第五話
アグニが会場に戻った時、すでに次の対戦が始まっていた。放心状態の彼の目の前に、金色のリボンで飾られた布袋が突きつけられた。
「ほらよ。いらねえのか?」
「・・・・。」
ファルコから受け取った布袋は、ずしりと重たかった。本来なら、跳ねて喜ぶほどの大金だ。だが、このときばかりはアグニは素直に喜べなかった。
「・・・何、辛気臭い面してんだ?ファイターとしての初報酬だぜ。大したもんじゃねえか、もっと喜べって。」
ファルコは、まるで自分のことのように無邪気に喜んでいる。どこからどう見ても、ただの気立ていい陽気な兄貴だ。
「乾杯しよう。いい店があるんだ。」
アグニは祝杯をあげるような気分ではなかったが、ファルコの誘いを断るのには気が引けた。
気乗りしない様子のアグニに、ファルコはにっと笑ってみせた。
「もちろん、俺のおごりだ。」
親しみやすい彼の笑みに、アグニは思わず笑みを返した。
「おごるのは、おれの方だ。」彼は大金の入った布袋をファルコの前に掲げてみせた。「〝恩は飯で返す〟だろ?」
ファルコの助力無しでは、アグニはデスマッチで勝ち越せなかっただろう。そもそも、出場さえしていなかったかもしれない。今、アグニの手の中にある大金は少なからずファルコのお陰だ。
ファルコは眉間にしわを寄せ、布袋を持ったアグニの手を下ろさせた。
「勘違いするな、これはお前の実力だ。お袋さんにウマいもん食わせてやれ。」
「・・・そうする。」
ファルコは満足げに笑んだ。彼は何かと母親の話題を出してアグニを手なずける。いつもそれで彼の思うように転がされているが、母を気づかってくれることはアグニにとって悪い気分ではなかった。
2人は飲み屋に行く途中で、公衆入浴場に寄った。鉄筋剥き出しの簡易な施設で、天井に張り巡らされた穴の空いたパイプから噴き出す薬湯を浴びる。
薬湯といっても消毒液のようなもので、水はほとんど使われていない。コロニー内の衛生を守るため、誰でも無料で使用できるようになっている。
アグニは薬湯の匂いが嫌いだった。錆びた鉄の臭いとハオマ草の甘ったるい匂いを混ぜたような刺激臭だ。少し塩気も含まれている。アグニの嗅覚には、それが血の臭いに感じられて不快だった。
湯気が立ちのぼる浴室は、屋外から戻った男たちで混雑していた。仕切りがないため、適当に人と距離をとって立ち浴びするのがマナーだ。
「あの嬢ちゃんは、お前の彼女か?」
壁に両手をつき、しかめっ面を下に向けて薬湯を浴びるアグニに、ふとファルコが思い出したように隣から聞いてきた。
アグニは警戒して彼を窺い見た。ファルコは布で身体を擦りながら、アグニの返答を待っていた。その目には軽い好奇心がうかがえた。もちろん本音はわからない。
「・・・いや、ただの幼なじみだ。」
アグニは正直に答えた。
ファルコは、何の疑いもなく納得して頷いた。
「そうか。いい子だな。」
ファルコの声色には、世辞も下心も含まれていなかった。ただ純粋にミアのことを〝いい子〟だと思い、そのまま口に出したという感じだ。
「大事にしろよ。」
ファルコは口元に笑みを浮かべ、真剣な眼差しで言った。
彼の表情は、どこか憂いを帯びていた。それは一瞬のことだったが、とても優しい表情だった。ミアがその表情を見ていたなら、彼を悪人呼ばわりできなくなっただろう。
「ん・・・うん。」
アグニは、複雑な思いでうなずいた。
湯浴みを終え、裏町の一角に立つ飲み屋に入った。タングスが中までついてこようとしたが、それは流石に許さなかった。タングスは不満の唸り声をもらし、飲み屋の入り口前で大人しく寝転んだ。今晩、この飲み屋の売り上げは下がるに違いない。
外側から見たときは、そこらにあるしけた飲み屋と大差無かったのだが、一歩足を踏み入れてアグニはぎょっとした。店を間違ったのではないかと思いファルコを見やったが、彼は涼しい顔で店の奥へと入っていく。
「・・・・。」
アグニは躊躇しながらその後を追った。
店内は、ムーディーな紫色の光で満たされていた。天井にいくつも吊るされている生きた照明器具の外装が紫色に塗られているせいだ。天井以外にも、いたるところに青や赤の間接照明が置かれていた。
鉄屑をつなぎ合わせただけのテーブル席とカウンターには、白い光を放つ照明がほどよく飾られ、身なりのいい客がグラスを片手にくつろいでいる。
酒を運ぶウエイトレスは目の行き所に困るような極めて露出度の高い衣装をまとい、男性客に笑顔を振りまく。店内の片隅に設けられたステージでは、フリークの男たちが様々な形の楽器を手に演奏していた。音楽などアグニには縁のないものだが、心地のいい音楽だった。
一時はいかがわしい店に連れてこられたのかとドギマギしたアグニだったが、よく見渡してみるとそういった雰囲気はない。希少な小型ガグルが飼われた水槽やインテリアとしてアレンジされた魔除けは、どれもセンスがいい。上層階級の連中が外客を招くにうってつけの洒落た高級バーといった感じだ。
ファルコに従い、2人で座るには広すぎるテーブル席へ足を運んだ。
「こういう店、初めてだろ。感想は?」
ファルコは椅子に座りながら、何気なくアグニに聞いた。
アグニは大袈裟に店内を見渡し、しばらく考えるふりをして「紫は好みじゃない。」と唸った。
ファルコは苦笑いした。
「同感だ。普段は青かオレンジのどちらかなんだが、今日は特別にな。」
「・・・ファルさんの店!?」
ファルコは、答えるかわりに口の端を片方だけ上げてみせた。なるほど、センスがいいはずだとアグニは納得した。
「特別って、何があるんだ?」
「じきに分かる。」
アグニはファルコの意味深な言い方に引っかかりながらも、彼に促されて大人しく椅子に座った。
抜群の体型をした青いウイッグのウエイトレスが、浮き足立って寄ってきた。
「何になさいます?オーナー。」上ずった高い声。
ファルコに緊張しているのかと思ったが、どうやら違うようだ。ちらちらとアグニに目でサインを送ってきている。
あからさまで、心を読むまでも無い。アグニは、なるべく見ないように努めた。
「腹の足しになるもの適当に頼む。後、軽いので。」
2人の様子が可笑しいのか、ファルコは笑いをかみ殺しながら注文した。
「あ、えっと・・・。」
「人肉は置いてない。」
アグニの不安要素を瞬時に察し、ファルコは穏やかな口調で諭した。ウエイトレスは、はにかみながらアグニにウインクして席を離れていった。
「・・・お前のファンなんだ。いつも欠かさずバトルを見に来てる。」
ウエイトレスの後姿を目で追うアグニに、ファルコは声をひそめて教えた。
アグニは、そのウエイトレスとミアを比べずにはいられなかった。ミアは、この店のように健全な所では働いていない。相手にしている客も行儀のいい連中ではない。柄の悪い、下心丸出しの下種どもに愛想をふりまくミアの姿を想像すると、言葉にならない不快な思いが胸の中でうずく。
ここで働く娘たちは生き生きしている。ミアが今の仕事を好んでいないのは一目瞭然だ。もしこの店で働いていたら、彼女はもっと幸せそうな笑顔を見せるだろうか。
「・・・もう1人、ここで雇ってもらえないか?」
アグニは思い切ってファルコに聞いてみた。
ファルコは、探るようにアグニの目を見た。
「あの、ミアって子か?」
アグニはうなずいた。
「あいつ、すげえ歌が上手いんだ。きっと気に入るよ。」
「俺はかまわないが、まず彼女に聞かないとな。」
ファルコはあっさり了承した。
「ああ、絶対喜ぶよ。」
と言いつつも、ファルコの店で働くことをミアがすんなり受け入れるかどうか、アグニには自信がなかった。
ファルコのことをもう少し知れば、ミアはきっと今よりも彼を警戒することは無くなるはずだ。ファルコはミアのことを気に入っている。ミアさえうまく説得してここに連れてくれば、アグニがファルコを慕う気持ちを多少なりとも理解してくれるに違いない。アグニはそう期待した。
しばらくして金属製の食器に盛られた料理と酒が運ばれてきた。食材の豊富さに、アグニは驚きを隠せなかった。芋とキノコのスープ、サソリの素揚げ、ラットの丸焼きに、アグニの知らない植物のサラダ。さらに、パンまである。
一度にこれだけの食材を目前にしたのは、アグニにとって生まれて初めてだった。
「・・・どこから、調達してんだ?」
「企業秘密。」
アグニは夢中になって飯にありついた。ファルコは料理に手をつけず、アグニの食べっぷりを満足げに眺めながら酒を飲んだ。
「なあ、アグニ・・・。」
「むほ?」
ふいにファルコが口を開いたとき、アグニはパンをほおばった口にスープをかき込んでいた。
「お前、悪魔崇拝者をどう思う?」
そう問うたファルコの声は、違和感をおぼえるほど低くて静かだった。
アグニは手を止め、パンと芋を噛みしめながらファルコを凝視した。口元にうっすらと笑みをうかべるファルコの目は、照明の光を反射して鋭く光っていた。
アグニは口の中の物を空にし、水のように薄い酒をがぶ飲みした。
「・・・何を崇め奉ろうと人の自由だ。おれにどうこう言う権利は無い。それに神とか悪魔とか、信仰には興味ないんだ。それがどうした?」
「・・・・。」
ファルコはアグニの質問には答えず、すっと視線を店の入り口へ向けて椅子から立ち上がった。ファルコに促され、アグニも立ち上がる。
退魔の鈴を鳴らし、扉が開いた。まず姿を見せたのはドップ・ファミリーの幹部2人。その後を、彼らにエスコートされるようにして1人の女性が入ってきた。
彼女を一目見て、アグニは照明が紫に施されている理由を悟った。