第十八話
チェスと霊術に関するターニャの講義を受け、アグニが部屋に戻るころには深夜になっていた。
欠伸をしながら部屋の戸を開けた瞬間、アグニは気がついた。タングスが部屋にいない。絨毯の上に彼女のアバターが落ちている。
周囲をざっと透視したが、見当たらない。突然、アグニは不安になった。
落ち着け。アグニは自分に言い聞かせた。彼女はレゴリスを排泄するため、外へ出たに違いない。甲板を探そう。
素早くマスクをつけ、アグニは船室を出た。
塵の波間は月光を反射して銀色に輝き、霧はぼんやりと白銀色に光っていた。そのため真夜中のはずなのに不思議なほど明るかった。そして、不気味なほど静かだった。
甲板に転がって寝息を立てている旅人たちに気をつけながら、アグニは船首に向かって歩いた。そこに彼女の姿があった。
「・・・タングス?」
「・・・・。」
アグニが声をかけても、タングスは前方を向いて座ったまま全くの無反応だった。彼女は、閉心していた。この時間まで彼女を独り部屋に放っておいたので、拗ねているのだろう。アグニはそう思い、彼女のそばへ行った。
タングスの見開かれた赤い目を見て、彼女が酷く怯えていることに気がついた。体中の毛が静電気を帯びたように膨らんでもいた。アグニは、彼女の背をそっと撫でた。微かに震えている。
タングスは、心もとない唸り声を漏らした。アグニは心の中で何度か彼女に話しかけた。だが、彼女は一向に閉心を解こうとしなかった。
「!」
アグニは何かの気配を感じ取り、俊敏に前方を振り向いた。深い霧の奥、船との距離はかなりある。だが確実に、何かが近づいてきていた。
アグニは目を凝らし、ひたすら霧の中に視線を投じた。タングスとアグニの他にも、船に乗るパイマー達が1人、また1人とその気配に気づき始めた。
パイマーの異変に気づいたハンター達は、それぞれのメイン武器を手にして甲板に集結した。他の船客と船員も、何事かと外に出てきて霧の中を見渡した。
蒸気船は次第に速度を落とし、間もなく完全に泊まった。船の操舵室に、ターニャの姿が見えた。彼女が船を泊めるよう指示したのだろう。
アグニは背中からヒート・エッジを下ろし、革帯を解いた。柄を握りしめ、彼は一歩また一歩と船首の先へと慎重に足を運んだ。幾人かの緊迫した声が、前に出る少年を引きとめようとしていた。
だが、アグニは止まらなかった。
霧の奥深くで、計り知れぬほど絶大な生命力を放つ存在がこちらの様子を窺っている。肉眼で捉えられる距離ではない。アグニの目は、その生物の一部を捉えていた。
あまりにも巨大すぎて、アグニの透視能力ではその全貌を把握しきれなかった。内海を埋め尽くすほどの巨体だ。
それは途轍もなく長く、太い図体をしていた。海中に沈む隆起したどす黒い胴体が、船の周りを何重にも取り囲んでいる。その尾先は何処まで伸びているのか見当もつかない。
ひと一人の手で倒せる大きさではない。これまで話に聞いたことのある神獣よりも、遥かに巨大だった。
長い間、塵の海の奥深くに潜伏してエスを喰い漁っていたのだろう。そう思うと、アグニは憎悪で全身に鳥肌が立った。
相手は、想像を絶する大きさの醜悪な寄生虫だ。ヘビというよりワームに近い姿で、極めて原始的な肉体構造をしている。倒すとなると、頭部に致命傷を負わせるしかないだろう。
その頭部は今、アグニが立つ船首の前方にあった。レゴリスの海面から醜い顔の一部を出し、徐々に近づいてきていた。その動きの遅さに、気の短いアグニは苛立った。
相手が少しでも力を入れて身をよじれば、船はレゴリスの波に飲み込まれるだろう。仕留めるなら、一発で急所を貫かねばならない。
霧の中、肉眼でぼんやりと影を捉えられる距離まで迫った。その巨大さに度肝を抜かれて腰を抜かす者がいれば、悲鳴をあげて船内に逃げ込む者、泡を吹いて気絶する者までいた。
船の出航前後に大見得を切っていたハンター達は完全に戦意喪失し、何人かのパイマーが物陰に隠れて神に祈りを捧げ始めた。
白銀にきらめく塵に覆われた海上に、ぶよぶよした黒い影が現れては消える。海面へ浮上しては海中に沈む長く太い胴体には、背鰭のような突起が連なって生えていた。巨体の一部が動くたびに、レゴリスの波が船を揺らす。その都度、船のどこかで悲鳴が上がった。
アグニは、前方の影を睨み続けていた。巨大ワームの頭部は、もうそれ以上近づいて来ようとしなかった。浮遊石を使って全力で跳躍すれば、届きそうな距離ではある。
だが、それ以前に何か様子がおかしい。
(・・・なぜ、攻撃してこない?)
アグニの後方に立つファルコも、さらにその後ろで大型ライフルを構えているカフも、同じことを思っていた。
巨大ワームには、こちらに危害を加える気がないようだった。その気になれば船ごと丸呑みにできるはずなのに、霧の向こうからただじっとこちらを見つめていた。身の毛のよだつ不気味な呼吸音が、規則正しく聞こえてくる。時々、内臓がねじれるような不快な音も立てていた。
アグニの背後で、タングスが低く唸った。
彼女は一瞬だけ閉心を解いた。
(・・・アグニ、少し下がっていて欲しい。)
「?」
アグニは彼女に従って後退した。
タングスは徐に船首の先へ歩み出た。そして彼女は前方に向かって、渾身の限りに猛々しく咆哮を上げた。その雄叫びは、落雷のように海上に轟いた。
それに答えるように、巨大ワームが全身を激しく震わせて吼えた。
「――――っ!?」
皆は慌てて耳を塞ぎ、その身を庇った。四方から打ち寄せるレゴリスの波が船を荒々しく揺さぶり、咆哮の波動が突風となってアグニたちに襲い掛かった。
船体が潰れるのではないかと思われた時、凄まじい衝撃波は過ぎ去っていた。
「・・・・。」
巨大ワームは、ゆっくりと確実に後退し始めた。深い塵の世界に戻っていく巨体を、皆はただ呆気にとられて見守った。
月夜の塵の海上に、何事もなかったかのように静寂が帰ってきた。タングスは心を閉ざし、何やら思いつめた表情で銀の波に視線を落としていた。
巨大ワームを見事に追い返したタングスを、船に乗る者たちは口々に称賛した。彼女の飼い主であるアグニは、皆から質問攻めに合った。
アグニ以外の人間が身体に触れることを許さないタングスは、近づいてくる者たちを容赦なく威嚇した。タングスが誰かの頭を食いちぎってしまう前に、アグニは興奮している彼女をなだめながら急いで部屋に戻った。
タングスは、アグニの質問に何も答えようとしなかった。彼女はぐったりと絨毯に寝転がり、アグニには意味の読み取れない唸り声を漏らしていた。何かに衝撃を受けて酷く滅入っていることは分かった。
アグニは彼女の横に寝そべり、灰色の毛を撫でた。
タングスは、まるですすり泣くようにか細く唸る。
何が彼女をここまで打ちのめしたのか、アグニには見当もつかなかった。アグニは辛抱強く彼女に波長を合わせ続けた。急に大人になったタングスの思考を、一瞬でも鬱陶しく思ったことを心の中で謝った。一言でも、彼女の言葉が聞きたかった。
(何でもいいから、何か言ってくれ・・・。)
その夜、アグニは彼女の言葉を聞く事無く眠りに落ちた。