セピア色の旅路と冒険記 -右の手 それは出会いか再会か-
木漏れ日に輝く蝶に挨拶をして
家族でも友達でもない誰かの提案で
家でも学校でもない何処かへ
探し物すら思い出せないのに
それがトランクケースから出てきて おおよそ十分くらい経った頃
わたしの思考は 大分落ち着きを取り戻していた
依然として言葉を交わさないそれは 至極当然のようにわたしの左肩に居座っている
また 依然として言葉を交わさないわたしは 左肩に居るそれを払い除けようともせずテントの組み立てている 今夜の寝床だろうか
最も ”だろうか” という表現を使ったのは どうやら車を降りてからというものの 思考とからだの不一致が起こっている感覚に 依然として襲われているからだ
下山し始めてしばらく経った頃 自身の疲労からトランクケースを投げ出した
その時の衝撃でトランクケースが開き 中から飛び出してきたのがそれだった
驚いたのは このわたしだけだった
からだのほうのわたしはそれに興味すら示さず 樹木を寄りかかってはそのまま滑り落ちるように座り込んだ
それは おそらく頭があろう部分を軽く振り払うと わたしに気がついた
その小さな身体を起こして 器用に五本の足でとことこと地をふみ するりとわたしの肩まで登ると 腰掛けるかのようにぴたっと動きを止めた
改めてもう一度言おう わたしの思考は大分落ち着きを取り戻した
そうでなければ トランクケースから飛び出したそれを直視できなかった
ましてやそれが 究極であるわたしのからだに触れ肩に乗っている なんて事実を理解するキャパシティーが不足する事態だった
出てきたのは手首から下の 手だったからだ
しかし事態はなお深刻だった
というのも わたしは驚愕やら恐怖やらで大忙しで 動悸を覚え心拍数が上がり多少の吐き気まで感じているはずなのに
その実は 平然と セピア色の空をぼうっと眺めていて
てんとう虫が手にとまったことにすら気づいていないようで
まるでどきどきもしてないし 気持ち悪さも感じていなかった
今に考えれば だからここまで落ち着くことができたのかもしれない
思考とからだの不一致が役にたつことも どうやらあるようだ
テントは無事に組み立てられた
今度は焚き火を起こすのに 木が必要だった
わたしとそれは手分けして集めた
それは一度に数本しか運べないが 何往復もして仕事を果たしていた 足が多いおかげか動きは早い
焚き火を起こすことができた頃 辺りは暗くなっていた
わたしはトランクケースからアルミホイルで包まれた何かをひとつ取り出した
包みを開けると おにぎりだった
そういえば わたしが作ってきたんだ
外で食べるご飯が好きだから ひとつだけ持っていこうと
おにぎりに 味はしなかった
トランクケースの中でガサゴソ音がした
それはカップスープ抱えるようにして トランクケースから出てきた
しかし残念なことに 水筒のなかの水はすでに枯れ果てていた
仕方ない またの機会にとっておこう
それを肩に乗せると カップスープをトランクケースに投げ込んだ
満点の星空の下 背伸びをしたらぐうとお腹が鳴った
それは肩から這って移動し わたしのお腹の辺りで自らを広げるようにしてぴたっとくっついた 心配してくれているのだろうか
それを抱き込むようにして両手でお腹を包み込んだ 今なら手が三本あるみたいだ
息苦しそうにそれは一本の足であり指を わたしの抱える腕からひょこっと出し 抜け出してするすると再び左肩まで登ってきた そしてまた手のひらをわたしの肩に定着させて動きを止めた
もう恐怖も不安もなかった ただ神秘的な空間に少しだけ高揚感を感じて
深呼吸をしたら眠りについてしまおうと 灯りを消した
寝袋に入ると 右手もとことこと入ってきた お腹の辺りで止まって静かになった
あたたかさを感じながら 目を閉じた
明日はなにをしようとか なにを食べようとか そんなことも考えないまま
どうか夢でありませんようにと 右の手に左の手を重ねた
これが最初で最後だと 気がついていた
そのせいで 嫌いなものまで愛せたのだろう
見たことのない景色を 見たことのある感覚がして
二度と見ることのない景色を 二度と忘れないようにして
綺麗なまま 今日を綴じた