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第十五話

 アグニはミアに従って路地を進んでいった。人ひとりがやっと通れるような狭くて長い階段を上ると、開けた場所に出た。

 そこは、岩壁からせり出した小さな展望台だった。意外と高く、裏町の全貌を見渡すことができた。


 2人は展望台の先にある錆びた手摺に寄りかかり、しばらく黙って景色を眺めた。岩穴の中に鉄屑を寄せ集めて建築された町に、色とりどりの光の粒が散らばっている。汚れ荒んだ町のはずなのに、高い場所から見下ろすと妙に美しく見えた。


 「・・・もう、あたしの顔なんて見たくないだろうって思ってた。」


 ミアは視線を前に向けたまま呟いた。


 「なのに、あんな店にアグニが来るなんて・・・意外。」

 「行ってみたら、それほど悪くなかった。意外と。」


 ミアは疑るようにアグニの顔を覗き込んだ。


 「・・・酒とつまみを見て失神しかけた。クードスがいたから何とか持ち堪えたけど。後、ミアが踊ってる時に何度も前に出てって客をぶん殴りたくなった。でも・・・そういう空気じゃなかったし、ミアの邪魔したくなかったから我慢した。」と、アグニは白状した。


 ミアは可笑しそうに笑った。


 「それは賢明な判断ね。最後まで、躍らせてくれてありがとう・・・。」



 先ほどから彼女は、アグニに言いたくて仕方のないことがあった。もうそこまで出てきているのに、アグニの反応が怖くて言い出せないでいた。

 アグニがそれを読心しているにも関わらず、彼がその話題に触れようとしないことにミアは気付いていた。

 だから尚更、彼女は言い出しにくかった。そのことを掘り返すことで、また喧嘩に発展するのではないかという不安があった。アグニも彼女と同じことを思い、不安だった。


 ミアはため息のような深呼吸をした。彼女は、自分から言おうと決心した。それを感じ取り、アグニは心中で身構えた。


 「あのさ・・・。」

 「ミア。昼間は、悪かった。」


 アグニは、ミアが言いかけた言葉を遮って謝った。


 「ファルさんの事、タングスも疑ってんだ。ミアは、鋭いとこあるから・・・ふたりの忠告を、全然気にしてないなんて事はない。ただ、今回はどうしようもない理由があって・・・ごめん。」

 「・・・・。」


 「あんなに、怒ったミア初めて見た。おれ、すげぇマズいこと言ったんだと思って・・・ほんとに、反省してる。」


 アグニは、ミアの反応を見るのが怖くて直視も読心もできなかった。それでも、隣に立つミアの感情が徐々に乱れていくのを嫌でも感じた。


 「なんでよ・・・何で、アグニが謝るのよ?」

 「・・・・。」


 ミアの脳裏に昼間の暴言が、一言一句はっきりと蘇った。湧き上がる自己嫌悪に耐えかねて、彼女は自分の頭を掻き毟った。

 アグニは彼女の手首をつかんで止めさせた。ミアはそれを振り払い、アグニから少し離れた。


 彼女は目に涙を溜め、アグニを責めるように見つめた。


 「あたしが、何を言ったかもう忘れたの?あたし、あんたに・・・アグニは、いっつもそう!あたしの方が悪い時でも、なんで先に謝るの!?心、読めるんでしょ!??」


 ミアの目に収まりきらなくなった涙が、ついに零れ落ち始めた。彼女は滅多に人前で泣くことがない。アグニが先に謝ったことで、ミアをさらに追い込むこととなった。アグニは自分の判断ミスを呪った。


 「・・・だから、先に謝ったんだ。ミアが言ったことは、正しいから謝る必要がない。おれは、本名を読むことができる覚だ。呪縛兵を作る際に、貢献してる・・・最悪の人材だよ。

 まあ・・・ミアは本名を覚えてないから、読むことはできないけど。だから、頼まれたって呪縛はかけられないよ。」

 そう言って、アグニは自虐的に笑った。


 読心術者の中でも、アグニは希な能力の持ち主だ。彼は他者の思考を、イメージとしてだけではなく音声に近い言葉として捉えることができる。

 そういった特別な力を持つ覚のことを、人は邪神や死神と呼んで恐れる。この世界で本名を他人に明かされることは、死を宣告されることと同じようなものだからだ。死より恐ろしい目にも遭う。


 アグニは、この邪な能力を憎んでいた。自ら進んで他人の本名を読むような行為は絶対にしない。だが軍事命令を受ければ、彼は従わなければならない。

 これまで数え切れないほど、人の本名を無理やり読心させられた。その者たちは奴隷となり、呪縛兵となり、地獄のような苦しみを味わいながら命を落とす。


 アグニはなるべくその事を考えないようにしていた。そうしなければ自責の念に押し潰され、気が狂いそうになる。


 ミアにそれを痛烈に指摘されたとき、相手が彼女でなければアグニは自分を抑えられなかっただろう。あの場でナイフを抜き、相手の喉を切り裂いていたに違いない。

 ミアが言っていたように、最近の自分は少し変だ。狂気にも似た強烈な殺意に駆られ、自分が自分で無くなる瞬間がある。


 「・・・事実だとしても、あたし言っちゃいけないこと言った。アグニが、その事でどれだけ苦しんでるかわかってて・・・わかってたはずなのに、あんな酷いこと・・・。」ミアは言葉を詰まらせながら、かすれた涙声で自分を責めた。


 彼女は喉元に込み上げる嗚咽を懸命に抑え、無理やり笑ってみせた。


 「何でかな、アグニがどんなに優しいか知ってるのに・・・何で、あたしはアグニを傷つけちゃうんだろ。」


 「・・・・っ。」


 アグニは彼女の思考を読み、不安と恐怖に襲われた。


 ミアは、自分がアグニのそばにいるべきではないという結論に至っていた。一時はアグニも彼女と同じことを考えていた。


 近くにいれば傷つけ合ってしまう、と。アグニを傷つけることでミア自身が傷つき、ミアが傷ついたことに対してアグニがさらに傷つく。また、その逆も同じことが起こる。止めどなき悪循環の中で、ミアは疲れ果てていた。


 「やめろよ・・・そんなこと、考えるな!」


 アグニは衝動的に彼女に詰め寄り、腕を伸ばした。

 ミアは、その腕から逃げるように素早く後ずさった。


 そこで普段のアグニなら彼女の意思に従うが、この時ばかりは違った。抑えきれない彼女への思いが、彼を突き動かした。

 ミアの細い腕をつかみ、アグニは抵抗する彼女を力ずくで引き寄せて抱きしめた。


 「・・・・っ!」


 ミアは驚き、声にならない微かな悲鳴を上げた。全身に力が入り、金縛りを起こしたように固まった。


 彼女は硬直した身体を無理やり動かし、アグニの腕を振り解こうともがいた。だが彼の腕はミアを強く締めつけ、彼女を放そうとしなかった。


 ミアが本気で拒んだなら、アグニは彼女を解放する気でいた。それくらいの理性はあった。ミアの身体から徐々に力が抜けていった。彼女は本心に身をゆだね、慎重な手つきでアグニの背に腕を回した。


 「・・・・。」


 ミアの身体は、アグニが少し力を込めれば壊れてしまいそうなほど華奢で柔らかかった。押し当てられた胸の中で、互いの鼓動は気まずくなるほど激しく脈打っていた。


 汗が引いたミアの肌は冷え切っていた。アグニは彼女に貸せるような上着を着てこなかったことを悔いた。ミアが彼の少し高めの体温を心地よく感じていることを知り、やり過ぎない程度に彼女の剥き出しの肌を撫でた。


 「!?」


 ミアは身を強張らせ、アグニを押しのけた。彼女はアグニのとった行動を勘違いして警戒態勢に入った。


 「・・・ミアにも、おれの心が読めたらいいのに。」

 アグニは目を細めてぼやいた。


 ミアは落ち着かない様子で身体をそわそわさせながら、彼をひと睨みした。


 「む、無理、言わないで。ちゃんと言葉にしてよ。」


 アグニは頭を掻いた。下心が無かったわけではない。

 彼は思い出したようにポケットへ手を突っ込み、布袋を取り出した。


 「・・・・?」


 アグニに布袋を突きつけられ、ミアは首をかしげた。


 彼女は本当にわかっていなかった。ミアは目を見張るほど鋭いところもあれば、妙に鈍感なところもある。


 「おごるって約束しただろ、デスマッチの報酬で。」

 アグニは無愛想に説明した。


 ミアは思い出して納得し、布袋を受け取った。彼女はちらりとアグニに目線を寄越した。アグニは軽く頷いた。彼に了承を得て、ミアは布袋を開けた。

 アグニは彼女の反応が怖くて視線と波長を逸らした。


 布袋からミアの掌に、正十字の首飾りが転げ落ちた。ミアはその首飾りをまじまじと観察し、そっぽを向いているアグニに視線を戻した。


 「・・・これ、アグニが選んだの?」


 彼は曖昧にうなずいた。ミアは疑り深く、彼を見据えた。


 「ホントに?」


 「・・・リサに、選ぶの手伝ってもらった。」

 アグニは、躊躇しながらも正直に答えた。


 ミアは、リサと聞いて細い眉毛をぴくりと動かした。


 「た、たまたま商店街で会って、ついでに・・・だから、あの時一緒にいたんだ。い、言っとくけど、おれとあいつは別に何でもないからな!」

 アグニは慌てて説明を付け加えた。


 しばしの沈黙。


 「・・・・ぷっ、くくっ!」


 ミアは突然、吹き出した。

 アグニは驚いて彼女を凝視した。


 「な、何だよ。」

 「だって・・・アグニ、慌てすぎっ!」


 ミアは、苦しそうに腹を抱えて笑った。彼女がここまで感情を表に出して笑う姿を、アグニは初めて見た。何が彼女のツボに入ったのか、アグニにはうまく読み取れなかった。でも、理由はどうでもよかった。


 ミアが心の底から楽しそうに笑っている。その間、アグニは彼女から目が離せなかった。ミアの屈託の無い笑顔と笑い声が、彼の全てを支配していた。


 「そんなの、わかってたって!あの時アグニ、彼女に強引に連れまわされてるって感じだったもん。あの子は、あんたに気があるんでしょ?だから、あたしのこと彼女だってことにして言い逃れてた訳で・・・あの子、粘り強いタイプみたいだから、まあちょっと心配はしてるけど・・・。」

 ミアは真相を明かし、目じりに溜まった笑い涙を拭った。


 あの一瞬の出会いで、彼女はアグニとリサの関係を見抜いていた。さらに、リサが粘り強いことも。


 「・・・心配なんか、いるかよ。」


 アグニは不機嫌そうに顔を顰めて呟いた。


 ミアは込み上げてくる嬉しさで顔をにやつかせながら、彼の仏頂面を愛しげに見つめた。そして彼女は首飾りをアグニに突きつけた。


 アグニは少し戸惑いながらも、首飾りを受け取った。ホックを外し、慎重にミアの細い首に紐を巻きつけた。

 首の後ろでホックを留めている時、ふいにミアがつま先立ちした。


 「!」


 アグニは彼女の首に腕を回した状態のまま、硬直した。彼は一瞬、何をされたか分からなかった。頬に、ひんやりとした柔らかな感触が微かに残っていた。


 アグニは、ミアを見下ろした。彼女は不安げにアグニを見上げていた。その時、ミアがこれまでアグニに触れることに抵抗感を抱いていた理由がはっきりと伝わった。


 ミアはグールであって、人肉を食べる。彼女の身体は人間の血肉で汚れている。そして裏町の奥で育った彼女は、アグニが想像もつかないほど暗く悲しい体験を重ねている。

 ミアは、身も心も純潔のアグニに対し劣等感を抱えていた。自分の身体で、彼を汚すことを恐れていた。


 アグニは、ミアにならいくら傷つけられたって構わなかった。それで彼女のそばにいられるなら、いくらでも我慢できる。それがミアを苦しませる結果になるなら、自分はどう彼女に答えればいいというのか。

 ミアがアグニを傷つけることで、彼女自身を責めないでくれと頼めばよいのか?アグニが彼女を傷つければ、自分自身を責めずにはいられないのに?


 「・・・・。」


 アグニはミアの深い緑色の瞳を見つめながら、彼女の頬に優しく触れた。彼女が何を求めているかアグニにはわかっていた。それを求めることに罪悪感を抱いていることもわかっていた。

 だから、彼女はアグニに全てを任せていた。アグニが求めるなら、彼女は抵抗しない気でいた。


 アグニは小さくため息をつき、ミアの前髪を掻き揚げた。

 そのまま彼女の頭を引き寄せ、額にそっと口付けした。


 ミアは困惑したような、照れているような複雑な表情をしてうつむいた。アグニが彼女を拒んだと勘違いして、ショックを受けたと同時にほっとしていた。

 アグニはミアの誤解を解くため、彼女の頬を両手で包んで上を向かせた。


 「・・・ミアは、綺麗だよ。気づいてないみたいだけど、汚れてなんかない。アウラを見れば一目瞭然だ。」


 「・・・・。」


 ミアは戸惑った。アグニの言葉の意味が理解できていない。


 アグニは、どう彼女に伝えればいいか考えた。音声としての言葉で思いを伝えることほど、難しい術はない。ちょっとした言い回しの違いで、相手を誤解させてしまう。そう思いながら、アグニは慎重に言葉を選んだ。


 「正直なとこ、おれはミアが欲しくてたまらない。でもミアが、そんなふうに思ってるうちは手を出せねえよ。だから・・・ミアがおれを、何の気兼ねも無く求めてくれるまで我慢する。」


 炎のように燃える赤銅色の瞳に見下ろされ、ミアは身体がほてった。彼女は思わず顔をそむけた。彼女が怖くなるくらいアグニは真剣だった。


 ミアは首にかかった正十字を指先でいじり、場を取り繕うように自然な笑みを浮かべてアグニを見た。


 「・・・似合う?」


 アグニは、ミアに話を逸らされた気がして少しむっとした。彼女の思考は風になびく水面のように揺れ動き、アグニには正確に読み取ることができなかった。

 ミアは少し首をかしげて、アグニの返答を待っていた。その表情は、とても穏やかだった。


 一種の興奮が冷め、アグニは急に気恥ずかしくなった。彼はそっぽを向いて軽くうなずいた。ミアは、満面の笑顔を咲かせた。


 「ありがとう。」


 彼女が囁いた短い感謝の言葉には、色々な意味合いが込められていた。昼間の暴言を許してくれたこと、プレゼントをくれたこと、彼女の気持ちを重視してくれたこと、汚れた部分も含めて彼女の全てを受け入れてくれていること。

 ミアは、彼女に対するアグニの思いを心から喜び感謝していた。



 礼を言うのは自分の方だ。アグニはそう思った。邪神である自分を、ミアは恐れることなく受け入れてくれる。人肉も食べられない間抜けなグールを、清純だと思ってくれている。


 アグニはこの時、迷いを完全に断ち切った。絶対にミアを手放しはしない。もしも傷つけてしまったなら、それ以上に喜ばせればいい。ただそれだけのことだ。



 その思いを伝えるように、アグニはもう一度ミアを抱きしめた。ミアは一切の警戒もせずに、力を抜いてアグニに身をゆだねた。


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