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潮の香りが、開け放たれた窓からふわりと流れ込んできた。
アエレンはゆっくりと目を覚まし、天井をぼんやりと見上げた。
何度も嵐に打たれ、傷だらけになった木製の天井——それは、この小さな村が歩んできた年月そのものだった。
どこかで、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってきた。
そして、窓の外から聞こえるのは、波が岩に打ち寄せる、変わることのないリズム。
ここは、小さな漁村。
ダルカン——アエレンが知る中で一番大きくて美しい都市——の東にある、目立たない村だった。
アエレンはのびをしながらベッドに腰掛け、眠気を拭い去ろうと目をこする。
母のセラは、きっと何時間も前から起きているはずだ。
いつものように、朝食の支度を終えようとしている頃だろう。
父のブレンは、すでに港で、漁師たちの船の手入れに励んでいるに違いない。
「アエレン!」
隣の部屋から母の声が聞こえた。
甘く、しかし決して抗えない強さを帯びた呼び声だ。
「はーい!」
眠たげな声で返事をし、適当にしわだらけのシャツをつかんで頭からかぶった。
階段を降りる前に、アエレンは窓辺に寄り、外を見下ろした。
小さな石造りと木造の家々。
細く続く土の小道。
朝の煙が、村の上に淡く立ち上っている。
遠くには、ダルカンの高い塔が、まるで空に挑むかのようにそびえていた。
——いつか、きっとあそこに行くんだ。
アエレンはそう心の中で誓った。
思わず早足になり、階段を駆け下りる。
最後の二段を飛び降り、着地した音に母がびくりと肩を跳ねさせた。
「もう、静かにしなさいって言ってるでしょ!」
セラは呆れたように言いながら、湯気を立てるポリッジの入った椀をテーブルに置いた。
「さあ、座って。ちゃんと食べないと、先生のところに遅れちゃうわよ!」
「もう食べたから!」
アエレンは目をそらしながら、苦しい言い訳を口にする。
「本当に急がないと!」
「だったら、これだけでも持っていきなさい!」
母がパンを差し出そうとしたその時には、アエレンはもう家のドアを開け、飛び出していた。
風が頬を切る。
心臓が高鳴る。
彼が向かうのは、海を見下ろす小さな崖の上——
そこに、武術師範の古びた小屋があった。
今日も、きっと先生は待っている。
木剣を手に、辛辣な叱責とともに。
アエレンは全力で駆けた。
朝食なんて、今はどうでもよかった。
胸の中を支配しているのは、焦りと期待、そしてわずかな恐怖。
一週間後には、スパイア・オブ・ルーン学院の選抜試験が始まるのだ。
大陸一の名門。
天才だけが集う場所。
そこで学べた者は、英雄、将軍、大魔導師、策略家——
誰もが歴史に名を刻む者となった。
アエレンは足を少し緩め、荒れた小道を登る。
息を整えながら、心の中で繰り返す。
——一日たりとも無駄にできない。
——一度の失敗が、すべてを決めるかもしれない。
遠ざかる村の風景。
目前に迫る崖と、打ち寄せる波の音。
小さな背中に、夢と覚悟を乗せて——
アエレンは、今日も駆けていた。
やっとのことで、アエレンは丘の上にぽつんと建つ小屋を視界に捉えた。
古き武術師範、ヴァレクはすでにそこにいた。
腕を背中で組み、鋭い目で彼を睨んでいる。
「遅い。」
ヴァレクは短く言った。
アエレンが、息を切らしながら一定の距離まで近づいた瞬間だった。
「すみません、師匠!」
アエレンは胸を押さえながら、慌てて頭を下げた。
「もう二度と——」
「二度とないさ。」
ヴァレクはわずかに口元を緩め、にやりと笑った。
「次は遅れさせん。」
それだけ言うと、師範はくるりと背を向け、小屋のほうへ歩き出した。
無言のまま、手で「ついて来い」と合図を送る。
——時間はない。
——一瞬たりとも。
***
小屋の前に着いたとき、アエレンはすでに仲間たちが訓練を始めているのを見た。
ライヤは、今日も俊敏に舞っていた。
しなやかで、無駄のない動き。
一振り一振りが、まるで踊りのように美しかった。
対するエリックは、圧倒的な体力と、驚くほど鋭い動きを組み合わせている。
アエレンは、彼のその才能をいつも羨ましく思っていた。
——そして、心のどこかで嫉妬していた。
二人はアエレンの存在に気づきながらも、特に反応を見せなかった。
ただ、自分たちの技を磨くことに集中している。
「やっと来たか。」
ライヤは、ちらりとだけこちらを見た。
冷ややかな視線を投げながら。
「迷子になったのかと思ったぜ。」
エリックが、にやりと挑発的に笑う。
その瞬間、ヴァレクの低い声が割り込んできた。
「口を動かすな! 手を動かせ!」
師範の目が、鋭く光る。
ヴァレクは地面に転がっていた小石を数個拾い上げた。
そして、十分な距離をとり、厳しい声で叫ぶ。
「構えろ! これからが本番だ!」
アエレン、ライヤ、エリックは、互いに警戒しながら三角形を作るように立った。
視線を交わし、空気が一瞬にして張り詰める。
ルールは単純だった。
互いに戦いながら、ヴァレクが無差別に投げつける石をも回避、または撃ち落とさなければならない。
厳しい。
だが、これ以上ないほど効果的な訓練だった。
一瞬の判断力、攻防の同時処理、命を守るための本能——
すべてが試される。
「始め!」
ヴァレクの合図と同時に、三人は動いた。
まるで死の舞踏。
剣と剣がぶつかり合い、足音が地面を打つ。
アエレンは、最初の小石をぎりぎりでかわし、すかさずエリックの突きを受け止めた。
だが、すぐに気づく。
——二人の動きが、自分よりも速い。
ライヤの刃が空を切り、エリックの体当たりが迫る。
同時に、ヴァレクの放った石が、顔すれすれに飛んできた。
ヒュッ、と空を裂く音。
頬をかすめた風。
背筋を冷たいものが駆け抜ける。
「集中しろ!」
ヴァレクの怒声が、鋭く突き刺さった。
アエレンは必死に反応した。
だが——少しずつ、確実に、劣勢に追い込まれていった。
攻撃も防御も、どこかぎこちない。
次第に剣の重さが腕にのしかかり、足が思うように動かなくなる。
心臓が喉元で脈打つ。
呼吸が苦しい。
——こんなところで、倒れるわけにはいかない。
——あと少し、あと少しだけ……!
アエレンは、歯を食いしばった。
必死に、夢を掴むために。