寛容な婚約者
「リンド様、申し訳ございません」
いつも待ち合わせに使用しているカフェ。衝立と観葉植物で仕切られた、一際広い席がローゼリアのいつもの席だ。
そこで深く頭を垂れるのは、彼女の婚約者であるアルフレッドの従者。
渡された花束に付けられたメッセージカードには、行けない旨と謝罪の言葉が少し荒い文字で書かれていた。
「お役目ご苦労様。 花束のお礼をお伝えくださる?」
美しく微笑んで謝罪を受け入れるローゼリアに、従者は恐縮しながらも安堵した様子で帰っていく。
アルフレッドが病弱な幼馴染みのことを理由に予定をキャンセルするのは、最近ではいつものこと。
待たせることは殆どなく伝言を寄越し、謝罪もきちんとするものの、あまりに頻度が高い。
王立学園からほど近く、貴族子女御用達の人気店。衝立程度で人目を避けられるわけでもなく、当然噂になっていた。
しかしローゼリアは淑女らしく、いつも微笑んで謝罪を受け入れる。
そこに嫉妬する様子はおろか、上流階級特有の遠回しな嫌味もないことから『寛容』というのが専らの評判だ。
悪評が立っているのはむしろ、婚約者のほう。
アルフレッド・ウェットンは美形で聡明だが、ローゼリアの実家であるリンド公爵家に婿入り予定の伯爵令息。
彼の幼馴染みの男爵令嬢は、確かに華奢で庇護欲をそそる愛らしい姿をしてはいる。だがただの幼馴染みと婚約者を天秤にかけ、幼馴染みの方を優先するなどどうかしている。聡明という評価も怪しいものだ、と囁かれるようになった。
「……学園では仲睦まじくしてらっしゃるから、嘘だと思ってましたわ」
「ローゼリア様が寛容なのをいいことに、妾にでも迎える気なのかしら」
「そんなの公爵様がお許しにならないわ、婚約破棄されるのではない? クラスの男子なんか『いち早く出せるよう、今から釣書を準備しなきゃ』なんて言ってるのよ」
衝立と観葉植物の間から向けられる、好奇と同情の入り交じった不躾な視線も意に介さない様子で、ローゼリアは本を取り出す。
こんなこともあろうかと、ゆっくり過ごせるように予め用意してあった。
「ローゼリア」
「あら、殿下。 ご機嫌よう」
声を掛けたのは第二王子のクライド。
読書を邪魔されたローゼリアは仕方なく、というのを見せずに優雅に席を立ち、淑女の礼を取る。
第二王子であるクライドは、ローゼリアの幼馴染みであり姻戚。ローゼリアの姉はクライドの兄、王太子殿下の妃だ。
クライドもアルフレッドに負けず劣らず、見目麗しく聡明だと評判。だが線が細く穏やかな面立ちのアルフレッドとは違い、男性らしい身体つきで凛々しく、武のほうにも長けている。
少し奔放なところがある彼は、あまり王族らしくない。まだ大した公務を任されていないとはいえ、こうしてひとりで市井のカフェなどに来てしまうのだ。
「また護衛を撒いていらしたの? 仕方のないかた」
「ふん、仕方ないのは君の婚約者のほうだろう。 幼馴染みにうつつを抜かし、婚約者の君を放置するだなんて」
「あら放置だなんて。 伝言と謝罪の品は頂いておりましてよ?」
「全く……」
王宮に戻る気のなさそうなクライドに、ローゼリアは読書を諦めて本を空いた椅子の上に置く。カフェの新メニューをクライドに勧め、自分の追加分と共に頼んだ。
「……君は寛容だな。 腹が立たないのか?」
呆れたように言うクライドに、ローゼリアはうふふ、とあどけなく笑う。
「わたくしアルフレッド様を信じておりますもの」
実際、学園や夜会などの公の場、アルフレッドは婚約者らしくローゼリアをエスコートして現れる。
さりげなくだがふたりはいつも互いの色を身に付け、それは大体、記念日に互いに贈り合った物だという。
しかもアルフレッドは、ローゼリアに近付こうとする男をそれとなく遠ざけ、牽制しているのだ。
「あまり甘やかすな、つけ上がるぞ」
「肝に銘じておきますわ」
恭しくも流すような軽さで返ってきた言葉にクライドは『フン』と鼻を鳴らし、出てきたタルトを不機嫌そうに三口ほどで食べた。
クライドにとって、ローゼリアは特別な女性だ。
出会ったばかりの、まだ幼い少女だった頃からどことなく大人びていた。美しく穏やかな女性に成長した今と、印象自体はあまり変わっていない。
淑女の笑み、というと『仮面のよう』という揶揄に使われがちだが、今も昔も彼女の微笑みは品の良さに溢れながらも柔らかく温かい自然なモノに感じる。
初恋だったが、出会った当初から叶わないとわかっていた。兄がローゼリアの姉を娶った以上、同じ家から妻を迎えるわけにはいかない。
それでもクライドにとって彼女が特別であることには変わりない。『姻戚であり幼馴染み』という立場に、それを感じるくらいには。
(気に入らんな)
クライドはアルフレッドの全てが気に入らなかった。
特に自分は幼馴染みを優先しておきながら、生意気にもローゼリアの幼馴染みであるクライドまで牽制してくるところが。
アルフレッドがローゼリアの婚約者になったのは、およそ一年前。優秀さを買われての婿入りだという。
ビジネスパートナー的な側面からの婚約であり、公の場で仲睦まじくいればそれで、というかたちでの夫婦関係にするつもりなのかとも思ったが、それにしては醸し出すモノがおかしい。
しかし一途にローゼリアだけを愛している、とは思えない行動を取っていることがまた解せぬ。
婚約後半年程は幼馴染みを遠ざけていたようだが、それ以降は徐々に彼女を優先するようになり、最近では目に余るほど。
クライドは憤り、幼馴染みの女との関係を調べさせたものの、耳に入る程度のことしかわからなかった。
『わたくしアルフレッド様を信じておりますもの』
いつもそう言って笑うローゼリアの微笑みに、陰ったところはない。
もしかしたら件の『幼馴染み』の余命があと僅かだとか、同情すべき理由があるのではと思ったクライドは、女個人をもう少し詳しく調べることにした。
セシリア・ビドルフ男爵令嬢。
彼女は確かに華奢で庇護欲をそそる嫋やかな感じではあるが、クラスメイト曰く『顔色は良かった』とのこと。
学園内で倒れたり具合を悪くする時は、いつも彼女にとって都合のいいタイミングで、周囲……特に女生徒達は冷ややかな目で見ていたという。
セシリアは段々学園に来なくなったが、その一方、街でアルフレッドと楽しそうに歩いている姿も目撃されている。『病弱』という点に於いては、かなり疑わしい。
そもそも彼女が学園に来なくなったのは、ローゼリアに絡んだことによる謹慎がきっかけであり、病気によるものではない。
身体を震わせ、涙ながらに婚約解消を懇願してきた──という話だ。
セシリアの見目はいいが能力は高くなく、引っ込み思案で男女共に友人はごく僅か。自分を気にして優しくしてくれるお人好しだけで、少しでも下心を感じると避けるようだ。
ただアルフレッドにだけは自分から接触し、執着を見せていたそう。
彼女の言動は誑し込むための演技というよりは素なのだろうが、どちらにせよあざといことには変わりない。それでも想われてる側には、一途に見えたりもするのだろう。
「結局、絆されたんじゃないですか」
「そうそう。 しかもローゼリア様が寛容なモンだから、それに甘えてるうちに、欲が出た、と。 愛人にでも据える気では?」
「身体で篭絡されたのでしょう。 違うタイプを両方楽しもうって腹ですよ。 うらやま……いやけしからん男です!」
学生同士の気軽な会話でさりげなく調べてくれた、クライドの友人でもある側近達はそんな風に言う。割と下世話だ。
「いや~以前俺、ローゼリア様といて、あの人に物凄い目で見られましたからねぇ。 浮気とかではないのでは?」
「じゃあ本当に幼馴染みを心配してると?」
「いえ、幼馴染みはどうでもよくて。 いわゆる試し行動とかではないかと。 『嫉妬して貰いたい』といった」
一番マシな想像ですらコレである。
「成程……どれもありそうだ」
(どれであれ、どのみち最低の男だがな)
それぞれ微妙に反応や意見は違えど、ろくでもない想像しかできなかった様子。
同情すべき点はない。
(ローゼリアが許している以上、手出しはできないのが歯痒い。 婚約破棄をするようであれば手を貸すというのに。 もしそうなったら……)
そうなったところで、彼女と自分が結ばれる未来はない。できるのは精々優しく慰めるくらいだろうか。
そう思い、クライドはひっそりと溜息を吐いた。
それからもローゼリアとアルフレッドは相変わらずだった。
だが──王宮で催された夜会の夜。
ローゼリアはエスコートするパートナーを伴うことなく、ひとりで入場したのだ。
大人達も、公爵令嬢が単身で入場したことに、驚きを隠せない様子。周囲の表情や向けられる視線、ひそひそと囁く声。
それら全てを気にした様子は微塵もなく、彼女は相変わらず柔らかい微笑みを浮かべて優雅に歩く。
そんなローゼリアに駆け寄ったのは、クライドだった。
「ローゼリア」
「殿下」
乱れる内心を隠して声を掛けると、淑女の礼を取ろうとするのを遮りにこやかに手を差し伸べた。
「美しいレディ、貴女と踊る栄誉を私に授けては頂けませんか?」
優雅な仕草で、少しおどけたように言う彼に、彼女は笑う。
「あら、うふふ。 わたくしとで宜しいのですか?」
「今誘わなければ、君の元に殺到する有象無象に埋もれてしまうだろう?」
重なる彼女の手の柔らかさが、互いの手袋の上からでも伝わり、クライドは高揚する気持ちを押さえ付けエスコートした。
「……アレはどうした」
ダンスの最中、こっそりと問うクライドに、ローゼリアはいつものように微笑んで返す。だが
「彼女のところです」
そう言ったとき。
微笑みが、哀しみに陰ったのを見た。
大切な女性が辛い気持ちでいるというのに不謹慎だが、それはあまりに妖艶で。
血が、沸騰する──そうとしか言えないほどに、クライドは全身が熱くなるのを感じた。
そんな表情をさせるあの男に湧き上がる嫉妬、同時にこの場で彼女の手を取れる言い訳ができたことの感謝……そして触れているドレス越しの肌から抗い難く突き付けてくる自身の欲望と期待に、心は更に激しく乱れていた。
今すぐ抱きしめたい。
(──まだだ、まだ早い)
今夜、クライドはローゼリアに想いを伝え、プロポーズする気でいる。
公開でなんて圧の掛かる真似をする気はない、まずはそっと彼女の婚約破棄の意思を確認してからだ。弱っているところに付け込むようだが、そうでもなければ彼女は自分への気持ちなど関係なく、受け入れてはくれないだろう。
(だが私はあの男なんかより彼女を愛している……!)
アルフレッドの不貞はもう公となったようなもの。
聡明なローゼリアは、たとえ自分が許そうと思っても、公爵や周囲が許さないと理解しているはずだ。
もし気持ちを受け入れてくれたなら、性急だが彼女の全てを自分のものにする。それ以外にローゼリアを妻にできる方法はない。
夜会で起こった事象を鑑みても、多少の情報操作で充分に美しい恋愛譚となり得る筈だ。
「ローゼリア、ダンスに誘った時の言葉は嘘じゃない。 今夜の君は美し過ぎて危険だ、狼達に群がられてしまうよ。 バルコニーへ出て少し時間を潰そう」
おどけた調子を続けるクライドの言葉を、ローゼリアは『ひとりで入場し目立ってしまった自分に対するの配慮』と好意的に受け取ったようで、礼を言い素直に彼に従った。
「これを」
バルコニーに出る前、待機していた給仕から飲み物を受け取り、淡いピンク色の方をローゼリアに渡す。
「ありがとうございます」
答えはあくまでもローゼリア次第。
だが、念の為カクテルには薬が入れてある。
媚薬なんて下世話なモノではなく、危険性もない、金さえ支払えば誰でも手に入れられるもの。
ちょっとした興奮剤──気分が高揚し、少し自分に素直になる程度だ。
あまり酒を嗜まず、淑女らしく心の内を吐露しないローゼリアの本音を引き出すためで、それ以上の意図も効果もない。
彼女の好むこけもものカクテルが、細く白い首元を伝って流れていく。それを確認とは違う目で眺めている自分を叱責し、クライドは切り出した。
「ローゼリア、あの男は君に──」
『相応しくない』
そう続けようとした矢先、背にしているホール内からざわめきが伝わってきた。
「なにかしら?」
「……ああ」
邪魔が入った、とローゼリアに気付かれない程度に舌打ちしたクライドだったが。
すぐにそれが、本当に邪魔な相手だとわかることになる。
「ロージー!」
──ローゼリアの婚約者であるアルフレッド。
会場のざわめきはアルフレッドの入場によるものだった様子。遅れて来た彼は会場の誰かにローゼリアの居場所を聞いたらしく、すぐにバルコニーまでやってきた。
だがクライドには余裕があった。
まだ、この時には。
クライドはローゼリアを庇うように前へ出ると、アルフレッドに立ちはだかり、嫌悪をあらわに告げた。
「貴様にローゼリアは勿体ない、さっさと去ね」
「……今宵は愛するローゼリアを守ってくださり、殿下には感謝しております。 今の言葉は聞かなかったことに致しましょう」
アルフレッドは美しい所作で紳士の礼を取るも、負けじと慇懃無礼に返す。
それを窘めたのは、ローゼリアだった。
「アル、失礼よ。 殿下は姻戚であり幼馴染みとして、わたくしを心配してくださっているのだから」
「ロージー……」
「殿下……我が婚約者の非礼をお詫び致します」
クライドは呆然とした。
愛称を呼び合い、気安い口調で話すふたりからは、公の場で見ていたよりもぐっと醸し出す距離感が近く、親密さが感じられた。
「だ、だがローゼリア……」
(ダンスの際に見せた哀しみに陰った笑顔……アレはこの男に裏切られたからだろう?!)
そう問い詰めたかったが、周囲に人はいなくともバルコニーの向こうでこちらを気にしている多数の気配がありありと感じられ、なんとか留める。
代わりにアルフレッドに向かって、決定的な彼の瑕疵となるであろうことを問うた。
「貴様は婚約者であるローゼリアを放置し、幼馴染みの男爵令嬢をエスコートしたのだろう?」
実のところクライドは最初から、この夜会にローゼリアがひとりでくると予測していた。
根拠はコレだ。
「夜会用のドレスをその女に贈ったことは、私の耳にも入っている!」
アルフレッドとセシリアの動向を気にしていたクライドは、その手の稼業の者に金を支払い、秘密裏に監視させていたのだ。
学生の側近達に頼んだことには、そこまでの意味などない。敢えて言うなら監視の目眩しであり、なにより『幼馴染みで姻戚』であるクライドに許される範疇での、最大限の関心──というポーズである。
なにしろローゼリアを手に入れるには、あくまでも彼の恋心は『諦念と共にある、美談になるようなモノ』でなければならないのだから。
彼の発言に話を戻すと。
あたかも噂として届いた風に語ったのは嘘だが、内容は事実。しかしアルフレッドの反応は、僅かに目を細めたのみ。
「ドレスのことは事実ですが、こちらには私ひとりで参りました」
「なに……?」
クライドは動揺した。
嘘を吐けることではない。
「殿下……ご心配をお掛けして申し訳ございません」
その声に振り向くと、ローゼリアは沈痛な面持ちを隠すように俯いていた。
「ドレスは彼からとして、わたくしが贈るよう頼んだのです。 ……なのにまさか、今夜までもたないだなんて」
「!」
あの表情……あれは男爵令嬢の死を悼んでのものだというのか。しかしクライドは脳内でそれを否定する。
(いやそんな筈はない、令嬢は健康体だったと医師の診断書にも──)
診断書は、いつのものだったのか。
男爵令嬢はローゼリアに絡み婚約破棄を懇願し謹慎となって以来、学園に来なくなった。
アルフレッドが彼女を優先し始めたのは、婚約後半年程後。セシリアがローゼリアに絡んで、暫く後のこと。
あまりに寛容すぎるローゼリア。
変わらぬ婚約者同士の態度。
知っている内容が断片的に、くっきりと頭の中に次々と浮かんでくる。まるでひとつの答えに向かって、点と点を繋ぐ、線を作るかのように。
「──まさか」
「そうです、殿下。 彼女は本日、神の御許に旅立ちました……寛容な婚約者のお陰で見送ってあげることができたのです。 残念ながらドレスは死装束になってしまいましたが……」
クライドの想像はそうじゃない。
それをわかっていながら、ぬけぬけとそう宣うアルフレッド。
おそらくは、幼馴染みの死など微塵も悼んでなどいない癖に。
「ローゼリアは……知っていたのか?」
返ってくる答えがなんであれ、こちらの真意が汲まれることはないだろう。そう理解しながらもクライドは、こう尋ねずにはいられなかった。
「ええ。 アルから彼女の余命を聞いて『優先して差し上げて』と。 あまりに不憫で……希望を抱くことが生きる気力になるのなら、と」
ローゼリアは声を詰まらせ、そっと涙を流す。
「私はそこまでしなくても、と思いましたがロージーの涙には敵いません。 距離感は守りつつ、セシリア嬢に希望を与えるべく振る舞うことに徹しました。 結果、周囲にも誤解を与えてしまったようです。 お騒がせして申し訳ない。 ですが本人に、余命のことや私の演技を気取られるわけにはいきませんでしたので……」
ふたりの言うことはどこまで本当なのか。
クライドにはわからない。
しかしこれは美談としてすぐに広まるに違いない。情報操作などせずとも、クライドの杜撰な計画よりも、ずっと。
間違いないのは男爵令嬢の死。
そしてなにかをしたにしても、この男が彼女の家でボロを出すようなヘマをするワケがないこと。
だから今、これは真実となった。
最早『幼馴染みで姻戚』であり続けるしかないクライドの最適解は、今の話に納得し、ローゼリアの婚約者が不貞を働いてなかったことに安堵する──フリをすること。
アルフレッドとローゼリアの間に立っていたクライドは、身体をずらすようにそっと空間をあけ、『ローゼリアが来たら近くを警備するように』と念の為頼んでいた女性騎士に目配せする。
「ロージー。 彼女は安らかに逝ったよ」
「そう……」
内心で忌々しく思いながら立場を譲ると、アルフレッドはローゼリアに寄り添う。その光景から目を逸らしたクライドは、なるべく自然に女性騎士へ指示した。
「……彼女を控え室へ」
「ご令嬢、お手を」
「お気遣いありがとうございます」
その後、労うようにアルフレッドの肩に手を置き、彼女に付き従うのを阻害する。クライドにできる、最後の抵抗だ。
その意図を理解し苦笑を浮かべるアルフレッドの手には、さりげなくローゼリアの手から回収したグラス。ホール内の近くにいた給仕にそれを渡して飲み物を頼むと、バルコニーへ戻る。
クライドと献杯をした。
どちらも悼んでいない、亡き男爵令嬢に。
「……『そこまでしなくとも』と言ったのはローゼリアのほうでは?」
「殿下はなにか誤解してらっしゃるようだ。 彼女の寛容という評価は紛れもない事実ですが、なにか?」
「そうか……」
クライドはその言葉を『ローゼリアは関わっていない』と捉えたらしく、安堵する様子を見せた。
ふふ、とアルフレッドは笑い、幼馴染みの女のことを思い浮かべる。
アルフレッドは優しかったかもしれないが、それは誰にでも。セシリアも確かに突き放したことはないが、特別に構った覚えもない。
そもそも彼にしてみれば彼女など『害がなさそうだ』と選んだ近い集団の中に、紛れ込んでいた羽虫程度の認識しかない。
アルフレッドは集団の中で唯一、セシリアのことを愛称で呼ばなかった。それに理由はあるが、それを知らずに普通に考えたって、どちらかというと『嫌われているのでは』と思える内容だろう。なのに何故か『特別だから』『他の皆に嫉妬しているから』といいように受け取られていたらしい。認知が歪み過ぎだ……まあ、誰かがいい加減なことを言ったのを真に受けた可能性はあるにしても。
セシリアの愛称を呼ばなかったのは、周囲の誤解を招く行為に彼が慎重だったからもあるが。それよりも単純に、嫌だったからだ。
たまたま早くから付き合いのあった者を『幼馴染み』と表する特別感なんかよりも、たまたま幼い頃に交わした一言二言や目にした全てが深く残る、正しく特別な相手──
『リア』はローゼリアに使われる愛称でもあったから。
自分以外誰も使っていない今の愛称を気に入ってはいるが、あの女のせいで『リア』と呼べなくなったことを、アルフレッドは許していない。
「概ねお話しした通りですよ、殿下。加えて言うなら、私に彼女のエスコートを勧めたのもロージーです」
「生憎、私は彼女のように寛容ではないので」──少し大袈裟なジェスチャーと共に、そう続けて笑う。
虫も殺せないような、中性的な美しい顔で。
クライドは汗が背筋を伝うのを感じながらも、唇をゆがませ歪な笑みを向けた。
「悪魔は美しい見目をしていると言う。 お前はまるで悪魔だ、アルフレッド・ウェットン」
「……は……ふふ、ははははは!」
一瞬。なにを言われたのかわからない、というようなあどけない表情で止まったあと、なにが可笑しいのか声を出して笑う。今度はクライドが呆気にとられる番だった。
「し、失礼。 ふふ……殿下は詩人でいらっしゃる。 失礼のお詫びに、『悪魔』に魅入られないための秘訣をひとつ」
「……なんだ」
「夢は夢……眠っているからこそのもの。 瞼を開けたまま追い掛ければ、その美しさに現実が見えず、足を取られることになりましょう。 例えばそうですね……殿下は私がなにか……薬でも使用したとお疑いなのでしょうが、」
アルフレッドはターンをするように軽快に、バルコニーの手すりに凭れているクライド傍に寄り耳打ちする。
「盛ったのは、殿下のほうですよね?」
クライドはヒュッと息を呑んだ。
バレているのだ、先程のこと──ローゼリアのカクテルに、薬を盛ったことが。
「な、なにを」
「ふふ、殿下は私のことをよくご存知でいらした。 あの女の為にドレスを購入したことも。 ですが……私には不思議でなりません。 何故自分がしたことを、他人がやらないとお思いでらっしゃるのかが」
「ッ!? ……!!」
監視されていたのだ。
自分がしたのと同様に……いやきっと、それよりも狡猾に。
「ああ、あのお医者様は情報を漏らしてはいないし、嘘を吐いてもおりません。 誤解なきよう。 ただ御覧になった診断書は、時期が早いものだったのでしょう」
「き貴様……ッ!」
「殿下」
周囲を気にする素振りを目の前の男だけに見せながら、アルフレッドは角度を気にしつつゆるりと移動する。
「言ったでしょう? 私はロージーのように寛容ではない、と。 ……わかりますか、これでも我慢をしている」
購入したのがもしも、軽度の興奮剤以上のなにかであったなら──
告げないその言葉よりも、向けられた氷柱のように刺さるアルフレッドの冷たい視線が、その先を含めて雄弁に語っている。
「では、そろそろ失礼致します。 彼女も落ち着いた頃でしょう」
一転し、穏やかな笑顔で颯爽と去っていくアルフレッドに、クライドはなにか言うどころか口を開くことすらできなかった。
その後、ローゼリアとアルフレッドのふたりは、揃って一通り必要な挨拶だけを済ませ、早々に王宮を辞した。詳細を聞きたがる者も、まだ訃報すら流れていないことを匂わせ、ふたりが哀しげに微笑めばそれ以上なにも聞けない。
囁かれるのは概ね、公爵令嬢の慈悲深さと寛容さを讃える言葉だ。
馬車の中、穏やかな青年の仮面を外したアルフレッドは、甘えるようにローゼリアに凭れかかりながら愚痴を漏らす。
「──全く、あの男は」
「あら『あの男』だなんて。 不敬よ? アル」
アルフレッドもクライドの全てが気に入らなかった。
特に、もなにもない。強いて言うなら、彼のローゼリアに対する想いの全て、だ。
幼馴染みを優先している、とアルフレッドを非難しながら、自分の言動は棚上げするところも。そこに『あくまでも姻戚であり幼馴染みだから』と保身的言い訳を差し込んでくる小狡さも。
その癖『自分が一番彼女を愛している』などと思っていそうなところなど、あまりにも愚か過ぎて、呆れを通り越して憐憫の情すら抱く。
傍から見たら、身分も立場もこちらの気持ちすら、なにひとつ弁えずにローゼリアを煩わせた男爵令嬢と大差ないというのに。
「仕方ないわ、殿下は子供であらせられるから」
「そうは言うけどロージー。 私がこの半年、どれだけ奴に不愉快な思いをさせられたかわかる? 仕方ないと言うなら、労ってよ」
そう言ってアルフレッドはローゼリアに頭を擦り付ける。撫でて欲しいらしい。
「まあアル、貴方猫みたいだわ」
「どちらかと言うと犬かもね? お姫様だけの忠犬、アルフレッド号」
「狂犬の間違いでは?」
「どちらでも同じことさ。 忠犬にして狂犬、悪くない。 さあ撫でて? ご主人様」
「ふふ」
──この半年に及ぶ茶番劇の目的はふたつ。
元々は個別の問題だったが、主目的である『男爵令嬢の排除』の方法が、もうひとつの問題も同時に解消できそうなことから一緒にした。
もうひとつの問題。
それは『クライドの目を覚まさせること』……ローゼリアが、ほかならぬ大切な姉から頼まれたことだった。
『クライド殿下に婚約の話が出ているの』
相手は隣国の王女で、島国ではないが陸続きなのは我が国のみの、三方を海に囲まれた国だ。
独自の航海知識と航路を持っており、海路での流通に長け、海軍が強い。養殖を含む海洋資源による産業から成る隣国とは、これまでもいい関係を保ってきた。
『婿入りなだけに、今までなら断っても問題なかったのだけど……』
一年前、王太子夫妻の間に待望の子が産まれた。元気な男児である。
その子がすくすくと育っているだけでなく、再び懐妊の兆しが見られた。姉である王太子妃がローゼリアに話をしたこの時点ではまだ確定しておらず、兆しのみ。
元々、卒業半年前になってもクライドが今のままだったら相談するつもりでいたらしい。
クライドが『姻戚で幼馴染み』と宣いながらもローゼリアに執着しているのは、見る人が見れば明らか。
普段の素行も今は『少し奔放』程度で済んではいるもののあまり良いとは言えず、学園在学中は公務の少なさや成績の良さが隠れ蓑となるが、卒業すればそうもいかない。
彼は視野が狭く、王族であるという意識が欠如している──懸念されるのはそこだ。
また中途半端に能力は高いので、本人にその自覚がないのも問題だった。
『まだ内々にだけれど、卒業を機に婚約は締結する方向で決まっているの。 幸い婚約期間もあるし、再教育は厳しく行うことになっているわ。 でも今のままではどうしようもない……わかるわね、リア。 夢見がちな王子様の恋心に、トドメを刺して頂戴。 難しいことはないわ、婚約者との間に入る隙などないところを見せてくれればいいだけよ』
ローゼリアは『王太子妃殿下のお心のままに』と恭しく答え、了承した。
だがその話を聞いたローゼリアは、少しばかり当初の計画に変更を加えることにしたのだ。
当初の計画はアルフレッドが怒り心頭だったことで始まった、発案・主導共にアルフレッドのもの。
『君の寛容さを見習うべきだと思って』などと宣っていたが、全く寛容ではない内容。
なにしろ後に続くのは、『あの女を嘘吐きにしないであげるつもりでいるんだ』なので。
吐いた嘘を本当にする……つまり、強制的に病弱になっていただく、という。
薬を盛るという手段は変わらないし、当然どちらも自然死に見えるものを選んでいる。
違うのは、摂取してから死に至るまでの期間と効果。
王家や学園で強いられたお勉強だけができ、常にちやほやされている王子様とは違い、アルフレッドの知識は幅広く……なによりそれを基盤に血を吐く思いで培ってきた、人脈の広さと深さが違っていた。
薬学の知識は他に埋もれる程度だが、秘密裏に適切な薬を調達することが彼にはできる。
期間は短くとも、万一にでも誤解を受けたくない彼はローゼリアに報告し了承を得ていた。
もっとも『困ったひとね』と首を傾げ微笑むだけの、どうとでも取れる返事だったけれど。止めない場合問題はないのだ、とアルフレッドは知っていた。
──ローゼリアの本質は苛烈だ。
ただとても気位が高く、それ故に鷹揚であり、寛容でもあった。
だからセシリアに対しては『たまたまなにかの弾みで石が跳んで来たからといって、その石を咎める人がいて?』くらいの気持ちしか持ち合わせていない。同じように鷹揚に構えて諸々を受け流していた筈の婚約者が、ちょっとローゼリアが煩わされた程度で激昂しているのには、満更でもない気持ちでいたりはするのだけれど。
アルフレッドの可愛さ以外に大した興味もなかったこの計画を変更したいと思った理由。それは、男爵領にある。
男爵領の一部は海に面しており、小さいが港もある……クライドの婚約に伴い、価値が上がることは簡単に予測できた。
手に入れるなら今──それには当然、アルフレッドの協力が不可欠なのだが、頼む必要はなかった。
姉の話を伝えると、彼のほうから提案をしてきたのである。
『ふふロージー、港が欲しいんだろう? 君の為に手に入れてこよう』
『まあ! ああ……アル! 貴方って最高だわ!』
すぐにこちらの意図を察してくれる、素敵な婚約者に、ローゼリアは子供のように抱きついた。実に頼もしい。どこかの夢見がち察してちゃん王子とは大違いだ。
そんなワケで。
計画は微妙に変更し、それに伴い薬も変更となった。結果としては、新しい薬の方が『本当に病弱になっていただく』という点に合った物になった。
当初の計画でも『昔から貴族としてダメな娘を甘やかし、付けあがらせた親にも責任がある』と、男爵家にはまた別の方向から責任を取らせる予定でいたアルフレッドは、大小様々な男爵家の問題の証拠を入手していた。どう使用するかは決まっていなかったが、今回は明確な目的がある。手札は多く、強いに越したことはない。
だがそれは保険にすることにし、今回は恩を売り高額な治療薬を融通することにした。マッチポンプである。
これがローゼリアより幼馴染みを優先させていた見舞いの真相であり、既に概ね目的は達成している。
会えない中で頻繁に送られてくる、愛の言葉を綴ったメッセージカードと、いくつもの契約・権利書の束。
なんて素敵な贈り物だろうか。その度ローゼリアは頬を薔薇色に染め、ほう、と甘やかな吐息を漏らした。
真実、ローゼリアはアルフレッドを信じている。
もっともその言葉の意味合いは、周囲が思うようなものとは少し違うかもしれないが。
「──だけどアル、わたくしひとつだけ不思議に思っているの」
「ん?」
「何故殿下には、わたくしが一切関わっていないように見せねばならなかったの?」
アルフレッドのお願いなので聞き入れたけれど、それが疑問だった。むしろ現実を突き付けた方が、ふたつめの目的には適しているのでは、と思う。
「ガッカリするとは限らない。 もっと惚れ込んでしまうかもしれないだろう? 本当の君なんて、アレには勿体なくて見せられないよ」
「まあ」
ローゼリアは彼の冗談じみた本音にコロコロと笑う。
「生憎、私は君のように寛容ではないのさ」
もしクライドがガッカリするにせよ、アルフレッドに教えてやる気などない。
あの女には寛容さから夢を見させてやったが、あの男には寛容でないから夢のままにしておく。
『自分が一番彼女を愛している』など、烏滸がましいにも程がある。いくら口に出さなくとも、その程度の分別では許し難い。
──だが、それが向けられているのが幻想のローゼリアになら。
それはただ滑稽なだけ。
それこそ、憐憫の情すら抱く程に。
「それに、そんなのは──」
「きゃっ……」
膝枕をされて撫でられていたアルフレッドが身体を起こすと同時に、ローゼリアの身体がふわりと浮く。あっという間に、今度はローゼリアの方が彼の膝の上で、横抱きにされていた。
「これからふたりの仲を見せつけてわからせてあげればいいことだ。 ご褒美の頂戴ついでにね」
「もう、アルったら」
アルフレッドの手が不埒に動くのを、ローゼリアが軽く叩く。流石に純潔は守っているが、ふたりはもうそれなりの関係まで進んでいた。
だがおそらくクライドは、そんなことなど想像もしていないのだろう。これまでだって王子様は王子様らしく、いつもお姫様の危機に駆け付けていたつもりだったのだから。
純粋無垢な囚われのお姫様など、最初からどこにもいないのに。
「起きたまま夢を見ている王子様は、すこぶる一途であらせられる。 きっとまだ監視と報告をさせているよ」
「だから遠回りさせてるのね? 道理でなかなか着かないと思ったわ」
動いている馬車内の様子など外から見えやしないが、公爵家の馬車に公爵家の馭者。
クライドは事実を多少自分の都合よく受け取ることはできても、セシリアのように改竄できる程には、器用な脳ミソをしていない。
もし少女じみた幻想が消せなかったにせよ、ローゼリアが合意の上でアルフレッドと『ふたりきりの逢瀬』を楽しんでいることは覆せない事実。
(精々思い知ればいい)
ここにいるのはクライドを『ただの姻戚で幼馴染み』としか思っていない他の男を愛する女と、その婚約者だけなのだ──と。
朝がくるよりも早く、クライドの元へ報告は届くだろう。
男爵令嬢の訃報も。
まあ、それらで王子様の目が覚めるかはまた別の話だけれど、アルフレッドにはそんなの知ったことではない。
なんならそうであっても構わないのだ、今度こそちゃんと叩き潰せるだろうし。
なにしろ、彼は寛容ではないのだから。
愛する婚約者と違って。