Episode.8-B~僕の奥底にある毒~
前話:Episode.7-C
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家に帰り着いた圭は、靴を脱ぐのも億劫なまま、無言でリビングのソファへと倒れ込んだ。
天井には、数年前からある水染みがうっすらと広がっている。
それをじっと見つめながら、数を数えることに意識を逃がした。
一つ、二つ、三つ――。
久しぶりだった。
呼吸が乱れ、手足が痺れて、思考が真っ白になるようなあの感覚。
(……まだ、自分は大丈夫だと思ってたのに)
カフェの帰り道。
あの横断歩道で感じた衝撃と恐怖の名残は、まだ体の芯に張り付いたままだった。
自分の中にある“傷”を、どこかで乗り越えたと思いかけていた。
けれど現実は、その幻想を一瞬で打ち砕いた。
「――ただいま」
玄関の扉が開き、優しい声が室内に響く。
圭は反応できずにいた。
足音が近づき、ソファに目をやったその人は、すぐに眉をひそめた。
「……圭。顔色、悪いな」
その言葉の端には、すでに“理解”があった。
叔父。
父の弟であり、圭を中学の頃から引き取ってくれていた人。
穏やかで、叱るよりもまず理解しようとする姿勢を崩さない、どこか兄に似た温もりのある人だった。
「……まさか、また?」
圭は何も言わなかった。
だが、返事をしないその沈黙がすべてを語っていた。
「……そうか。せっかく、落ち着いてきてたのにね」
苦しそうな声だった。
圭が一番嫌う“自分のせいで誰かが傷つく”という現実が、そこにはあった。
「僕……まだ、弱いな」
ぽつりと、口からこぼれた言葉は、情けなくて、悔しくて、少しだけ自嘲を含んでいた。
せっかく、自分を肯定できるようになってきたのに。
自分の存在を、少しだけ許せるようになってきたのに。
こんなふうに、簡単に崩れてしまうのかと思うと――また、昔のように、自分が嫌いになりそうだった。
その時だった。
隣に座った叔父が、圭の肩をそっと抱いた。
「圭はさ……兄さんの元を離れて、ここに来てから、ずっと歩き続けてるじゃないか」
「……」
「つまづいても、挫けそうになっても、ずっと前に。一歩一歩、確かに歩んでる。ちゃんと、努力してる。俺はずっと見てきたよ」
言葉のひとつひとつが、胸に染み込んでいく。
「……よく頑張ってるよ。だから、大丈夫。一緒に乗り越えるんだ」
圭は、何も言えなかった。
けれど、心の奥に張り詰めていた何かが、少しずつほどけていくのを感じた。
「……ありがとう、ございます」
ようやく声が出せた時には、目頭が熱くなっていた。
「よし、じゃあ……美味しいご飯でも食べようか。気分をリフレッシュすれば、明日には元気になるさ」
それは、叔父の昔からの口癖だった。
その一言に、圭は思わず笑ってしまった。
かすかに口角が上がるだけの、ささやかな笑みだったが、それは確かに“心が少し軽くなった証”だった。
そのまま、握りしめていたサイコロをポケットにしまう。
今はもう、選択になど頼らずにいたい。
自分の意思で歩いていきたいと、そう思った。
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