Episode.1~Prologue~
本作品は選択肢によって物語の展開が変化する読者選択型ストーリーです。
後書きに選択肢があるので、どちらかを選んでURL、または目次から該当の話を選び、読み進めてください。
春の陽気が、空気に微かな湿り気を含ませていた。木々の若葉が陽を透かし、山肌には淡く滲むような桜の色が広がっている。季節の輪郭がようやく浮かび上がり、嶺倉町の春は確かに始まりを告げていた。
その日、圭は人気のない山道を登っていた。
山登りは趣味というほど洒落たものではない。誰にも告げず、何の目的もなく、ただ無心に足を運ぶ。足元だけを見つめ、ひとつずつ石段を踏みしめていくその行為は、彼にとって心を整えるための儀式のようなものだった。
背後から吹き上げた春風が、汗ばんだ首筋を撫でる。風に乗って舞った桜の花びらが視界の端をすり抜け、肩先へと静かに降り立った。まだ息が整わぬまま、彼は最後の段差に足をかけ、無意識に顔を上げた。
――視界が、一気に開けた。
山頂から望む町の風景が、まるで一幅の絵画のように眼前に広がっていた。瓦屋根の連なりは柔らかな陽光に照らされて穏やかに輝き、遠くに霞む白い校舎が、淡い春靄の中に輪郭を溶かしている。風が舞えば桜の花びらが空を舞い、香りすらも風景の一部になっているようだった。
峰倉町。
それが圭が生活をする街の名前だった。
老木の桜がいくつも並び立ち、山頂の広場をぐるりと囲っている。その根元には朽ちかけた長椅子がぽつねんと置かれており、近くには使い捨ての紙コップがひとつ、風に転がされていた。誰かがここで花見でもしていたのだろう。
圭は足を進め、崖沿いに設けられた柵へと身を寄せた。鼻先をくすぐるような風を感じながら、ふと気配に気づいて背後を振り向く。
そこに立っていたのは、一組の親子のような男女だった。
スーツ姿の男と、淡い水色のワンピースに白いカーディガンを羽織った少女。帽子のつばが影を落とし、少女の表情はうかがえない。男は圭と目が合うと、軽く頭を下げた。圭も自然と、それに倣うように会釈を返した。
男性は柵の先に見える景色に小さく感嘆の声をあげた。
「見ろ、雪那。いい景色だぞ」
男が穏やかな声でそう促すと、少女はほんのわずかにうなずき、ゆっくりと顔を上げた。その動きには、まるで他人の言葉がなければ景色すら見ようとしなかったような、重たい静けさが宿っていた。
「こんにちは」
男の声が空気を和ませるように響いた。
「こんにちは」
圭も自然と返したが、視線は少女に吸い寄せられていた。
黒髪が春の陽にきらめき、細い首筋を撫でるように風に揺れている。制服ではない春の私服が、この季節の柔らかな色彩と調和し、彼女の輪郭すら曖昧に感じさせるほどだった。だが、その目――ただ一点だけ、深い闇を湛えたように陰を落としていた。
「実は今日、この街に引っ越してばかりでして……景色が綺麗だと聞いて、登ってみたんですが……いやぁ、確かにその通りですね」
「ええ……そうですね」
会話は簡潔で、穏やかなやり取りだった。だが、圭の意識は男の言葉から既に離れていた。
――雪那。
男が何気なく呼んだその名が、圭の中で異様な存在感を持って残った。名も、声音も、姿も。瞼の動き、指先の揺れ、風に踊る裾の軌跡。すべてが妙に脳裏に焼きついて離れなかった。
やがて男は礼を述べ、少女を連れて山道をゆっくりと下っていった。圭はその後ろ姿を見つめたまま、しばらくその場から動けずにいた。
――――――――
春休みが明け、新しい学期が始まった。
駅前の桜並木は花を散らし、若葉がちらほらと顔を覗かせている。制服に身を包んだ生徒たちが、新しい時間の始まりに胸を高鳴らせながら校舎へと向かっていた。
圭もまた、その列の一人だった。けれど、彼の歩みは穏やかで、どこか浮世離れしていた。周囲の喧噪とは裏腹に、春風にゆるやかに揺れる制服の裾が、まるで一人だけ別の時間を歩いているかのように思わせた。
新しくワックスがかけられた昇降口の床がほのかに光り、紙とインク、そしてほんのりと緊張した汗の匂いが混じる空気が漂っている。教室へと入った圭は、自分の席へと静かに歩み、椅子へ腰を下ろした。
本を開いた。けれど、文字は頁の上を滑っていくだけで、思考には何ひとつ引っかからなかった。意識の大部分が、どこか遠くに向いている。
「よっ、圭。今年もよろしくな」
「……あぁ、こちらこそよろしく」
隣に座る森川が声をかけてきた。圭とは中学からの知り合いで、よく声をかけてくれる存在だ。
「なんかさぁ、春休み一瞬だったな。圭は何してたよ?」
「別にいつもと変わらないよ。本読んでた」
「またかよ。お前ほんと、読書家だよなぁ」
他愛もない会話に笑みを交わしていると、教室の扉が開き、担任が姿を見せた。
「はい、席ついて。ホームルーム始めるぞー。……えー、突然だが今日から新しい仲間が増えます。まぁ転校生だな」
その一言に、教室の空気が一変した。ざわめきが湧き上がり、無数の視線が一斉に扉の方へと向けられる。転校生――それは誰もが一度は心を躍らせる、特別な響きを持つ言葉だった。
瞬く間に教室が喧騒に包まれる。「おい、静かにしないと入ってこれないだろうが。静かにしろー」という先生の言葉でようやく教室が静かになった。しかし、未だ興奮が抑えられないのか、ボソボソと話し声が聞こえる。
そして、教室の扉が開き、一人の少女が入ってきた。
再び、教室の静寂は破られた。しかし、今回は湧き立つようなそれではない。感嘆と驚愕、そして息を呑むようなどよめきだった。
黒板の前に立った少女はこちらに体を向けた。クラスの視線が彼女に奪われる。深窓の令嬢のごとき雰囲気と容姿の彼女に誰もが釘付けになっていた。
「この子がこれから一緒に生活する新しい仲間だ……自己紹介をお願いしてもいいかな?」
少女は先生に促されると命令された機械のように、今まで噤んでいた口を開けた。
「高嶺、雪那です……よろしくお願いします」
環境音にも負けてしまいそうな小さな声。だが、その一言だけでその場にいた誰もが、彼女の儚げな存在感に呑まれていた。
圭もまた驚きの表情をしていた。しかし、クラスメイトのそれとは少し違った。
(あの子は……)
忘れるはずもない。目の前の彼女は昨日出会った印象深い少女その人であった。
雪那と名乗った少女の簡潔な自己紹介が終わり、不思議な沈黙が教室に漂う。その空気に耐えられなくなったのか、先生は大きく咳払いを入れた。
「んんっ、それじゃあ、席は適当に……あぁ、篠原の隣が空いてるな。一旦あそこに座ってもらっていいかな?」
「はい」
先生は、彼女を圭の隣の席へと案内した。雪那が動き出すと、止まっていた時も動き出し教室中から羨望と嫉妬に塗れた言葉が圭に向かって飛んでくる。隣の森川もニヤニヤした表情でこちらを小突いてくる。
しかし圭はそれどころではなかった。
雪那がこちらに向かって歩きながら、圭の瞳をじっと見つめていた。
昨日のように俯くこともなく、周りの視線も意に介す事もなく、ただ圭のことを見ていた。
それは確かに、昨日のことを覚えている目だった。
だが何も言わなかった。言葉はなく、ただ視線だけが語っていた。
――――――――
放課後の教室は、始業式の余韻に満ちていた。
転校生というだけでも話題の中心になりうるというのに、あの容姿と雰囲気が加われば当然の成り行きだった。雪那の周囲には自然と人が集まり、まるで磁力に引き寄せられるかのように、次々と声がかけられていた。
だが、その中心にいる本人は、どこか人形のようだった。
表情の変わらない顔で、質問には答えるが自分から言葉を発することはない。心ここに在らずという言葉が浮かぶが、彼女からネガティブなそれを感じない。ただ穏やかにそこに存在していた。
隣の席にいる自分は、群れの中に呑まれるような形で机を押しやられていた。気づけば机と椅子の位置がずれていて、まるで自分だけが異物のように教室から押し出されている。
圭は静かに席を立ち、教室を抜け出した。
向かった先はトイレだったが、それはあくまで体裁のためだった。実際は、逃げるようにして教室を出てきたのだ。あの熱気が苦手だった。
洗面台の前に立ち、水をすくって顔を洗うふりをしながら鏡に映った自分を見つめた。
(……なぜ、あんなに気になるんだろう)
昨日、山で出会っただけの少女。ただそれだけなのに、彼女の存在が脳裏にしつこく残っている。言葉すら交わしていない。けれど、その佇まい、その目に宿る深い沈黙が、どこか心の奥を撫でて離さないのだった。
始業式は午前中で終わり、午後は自由だった。
「おーい、圭、もう帰んのか?」
森川の声に振り返ると、彼はいつものように明るく笑っていた。
「うん、せっかく午前で終わったし、図書室によってから帰るよ」
「まじか〜午後から皆で遊ぼうと思ったんだけど……」
「うーん……今日はいいかな、ごめん。次は絶対行くよ」
軽いやり取りを交わして別れたあと、圭は再び歩き出した。向かう先は、彼の居場所――図書室だった。
人通りの少ない廊下を進む。すれ違う知り合いに軽く挨拶をしながら、図書室へと向かう。
圭のいる学校では図書室を利用する学生は少ない、というかどこの学校も似たような物ではないだろうか。図書室へ向かうための廊下は明らかに人が少ない。そしてようやく辿り着いた図書室の扉に手をかけると、鍵はかかっていないようで立て付けの悪い音と共に扉が開いた。
中に入ると紙と皮、空調の匂いが鼻腔をくすぐる。教室で香るような人工的な匂いではなく、年月をかけた自然な匂いが圭は大好きであった。
「おっ、誰かと思ったら君か」
カウンターの奥から、顔馴染みの司書の先生が顔を上げた。
「初日から来ると思って開けといたよ」
「ありがとうございます。今年もよろしくお願いします」
圭は頭を下げ、静かに書棚の間を歩いていく。哲学書の並ぶ一角――いつもの場所。馴染んだ背表紙が目に入ると、自然と指が伸びた。けれど、ページをめくっても文字は意味を成さず、ただ流れていくだけだった。
「今日は……落ち着かないな」
呟く声が、書架の間に吸い込まれていく。
本を借りる気にもなれず、棚に戻した圭は静かに図書室を出ることにした。明日には、またいつも通りになっているだろう。そう自分に言い聞かせながら、扉に手をかける。
だが――扉を開けた先に、彼女はいた。
そこに立っていたのは、まぎれもなく雪那だった。
廊下の壁際、静かに佇むその姿は、まるで待ち伏せしていたかのようだった。だが、彼女の表情に焦りや気負いはなかった。ただ圭の姿を認めると、まっすぐに視線を合わせた。
その瞳には、不思議なほどの確信があった。
「……え?」
思わず声が漏れる。問いかけではない。ただ、思考が追いつかなかった。
他に人の気配はない。彼女が誰かを待っていたのだとすれば、その「誰か」は圭しかあり得ない。雪那はゆっくりと口を開いた。
「貴方にお願いがあります」
その声は、朝の自己紹介よりもずっとはっきりとしていた。けれど、その静けさには変わらぬ重みがあった。
「……私の全てを、決めてください」
圭の思考が一瞬、停止した。
「…………は?」
出たのは、ひどく間の抜けた声だった。
「いや、え、ちょっと待って……それ、どういう――」
言葉を繋ごうとする前に、彼女はさらに言った。
「お願いします。貴方の決定には、絶対に従います」
表情は変わらない。声も揺れていない。ただ、その瞳だけがひたすらに真剣だった。
「……なんで、僕に?」
ようやく絞り出した問いに、雪那は即座に答えた。
「貴方だけ、初めましてじゃなかったから」
たったそれだけの理由。圭は理解ができないと絶句した。
「えっと……これって、今決めないとダメかな……?」
この場をやり過ごそうとするも、目の前の彼女はそのつもりがないらしい。
圭は小さくため息をつくと、ポケットに手を差し入れ、指先でひとつの物体をつまみ上げた。
掌に現れたのは、1と2だけが刻まれた小さなサイコロだった。
「……サイコロ?」
雪那が小さく呟く。
圭は何も言わず、そのサイコロを床へと転がした。
コロ、コロコロ……。
廊下に響く、乾いた音。
その音が止まった瞬間、ふたりの間で何かが、静かに、しかし確かに動き出していた。
【選択肢1】:
雪那のお願いを聞き入れる。→2-Aへ
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【選択肢2】:
雪那のお願いを断る。→2-Bへ
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