EpisodeN.1-D~僕らの変わらない日常~
Episode”N”は夏編を示しています。お間違えのないよう。
前話
:Episode.14-I
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夏の朝は、まだ風が涼しかった。
足元を踏みしめるたびに、土と草の匂いが立ちのぼる。鳥の声が遥か上空を流れ、葉擦れの音と交わって耳の奥に染み込んでくる。登山道の斜面を一定のリズムで登っていくたびに、雑念が少しずつ削ぎ落とされていくのがわかる。
篠原圭は、小ぶりな文庫本を片手に持ちながら、山の中腹にある見晴らしのよい岩場に腰を下ろした。ゆるやかに吹き抜ける風が汗ばんだ額を撫で、乾いた空気が肺に心地よく入り込む。
ページをめくる手を止めると、記憶の隅にひっかかっていた声が浮かび上がった。
終業式。最後のホームルーム。
担任が教室の前で笑いながら言った一言が、妙に耳に残っていた。
「来年は受験で忙しくなるだろうから、今年は満足するまで遊べよ〜」
明るく放たれたその台詞に、教室中が軽い笑いで包まれていた。
けれど圭は、その言葉をどこか遠くの話のように聞いていた。
――自分にはもう、あまり関係のないことだな。
インドアな自分には夏休みなんて家でゆっくり本を読む時間でしかない。
友人に誘われて遊びにいくことはあっても、自分からどこかにいくようなアクティブさは持ち合わせていない。
ただ、もしかしたらそんな可能性があったかもしれないと圭は思う。
雪那との関係。
今はもう、解消してしまった不思議な関係がまだ続いていれば、夏らしいことを体験できたのかもしれない。
圭は心の片隅がジクジクと疼くのを感じる。
彼女のことを考えると、どうしてもネガティブな感情が顔を出してくる。彼女に対する罪悪感と申し訳なさ、そして自身の不甲斐なさが自責になって襲ってくる。
圭は頭を振って思考を追い出す。
もう終わったことだ。無理に気にする必要はない。
今年の夏休みは今までと同じように、平穏な日々を過ごそう。
心に波風を立てることなく、自分らしく生きるのだ。
ふと、スマホを取り出して時間を確認する。
今日はこの後、結菜とカフェでお茶をする予定があるのだ。
予定とは言っても、特別なことをするわけではない。
ただカフェで落ち合って、雑談をするだけ。
夏休み前から、こうして二人で過ごす時間が増えていた。
(そろそろ、行こう)
圭は立ち上がった。
木々の隙間から見える街並みは陽炎のように揺らいで見える。
「今日も暑そうだな」
そう言う圭の足取りはいつもより軽かった。
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