第二十三話
アグニは、しばらくシュゼを観察した。
彼の青白い皮膚は、血管が透けて見えるほど薄い。物に掠っただけで破れてしまいそうだ。眉とまつ毛は、目を凝らせば僅かに生えているのが見て取れた。ほんのりとピンク色をした耳は、フリークのように先が少し尖っている。
ラットの毛皮らしきローブから伸び出る細い首筋には、アグニの知らない文字が横列に刻まれている。角ばった単純な形をしており、何らかの暗号のようだ。
アグニが顔を近づけて観察している間、シュゼは微動だにしなかった。
「・・・とりあえず、よろしく頼む。」
アグニは手を差し出してみた。シュゼは、ほんの少し顎を下げて彼の手を見た。その後、頭を上げてアグニを見た。
この時初めて、彼はアグニをまともに見た。そして彼の薄い唇が、ゆっくりと開かれた。
「握手は、人と人がする挨拶です。S4は厳密に言うと人ではありません。アグニさんとS4が握手を交わすのは間違った行為であるため、応じることはできません。Drより、理に反する行為をアグニさんに実行しないよう命じられています。」
シュゼは、抑揚の全く無い無機質な声色で話した。
アグニは手を引っ込め、目を瞬かせた。
「まるで旧世界のアンドロイドだな・・・。」
「人よりは、そちらに類似しています。S4は試作段階の人工生命体であり、自然繁殖の人間とは別種の生物です。」
アグニは鼻で笑った。
「アンドロイドの方が、お前よりは人らしいな。少なくとも人が手を差し出せば、それに答えられるだけの人工知能が備わってる。」
「・・・・。」
シュゼは無表情のまま黙り込んだ。アグニは彼が傷ついたのかと思い、波長を合わせた。シュゼは、アグニの意見をアスターの命令と重ねて自分がとるべき最善の行動を思案していた。その思考には自身の感情が一切なく、ただひたすら客観的な理屈の渦だった。
邪魔な感情が無いため、シュゼの思考は極めて読みやすかった。彼の心中は無色透明で、揺れることも濁ることもない。まるで、ガラスで出来ているようだ。
「・・・理に反したとしても、人らしい所作をS4に求めるのがアグニさんの指示ですか?」
「そうしてもらえると有り難いな。後、さん付けは止めてくれ。」
アグニは再び手を差し出した。
シュゼはそれに応え、彼の手をとった。
「よろしくな、シュゼ。」
「・・・よろしくお願いします、アグニ。」
アグニは満足してにっと笑った。
「呑み込みが早いな。幸先良さそうだ。」
シュゼとしっかり握手を交わした後、アグニは客間の出入り口へと向かった。ふと足を止めて振り返った。シュゼが付いてこない。
彼は握手を交わした場所で棒立ちし、無心で自分の掌を見ていた。
「わざわざ指示しないと動けないのか?」
「・・・・。」
シュゼは、アグニと握手した方の掌を嗅いだ。そして細い目を見開いた。発光する鮮やかな紅色の瞳が、薄い目蓋の下から露わになった。
アグニは自分の手を嗅いでみた。彼の嗅覚では、無臭としか感じられない。
シュゼは微かに頬を染めた。その時、感情が無いはずの彼の精神が僅かに揺らぐのが見えた。それは余りにも微量すぎて、彼がどのような思いを抱いたのか判別することはできなかった。
「アグニは、T‐106とよく似た匂いがします。」
「・・・よく言われる。」
アグニは、シュゼが思い浮かべたイメージによってT‐106が何なのかを瞬時に知ることができた。
アグニはシュゼを連れて廊下へと出た。その後にタングスが続いた。彼女は、シュゼが自分よりアグニに近い距離にいることが気に食わない様子だった。アスターのことは尊敬しているものの、試作型ネオは危険極まりない不完全な生物であるため警戒しなければならないというのが彼女の了見だ。まるで羊を付け狙う狼のように、タングスはシュゼに目を光らせていた。
アグニは、大部屋の前でふと足を止めた。中で言い争っている声が聞こえる。ファルコとターニャだ。扉の外に立って聞き耳を立てた。2人はリサのことで揉めていた。ターニャは、リサに真実を話したことでファルコを責めているようだった。
「シュゼ、お前はファルさんが悪いと思うか?」
アグニは小声で聞いた。
シュゼは、しばし固まって論理的に思考した。
「・・・いいえ、ファルさんに非はありません。ターニャさんは感情的になり過ぎて、判断を誤っています。S4は感情について理解に苦しみますが、それを踏まえた上でファルさんの行為はターニャさんの言い分より適切なものと考えられます。」
争い声がピタリと止んだ。シュゼが普通の大きさの声で話したため、大部屋の中にいる2人に聞こえたようだ。
アグニはシュゼの背を押して、その場からそそくさと退散した。
「S4は、何か間違いを犯しましたか?」
「いや、大人の事情ってやつさ。おれ達が首を突っ込む事じゃないってこと。」
シュゼは、頭の中でアグニの言葉を懸命に理解しようとしていた。
「気にすんな。お前が難しく考える必要はない。」
「・・・了解です。」
アグニは、自分の部屋に戻る前にリサの様子を見に行くことにした。長い廊下を歩きながら、アグニはシュゼにテサでの生活をあれこれ質問した。シュゼはそれらに丁寧に説明し、アスターから口封じされている事柄については断固として黙秘した。
「ところでエスフォーって何なんだ?お前の、あだ名の1つ?」
「いいえ。人に例えて言えば、ファーストネームです。」
アグニは思わずシュゼを振り返った。
「おい!自分のファーストネームを、お前は親切にもいちいち口に出してるのか!?」
「はい。問題はありません。S4は、他者からの不当な送心には応答拒否することを心得ています。」
シュゼの説明によると、彼は普通の人間同様に本名を使用した霊術攻撃を受ける魂を持つ生命体ということになる。
「・・・頭、痛いだろ?」
「痛みは、恐怖を覚えることの無いS4にとって無意味です。命の危険を告知する痛みの場合は、回避するようDrに命じられています。」
アグニは顔を顰めた。シュゼは苦痛という刺激に対して怒りや悲しさ、怖さといった感情が働かないため、主の命令さえ無ければ回避行動をとる必要がないのだ。
「・・・それは駄目だ。お前は、間違ってる。その自称は変えたほうがいい。」
シュゼは元々細い目をさらに細めた。アグニは、彼の単純で微妙な表情の変化がわかるようになってきた。
目を細める時、シュゼは思考中にある。そして明確な答えが出た時、目が通常より開く。さらに通常の細い目の時は、彼は何も考えていない。
ひとしきり考えた後、シュゼは目を細めたまま口を開いた。
アグニに質問する時のサインだ。
「・・・その真意を説明して頂けますか?」
「おれの気持ちの問題だ。それから、ハニービーのことをコードネームで呼ぶのはよせ。胸糞が悪くなる。」
シュゼはまだ目を細めたままだ。
「彼女は、ハニービーと呼ばれることを嫌っていました。ゆえにS4は、彼女をコードネームで呼んでいます。」
「じゃあ・・・次からはキラと呼べ。きっと今の彼女はそれを望む。いいか、これは気持ちの問題だ。おれは、シュゼが不必要に頭痛を抱える事が許せない。堪らなく不愉快だ。そうだな・・・これからは自分のことを〝おれ〟と呼ぶんだ。わかった?」
やっとのことで、シュゼは目を見開いた。
アグニの説明に納得したようだ。
「・・・オレ。」
シュゼはたどたどしく自分のことを呼んだ。
アグニはため息混じりに笑った。
「やればできるじゃないか。その流れからすると、首の暗号は本名だな?」
「はい。オレは、いつ支障をきたして人を傷つけるか分からない予測不可能な試作型ネオです。そのために、安全対策として本名を掲示しています。」
アグニは難しい顔をして腕組みした。
「・・・それは、隠させてもらう。いつどこでテサの文字が読める輩に出くわすか分からないからな。不本意に操られて、おれ達を傷つけることは許されてないだろ?」
シュゼは大きく目を開いた。
「その通りです、アグニ。本名は隠します。」
「よし。じゃあ〝遮眼クロス〟を手に入れないとな。このコロニーにならいくらでもあるだろ・・・。」
アグニは頭を使うシュゼとのやり取りのせいで、頭痛が酷くなった。しきりに指先でこめかみを押さえるアグニを見て、シュゼは目を細めた。
「アグニは、頭が痛いのですか?精神に損傷を負っているようですが。」
「・・・たいした事はない。」
シュゼは、ふいに正面からアグニに接近した。彼の無駄の無い素早い動きにアグニが反応することができなかった。
アグニの反射神経が働く前に、シュゼは両手で彼の頭をしっかりと掴んだ。アグニはその手から逃れるべく頭を動かそうとした。だがシュゼの手は石のように硬く、びくともしない。アグニは、ただ硬直するしかなかった。
シュゼの背後にいるタングスが、今にも彼に飛びかかりそうな体勢をとっていた。アグニは慌てて掌を突き出し、彼女を制した。
「Drおよびテサの研究員には、報告していない霊術を実行します。オレは、出来る限り後天的に得た能力を人には話さないようキラに指示されていますが、今回は感情の問題を優先とし、アグニの不快感を除去すべくキラの指示を一時無視します。」
すらすらと早口で説明した後、シュゼはアグニの頭を引き寄せた。
それは、アグニには抵抗することのできない腕力だった。
額と額が押し付けられた。シュゼは透けるような目蓋を閉じた。アグニは目を開けたまま彼に身を任せた。シュゼの眉間に力が入るのを感じた。
触れ合った額の中心が熱を帯び始めた。徐々に温度が高くなっていく。シュゼは、顔を顰めてさらに力を込めた。
「・・・・!」
額は、アグニがぎりぎり耐えられる温度まで上昇した。シュゼの額からアグニの額へと伝わった熱が頭の中心を通って喉もとへ落ち、胃の中、腹の底へと移動していくのを感じた。
それは、焼けるような強い酒を飲み込んだ時の感覚に似ていた。アグニの身体は一瞬にして熱くなり、すぐに治まった。
シュゼはゆっくり額と手を離した。
アグニは硬直したまま彼の顔を見やった。
「・・・精神治癒を行いました。具合は・・・良くなりましたか?」
息を切らしながらアグニの体調を窺うシュゼの顔は、冷や汗をかいて酷く血色が悪くなっていた。
アグニの頭痛と身体の気だるさは、完全に消え去っていた。だが、彼は素直に感謝することができなかった。
「あまり燃費のいい技じゃ無いな・・・。」
アグニは目を細めた。彼に合わせるように、シュゼも目を細めた。
「はい。心身ともに、過度の負担がかかる霊術です・・・アグニ、オレは不適切な行動をとりましたか?」
「いや、マジで助かった。でも・・・次からは、おれに必要かどうか聞いてからやってくれ。無駄にシュゼを疲れさせたくない。」
と言いつつ、それが無断な心配であることにアグニは気づいた。
「オレの回復能力は、人よりも格段に高性能です。アグニが心配する必要はありません。」
シュゼの息はすでに整い、顔色も普段の青白さに戻っていた。
「気持ちの問題だ。いいな?」
「・・・了解です。」
シュゼは、納得がいかないながらも了承した。アグニは、無理に理屈をこねなくても感情のせいにすれば、大抵の場合彼をうまく操作できることが分かった。
シュゼは感情に関する知識があっても、その時その時の状況に適した感情の優先順位を見極めるのが苦手だ。そのため感情の問題が関わる時、自分の思考では答えの出ない場合が多く、たとえ解釈し切れなくても人の意見を受け入れる。
「何はともあれ、これで今日中にハルヌーンと会える・・・すげぇ能力だな。感謝するよ、シュゼ。」
「礼には及びません。」
貧弱そうな見た目とは裏腹の身体能力と回復速度。そして未知の霊能力を秘めたシュゼに、アグニはすっかり心を奪われてしまった。タングスは不服そうに唸った。