナスターシャは「ガント、どう?自分達がやって来た道のりを思い出せる?」と聞きました。


ガントは「ここは確か僕が気を失っていた時、レイカが火を灯してくれた所だ…もっと上だよ上!。」と言いました。


セルゲイは「まだ上なのか?信じられん」と言いました。


更に上空を飛んで行くと雲はもう下になりました。


それからまたしばらくした時、雲間に一瞬垣間見えた雪原を指さし、突然レイカが叫びました「ここだと思うよ!ナスターシャ!たぶんここよ!」と言って下の雲を指差しました。


ナスターシャは「ここって…雲しかないじゃない…?」と言いました。


セルゲイも「衛生写真と変わらない景色だが…」と言います。


ニコライは「…いや、待って下さい。もしかしたら…」と言い。


パイロットに「あの雲に近づいてください。」と言いました。


パイロットは高度を下げ、雲に近づきました。

ニコライは「もう少し近づけますか?。」とパイロットに聞きました。


パイロットは「これ以上は危険です。雲の直下には切り立った山が有るでしょう…?。激突する可能性があります。」と言いました。



ニコライは「もう少しでいいんです。お願いします。」と言いました。


パイロットは「…分かりました。あと少しだけですよ…。」と言い、高度をまた下げました。



するとヘリのプロペラの風圧で少しだけ雲の切れ目が出来ました。すると眼下に一瞬、カルデラが見え、その底に中国風建築の建物が見えました。


セルゲイはそれを見つけ「ああっ!」と叫びました。


パイロットもそれを確認しました。


ニコライは「山はありません。着陸して下さい。」と言いました。


パイロットは「あ…はい。」と言って更に高度を下げました。


そして雲を過ぎると、百数十軒の集落が姿を現しました。


セルゲイは「おお!なんと言う事だ!。ここがナーランダだとは…。常にあの雲や霧によって衛星写真に写らなかったとは…。」と驚嘆しました。


ヘリはさらに下降し、カルデラに入りました。


バリバリバリ!と音をたてるヘリを見上げて、農作業中のナーランダの人々は叫びました「あれは何だー!」「リルサが使わせた悪魔の鳥なのでは!?」と。


一斉に彼らは子供、老人を連れて宮殿の広場に逃れました。


ヘリは集落に近いルルべべの岡の裾野に着陸しました。


ニコライ、ナスターシャ、セルゲイ、そしてガントとレイカがヘリから降りました。


ニコライは言いました「ここがナーランダか…思った通り美しい土地だ…。」と。


世界の壁の数カ所からは白糸の様に滝が流れ落ち、水しぶきが霧の様に滝壺近くに漂っていました。


レイカは久々の故郷に感極まり、泣き続けています。そんなレイカをガントは優しく抱き締めます。


しばらくすると、背が高く、羊皮のマントを身にまとい、ブルーの目をした女性が彼女の民を従えてルルべべの裾野に姿を現しました。


クーエンゾーは言いました「何者だ?」と。

ガントは眼鏡を外し。「私です、ガントです…」と言いました。


レイカも「クーエンゾー様、帰って参りました…」と言いました。

クーエンゾーは少し疑いの視線を二人に向け「そなた達のその装束はなんだ?」と聞きました。


ナスターシャが「私達の衣類です。」とナーランダ語で言いました。

クーエンゾーはナスターシャに「そなたは?」と聞き、ナスターシャがまた何か答えようとしました。


女王の言葉を理解したニコライがそれを制し、「待て、ナスターシャ、ナーランダ語でこう言ってくれ…。」とナスターシャにその内容を伝えました。


少ししてからナスターシャはナーランダ語を使い、よく通る声でクーエンゾーとその民に言いました。


「我らはリルサの子供である。」と。


ナーランダの民からどよめきが起こります。

ナスターシャは更に続けます。「リルサの子供同士もまた争い合っている。善なる子供達と悪しき子供達が世界の壁の外には居るのだ!。

我らはこのガントとレイカにパーチの替わりとなる植物を託す。」そうナスターシャが言うと、ニコライはヘリから幾つかの麻袋と図解が描かれたファイルを降ろしました。


ガントは女王に言いました。「彼らは善なるリルサの子供達です。とても親切にしてくれました…様々な苦難を乗り越えて…。レイカと帰って来られたのも彼らのお陰です。」と。

ルルべべの岡の裾野でナーランダの民はじっと女王の言葉を待ちます。



女王はゆっくりとニコライ達に語りかけました。「…感謝します。」と。



ナーランダの民一同はほっとしたようです。そして女王は続けます「何もお礼はできません…この子達を無事に帰してくれたのに…。さあ、宮殿にいらして旅の疲れを癒してください。」と。


またそのナーランダ語を理解したニコライは再びナスターシャに何か耳打ちしました。


そしてナスターシャは言いました「いや、我々もリルサの子供、我々とはあまり関わるな。そしてこの土地に再び危機が訪れるまでは、決して世界の壁にそなたの民を登らせてはならん。我々は壁の外で生き、ナーランダの民はここで生きるのだ。お互いの土地に干渉してはならん…。我々の住む世界は大いなる喜びと、大いになる苦しみに彩られている。」と。


ナスターシャに耳打ちするニコライを見て、女王はニコライにゆっくり近づき、彼の手を握りました。そして「すべてそなたが…?。」と言いました。

女王は今回の救出劇の中心人物が彼である事を悟ったようです…。


ニコライは何も言いませんでした…。


セルゲイは声高らかに言いました。「さあ、目的は果たした…リルサの国に帰ろう!。」と。


ガントとレイカはナスターシャに思わず抱きつき泣きました。次にニコライにも…。


ニコライはそこで初めて涙を流し、二人を抱きしめ、涙に詰まったナーランダ語で言いました。

「生きる・のだ…」と



ヘリを見つめるガントとレイカの間で、それぞれの肩に女王は優しく左右の手を置き、優しい微笑みをたたえて言いました。「…よく戻った…」と。


ニコライ達を乗せたヘリは再びけたたましい音をたて、離陸しました。


ナーランダの民から「おおー。」と言う声が響きました。



ヘリが雲を跳ね退け、雲に穴を作りました、そして再び雲の穴はゆっりと優しく閉ざされ、ヘリは完全に姿を消しました。







それから百年ほどが経ちました。



もうこの世にニコライもナスターシャも、ガントもレイカも居ません…。

日本、ロシア、中国、アメリカ、パレスチナやイスラエル、リビア、イラク、アフガニスタンなどもどうなったのかは作者の私にも分かりません…。




しかしナーランダの民は今でもひっそりと、昔と変わらぬ暮らしを続けています。




ガントやレイカの子孫達によって…。


(FIN)




桃源郷が実在するとしたら、それは決して公の地図に記載してはならないのです。

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