第十六話
「!!」
アザゼルは荒々しく翼を羽ばたかせて上空に舞い上がった。
その直後、空間の裂け目が白く光り、高圧のプラズマ砲が空中を突き抜けて高々と駆け上った。それは、キラがこれまでに見たことの無い凄まじい威力の霊的エネルギーだった。
瞬く間に修復されていく裂け目から異空間へ、謎の発光体が飛び込んできた。それは、3本の尾を持つ白い狐の霊体だった。
いや、霊体というより肉体を持つ生きた生物に近い質感だ。イフリートよりも濃度の濃いエクトプラズムで物質化されている。
キラの前に降り立った白狐は、アザゼルを見上げて首をかしげた。
「あら、お邪魔だったかしら?」
白狐の口から発せられた聞き覚えのある女声に、キラはぎょっとした。
「―――タマキ!?」
タマキは半信半疑のキラを振り返り、緋色に発光する目を細めた。
「感謝しなさいよね、キラ。私とのシンクロ率が高かったからこそ位置が特定できたのよ。」
思わぬ邪魔が入ったことで、アザゼルは不機嫌そうに唸った。
「マリッドの〝分霊体〟ごときに何ができる?」
分霊と聞いて、キラはようやく事情を掴んだ。タマキは、本体のマモンから解離した精神体だったのだ。
「そうね、時間稼ぎくらいはできるわ。」
そう言って、タマキは身体を震わせた。狐の形体が歪み、閃光が走った次の瞬間、そこには白銀色の長い髪を棚引かせる白装束の女が立っていた。
女の姿に変化したタマキは、白い手に薙刀を出現させた。それが神器に匹敵するほどの得物であるということは、刀身から放たれる霊波動が物語っている。
「・・・面白い。」
アザゼルは不敵に笑み、腰に下げたサーベルを抜いた。
2人は同時に動いた。白い影と黒い影が、空中で何度も激しく衝突し合った。キラは懸命に彼らの姿を追おうとした。
だが、彼女の眼力では高速で戦う2人の動きを把握することが出来なかった。
動きは見えなくとも、どちらが優勢なのかは分かる。ぶつかり合う霊波動の狭間で、アザゼルの楽しげな笑い声が度々聞こえていた。
「ぐっ!」
アザゼルの強力な一撃を食らったタマキは、地面に叩き落された。
「タマキ!」
キラは思わず悲鳴を上げた。タマキは悶えながら起き上がった。人型の身体にノイズが走り、不規則に揺れている。
「・・・その形体を維持するには莫大なエネルギーを消耗するようだな。数分が限界か。」
「・・・・。」
アザゼルの推測は当たっていたようだ。タマキは憎々しげに彼を睨みながら、もとの狐の姿に持った。
地に下りたアザゼルは、牙をむき出している白い女狐に歩み寄った。タマキは唸り声を漏らしながらじりじりと後退した。
「人間を主に持つと苦労するだろう。どうだい、僕に飼われないか?」
「・・・カナァンとは相性が悪いの。」
アザゼルは眉間にしわを寄せた。
「それは残念。」
彼の冷酷な黄色い目を見て、キラは鼓動が速まった。
タマキがやられる。これまで邪な魔物と思って蔑んでいた相手だが、自分を助けに駆けつけたため消滅するなど惨すぎる。なのに自分は、ただ見ているだけで何もできない。キラは絶望的な無力感に打ちのめされた。
後ずさるタマキに迫り寄るアザゼル。
そのサーベルが、獲物を仕留める悦びに身震いするかのように光った。
「?」
ふとアザゼルは立ち止まり、空を見上げた。
何かの気配を感じ、キラもその方向に注目した。
間もなくして空間が歪み、白い煙のような渦が出現した。それは何らかの魔法円のようにも見えた。キラが気づいた時、すでに異空間への侵入者がアザゼルに速攻を仕掛けていた。
「くっ!?」
アザゼルは自身の急所を貫きかけた剣先を紙一重で避け、上空へ避難した。白装束の侵入者は舌打ちし、いったん銃剣を下ろした。その時ようやく、キラはその者を目で捉えることができた。
「ヘル!」
「遅いじゃないのよ!」
キラとタマキは同時に叫んだ。
「すまん、久々で手こずった。」
ヘルは軽く詫び、アザゼルを見上げた。その目は、あまりの怒気で金色に光っている。彼の感情に呼応するかのように、大型銃に接合されたホルネスの剣から荒々しい霊波動が放たれていた。
「馬鹿な・・・生身の人間が、自力で次元転移できるわけが・・・!」
ヘルが放つ尋常では無い威圧感に、人間を遥かに超越した種族であるはずのアザゼルでさえ気圧されていた。
動揺する彼を見て、タマキは小気味よさげに鼻笑いした。
「青いわね。この世には、白魔術というものがあるのよ。」
アザゼルは引きつった笑みを浮かべた。
「・・・なるほど、カルブの生き残りか。」
蔑みと恐れの入り混じった声色を残し、アザゼルの身体は一瞬にして黒い煙に変化した。そして瞬く間にその場から姿を消し去った。
「ふん、逃げ足の速いこと・・・見てらっしゃい、今度会ったら本体で叩きのめしてやるんだから!」タマキは誰もいない空に向かって勇ましく宣言した。
ヘルはキラの身体に巻きついている黒い紐を自力で引き剥がそうとしたが、すぐにあきらめた。
「タマキ、この物質をどうにかしろ。」
「それくらい分解できるでしょ!?んもう、ひと使いが荒いんだから・・・。」
タマキは文句を垂れながらも、キラを拘束する魔界の半物質を鋭い牙で徐々に引きちぎっていった。ヘルは近場の岩に自らの血で複雑な魔法円を描き始めた。そうこうしているうちに異空間が歪み、崩れ始めた。
赤い花々が一斉に枯れ、雲が火山灰のように降り落ちる。音を立てて割れる黒い大地に、灰色の空が迫り来る。
その悪夢のような光景は、世界の終わりを訪仏とさせた。
「もたついてると空間もろとも潰されちゃうわよ。お先!」キラを解放し終えたタマキは、閃光を残して姿を消した。
ヘルが描き終えた魔法円から、白い光の渦が発生した。
「失明したくなければ目を瞑ってろ。」「!」
キラは慌てて目蓋を閉じた。
ヘルは彼女を軽々と抱き上げ、渦の中へ飛び込んだ。
「――――っ!」
キラは思わず力任せにヘルにしがみ付いた。落下しているのか上昇しているのか分からない奇妙な感覚。目を閉じていても伝わる、焼けるような強烈な光。様々な方向から、身を粉々に引き裂かれるような凄まじい引力を感じた。
ヘルの特殊な念力で包まれていなければ、次元と次元の狭間に満ちるエネルギーで人間の肉体など一瞬にして蒸発してしまう。
キラは目を開けたい衝動に駆られたが、それを察知したかのようにヘルが素早く片手で彼女の両目を塞いだ。
神の血を引く者たちと伝えられるカルブの民。それはクエドナと同様、ある異界に住まう存在と人間が血を交えた混血種であるという見方が正しい。
その史実は、エスで最も古い文明時代まで遡る。悪魔との混血種である魔族に対して〝神族〟と呼ばれ、その能力は計り知れない。キラは、その事をマモンから聞き出していた。
ふいに全身に伝わるエネルギーから解放された。
同時に、重力が2人を下へと引っ張った。
「ふぎゃ!」
何かが潰れる音と悲鳴。
ヘルがタマキを下敷きにして着地したのだ。
「ちょっと、脱出する位置を少しはずらしなさいよ!」
「避けなかったのが悪い。」
非難するタマキに、ヘルは悪びれることなく涼しげに言い返した。キラは光の残像がちらついて暫く目が見えなかった。
冷たい空気、水の匂い、慌しく駆け寄ってくる人々の足音。
「キラ、無事であったか・・・!」ヨミの声。
次第に視力が戻った。そこは下水道だった。ヨミ以外にも数名の赤鬼と、中枢官吏たちがいた。
キラは放心して座り込んだ。ヘルも疲れきった様子で腰を下ろし、呆然としているキラを見やった。彼女の身体に異常が無いことを確認したヘルは、深々と安堵のため息を漏らした。そして徐に腕を伸ばし、キラを抱き寄せた。
「あらま・・・。」
彼の予期せぬ行動に、タマキは目を瞬かせた。その場に居合わせた官吏たちはぎょっとして硬直した。
我に返ったキラは、ヘルに抱きしめられていることに気づいて赤面した。
「ヘ・・・ヘル?」
「・・・・。」
ヘルは何も言わず、暫くの間キラをきつく抱きしめる腕を緩めようとはしなかった。