8・5 ジャンヌ様の相談事
ストラーニ邸の応接室にパガネッラ侯爵令嬢ジャンヌ様がすわっている。アランさんによると、この屋敷に入る身内以外の女性は三人目だという。私、ウルスラ叔母さま、そしてジャンヌ様。
御前試合の二日後、彼女から『話がある』『できることならば場所はストラーニ邸でお願いしたい』というお手紙をもらった。ランベルト様に許可をもらいすぐにお返事を出して、いまにいたる。
ジャンヌ様は今日も、女神はかくや、というほどの美しさだ。ただ、初めて会った時に比べて精彩を欠いているような気がする。
「それにしても御前試合のときのあなたとストラーニ公爵様はすごかったわですわ。あんなに幸せそうな彼と、堂々としたキスを見せられては、失恋を認めるしかありませんわね」
そう言って彼女は微笑んだ。先日と違って無理をしているようには見えない。ほっとしつつ、
「あれは私も淑女のふるまいではなかったと反省しています」と答える。
私はきっとランベルト様が好きなのだ。あのあとに、そう思った。
とはいえ自分でも、どうして恥ずかしくもなくあんなことをしてしまったのか、わからない。
エマやアランさんが言うには、ランベルト様の試合中私は、ずっとお祈りをするように手を組んで、泣きそうな顔をしていたらしい。一心不乱に勝利を願っているように見えたとか。
ウルスラ叔母さまには、『感情が昂ってしまったのね』と言われた。
「そうね。確かに淑女ではありませんでしたわ」
ジャンヌ様はそう言った。けれど美しく微笑んでいる。
「だけど羨ましいの。わたしくしには、あんなことはできませんもの」
彼女はテーブルに置かれていた封筒を私に差し出した。
「これは観劇のチケットですわ」
「まあ、ありがとうございます。でもなぜ?」
「あなたの婚約者の勝利をお祝いして、友人からのプレゼントですことよ」
「お友達になってくださるのですか!」
「今だけですけどね。来月には隣国へ嫁ぎますの」
息をのんだ私にジャンヌ様は、説明してくれた。
ロザリア様の嫌味に対する私のふるまいが気に入ったこと。だからランベルト様のことは諦めて別の方と結婚すると決めたこと。相手は古くからの知人で、隣国の公爵子息であること。彼は十歳年上で、昨年末に奥様を病で亡くしているとのこと。
「誤解しないでくださいな」とジャンヌ様。「すべて自分で決めましたの。後添えでも相手は性格も身分も申し訳なく、パガネッラ家にとっての利もある。片思いに捕らわれ続けていた嫁ぎ遅れ令嬢の結婚相手としては、分不相応なくらいに最高ですの」
肯定しづらくて、あいまいに首を縦に振る。
それにたぶん、彼女の『話したいこと』はこのことではないと思う。
ジャンヌ様はしばらく目を卓上に落として、黙っていた。
だけどやがてまっすぐに私を見ると、
「御前試合のとき、あなたはステファンの花輪を受け取るよう声をかけてきましたわね」
と、言った。
「無理をきいてくださり――」
ジャンヌ様が手をあげて私を制した。
「公爵様の従者がステファンと親しい間柄ではないことくらい、知っていますわ。あれで心を痛めるはずがない。あなたの独断ですわね?」
「……ごめんなさい。お困りのように見えたものですから」
「認めたくはないけれど、困っていましたの。だからとても助かりましたわ。ありがとう」
はい、と答えて彼女の顔を見る。闘技場のときのように弱々しい目をしている。きっとまだ話したいことがあるのだ。
「よければ、お話ししてください」
ジャンヌ様はゆっくりと卓上に手を伸ばしてカップを取ると、お茶を飲んだ。それから、
「わたくし、なにも知りませんでしたの」と呟いた。
ステファンはパガネッラ家の縁戚だそうだ。子供のころから従者となるべく長男と共に教養や剣術を魔術を習っており、ジャンヌ様にとっては第二の兄といったところだったらしい。
それが二年前に突然従者を辞めた。彼女は一身上の都合としか聞かされず、本人も兄も退職の本当の理由を教えてくれなかったという。
その後彼は王立騎士団に入り、滅多に会うことはなくなった。でもジャンヌ様は第二の兄を心配して、時おり様子を見に行ったり差し入れをしたりしていたそうだ。
「彼がわたくしをあんな風におもっていたなんて、知りませんでしたの」と弱々しいジャンヌ様。
「相手の眼中にないことが、どれほど辛いかわたくしは身に染みていますわ。だから申し訳なかったし、かといって婚約が決まっている身で花冠を受け取るわけにもいきませんでしたの」
「お役に立てたのならよかったです」
それからジャンヌ様はステファン様との思い出をたくさん語ってくれた。その途中に、彼女がランベルト様を好きになったきっかけもあった。
ジャンヌ様は七年ほど前に、父親を恨む者によって誘拐されたそうだ。そのときに助けてくれたのがランベルト様だという。
「ほかにも近衛騎士はいたけれど最初に駆けつけてくれて、床に荷物のように転がされていた私を助けてくれたのが、あの方でしたの」
それは誰だって好きになってしまうシチュエーションに思える。
「でもね」とジャンヌ様は苦笑した。「あとでお礼を言ったら、『誰だ?』って顔でにらまれましたのよ」
「ええっ!?」
「名乗ったらわかってくださったけど。女性に興味がないから、顔を覚えないらしいですわ」
それは、けっこう酷いのでは。ジャンヌ様はかなりショックだったのではないかしら。
ランベルト様に事情があるのもわかっているけれど……。
こうしてジャンヌ様のことをよく知ると、気の毒になってしまう。
だけど彼女はそれ以上ランベルト様の話をすることはなかった。
ランベルト様のことよりも、兄のように慕っていたステファン様のことが気にかかっているらしい。
御前試合での一件を、パガネッラ家の人々は怒っていない。というより、言及しないそうだ。
だけど世間では彼を、身の程知らずと嘲笑っているとか。ジャンヌ様はそのことに心を痛めているみたいだ。
「彼のことだけが心残りですわ。わたくしのせいでこれ以上、辛い思いをしてほしくないですもの」
「そうだわ! 私が彼の状況をジャンヌ様に手紙で知らせましょう。なにかあれば、力になります」
「ダメよ。公爵様以外の男性を気にかけては。しかもわたくしが頼んだとなれば、勝手に大問題にされてしまうことでしょう」
「そうですね……」
ジャンヌ様と私の出会いはランベルト様を挟んでいて、あまり良いものではなかったものね。
「お気持ちだけ、ありがたく頂戴しますわね」そう言ったジャンヌ様は、はにかんだ。美しいお顔が一気に可愛らしい雰囲気になる。「あなたとは、もっと早くに知り合いたかったですわ。――叙勲式のときに、にらんでごめんなさい。とても恥ずかしいことでしたわ」
私も、ジャンヌ様ともっと長く友達でいたい。
困った方なのかと思っていたけれど、とても素敵な人だ。
来月にはお別れしなければならないなんて、とても残念すぎる……。
◇◇
ジャンヌ様とストラーニ邸でお会いしてからほどなく、偶然ステファンさんに出会った。私はランベルト様とふたりで街中デートをしている最中で、彼はひとりで買い物をしていたみたいだ。
目があったので会釈をしたら、彼はランベルト様に断りを入れてから私に話しかけてきた。
「御前試合では、ありがとうございました。花冠はあの場で投げ捨てられる覚悟でお渡ししておりました。受けた恩は、いつか必ず返します」
静かな口調でそう話すステファンさんは、とても誠実なひとに見えた。
そんなたいそうなことはしていないと思ったけれど、彼にとっては重大なことだったのだろう。
では、私にとって重大なことはなんだろう。
彼を好きなような気がするけれど、そう断言できる自信はない。御前試合のときは、ただ気持ちが昂ってしまっただけかもしれないし。
『重大なこと』と考えながら、ランベルト様のお顔を見上げる。
――この方のそばにいること。
最初に浮かんだのは、それだった。




