73、理想郷
──当て所ない旅。
全てが新鮮で、全てが輝いて見えた。
こんなにも多く、幾重にも重なる世界が目の前に広がっている。
知るきっかけはごく単純な追放劇。
信じていた者からの裏切り。憎悪に彩られた黒い汚泥が心を染めて沈んでいく。
だがこれは一時の感傷だった。無限に広がる青い空の前には全てが矮小に霞んで見えた。暗く澱んだ感情が洗われていく。痛みが消えていく。欲求が満たされていく。
ああ、そうか。私は朽ちた古井戸に捨てられた赤子だったのだ。井戸の底から見える小さな空に満足していた無知蒙昧などうしようもない存在だったのだ。
楽しかった。嬉しかった。退屈が搔き消え、心が躍った。
それでも住み慣れた家は恋しいもので、蟠りとして燻り続ける。何千何億の彼方から幾年月、偶然感じた力の波動。
見つけた。目的の場所。目的の世界。懐かしき理想郷。
それは故郷。
ああ、そうか。私の旅はようやく終焉を迎えるのだ。
*
レッドたちはグルガンの用意した熊のような魔獣が引っ張る馬車に乗って、グルガンの領地へと案内された。
ゆったりと快適な車内で揺られること数刻、ウトウトと眠ってしまっていたレッドはオリーの声で目を覚ました。
「レッド。着いたみたいだ」
「……んがっ?!ふぁ〜……っ!いつの間にか寝てたなぁ……」
「すまない。出来ることならもう少し寝てほしかったが……」
「え?あ、大丈夫大丈夫。眠気は飛んだよ。まぁその、ちょっとだけ疲れてたかも?」
「無理もない。花の宮から直行だったからな。グルガンの街がどんなものかは分からないが、早めに宿を取って休むのが良いだろう」
「それは大丈夫ですよライトさん。ちょっと寝てスッキリしたんで」
「いやしかし……」
『やれやれ。こうなった時のレッドは何を言っても無駄ですので、放っておくのが無難ですよライト』
「むぅ……」
ライトとオリーの心配をよそに扉が開かれた。
「長旅ご苦労であった。降りてくれ。先ずは景観から自慢させてほしい」
グルガンの言葉で一旦外に出ることになったレッドたちは小高い丘の上で慎ましい町に迎えられた。
「ここが我が領土、シャングリラである」
「はぇ〜、これが……グルガンさんの領土ぉ……」
シャングリラは、他の都市と変わらず魔獣や盗賊といった侵略者を阻む壁に囲われ、木造と石造りが混在した家々が建ち並んでいる。庭は様々な植物で彩られ、自然との調和を感じさせた。
一見どこにでもある景観。だが決定的に違うのが魔族と共生している点だ。小高い丘の上では観測出来ないが、あの中では種の壁を超えた生活がその目に飛び込んでくることだろう。
『これが皇魔貴族ナンバー2、公爵の領土ですか?思っていた感じと全然違います。もっと何と言うか……豪華絢爛なイメージを持っていましたよ』
「そう思うのも仕方ない。肩書きだけは立派なものだからな。だが見よ。明るく輝いておろう?都市というものは開発が進みすぎて建物同士の間隔が狭い。ゆえに日が差さない小路もいくつか存在し、暗く陰鬱な雰囲気を漂わせるところがある。何事にも適切な距離を保ち、新緑を側に置くことで心にゆとりを持てるのだ」
「どうでも良い話だ。そんなことより宿はあるのか?レッドの疲れた体を休ませないと」
「ちょっ……!オリー!それはダメだって!失礼だから!」
「良い良い。実はまだ宿は作っていないのだ。旅人などの外の住人を入れるのはリスクが高すぎるのでな。その代わり我の所有する空き家があってな、そこで寝泊まりが可能となっている。すでに清掃を済ませるように手配している。早速行くとしよう」
促されるまま馬車に乗り込み、町の入り口まで揺られた。凶暴性の高い魔獣が入れないように防壁を張っていたため、町の中は歩きとなった。
「……最初から馬を活用すべきだろう?もしや馬車が町を走るのは駄目なのか?」
「そういうわけではないぞライト=クローラー。我にも体裁というものがある。ある地点までは監視されても良いように演技が必要なのだ。そこを過ぎれば姿を晦ますことが出来、安心な移動が可能となる……と、いろいろ言ってはみたが、実は我は馬を一頭も飼ってはいないのだ。馬は町民に必要な家畜ゆえ、手に入る機会があれば町民に受け渡しているのでな」
「そういうことなら仕方がない。というかフルネームはよせ。ライトで良い」
「ふむ……呼びやすいのだがな」
そんな会話中に、街の入り口に建てられた検問所から出て来たのはデーモン2体だった。
「おかえりなさいませグルガン様」
「うむ。これを頼むぞ」
「おまかせをっ」
デーモンの1体は熊の魔獣のお尻を押しながら牛舎のような大きな家畜小屋に連れて行く。もう1体は馬車を荷車のように引きながら持っていった。魔族が普通に出てきた事実には多少ながら驚かされたが、デーモンの姿には慣れたものですぐに落ち着きを取り戻した。颯爽と歩くグルガンの後ろについて町に入る。
「凄いなぁ。何というか土地が広いよ。確かに都心のせせこましい感じがなくて広々ほのぼのって感じがする。実家を思い出すなぁ……」
『レッドの実家はこういった感じなのですか?』
「辺鄙な田舎育ちだからさ。変わらない毎日に嫌気がさしてニールと一緒に村を出たんだ」
「レッドはニールとは幼馴染だったのか。なるほど、最初にチームを組んだ理由が分かったな」
「いや、はははっ……そうなんですよ。大した理由なんてなくて……」
レッドは頬を掻きながらバツが悪そうにしている。ニールとのことを思い出すと必然的に追放の件がにゅっと顔を出す。ひと時の沈黙が流れた丁度良いタイミングで町民が声を掛けた。
「グルガン様〜」
畑仕事をしていた夫婦が遠くで手を振るのに対し、グルガンは軽く手を上げて応えた。その後も町民は挨拶をしてきて、その中にはデーモンの姿もあった。隣家に魔族が住んでいるというのに普通に過ごす人々の姿を間近で見て「本当に共存しているのか……」と困惑気味に呟く。ふふんっと得意げに鼻を鳴らすグルガンの横顔はニヤリと笑い、見るからにご機嫌だった。
「さぁ、あれが貴君らの宿泊所だ。中にあるものは好きに使用して構わない」
そういって指差した館はかなり大きかった。民家は土地が広い関係で平屋ばかりだが、この館は美術館を想起させる洒落た2階建ての洋館だ。
「一応町長のようなことも兼任していてな。あれは仕事用の館なのだ。使用人を常駐させ、管理を任せているので常に綺麗に保たれている。足りないものや欲しいものがあったら遠慮なく使用人に伝えよ。大抵の物は用意出来よう」
「はぇ〜……」
「それよりもこっちだ。我が家に案内する」
町長としての職場がそれなりの見た目なことを考えると、公爵家はさぞかし絢爛豪華な家屋なのだろうと期待する。
しかしグルガンが示した先は、この町を案内されている時に散々見た一介の家屋と変わらない。広さが取り柄のごく平凡な平屋。庭先には小さな畑が野菜を実らせている。
『このありふれたお家があなたの自宅なのですか?全然イメージと違うような……あっ!もしや地下に巨大な空間があるとかでしょうか?!』
「そうか!すぐ下がダンジョンなのか!……これは騙される」
「はははっ違うとも。ここは何の変哲も無いただの家だ。ようこそ我が家へ」
グルガンが先導して家の中に招かれる。静かな屋内、グルガンの「ただいま」の一言でパタパタと慌ただしくなった。
「パパー!」
「おかえりなさーい!」
「はっはっはっ!帰ったぞ!」
きゃっきゃっと幼い子供達が駆け回る。グルガンは大きく手を広げて飛び込んでくる子供達を次々キャッチした。レッドたちが元気な子供達の喜ぶ姿を微笑ましく見ていると、奥にそっと隠れる人見知りの子供もいた。
「全部で……5人か?」
「6人よ」
ライトが子供の数を数え間違えたのかと声のする方を見ると、赤ちゃんを抱きかかえた女性がゆっくり現れた。
「ヘレナ」
「おかえりあなた」
グルガンと妻ヘレナは愛おしそうに見つめあった。
「ん?人間?人間じゃないか。魔族と人間がつがいとなったのか?」
「オリー!?夫婦!夫婦な!!」
「紹介しよう、我が家族だ。みんなご挨拶を」
「「「こんにちわーっ!!」」」
元気いっぱいの声に「あ、その……ど、どうも〜」といつものようにどもる。レッドが小さく手を振るのを真似してオリーも手を小さく振る。ミルレースも『あら可愛い〜』と同じく手を振った。
「……混血児か。なるほど」
「ふっ……そういうことだ」
「あなた。この人たちが?」
「ああそうだ」
一言ずつで会話を成立させるライトとグルガン夫婦。何の話か分からないだろう子供達はもちろんのこと、レッドも話についていけずに首を傾げた。疑問に答えるべくグルガンはレッドを見据える。
「これが我の守るべきすべてだ」




