一度壊れたものは、元には戻りませんよ。
「セレスティア。お前、竜神の祠を壊してしまったそうだな」
舞踏会の夜、セレスティア・アーデルハイド公爵令嬢は婚約者である王太子パトリックから詰問されていた。
「いえ、私はそのようなことはしておりません……」
ディランダ王国には国を守護する竜神伝説があり、由緒正しき名門貴族であるアーデルハイド家の子女は嫁ぐまでの間、竜神の祠を清め、守り、奉る義務がある。セレスティアは忠実にその勤めを果たしており、パトリックの非難はまさしく寝耳に水だった。
「とぼけるな。マリージョア・アーデルハイド嬢がお前の罪を教えてくれたのだ」
物陰からセレスティアの妹であるマリージョアが走ってきて、パトリックの陰に隠れた。
「マリージョア、これは、どう……」
セレスティアの言葉を遮るように、マリージョアがわっと泣き出した。
「申し訳ありません、パトリック殿下」
わざとらしく床にへなへなと崩れ落ちたマリージョアは、ありもしないセレスティアの罪を糾弾しはじめた。
「お姉様はいつも『竜神なんているはずがない』と、仕事を全て私にやらせていたのですが、今日……お姉様が、いつもはお勤めを果たさないのに、祠から走り去るのが見えて……私、とても嫌な予感がしました。祠を確認してみると、無惨に砕け散っていて……中にあるはずの、ご神体の指輪もありませんでした。それで、私はお姉様が竜神の祠を壊してしまったことに気が付いてしまったのです。ああ……アーデルハイド家の伝承では、祠に害をなした者には恐ろしい災いがふりかかると言われています。アーデルハイド公爵家は、もうおしまいです」
と、マリージョアは世界の終わりのように泣き出した。
「私は無実です! 祠を壊すなどしていません。それに、仕事をしていないのはマリージョアの方で……」
必死に訴えるセレスティアだったが、その声は誰にも届かなかった。王太子であるパトリックが公爵令嬢の罪を弾劾する──生半可な疑惑程度ではそうならないだろうという思いが、冷たい視線となってセレスティアにまとわりつく。
「話は簡単だ、セレスティア。お前の体には、罪の証が刻まれている!」
パトリックはつかつかとセレスティアに近寄り、デコルテが開いたドレスの襟に手をかけた。
「きゃっ……」
普段は人目に晒していない、セレスティアの鎖骨の下の肌があらわになる。
「な、何をなさるのですか……!」
「見ろ! セレスティアの体には、竜の紋章が浮き出ている。これこそが、セレスティアが罪人である証だ!」
──竜神に目を付けられてしまった人間は、体のどこかに竜がつけた印が浮かぶ。
セレスティアの肌には、まさしく竜の紋章が浮き出ていた。
「ど、どうして……」
セレスティアは祠の破壊などしていなかったし、ドレスを着たときには、その紋章はなかった。その上、公衆の面前で辱められたことに、セレスティアは頭の中が真っ白になってしまって、言葉を紡ぐことができなかった。
「お前がはめている指輪は、竜神の祠に奉られていたもの。お前は宝石欲しさに、祠を曝くという暴挙に出たのだ。しかも、お前は真面目なフリをして妹のマリージョアをずっといじめていたそうだな。涙ながらに彼女が語ってくれたぞ……」
確かにセレスティアの指には、セレスティアの瞳の色と同じ、淡い水色の石があしらわれた白金の指輪がはまっている。
けれどそれは、舞踏会の直前に「お姉様の指輪の方が自分のドレスに合うから、交換してほしい」と言ってマリージョアが自分の指に無理矢理はめてきたものだ。
──そんな嘘に踊らされてしまうほどに、私たちの関係は薄っぺらいものだったのね。
「セレスティア、竜神の祠を穢した盗人のお前は未来の王妃にふさわしくない。よって、お前との婚約を破棄し、私パトリックはアーデルハイド公爵家からマリージョアを妃に迎え入れる。そして、お前は竜神に対する大罪を犯した。王国のためにも、罰として竜神への生贄となり、その命を捧げるがよい」
「私は、何もしておりません……!」
だが、セレスティアの無実を証明するものは、この場にはいなかった。悪事の証拠となる紋章がその身に浮き出ていれば尚更だ。
誰も王太子の言葉には逆らうことができず、セレスティアは縄で縛り上げられ、竜神の祠のある洞窟まで引き立てられた。
両親は可愛がっていたマリージョアが王太子の婚約者になり、その上娘の命一つで竜神の怒りが収まるならと異議申し立てをしなかった。
つい数時間前まで信じていた全てが崩れて、セレスティアには反抗する気力さえ残っていなかった。
「ここから先は私が姉を連れて行きます。最後のお別れをさせてください」
しおらしいマリージョアの言葉に、兵士達は従った。セレスティアはマリージョアにせき立てられるようにして、洞窟の中へと進んでいく。
洞窟の中で、松明に照らされた竜神の祠は破壊されていた。
「マリージョア……なぜこんなことを……?」
セレスティアの絞り出すような問いに、マリージョアはにっこりと微笑んだ。
「お姉様が邪魔だったから、祠を壊してお姉様のせいにしようと思ったんだけど」
マリージョアの唇は松明の光に照らされて、醜く歪んでいた。
「祠の中の指輪がぴったりはまるものは竜神の花嫁となるべき乙女である──って言うじゃない? 試しに挑戦してみたんだけど、はまらなくて。残念だなーって思ったのだけれど、私、気が付いちゃったの。お姉様に、竜神の花嫁になってもらえば、王太子の婚約者の座が空くじゃない?」
私、そっちの方がいいから、代わってもらうことにしたの。
そう言ってコロコロ笑うマリージョアに対し、セレスティアは怒りが込み上げてきた。
「マリージョア、あなたそんなことのために……竜神様の怒りが怖くないの?」
「だからお姉様が代わりに謝っておいて。竜神様だって、毎日お掃除に来ていたお姉様の方が好きでしょうから」
マリージョアは笑いながらセレスティアを突き飛ばし、その場を去った。縄で戒められたセレスティアは立ち上がることができずに、ぺたりと地面に座り込んだままだ。
セレスティアは一人、暗闇の中に置き去りにされてしまった。心の中に絶望と恐怖が広がっていく。
「どうしてこんなことに……」
セレスティアは暗闇の中、がっくりとうなだれた。マリージョアはもちろん、自分を信じずにあっさり切り捨てたパトリックにも、妹の浅ましい企みに気が付かなかった自分にも、腹が立っていた。
憤っているうちに、やがて奥の方から足音が聞こえてきた。
セレスティアは恐ろしくて振り向く事ができず、ただぎゅっと目をつぶるしかなかった。
──竜神様が、本当にここにいらっしゃるなら。きっと、私の事を見ていてくださったはずだわ。
セレスティアはただひたすら、そう信じるしかなかった。
「あ、やっぱりセレスティアだ!」
場違いな青年のはしゃぎ声がして、セレスティアは恐る恐る振り向いた。暗闇のはずなのに、白い聖職者のようなローブを身に纏い、長い銀髪を細い三つ編みにした二十歳ばかりの青年がセレスティアを見下ろしていたのが、はっきりと確認できた。
セレスティアは青年に見覚えがなかったが、青年はまさしく破顔と言った様子で、嬉しそうにセレスティアを見つめている。
「お嫁さんに来てくれたんだねー!」
「えっ……?」
「あ、そう言えばこの姿では初対面だったよね。どう、僕、ちゃんと人間っぽくできてるかな?」
青年は屈託なく笑いながら、セレスティアの体を戒めていた縄をほどいた。正しくは、青年が指をぱちんと鳴らすと、縄が粉々に砕け散ったのだった。
「わぁ、セレスティア。いつもより可愛い服を着ているね。指輪もはめてくれて、嬉しいな。でも、あんまり急だったから、まだ結婚式の準備をしてないんだ。ごめんね」
──この青年は、人間ではない。
驚きと混乱の中で、セレスティアは一言も喋ることができないが、それだけは確信していた。彼がなぜ自分の名を知っていて、花嫁として扱おうとしているのかさっぱり理解できなかった。
「さあ、立って。こんな場所で震えていても仕方ないだろう? 一緒に奥へ行こう。あっ、自己紹介がまだだったね。僕の名前はラルフネージュって言うんだ。ラルフって呼んでくれる?」
「はい……ラルフ、様」
彼の言葉に促されてセレスティアは立ち上がり、ラルフネージュと共に洞窟の奥へと歩き出した。
「ら、ラルフ様」
「うん」
「あ、あなたは……竜神様、なのですか」
祠の奥の洞窟には宮殿と見まがうような立派な部屋があり、セレスティアはそこに通されて、温かいお茶を飲んでいる。
「うん、そうだよ。何代目かな、もう忘れちゃったけど」
それだけ言って、ラルフネージュは暢気にお茶受けのクッキーをかじった。今朝、セレスティアが供えたものに間違いなかった。
──私は、竜神様と、お茶を飲んでいる……。
行き止まりだと思っていた洞窟の奥にこんな場所があったこと、ラルフネージュが「お茶でもどう?」と誘ってきたことを、セレスティアはまだいまいち飲み込めていなかったが、ラルフネージュが自分に敵意がない──むしろかなり好意的であることに、少しだけ安堵していた。
「指輪、気に入ってくれた?」
ラルフネージュに尋ねられて、セレスティアの顔は再び青ざめる。
「あの、これ、お返しします。妹が申し訳ありませんでした……」
セレスティアが指輪を抜き取りテーブルの上に置くと、ラルフネージュはあからさまにがっかりした顔を見せた。
「気に入らなかった? 君の瞳の色にそっくりだと思ったんだけど」
「いえ、その。これは妹が祠を破壊して、盗み出したもので……それを私が持っていたから、ラルフ様は怒って私に印をつけたのではないですか?」
「あー、うん。祠は壊れたけど、別にそれはあんまり気にしてないっていうか」
「そうですか……」
なら一先ずは祟られる、ということはないのだろうか。とセレスティアは思った。
「セレスティアのために指輪を置いておいたけど、全然受け取ってもらえなくて。さっきかな、マリージョアが取りに来たから、セレスティアに渡してくれるのかなってちょっとドキドキしてて……そしたら本当にセレスティアが来てくれたから、僕と結婚してくれるんだ! って思ったけど、違うの?」
どうやら指輪の持ち主が竜神の番になるという伝承は本当のことで、自分は祠に足繁く通ううちに伴侶として見初められていたらしいことにセレスティアは気がついた。
「ラルフ様。私がここにやってきたのは理由がありまして……」
セレスティアはぽつりぽつり、自分が受けた仕打ちを語り始めた。王太子から婚約破棄されたこと、妹が指輪を盗み、自分を陥れたこと――。
ラルフネージュはふんふんと頷きながら聞いていたが、セレスティアの話が終わるとがっくりとうなだれた。
「そっか。セレスティアは僕を選んでくれたわけじゃないんだね……小さい頃から毎日通ってくれていたから、てっきり君が僕の花嫁になってくれるのだと思って、返事のつもりで印をつけたんだけど……」
なるほど、だから自分の肌に竜の紋章が浮き出ていたのだと、セレスティアは納得した。
「セレスティアは冤罪を晴らして、元の家に戻って、再び婚約を結び直したいんだね」
しょんぼりするラルフネージュの姿に、セレスティアは少し胸を痛めた。
「い、いいえ。もうあの家には戻りたくありませんし、パトリック殿下と結婚なんてとても……ラルフ様がよろしければ、このままここに置いていただけないでしょうか?」
もう今更、元の世界には何も残っていないし、少なくともラルフネージュは自分を見てくれていた。どうせ失った命であるならば竜の眷属となっても悔いはないとセレスティアは思っていた。
「え、本当!?」
しょんぼりと俯いていたラルフネージュはばっと顔をあげた。
「はい。掃除ぐらいしかできないかもしれせんが……」
「いいよ、何もしなくても。君が望むなら、ここで一緒に過ごそう」
ラルフネージュは即座に、快く応じた。
「でも、私の家族は……」
「君が悪いわけじゃないからね。じゃあ、今度は僕が動く番だ」
ラルフネージュはセレスティアの手を取って、微笑んだ。
「君の無実を国民たちの前で証明する。そうしたら、セレスティアはまた僕に笑えるようになるよね」
「は、はい」
「なら任せて。伴侶のために頼りがいのあるところを見せるよ」
「伴侶……」
「あ……お友達から始めた方がいい?」
「い、いえ。滅相もない」
成り行きで、セレスティアは竜神の花嫁となることが決定した。
「今夜は、ゆっくり眠るといい」
ラルフネージュの言葉に安心したセレスティアは疲れもあって、ぱたりと倒れ、泥のように眠ってしまった。
どれほどの時間が経ったのかわからないが、セレスティアは遠くで誰かが騒いでいる音で目覚めた。
部屋には扉の隣に小さな小窓があって、どうやらそこは祠と繋がっているようだった。祠に向かって罵詈雑言をまくし立てているのは、パトリックとマリージョアだ。
「セレスティア、出てこい!」
「何ですか?」
周囲にラルフネージュの姿はなかった。一晩のうちに、セレスティアのパトリックとマリージョアに対する好感度は地の底まで落ちていたので、顔を合わせることは避けたかった。
「もう、お二方と私の縁は切れたはずですが」
セレスティアは冷静かつ慎重に、小窓から声をかけた。
「お姉様、竜神に告げ口したでしょう!」
マリージョアはヒステリックに捲し立てた。
どうやら自分が寝ている間に事態は急転直下のようだ、とセレスティアは察した。ラルフネージュは王城へ向かい、その姿を現して真実を暴き、セレスティアの名誉を回復したのだと言う。そして、それによって竜神の怒りに触れた王太子とマリージョアは貴族の籍から外されることとなったらしい。
「告げ口も何も、あの方は全てを知っていて、私を花嫁として受け入れてくださいました」
本当のところはラルフネージュは事態を正しくは把握していなかったのだが、セレスティアは少しばかり仕返しをすることにした。
「姉として忠告するわ。早く、この国から出た方がいいわよ。もうまもなく、竜神ラルフネージュ様が戻ってらっしゃるわ」
それを聞いたマリージョアは、パトリックを置いて逃げ出した。一方、パトリックはまだ祠に縋り付いている。
「せ、セレスティア。あの状況では仕方がなかった。俺は騙されたんだ。悪いのはマリージョアだ。なあ、もう一度……」
セレスティアは冷たい瞳でパトリックを見つめた。普段からセレスティアのことを気にかけていれば、マリージョアの嘘になんて踊らされることはなかったのだ。
「祠も、信頼も。一度壊れたものは、元には戻りませんよ」
パトリックはまだ何か叫んでいたが、セレスティアは冷静だった。もう彼らに従う必要はないのだと、昨夜とは違い頭は冴え渡っていた。
「私はすでに、竜神の花嫁です。さようなら」
「セ……」
セレスティアがぴしゃりと小窓を閉めると、声は聞こえなくなって、セレスティアはふうとため息をついた。
「ただいまー!」
二人とほとんど入れ替わりで、ラルフネージュが戻ってきた。断罪ついでに公爵家からセレスティアの私物などを集めて、ついでに買い物などしていたらしい。
「ラルフ様、ありがとうございました」
「お嫁さんのためだもの。あ、もしかして現場を見たかったかい?」
ラルフネージュの問いかけに、セレスティアは首を横に振った。
「いいえ、それよりも……もっとラルフ様のことを聞かせてくれませんか」
「もちろん、いいよ」
「ありがとうございます。では、今日は私がお茶を淹れますね」
セレスティアが微笑むと、ラルフネージュは満足そうに頷いた。
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