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せつな  作者: 666
春編
57/817

Episode.8-C~コドク~

前話:Episode.7-C

https://ncode.syosetu.com/n6562kv/51/

 家に帰った雪那は、いつものようにエプロンを身に着け、台所に立っていた。

 手にした包丁の冷たさが、まだどこか現実感を持って感じられる。

 けれどその指先には、今なお昼の記憶が残っていた。


 ――あのときの圭。


 一瞬だけだった。

 けれど、確かに彼は、崩れていた。

 声にならない息。震える肩。何かを壊すようにサイコロを叩きつける手。

 あんなふうに取り乱した人を、雪那は初めて見た。


(普通なら……怖がるのかもしれない)


 思考の流れに沿って、自然と包丁がトントンと食材を刻んでいく。

 いつものリズム、いつもの生活――そのはずだった。


 だが、ふとその動きが止まった。


(でも、私は……怖くなかった)


 理由はわからない。ただ、圭に“似た何か”を感じた。

 それは親近感というには曖昧すぎて、共感というには確証がなさすぎた。


(それだけじゃない)


 包丁を置き、ふと視線を落とす。

 “あの時”、彼の異変に気づき、手を差し出した。

 それは、雪那にとっては異例の行動だった。

 誰かを助けたいと思うことも、それを実際に行動に移すことも、今までの自分にはなかったはずなのに――。


(私、今、人間らしい……)


 目の前のまな板に並ぶ、刻んだ野菜たち。

 湯気を立てる鍋。コンロの火。食卓に並べられた夕食。

 そして、今のこの“考えている自分”すら、どこか新鮮で、懐かしくもあった。


(今なら……できるかもしれない)


 そう呟くように心で言って、雪那は作った夕飯を初めて自室に持ち帰らず、食卓に並べた。

 食器を丁寧に並べ、台所を片付けてから、風呂へ入る。

 湯気の中で、体の力がふっと抜けていく。


(……待ってみよう)


 それだけを決めて、バスタオルを持ったままリビングへ戻る。

 すると、玄関の扉がカチャリと音を立てて開いた。


「……珍しいな。雪那が居間にいるなんて」


 父だった。

 無精ひげと、乾ききった声。

 いつもは帰宅しても食卓を共にすることはない。

 だが今日は、違った。

 雪那は黙って夕食を示し、椅子に腰掛けた。

 父も何も言わずに対面に座り、箸を手に取った。


 会話はなかった。

 テレビもつけず、ただ淡々と箸の音だけが響いていた。

 それでも雪那は、何かが変わることを、少しだけ期待していた。

 ――けれど。

 父は半分ほど残した食事を、何事もなかったかのように片付けると、静かに立ち上がった。


「……ごちそうさん」


 短くそう言って、彼は背を向け、自室へと戻っていった。

 部屋に残されたのは、ぬるくなった味噌汁の香りと、微かな食器の音だけ。

 雪那は、ゆっくりと顔を伏せた。

 表情は、元に戻っていた。

 無表情で、何も映さない。

 何も期待しない、元の自分へと。


(……やっぱり、ダメなんだ)


 ぽつりと、心の中で呟いたその言葉は、誰にも届くことはなかった。

続き→9-Cへ

https://ncode.syosetu.com/n6562kv/64/

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