第三話
頑丈な金網で仕切られたリングの中で、すでに余興が始まっていた。白と黒の首輪をつけられた2体のグリズミンが、耳をつんざく咆哮をあげながら荒々しく取っ組み合っている。
リングの周りを埋め尽くす観客は、熱狂的な罵声と歓声をあげて猛獣をはやし立てていた。大半の者がアバターで素顔を隠している。博打が好きな連中は、大抵アバターを肌身離さず所持しているものだ。
興奮した観客たちは、アグニと彼の相棒が来たことに気付くと慌てて道をあけた。タングスのお陰で、アグニは人ごみの中でも快適に先を急ぐことができる。
アグニは会場の壁にかけられた黒板にさっと目を走らせ、対戦相手を確かめた。
デスマッチを取り仕切っているのは紅蓮洞のギャング〝ドップ・ファミリー〟。賞金は、彼らが提示するスコアを満たせばもらえる。
実力があり人気のあるファイター、つまり多くの客が大金を賭けるファイターを倒せば、それに応じた高いスコアを獲得できる。逆に自分より人気の低いファイターに負ければ、これまでのスコアを一気に引かれる。
アグニは今のところ無敗。今晩勝てば、彼に課せられた基準点は満たせる。
「よう、エース。」
1人の男が、馴れ馴れしくアグニの肩に腕を回してきた。人懐っこい笑顔でアグニの登場を心から喜んでいるように見えるが、色つき眼鏡の奥に潜む黒い目は決して本心を見せることが無い。
ボス・ドップの右腕、ファルコだ。コロニー内でタングスを恐れない数少ない人物の1人であり、実力のあるパイマー。
タングスが後ろから威嚇するように唸った。ファルコは振り返り、左右の髪の毛を剃り上げたトサカのような頭を掻いた。
「獲って食いはしないよ。」
体中に彫られた入れ墨、流行りのアクセサリー、鍛えられた肉体を際立たせる趣味のいい服装。野蛮で粗雑な輩の集う地下街で、彼の洗練された風貌は人目につく。人望もあり、女にもモテる。
ファルコは、グールとはまるで別人種だ。あか抜けていて、品がいい。アグニは酒場でファルコと知り合い、彼のお膳立てでデスマッチに出場することになった。
デスマッチにもともと興味があったが、ファルコに引きつけられたのも事実だ。アグニは、彼に好奇心を抱かずにはいられなかった。ファルコは、アグニが求める何かを持っているような気がしていた。
ファルコの精神はいつも閉ざされている。アグニの力では彼の閉心術を破ることはできない。ファルコはいかにも人の良さそうな笑顔を見せるが、どこか危険な匂いがする。
彼と向き合うとき、アグニは緊張した。ファルコは何を考えているのかまったく読めない謎めいた人物だ。だからこそ彼に魅力を感じていた。
タングスは、アグニがファルコに近づこうとすることを快く思っていなかった。タングスの中の野性の本能がファルコの危険性を感じ取り、警告を発していた。初めて出会った時から、タングスはアグニにしつこく忠告した。ファルコとは距離を置いて関わらぬようにと。
タングスが感じていることを、アグニは痛いほど感じ取っていた。だがアグニは、ファルコが放つ引力に逆らえなかった。
「今夜は珍しい客が来てる。気合入れていけよ。」
「?」
アグニは、ファルコの視線を追った。向かいの壁際。紫色の長いローブをまとった背の高い女が4人、興味なさげにグリズミンの格闘に目を向けていた。
その中の1人がアグニたちの視線に気付き、こちらを振り向いて微笑んだ。白い肌、毒々しいほどの赤い唇、大きな黒い瞳。どこかヘビを連想させる顔立ち。
「アマゾナスの高官・・・なぜここに?」
「族長に用があったらしい。そのついでに、グールの庶民的な娯楽を見物しにきたんだとよ。」
アマゾナスの多くはグールを見下している。彼女たちが、下等種族の娯楽に興味をもつとは思えない。アグニはこちらに妖艶な笑みを向けるアマゾナスの精神を探った。
しっかりガードされている。まるでアグニが読心術の使い手だと知っているとでも言いたげだ。
「・・・時間だ。」
アマゾナスに気をとられていたアグニの意識を、ファルコの一声がデスマッチ会場へと引き戻した。
リングの中で、白い首輪をはめたグリズミンが首をあらぬ方向に向けて息絶えていた。まだ興奮している黒い首輪のグリズミンに、金網の外から麻酔銃が撃たれた。
スタッフが余興の後片付けをする間、アグニは待機場で入念に準備運動をした。リングを挟んだ向こう側に立つ今晩の対戦相手が、アグニに挑発的な視線を向けている。スキンヘッドの大男〝背骨折り〟のベジーだ。
アグニは中指を立ててみせた。ベジーは血走った目の端を痙攣させ、エア・ウルフのように歯をむき出して唸った。相当な量の興奮剤を打っている。
「勝算は?」
「賞金を用意しといてくれ。」
ファルコは、くくっと笑ってアグニの背中を叩いた。
パイと飛び道具以外の武器は認められている。ベジーは両手に装備したナックルを分厚い胸板の前で突き合わせながら、焦らすようにリングに上がってきた。
アグニは愛用のトンファーを器用にくるくる回しながら、のろまな対戦相手が金網の内側に入るのを待った。
いつの間にか、4人のアマゾナスが金網のすぐ外まで寄ってきていた。頬を染め、爛々と瞳を輝かせて金網の中を凝視している。ドップ・ファミリーの幹部数名が美しい彼女たちに媚びるように寄り添い、デスマッチについてあれこれと説明している。
彼女たちの耳には、連中の話など聞こえていないようだった。彼女たちの神経は、すべてアグニに向けられていた。
(・・・まいったな。)
アグニは柄に無く緊張してきた。リングを取り囲む同族どもの野次はたいしたことではない。問題はアマゾナス。彼は、女に熱い視線を向けられることには慣れていなかった。
金網の扉が閉められた。アグニは深呼吸し、そわそわした気持ちを強引に静めて対戦相手に集中しようと努めた。だが、そんな必要は無かった。
「てめぇのお袋、いい女だよな・・・。」
開始のゴングが鳴る直前、ベジーは下品な笑みをたたえアグニに言った。
「ウマそうだ。」
アグニの中の、何かが音を立てて切れた。その刹那、自分が置かれている現状は全て吹き飛んだ。彼を支配したのは、目の前に立つ大男への一点の曇り無き殺意。
ゴングが鳴ったと同時に、アグニは動いていた。彼の凄まじい速攻は、ベジーに防御体勢をとる時間を与えなかった。それどころか、顔面に強烈な打撃を食らうその瞬間まで、彼はアグニが動いたことにすら気付いていなかった。
にやけた醜い顔に、合金製のトンファーがめり込む。顎がはずれ、骨が砕ける鈍い音がした。アグニの倍はある図体がリングに沈み行く。
それを許すまいと、彼は空中で身をひねり、相手のわき腹に全力で蹴りを入れた。耳障りな音を立て肋骨が折れる。ベジーの身体は衝撃でくの字に曲り、金網に激突した。
会場に沈黙が走る。
金網からずり落ちるように、リングの床に倒れこむ背骨折りのベジー。
金網の外で、どっと沸き起こる歓声。熱狂の渦の中、アマゾナスは黒い炎のような瞳でアグニに見入っていた。
ベジーに意識はあった。言葉にならないうめき声を漏らしながら、床に這いつくばって痛みにもだえている。彼の目は、戦意が完全に消失していることを示していた。だが、アグニの中で燃える怒りはまだ治まっていなかった。
殺せ、殺せ、殺せ――――
観客がはやし立てる。
1人のアマゾナスが腰から刀剣を外し、金網の下からリングの中に放り込んだ。皮製の鞘に収まった刀剣は床を滑り、アグニの足元で止まる。
アグニは、自分に刀剣を寄越したアマゾナスを見やった。彼女は頬をばら色に染め、恍惚とした表情をしている。
次にファルコを見た。彼は無表情で、何を思っているのかまったくつかめない。だが確かなのは、彼が止めに入るつもりは無いということだった。
アグニはトンファーを床に落とし、刀剣を拾い上げて鞘から抜いた。完璧に磨かれた刀身は、鏡のように光を反射している。
さらに熱を増す観客の声。怒りで早まる鼓動。燃えたぎる血が、内側からアグニの全身を焦がすように循環する。
リングの端で、ベジーは外に向かって降参の合図をしていた。だが審判は、彼が金網から出ることを認めない。
ここまで熱くなった会場では、デスマッチの審判などただの飾りだ。勝敗を決めるのは、観客。
恐怖に慄く対戦相手に、アグニは詰め寄った。
「た、た、助け・・・っ!」
砕けた顎を必死に動かして、ベジーは命乞いした。
アグニは凍てついた赤銅色の目で彼を見据えた。
そして、彼は柄を力の限り握りしめ、刀剣を振り上げた。
「―――アグニっ!!」
刀剣を振り下ろそうとした寸前、喧騒を切り裂きアグニの耳に届いた悲鳴。その声は、彼を一時停止させた。
固まった首を徐にひねり、視線を移動させて声の主を捉える。彼女を見た瞬間、アグニの中で燃えていたものが、冷水を浴びせられたように一気に鎮火した。
彼女はウイッグを外し、普段着に着替えていた。光の加減で青にも見える、肩まで伸びた黒い巻き毛。その下の彼女の小顔は、血の気が引いて青ざめている。アグニを見つめる緑色の潤んだ瞳は、恐怖に震えていた。
「ミア・・・。」
アグニは腕を下ろした。緩んだ手から柄が離れ、刀剣はリングの上に音を立てて落ちた。その様子を見て、アマゾナスは興醒めといった表情でリングから離れていった。邪魔が入ったことで、観客たちは不満の声を漏らしている。
アグニの目には、怯えきったミアしか映っていなかった。彼女は何か言いたげに、アグニを見つめ返していた。その表情はとても痛々しく、アグニの胸を締め付けた。
しばらく見つめあった後、ミアは唐突に踵を返し、人ごみを掻き分けてリングを離れていった。
ゴングが鳴り、金網の扉が開かれた。アグニはリングから慌てて飛び出し、そのまま人ごみへ駆け込んだ。
「おい、アグニ・・・!」
「すぐ戻る!」
アグニは振り返りもせずファルコに叫び返し、ミアの後を追いかけていった。