第七話
翌朝。キラが目覚めた時には、すでにヤミの姿は社に無かった。
特別に準備された栄養満点の朝食を前にぼんやりしているキラを、女官頭のキナは腕組して睨んでいた。
キラは食欲の湧くような気分ではなかったが、キナに見張られながら無理やり飯を胃に押し込んだ。
嫌々ながらも朝食を口に運ぶキラを見て満足したキナは、徐に袖から何かを取り出した。
「はい。これでもう落とさないだろ。」
「!」
手渡されたのは、革紐と金具で固定された透明のパイだった。
「昨晩、枕元に転がってたから勝手にいじらせてもらったよ。仮にも大精霊石なんだから・・・持ち歩くなら、もっと気をつけな。」
「ありがとう、キナ!」
キナ手作りの大精霊石の首飾りを、キラは喜んで首に提げた。
キラは朝食を平らげた後、乗り気ではないナリを連れて抜け穴からこっそり外に出ようとしたところをテンに捕まった。
ナリ諸共、勉強部屋に連れて行かれたキラは、これまでの復習を兼ねて上級アイオンの知識テストを受けた。
「―――〝ファティマの目〟とは何か、その特徴も含めて答えよ。」
「〝邪眼〟から身を守るための護符で、5本指の手形の中に青い目を描いたもの。」
テンが出す問題を、キラは順調に口頭で答えていった。その間、ナリは床に寝転がって書物を読んでいた。
「近寄る者の霊感およびテレパスを妨害する波動を放つアバターの形式名を答えよ。」
「えっと・・・。」
百問目に達したとき、キラは詰まった。テンの背後で書棚を整理していたナリが、無言で口を動かした。
「ジャ・・・ジャミング式!」
「・・・合格。」
テンはちらりとナリを見やった。
ナリは素知らぬ顔をして、外出用のコヨーテのアバターを被った。
テンは軽くため息をついた。
「カゲも忘れず連れて行くように。」
「・・・へーい。」
アバターの下で膨れっ面になっているキラの代わりに、ナリが返事をした。
ナリとカゲの付き添いの下、キラは意気揚々と地上の町中を歩いた。彼女の精神的ストレスが限界に達していたため、最低限の護衛でソレの診療所に出向くことを許可された。
キラがバオドへ出るのは3週間振りだった。スモッグで覆われているため太陽光はさほど浴びられないが、一日中が夜のような地下街に比べれば格段に清々しい。
濛々と黒煙を上げる工場群の中では流石に深呼吸する気になれないが、キラは外を存分に味わうように思いっきり身体を伸ばした。
3人は大通りを曲って路地を抜け、廃棄物に埋もれる住宅街の一角にある質素な波板小屋に足を踏み入れた。
香の焚かれた診療所は、精神を患った者たちで溢れていた。そんな中、中性的な顔立ちをした1人の少女が患者の具合を診ながら飴湯を配っていた。
話に聞いていたソレの孫、ティコだ。
ニット帽で額を隠しているが、彼女は三つ目の奇形児である。
アクラシアでは、三つ目の者を〝太陽神〟の生まれ変わりとして崇める風習がある。ティコは霊感の非常に強い子供でもあり、何人もの高官が彼女を引き取りたいと申し出ているそうだ。
彼女自身は、バオドに残って呪術医になることを求めているのだという。
「!」
ティコの小豆色の目がキラを捉えた。キラは、感情を示さない彼女の淡白な顔立ちを一目見て懐かしさが込み上げてきた。
―――シュゼ。
キラの遺伝子を基礎にして生み出されたネオ。研究所から逃げ出す際に手を貸してくれた。彼は今、どうしているだろう。T‐106を逃がしたことで、処罰を受けてはいないだろうか?
キラは罪悪感に駆られた。外に出たいという自分の望みを叶えるために、シュゼを言いくるめて利用したのだ。彼は、きっと研究員たちに酷く仕置きされたに違いない。
「・・・・っ。」
キラは頭を抱えて立ったままうずくまった。
テサのことを思い出すと、どうにもならない不快感が湧き上がる。
「キラ・・・?」
彼女の突然の不調に、ナリとカゲはどう対応していいか分からずうろたえた。
ティコは床で寝ている患者を身軽に飛び越え、キラに駆け寄ってきた。彼女は無言のまま、黄金の髪を毟り取るように掴んでいるキラの手にそっと触れた。
そして、白イタチの両目から覗いている神秘的なオッドアイを見つめた。
柔らかな色合いのティコの目と目を合わせているうちに、キラの荒れた感情は次第に落ち着いていった。人の恐怖や不安、悲痛といった不の感情を癒す〝聖眼〟または〝スピリチュアル・アイ〟と呼ばれる希少な特殊能力だ。それに気づいたキラは、ヨミが彼女を執拗に東社に置きたがっていた理由が分かった。
「・・・・。」
キラのアウラが正常な輝きを取り戻し、ティコは目尻を下げてガスマスクの下でにんまりと笑んだ。その愛着を覚える笑顔はソレに瓜二つだった。彼女はシュゼとは違う。無感情に見えるのは、精神の不安定な患者たちを刺激しないようにアウラを抑制しているからだ。
布で仕切られている診察所の奥から、ソレのしわがれ声がキラを呼んだ。ティコに手を引かれ、キラは床で身を丸めている患者たちの間を慎重に通り抜けた。
狭い診察室の椅子に座ったキラを、ソレはつぶらな黒い目でまじまじと彼女を診察した。白髪まじりの頭とマスクからはみ出している口ひげは相変わらずぼさぼさで、北官吏だった頃の面影は微塵も無い。
「お前さん、いくつじゃったかな?」
以前と同じように、ソレは不意に質問した。
「今は12歳で、4月で13になるはず・・・。」
キラが自信無さげに答えると、彼は古びたカルテに走り書きしながら口ひげをもぞもぞと動かした。
「・・・ふむ。魄の成長具合を見るところ、お前さんは14歳じゃの。」―――「!」
自分の年齢さえ誤認していたとは。
キラは改めて自身の記憶の不確かさを実感した。
「被縛者にはよくある記憶錯誤じゃ。1年の誤認など、たいした事ではない。」
「・・・・。」
キラは衝撃を受けて言葉を失っていた。つまり、ナリとは同じ年の生まれだ。ヘルとは3歳違い。14歳ともあれば、もう女性としての機能が発達している年齢である。
ソレは、キラの不安を察して屈託無く笑った。
「心配いらん。身体の方は順調に成長しておる。もう数ヶ月もせんうちに、年相応の女子らしい体格になるじゃろう。」
それを聞いて、キラは少し安心した。
「試験勉強は捗っておるか?」
「うん・・・閉心ができなくて。」
「むう、閉心のう・・・お前さんには荷の重い術じゃろうて、無理にせん方が良いのだが。」
ソレは考え深げに顎を擦った。
「閉心には、多様なやり方がある。思考の分断、波長の操作、高速で頭を回転させるなど・・・特殊な霊具を使う方法もある。」
「・・・・。」
どれもテンから教わった方法だ。思考の分断以外にも色々と試したが、キラにはすぐにできそうにないものばかりだった。霊具を使うという手段は実用的ではあるが、それでは自らの実力を地下のパイマー達に誇示することができない。
「後は、そうじゃの。あまり勧めることはできんが・・・何らかの強烈なイメージを思い浮かべるという手もあるのう。」
「!」
それは初耳だ。キラは記憶を辿ってみた。強烈なイメージで思いつくものはいくつかあった。北湖の主キトラと初めで出会った時のことや、エリア5で目の当たりにした神獣の姿。刺客のアンデットに襲われたのも強烈な記憶だ。思い出したくもないテサでの忌々しい経験の中にも、鮮明に蘇る強烈なイメージがある。
キラは頭を振った。研究所のことは、今はまだ無理やり思い出さない方がいい。
「・・・・。」
ふいに、ひとつの記憶に行き着いた彼女は、頭の中でそれをイメージしてみた。
「・・・できる気がする。ありがとう、Dr!」
キラは椅子から勢いよく立ち上がった。そのまま診察室から急いで出て行こうとする彼女を、ソレが慌てて呼び止めた。
「待ちなされ!それは、己の意識を支配するほどの記憶を相手に晒すということじゃ・・・悪用される恐れがある故、実用的な方法ではない。」
「とりあえず、試験に合格するための手段ってことだな。」
「・・・・。」
ソレが何を心配しているのか、キラには分かった。テンも同じことを思い、その方法を教えなかったに違いない。
「大丈夫。思い浮かべると、なぜか無心になれるイメージなんだ。」
キラが自信たっぷりに言ってのけると、ソレは目を瞬かせた。
そして愉快そうに笑い出した。
「それなら心配ないのう。無心こそ、最強の閉心術じゃ。」
ソレは早く社に帰りたがっているキラを待たせてゆっくり立ち上がり、薬棚へと歩み寄った。
「ついでに、これをヘルに届けてくれ。」
彼は棚から皮袋を取り上げ、キラに渡した。
「ティコが調合した新薬じゃ。あれほどに深い霊傷を治しきれるかどうかは分からんが、少なくとも楽にはなるじゃろう。」―――「!」
キラは、その事実に驚かずにはいられなかった。霊傷を治すエリクサーなど、医療技術の発達した北極でさえまだ開発途中である。それを、彼女よりも年下の少女が作ったというのだ。
「ティコは、凄いんだな・・・。」
キラは感心のあまり放心して呟いた。
ソレは遠慮することなく大きく頷いた。
「彼女はテンを超える天才じゃよ。〝アスカ一族〟の誇りじゃ。」
アスカとは、ヤマト家とカグヤ家に並ぶバースの旧家だ。先代イシュラ、テフもアスカ家の者だったと聞いている。
霊感や特殊能力の有無は、遺伝的要因が大半を占める。そのためバースでは、血族の力を保つべく親戚同士が率先して結ばれる。
並外れた能力を持つ三つ目のティコも、受け継がれてきた古く濃い血の産物なのだ。
「!」
突然、ティコが慌てた様子で布仕切りを押しのけて診察室に入ってきた。彼女は左右に結った亜麻色の長い髪を跳ねさせながらおろおろと部屋を見渡し、何を思ったのか戸棚から物を掻き出し始めた。そして戸棚の中にできた空間に自分の身体を押し込み、戸を閉めて隠れてしまった。
「・・・やれやれ。」
ソレは重々しい足取りで診察室を出ていった。キラは、ティコのただならぬ様子が気になりながらもソレの後に付いていった。