Episode.8-C~コドク~
前話:Episode.7-C
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家に帰った雪那は、いつものようにエプロンを身に着け、台所に立っていた。
手にした包丁の冷たさが、まだどこか現実感を持って感じられる。
けれどその指先には、今なお昼の記憶が残っていた。
――あのときの圭。
一瞬だけだった。
けれど、確かに彼は、崩れていた。
声にならない息。震える肩。何かを壊すようにサイコロを叩きつける手。
あんなふうに取り乱した人を、雪那は初めて見た。
(普通なら……怖がるのかもしれない)
思考の流れに沿って、自然と包丁がトントンと食材を刻んでいく。
いつものリズム、いつもの生活――そのはずだった。
だが、ふとその動きが止まった。
(でも、私は……怖くなかった)
理由はわからない。ただ、圭に“似た何か”を感じた。
それは親近感というには曖昧すぎて、共感というには確証がなさすぎた。
(それだけじゃない)
包丁を置き、ふと視線を落とす。
“あの時”、彼の異変に気づき、手を差し出した。
それは、雪那にとっては異例の行動だった。
誰かを助けたいと思うことも、それを実際に行動に移すことも、今までの自分にはなかったはずなのに――。
(私、今、人間らしい……)
目の前のまな板に並ぶ、刻んだ野菜たち。
湯気を立てる鍋。コンロの火。食卓に並べられた夕食。
そして、今のこの“考えている自分”すら、どこか新鮮で、懐かしくもあった。
(今なら……できるかもしれない)
そう呟くように心で言って、雪那は作った夕飯を初めて自室に持ち帰らず、食卓に並べた。
食器を丁寧に並べ、台所を片付けてから、風呂へ入る。
湯気の中で、体の力がふっと抜けていく。
(……待ってみよう)
それだけを決めて、バスタオルを持ったままリビングへ戻る。
すると、玄関の扉がカチャリと音を立てて開いた。
「……珍しいな。雪那が居間にいるなんて」
父だった。
無精ひげと、乾ききった声。
いつもは帰宅しても食卓を共にすることはない。
だが今日は、違った。
雪那は黙って夕食を示し、椅子に腰掛けた。
父も何も言わずに対面に座り、箸を手に取った。
会話はなかった。
テレビもつけず、ただ淡々と箸の音だけが響いていた。
それでも雪那は、何かが変わることを、少しだけ期待していた。
――けれど。
父は半分ほど残した食事を、何事もなかったかのように片付けると、静かに立ち上がった。
「……ごちそうさん」
短くそう言って、彼は背を向け、自室へと戻っていった。
部屋に残されたのは、ぬるくなった味噌汁の香りと、微かな食器の音だけ。
雪那は、ゆっくりと顔を伏せた。
表情は、元に戻っていた。
無表情で、何も映さない。
何も期待しない、元の自分へと。
(……やっぱり、ダメなんだ)
ぽつりと、心の中で呟いたその言葉は、誰にも届くことはなかった。
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