Episode.7-B~美味ければなんだって良い~
前話:Episode.6-A
https://ncode.syosetu.com/n6562kv/44/
キッチンには、チーズとバターの匂いが立ち込めていた。
雪那は、ホワイトソースの表面をゆっくりと木べらで撫でるようにかき混ぜていた。弱火のコンロの上でとろみを帯びていくソースは、どこか眠たげで、その様子を見つめる雪那の顔もまた、ひどく感情の起伏に乏しかった。
圭に「自分の好きな料理を作っていい」と言われて、彼女が選んだのはその料理だった。
湯気の向こうに見えるその姿は、まるで人形のようだった。
指先に力はあるのに、そこに宿るはずの“意思”が見えない。
焦がさぬように丁寧に、ルーと牛乳を絶えず混ぜながらも、彼女の目には光がなかった。
塩、胡椒、チーズ、炊きたてのご飯――
用意された材料を無駄なく、的確に、けれど感情の乗らない手つきで重ねていく。
グラタン皿にバターを塗り、ご飯を敷き、炒めた具材を載せてホワイトソースをかけ、チーズをたっぷりと散らす。
その工程すべてが、淡々としていた。
まるで台本通りに動く舞台装置のようで。
目の前で料理が完成しつつあることだけが、かろうじて“生活”の証だった。
オーブンの予熱が完了する音が鳴り、皿を中に入れると、しばらくして香ばしい匂いが室内に広がる。
チーズがぷつぷつと音を立て、表面に薄い焼き色が浮かぶ頃には、まるで街の洋食店のような出来栄えになっていた。
二皿。
一つは食卓に。もう一つを手に持ち、雪那は自室へと入っていった。
――――――
部屋の灯りを点け、静かにドアを閉める。
もう湯上がりの髪は乾いていた。
パジャマ姿のまま机の前に座り、雪那は黙ってドリアを口に運ぶ。
クリームソースの熱が舌を包み、チーズの塩味が淡く後を引く。
けれど、その味に対して彼女が何かを感じている様子はなかった。
噛む。
飲み込む。
また一口。
その繰り返しに、彼女の中の何かが動くことはなかった。
ただ静かに、静かに食べ続ける。
誰にも干渉されない場所で、自分のためだけに作られた食事を。
それが、彼女の“日常”だった。
――――――
時間がどれほど経ったか分からない。
ふと部屋の外から、玄関の開閉音がした。
やがて足音、そして風呂の給湯音。
雪那は、何も反応を示さなかった。
ただ静かに、自室で過ごし続けた。
そして、湯音が止み、廊下の照明が落ち、家全体が“沈黙”に包まれた頃――
雪那はようやく立ち上がった。
廊下を抜け、ダイニングに足を運ぶ。
そこには、父が食べ残したもう一つのドリアの皿があった。
――三分の一。いや、半分ほどが残っている。
フォークはテーブルの端に乱雑に置かれ、グラスの中の水は減っていなかった。
その光景を見ても、雪那の顔色は変わらない。
まるで、予想通りだったと言わんばかりに。
まるで、それが当たり前だったかのように。
皿を持ち上げ、静かにシンクへ運ぶ。
水を出し、スポンジで丁寧にこすり落とす。
手際は良い。けれどそこに“丁寧さ”以外の感情はない。
片付けを終えると、彼女はまた自室へ戻っていく。
すべてが無言の中で進んでいく。
静寂が、家中を支配していた。
そして――
その夜も、雪那の心の中には誰の声も響かないまま、夜が更けていった。
続き→8-Aへ
https://ncode.syosetu.com/n6562kv/55/




