第四話
小型ガグルの照明に照らされた薄暗い地下道。
後ろから何度も自分を呼び止める声が聞こえたが、ミアは歩みを止めなかった。さきほどの光景から逃れようとするように、彼女は早足で地下道を行く。
「待てよ、ミア。」
声が真後ろまで迫った。それでも彼女は無視して歩き続けた。
追ってきた者はため息をつき、彼女の腕をつかんで力ずくで振り向かせた。
アグニは、困惑した表情でミアを見つめていた。
「・・・・何で、見に来たりしたんだ。」
頬を濡らす彼女を前にして、アグニが精一杯しぼり出した言葉は、地下道に白々しく響いた。
ミアはアグニの手を振りほどき、少し後ずさって彼を見つめた。その目はよそよそしく、冷めている。これまでアグニに見せたこのない目つきだった。
「アグニ。あんた、変わった。」
ミアは静かに言った。
「・・・お前だって、変わったよ。」彼女の態度に戸惑いながら、アグニは無理やり笑みを装った。「特に、胸の辺りが。」
ミアは呆れたようにため息をついた。
「あたしが言いたいのはそういう事じゃない。わかってるでしょ?」
「じゃあ何だよ、はっきり言えよ!」
ミアの刺々しい口調に、アグニは思わず声を荒げた。ミアはびくっとして、また一歩アグニから後ずさった。
「・・・悪い。」
アグニは怒鳴ったことを素直に謝り、彼女との距離を埋めようとした。だが、彼女はそれを拒むようにまた一歩、後ずさる。
ミアは黙りこくってうつむいてしまった。アグニにとって、その沈黙は堪らなく居心地が悪かった。彼には、ミアが何を言いたいのかは分かっていた。それでも、彼女が口を開くのを待った。そうすることで、彼女に対する誠意を少しでも示したかった。
しばらくして、ミアは躊躇しながらも口を開いた。
「・・・あの人と、つるむようになってから・・・アグニは変わった。」
「あの人って?」
もちろんその答えはわかっているが、アグニはミアに話を促した。
「ファルコよ。ドップ・ファミリーの。」
「・・・・。」
「やめた方がいいよ、あの人と関わるのは。」
ミアは、不安げな表情でアグニを見た。
「何か、危ないことやらされてるんじゃない?デスマッチもそうだけど、他にも・・・。」
アグニは苦々しく笑った。
「デスマッチへの出場はファルさんに強制されたんじゃなくて、自分の意思だ。考えすぎだって。」
「でもあの人、何か・・・すごく怖い。」
ミアはファルコのことを思い浮かべ、悪寒が走ったかのように細い腕を擦った。
ミアに霊感は無い。だが、彼女には幼い頃から鋭い感受性があった。そのことを、アグニはよく知っている。観察眼が並外れているのかもしれない。アグニが気付かなかった些細なことを、ミアはしっかり捉えているこがよくあった。
ミアは、タングズと同じものをファルコから感じ取っている。そして、アグニが彼に影響を受けて闇の深みへと落ちていくのではないかと、漠然とした不安感に襲われていた。
「・・・ファルさんのこと、悪く言うのは止めてくれ。」
アグニは、自然と彼を弁護していた。
「いい人だよ。まあ確かに、何考えてんのかよく分かんねえけど。」
「・・・・。」
ミアは怪訝そうに顔をしかめた。彼女が何を言いたいのかはわかる。何を考えているのか分からない相手を、なぜ〝いい人〟だと言い切れるのか?
「偏食のおれを、理解してくれてる。彼は・・・変なものを見るような目でおれを見ない。」
それを聞いてミアは呆れたように笑った。
「それだけ?たかがそれだけで、あの人を信用するの?」
思わず口について出てしまった言葉。ミアは、しまったというような表情をした。案の定、彼女の軽率な発言はアグニの神経を逆なでした。
「ああ、そうだよ。たかが、それだけの事さ!」
「・・・・っ。」
ミアが本気でそのことを軽視しているわけでないことは、アグニはすぐに気づいた。ミアがどう言葉にすればいいのか悩んでいる訴えは、彼女がわざわざ口に出して言う必要もないほどに、アグニに伝わっている。
彼女の軽はずみな言葉の裏に隠された思いに気付きながらも、アグニは怒鳴ったことを謝る気にはなれなかった。たとえ本音ではなくても、さきほどの彼女の失言はアグニにとってあまりにも重たく痛かった。
「・・・ごめん。あんたにとっては、大きなことだよね。」
ミアはか細い声で謝り、真っ直ぐアグニを見据えた。
「ひとつ教えて。」
アグニには、すでに彼女が聞きたいことは見えていた。
「さっき、ほんとにやる気だった?」
ミアは、アグニがかろうじて聞き取れるくらいの小声で聞いた。
「あたしが止めなかったら、殺してた?」
アグニは、少し考えてから答えた。
「・・・たぶんな。」
ミアの精神は不自然なほどに落ち着きはらっていた。本人に聞かずとも、彼女には答えがわかっていたのだろう。アグニは、彼女が読心術を使っているのではないかという疑念に駆られることがある。
時々、彼女の緑色の瞳は全てを見透かしているような深みを帯びる。彼女がそういった目をしている間、彼女の心は冷たく冴えわたった水底に沈んでいる。まるでアグニが触れることを拒むかのように。
アグニは、読みとりにくくなった彼女の心を探った。
「・・・何だよ、それがファルさんの影響だっていうのか?」
ミアは微動だにせずアグニを見つめている。きっとそう言いたいに違いない。アグニは、ため息混じりに笑った。
「昔っから、おれがキレやすい事は知ってるだろ。奴が、母さんをネタにして挑発したんだ。それで―――。」
「それで、殺そうと思ったの。」
「・・・・。」
アグニはぞっとした。ミアの声がこれまでになく冷たかったからではない。その事実を冷静な頭で確認して、彼の中に冷たいものが流れたからだ。
彼は何度か戦場に出て、人が人を殺し、人が人に殺される光景は何度も目にしてきた。だがよく考えてみると、自分の手で人の息の根を止めたことはこれまで一度も無かった。
無意識に避けていたのかもしれない。相手への同情ではなく、人の命を自分の手で奪うことが恐ろしかったから。
ベジーの挑発は、アグニにとって行き過ぎたものだった。グールの間では軽いブラックジョークであっても、彼にとっては吐き気を催すほど酷かった。本気でベジーを殺そうと思った。それくらい頭にきた。
アグニに刀剣を寄越したアマゾナスの目は、期待に満ちていた。アグニが怒りに身をゆだね、相手の首を落として鮮血を浴びる姿を見たがっていた。
彼女に触発されたのは確かだ。だが彼女よりも、アグニを突き動かしたのはファルコだったのかもしれない。
感情の無い黒く無機質な目で、ファルコはアグニを見ていた。ただ見ていただけだ。止めることも、促すことも無く。アグニ自身にすべてを任せていた。
彼は、まるで何かを見極めているようでもあった。アグニの中の何かを。
「・・・邪魔して悪かったわね。」
「・・・・。」
ミアの皮肉に、アグニは何も言い返せなかった。
「店に戻らなきゃ・・・勝手に抜け出してきたから。」
「・・・ああ。おれも、戻らねえと。」
ミアは微かに笑んで「そっか。」と、素っ気無く呟いた。
そしてアグニに背を向け、薄暗い地下道の奥へと消えていった。
アグニは、しばらくその場で立ち尽くした。
バイバイ―――
彼の中に届いたミアの別れの言葉が、彼の頭の中で波紋のように何度も反響していた。
「・・・彼女の言う通りだって言いたいんだろ。読まなくてもわかる。」
「・・・・。」
気配を消して2人のやり取りを見守っていた背後のエア・ウルフに、アグニは力なく声をかけた。