第二十二話
「君が、アグニ君だね。僕はアスター・ミゼル、テサの研究員だ。偽名で悪いが、アスターと呼んでくれ。」
客間のソファーに座っていた単眼眼鏡の博士は、アグニが姿を見せるとすぐに立ち上がって目尻を下げた。彼は自己紹介して、少し遠慮がちにアグニに手を差し出した。
まだ若そうだが、黒茶色の癖毛には白髪が混じり、目の下には深い隈があった。黒いロングコートを羽織るすらっとした長身、きめの細かい白肌。
温厚で人懐っこそうな明るい藍色の瞳には、少年のような好奇心と冒険心が窺える。声は若々しく凛とした響きがあるが、顔が疲れてやつれているため実年齢は定かでは無い。
「・・・・。」
アグニは不本意ながらも彼の手をとり、軽く握手した。絶対に馴れ合ったりしないと、昨晩からアグニは自分に言い聞かせていた。どれほど偏屈でへそ曲がりの老人が来ることかと期待していたが、それをアスターは見事に裏切った。
ふてぶてしい相手なら、アグニは嫌味の1つや2つ言うことができた。だが、いかにも繊細で高潔そうな彼を目の前にして、今朝まで考えていた汚い言葉は完璧に浄化されてしまった。
行き場を失った思いを抱え込むアグニに、アスターは全てを見透かしたように力なく微笑んだ。
「・・・事情は、大体のところ聞いてるんだよね。僕のことを、いくらでも罵ってくれて構わないんだ。それだけの過ちを僕は犯した・・・ハル君には、今後どれだけ償おうと償いきれない傷害を与えてしまった。」
「・・・・。」
深く自責している彼に、アグニはさらに何も言えなくなった。
2人は向かい合ったソファーに座り、しばらく黙って茶をすすった。リサも一緒に面会するはずだったのだが、昨晩のショックで部屋に引き篭ってしまっていた。
アスターは、ソファーの横でこちらを窺っているエア・ウルフが気になって仕方がない様子だった。
「・・・タングスだ。」「!」
アグニが無愛想に紹介すると、アスターは目を輝かせた。
「エア・ウルフにしては、随分と大きいね・・・後で、採血させてもらっても構わないかな?」
「・・・・。」
アグニがひと睨みすると、アスターは慌てて弁解した。
「あ、いや・・・もちろん無理にとは言わない。だが、何らかの変異か・・・病気の可能性もある。〝彼女〟さえよければ、検査させてほしい。」
「・・・・。」
タングスのことを彼女と呼んだことに対し、アグニは目を細めて彼を睨んだ。アスターは苦々しく笑み、自らの非を認めた。
「すまない。すぐに体内透視するのが、僕の悪い癖なんだ。」
タングスは、尻尾を振ってみせた。アグニは彼女と心中で会話し、驚いて目を瞬かせた。それを見ていたアスターは、瞬時に察して顔を綻ばせた。
「ありがとう、タングス。絶対、悪いようにはしない。」
「・・・・。」
一連のアスターの言動から、アグニは彼を分析した。鋭敏で礼儀正しく、正直者。研究熱心で、極めて意欲的。気弱そうだが、実のところ図太い。柔軟な頭でいて、頑固なところもある。人には好かれやすいが、研究に熱中しすぎて他人を蔑ろにするため見限られる。
そのことを自覚して直そうとは努力しているが、夢中になるとどうしても周りが見えなくなってしまうタイプだ。
「・・・聞きたいことが幾つかある。きっと長話で面倒そうだから、頭ん中を読ませてもらう。いい?」
アグニがようやくまともな口を利いてくれたので、アスターは安堵して笑った。
「勿論。でも、隠さなきゃならない部分は隠させてもらうよ?テサには、秘密が多いんだ。」
アグニは頷いた。
「うん、そのテサについて大まかでいいから教えてくれ。後、そこでアスター博士がどんな位置にいるのか。」
アスターは微笑んで目を瞑った。アグニは、彼に波長を合わせた。
まだ昨日のダメージが残っているため、はっきりとした言葉では読み取ることができない。だが、理解できるだけのイメージは見ることができた。
北極の大規模な塩湖の水底に在るコロニー、テサ。そこでは遺伝子操作によって様々な生物の創造、あるいは絶滅した生物の復元が試みられている。
その研究所は、人間も対象としている。多種多様な人種、霊能力者の遺伝子を集め、他の遺伝子と組み合わせることで、より生存能力の高い人類が生み出されている。まだまだ試作段階であり、成功例は少ない。そして、アスターは新人類研究部門の第一人者だ。
アグニは胸糞が悪くなり、いったん波長を遮断した。
「神にでもなったつもりかよ?人間をモルモットにするなんざ、イカレてやがる。」
アスターは目を開き、落ち着いた表情で真っ直ぐアグニを見た。予想していた通りの反応だと、彼が心の中で言うのが聞こえた。
「・・・確かに、倫理に反する所業だ。だが我々は、人からどう言われても実験を止めるつもりはない。滅びの一途を辿るエスの上で、最後の最後まで道に逆らって歩くつもりだ。例え神の怒りに触れ呪われようと、命のある限り抗ってみせる。」
「・・・・。」
「実験には犠牲がつき物だ。ゆえに優しい君には、蔑まれるだろう・・・だが、これだけは知っていて欲しい。僕は、エスを愛している。このまま、崩壊させはしない。」
タングスが赤い目を輝かせてアスターを見ていた。彼女は、アスターの思考に強く感銘を受けていた。それが何故なのか、この時のアグニには理解できなかった。
「それで、ハルヌーンも犠牲者のひとりってわけか。」
アグニは吐き捨てた。
アスターは一瞬痛みが走ったかのように顔を顰めた。だが、すぐに平然とした面持ちに戻った。
「シルアイラの力を試す必要があった。彼女が成功かどうかを。そしてご存知の通り、彼女は失敗作だった。」
それを聞いて、アグニは眉を顰めた。
「シルアイラは、あんたが・・・造ったのか?」
アスターは僅かに口角を上げた。
それは何処となく冷めていて、自嘲的な笑みだった。
「彼女はクローンだ。僕の、実の娘の。」―――「!?」
アグニは再び彼に波長を合わせようとした。だが、アスターがそれを即制した。
「読心はもう止しなさい。君は、まだ完全に回復していないだろ・・・耳で聞くのが面倒でも、無理は禁物だ。口に出して説明する。いいね?」
「・・・・っ。」
先ほどから頭に鈍痛を感じていたアグニは、詳しい事情を早く知りたくてじりじりしながらも大人しく彼に従った。
「僕は娘を〝ハニービー〟と呼んでいる。彼女は君のように、人体実験を快く思っていなかった。それで・・・1ヵ月半ほど前、彼女は研究所から逃げ去った。彼女を探して連れ戻すことは、やろうと思えばできた。研究所が、それを求めていた。だが僕は・・・彼女を自由にしてやりたかった。」
「・・・・。」
様々な疑問が浮かび上がり、アグニの喉を燻っていた。人の話を黙って耳で聞くことを、これほどまでじれったく感じたことはない。内容も影響しているが、アスターの話し方が余りにも鈍いため、アグニは苛々が募った。
「このことは、今日までターニャ達には隠していた。へたに動かれて、ハニービーの身を拘束されるのではないかと不安だったから・・・だが、もう隠し通せない。この1ヵ月テサに戻ってスペアで試作し直したが、どうもうまくいかなかった。これ以上長引けば、ハル君の身がもたない。ハニービーを、ここに連れてくるしかない・・・。」
アスターはここで一息ついて茶を飲んだ。彼は、ソファーの上で胡坐をかいて足を揺すっているアグニの様子に気づきもせず、再びマイペースに話し始めた。
「驚いたよ・・・今朝ここに着いて、ターニャ達から要を見つけ出したと聞いた時は。シルアイラのオリジナルは、死んだことにしていたから・・・まさか、探していたとはね。どこからか情報が漏れたのだろう。オリジナルが生きていて、このエスのどこかにいるという情報が。」
「なんで、あんたの娘が要だと分かった?」
アグニは痺れを切らして質問した。
アスターは、まるでその質問を待っていたとでもいうように単眼眼鏡を光らせた。
「ハニービーが、自分でそう言ったんだ。彼女には意識がなかったがね。10年前、彼女はハオマ草を食べて昏睡状態に陥った。その時に自ら名乗ったんだ・・・要のエレメントだと。」
「・・・・!」
臨死体験により、眠っていた力が目覚めることは珍しい事例ではない。だがハオマ草を食べて生き残ったという話は、これまでに一度も聞いたことが無かった。
アグニは、ぞくっとした。それは不気味に思ったからではなく、自然が生み出した超人の存在に感動せずにはいられなかったからだ。
「四大エレメントについては、若い頃から興味があって資料を集めていた。10年前のあの日から、仲間と共に本格的に研究を始めた・・・そして、彼女を苦しめることになった・・・。」
自分の娘に与えた数々の仕打ちを思い、アスターは生気の無い目をして暫く沈黙した。すぐに我に返った彼は、緊迫した険しい表情をした。
「バースは手強い。ハニービーを、そう簡単には奪い返せないだろう。連中は、彼女ほどのパイマーを易々と手放したりはしないはずだ。」
アスターは、バース・ヒルスのことをよく知っているようだ。そして、彼らに敵意を抱いているようでもあった。
「彼女に呪縛をかければ早い話なのだが、そういう訳にはいかないんだ。彼女は重度の被縛者で、いつ発作を起こして心死にするか分からない。そうなったのは、すべて僕の責任だ。彼女は、きっと僕の顔を見ただけでも発作を起こすだろうね・・・。」
「・・・・。」
「ゆえに、彼女を傷つけないよう慎重に事を運ぶ必要がある。そこで君たちの助力となる人材を、僕から提供する。」
アスターは徐に指を鳴らした。
「!!」
空席だったアスターの隣に、何処からともなく人影が出現した。博士の合図を受けて一瞬にして姿を現したのは、青白い顔をした少年だった。
体毛は極めて薄く、産毛のような金髪が丸い頭部に僅かに生えている。細い目から覗く瞳は、紅玉のように透明感のある赤色だった。微かに発光しているようにも見える。
アグニは、恐る恐る少年を観察した。ファミリアの一種が現れたのかと思ったが、どうやら彼は肉体を持つ生きた人間だ。
「この子の名はシュゼ。ハニービーとは顔馴染みの〝試作型ネオ〟だ。彼女はシュゼを気に入っていたから、きっと役に立つ。安心なさい、この子は僕に忠実だ。」
「・・・・。」
シュゼは、瞬きひとつせずにアスターの隣で大人しく座っていた。無表情で、どこを見ているか分からない。まるで人形だ。呼吸しているのかどうかも怪しい。
「この子の得意技は、周囲の光を自在に屈折させて相手の目を錯乱させること。〝擬態系ミラージュ・モデル〟の成功作だ・・・唯一の欠陥は、感情の欠落。」
つまり、シュゼは最初からソファーに座っていたということになる。光を屈折させて自らの姿を見えなくしていただけで、瞬間移動して現れたわけではない。アウラを極限にまで制御して気配を絶ち、アスターの指示があるまで待機していたのだ。
「すげぇ・・・。」
アグニは、無意識に呟いていた。
シュゼは相変わらず無表情で、何も言わない。
アスターが彼の代わりに微笑んだ。
「気に入ってもらえて何よりだ。」
アスターを気に入ったわけじゃない、と思ったがアグニは口に出さなかった。
「こんな人間が他にもいるのかよ?テサには。」
「まだ数は少ないが・・・他にどんなネオが試作されているかは、教えられない。」
「失敗した奴はどうなる?」
「・・・大抵は暫くの期間、観察下に置いてデータをとる。寿命がくるまで飼育するか、途中で安楽死させるかは状態による。
失敗作は例外なく短命で、普通は最期まで生かしておくんだが、情緒不安定で手に負えない個体はサンプルを回収した後に即処分する。中には非常に狂暴で危険なモノが生まれることがあってね・・・後は、パーツごとに他の実験材料に回したりもするね。」
アスターは、アグニが興味を持ってくれたことが非常に嬉しかったらしく、饒舌に失敗作の行末を語った。
アグニは聞かなければよかったと後悔した。しばらくは胃のむかつきで食事が喉を通らないだろう。もしも自分が弱っていなかったら、この不快な話をまともに聞いていられなかったに違いない。
頭の鈍痛と身体の気だるさがあったからこそ、アグニは正常心を保ってアスターと対面することができている。
「じゃあ、シルアイラは?失敗作、なんだろ。つか、なんで彼女が女帝に?」
「要のエレメントとしては失敗でも、シルアイラは奇跡の産物だ。彼女の能力は日増しに発達している。その限界は底知れない。彼女は、ネオ研究の大きな進歩となる。」
「・・・・。」
アグニは、そこまで楽観的には考えられなかった。あの少女は絶対に危険だ。アスターにも分かっているはずだ。だが、彼にとってシルアイラは愛する実の娘と同じであり、どのような怪物になろうと彼女を手放す気は無いのだろう。
「そして彼女は、テサとアマゾナスの友好関係の証だ。これからも我々の象徴として玉座に座る。彼女は列記としたアマゾナスの女児なんだ。つまり、ハニービーも然り。彼女たちの母親は、アマゾナスの血を引いていた。まあ、彼女はアマゾナスとして生活してはいなかったが・・・。」
過去形を使っているということは、すでに亡くなっているか離縁しているかのどちらかだろう。
「なるほど。アマゾナスを娶るなんざ、博士・・・意外と大胆だな。」
アグニは、とりあえずからかってみた。
「い、いや・・・出会った時には、すでに彼女はアマゾナスのコロニーを抜けていたんだ。彼女は、とても誠実で清らかで・・・気高い人だった。」
「・・・・。」
アスターは、ツィンカがログを思う時と同じ目をした。
「彼女が、アマゾナス出身であることを知る者は少ない。だが、彼女が勇猛なガグル・ハンターだったことを知る者は、とても多い・・・通り名はレナ。英雄と呼ばれる女性だ。」
「―――・・・!」
その名を聞いて、アグニは息を呑んだ。ガグル・ハンターなら、彼女を知らない者はいない。多くの土地で偉業を残し、殉職した後にハンターの新生守護神として慕われるようになった女性だ。
紅蓮洞に時々訪れる吟遊詩人が、レナの武勇伝を語った。アグニは、いつもそれを楽しみにしていた。
そしてアグニには、個人的に彼女と大きな関わりがあった。
「・・・知ってる。彼女は、おれの親父のハンター仲間だった。親父の墓参りに一度来てくれて、その時に会ったよ。まだ4歳になる前だったから、あんま覚えてないけど。」
今度はアスターが息を呑んだ。
「グールに友人がいるのは知っていたが、まさか・・・それは、奇縁な話だな。」
「・・・・。」
アグニとレナの関係はそれだけではない。他人には易々と言う事のできない秘密があった。それは、彼の本名にある。アグニのファーストネームは、他でもない彼女の通り名を一部に貰っていた。
レナベル。それが、アグニの本当の名だ。
『ログの分も、しっかりツィンカを守るんだぞ?』『うん!』
アグニはレナとの約束を思い出した。今まで忘れていた自分を、口惜しく恥ずかしく思った。今になって気づいた。アグニが自分の母親のことを〝母さん〟ではなく〝ツィンカ〟と呼ぶことが多いのは、あの時のレナの言葉が影響しているに違いないと。
アグニは、レナの娘であるキラに親近感を抱かずにはいられなかった。彼女との出会いが、またさらに楽しみになった。
アスターは黒革の鞄から採血用の道具を取り出し、タングスの足から血を少量抜き取った。タングスは彼に触れられることを全く嫌がらなかった。
大人しくアスターに身を任せている彼女を、アグニは訝しげな表情をして見守った。
(彼の考えは尊敬に値する。)
「・・・・。」
タングスはアスターの信者になったようだ。アグニは、どうしても彼女の心情に同感することができなかった。
「では、僕はハル君を診にいくよ。君は・・・まだ、よしておいた方が身のためだね。部屋に戻って休みなさい。今日中は、養生するべきだ。タングスとの内心会話も控えるように。」
アスターは広げた医療道具を黒鞄に片付けながら、まるでアグニの主治医のように診断した。アグニは不服に思いながらも、潔く部屋に戻ることにした。
アグニがタングスを連れて客間を出て行こうとした時、アスターが呼び止めた。
「シュゼも一緒に連れて行ってくれ。今日から、この子は君たちと行動を共にする。アグニ君に任せるよ。」
アグニはぎょっとして、アスターとシュゼを交互に見た。
「・・・おれ?ファルさんの方が、適任だと思うけど。」
「君の方が年も近いし、きっと気が合う。」
アグニは、無言で突っ立っているシュゼを見やった。彼の体格は丁度ミアと同じくらいで、見た目ではアグニより少し年下といった感じだ。
「・・・・。」
クードスの弟たちなら何度も任されたことのあるアグニだが、シュゼはどう見ても元気のあり余ったやんちゃな悪ガキではない。気が合うも何も、会話できるかどうかも怪しい。
「シュゼには、アグニ君の指示に従うよう命令してある。あまり無謀な事はやらせないでくれ。僕の大事な〝息子〟だから・・・言っておくが、シュゼは強いぞ。この子を怒らせるような事はしないように。」
アグニは肩をすくめた。
「感情が無いのにどうやって怒らせる?」
アスターは、意味深な笑みを浮かべた。
「念のためだ。」
「・・・マニュアルとか無いの?」
気おくれしながらもシュゼに興味津々のアグニに、アスターは愉快そうに笑いながら首を横に振った。
シュゼをその場に残し、アスターは客間を出て行った。