249、カード
ヴァイザーの居なくなった城は静かなものだった。
建国記念日に向けて用意することもあり、人が出払っているせいでもあるだろうが、それ以上に不気味なほど静かである。
ガブリエル教皇は黙々と上がって来た書類に目を通していた。ヴァイザーが戻って来た時に仕事が片付いていないなど恥であり、少しでも長く側に居たいという気持ちが大きいために集中を切らさない。こういう時は音に敏感になってしまうので静寂に保たれた今の状況はありがたかった。
だからだろうか、本来ならそれなりに時間のかかる作業があっという間に終わり、次の公務まで手が空いてしまった。休憩を挟まずに一気にやり切ってしまったのが暇を作る要因となった。
「おやおや。柄にもなく少し気を張ってしまったようですねぇ。これもヴァイザー様の思し召し。この時間を休憩に使わせていただきましょう」
ガブリエルは机に置いた呼び鈴を軽く鳴らす。その音に反応して小太りの枢機卿が顔を覗かせた。
「お呼びでしょうか猊下」
「はい。手が空いたので次の公務まで休憩を取りたいと考えています。飲み物を頂けますか? ラングドン卿」
「……畏まりました」
そそくさと出ていく枢機卿カート=ラングドンの後ろ姿を目で追う。いつもよりも緊張しているように見えたラングドン卿を思い出して微笑む。
「驚かれてしまいましたか。無理もありませんね」
机の上を少し片付けて飲み物を待つ。ラングドン卿と一緒に給仕係がティーセットを運んできた。手際よく机の上に並べられるティーセットを眺める。温かい紅茶が注がれ、湯気と共に良い匂いが鼻腔をくすぐる。
「良いですねぇ。嗅いでいるだけで癒されてしまいます」
「魔導大国の農業地帯『ニグスブルグ』で採れた高級茶葉でございます。彼の国に外遊した折に頂いたものでして、是非とも猊下に飲んでいただきたく」
「それはまた豪勢な。それではありがたく頂くとしましょう」
ガブリエルは砂糖いっぱいの甘い紅茶が好きなのだが、せっかくの高級品であるならと一口目は素の味を堪能しようとカップを摘んだ。
──バンッ
しかし口をつける前に扉が開く。
「猊下、その紅茶を飲んではなりません」
ゾロゾロと執務室に入ってきたのは七元徳の5人。入り口を塞ぐように肩幅が以上に広い『忍耐』のオーウェン=ロンパイアが立った。
「な、なんだお前らっ!?」
慌てふためくラングドン卿と給仕係。ガブリエルも彼らの乱暴な態度には片眉を上げた。
「おやおや、これは一体どういうことですかな? あなた方は今別の任務に就いているはずでしょう? 何故ここに? それにこの紅茶を飲むなというのは一体どういう意味ですかな?」
「そのお紅茶には毒が入っていますの。お飲みになればたちまちお亡くなりになってしまいますわ」
『救済』のクラウディア=ファルシオンは丁寧なお嬢様口調で警告する。ガブリエルは目を丸くしてカップの中の液体を見たあと、これを用意した2人に視線を向けた。ラングドン卿も給仕係も目を泳がせる。
「……そんなまさか。この私を暗殺しようと?」
「お、お待ちください猊下っ! 私がそのようなことをするわけがありませんっ! もし毒が盛られていたとしたらこの者の仕業っ!」
ビシッと給仕係に指を差す。給仕係は「えぇっ?!」と困惑気味にラングドン卿を見るが、キッと睨みつけられて反論の機会を与えられない。
「第一、七元徳は今外回りに出ているはずであろうっ!? こんなところまで押しかけて私の名誉を毀損するとは不届き千万っ! お前たち覚悟は出来ているのだろうなっ!!」
ラングドン卿は開き直って七元徳を脅し始める。この期に及んで逃げ切ろうとしている。諦めずに逆転しようとする様は感心するが褒められたものではない。
「覚悟するのはあなただラングドン卿。我々が外に出ると勘違いし、嬉々として行動に移した罪は万死に値する」
「見苦しいですね。頭の後ろに手を組んで跪きなさい。手荒なことはしないと約束いたしましょう」
『節制』のアドニス=グレイブは非難し、『慈悲』のランドルフ=バルディッシュは笑顔の裏に怒りを湛えながらラングドン卿に命令する。
「だ、誰に口を聞いとるんだキサマっ! この私を誰だと思っているっ!!」
取り押さえるために伸ばした手を振り払うように暴れながら後ずさる。捕まれば力では絶対に勝てないので必死に逃げているのだ。
せっかく整理された部屋が散らかるのを見てガブリエルが顔を顰める。今そこにあった危機が去り、当事者でなくなったからかラングドン卿を迷惑そうに見ていた。そこへ懐かしい声が聞こえてくる。
「恥ずべき男だと私は認識している」
入口に立つオーウェンの陰からスッと姿を現したのはイアン=ローディウス。その瞬間にラングドン卿と給仕係、そしてガブリエルの目がカッと見開いた。
「ロ、ローディウスっ?! キサマ生きて……!?」
「ほ、本当にあなたなのですかっ?! ローディウス卿!」
椅子が転がる勢いで立ち上がったガブリエルの前にローディウスは跪く。
「時間をかけてしまい申し訳ございません猊下。ただ今戻りました」
「おかえりなさいローディウス卿。皆、あなたの帰りを期待していたのですよ?」
優しい声音で愛情深く包むように話しかけるガブリエル。よろよろと近付いてその身が実であるのか確かめようとガブリエルを『勤勉』のクレイが右手で制する。
「誠に残念ながら何人かは違っていたようです」
クレイはそのまま書類を手渡す。ガブリエルが受け取ったと同時に給仕係が動いた。
「シィィッ!!」
──ビュンッ
錐のように鋭く長い針をした暗殺道具を手に取り、ガブリエルの脳髄に向けて振り抜く。急所に正確に放たれた一撃だったが、聖王国最強の部隊を前にして暗殺を強行するなど愚者の極み。
──ギィンッ
目に痛いほどの光源を放つ剣で軽く弾かれた給仕係の攻撃。しかしその剣の柄は誰も握っていなかった。
「毒殺に失敗したから直接とは安易ですわね」
クラウディアが手をかざすと背後から3本剣が飛んでくる。ガブリエルや仲間たちに当たらないように器用に、しかし凄まじい速さで給仕係を襲う。まったく避けることも出来ずに着ていた服を射抜かれ、壁に打ち付けられた。服が捻じれるように壁に刺さったため、余分な隙間がなくなり息がし辛く苦しい。
「ぐぎ……ぎ……ぃっ?!」
「そこで少し反省してくださいまし」
クラウディアの聖装『輝きの天翼』。12本の光の剣を術者の思考のままに自由自在に操ることの出来る武器。その見た目は術者であるクラウディアが背負えばまるで天使の羽にも見え、神々しく光り輝く。
「げ、猊下の前で剣を抜くとは無礼な……っ!」
「お黙りなさいラングドン卿。ご自分のことを棚に上げてわたくしを非難するなどお里が知れますわよ?」
「ふはっ!! お聞きになられましたか猊下? だからエルフなどを入れるのは間違いだと申し上げたのです。このような傲慢で高飛車な輩など即刻除隊してくださいっ! その耳を見るだけで虫唾が走るわっ!」
ラングドンはどうしても論点をずらして暗殺などなかったことにしようとしている。給仕係兼暗殺者が持ち込んだ毒の入った容器を破棄するために近寄りたいが、光の剣が邪魔で通れなくなっている。
渡された書類を食い入るように見ていたガブリエルはくどくどと喋るラングドンを手を挙げて制する。呆れた顔で書類をクレイに返した。
「……長く堅実に働いてくださっているあなたに信頼を寄せておりました。少し言葉が強いのではないかというところも個性だと大目に見ていましたが、まさか裏で神選五党と関わっていたとは思いも寄りませんでしたよ」
「え、あっ?!」
「私を殺そうとしたばかりか強力な幻覚剤を国民に売り捌き、私腹を肥やし、不届きな邪教とのつながりのある枢機卿ですか。これは背信行為に他なりませんねぇ……。あなたのような人がエデン正教の重鎮だということは極めて冒涜的に映ります。即刻牢獄に連行しなさい」
「おお、お待ちください猊下っ!! ローディウスに騙されてはいけませんっ!! 奴は自分の罪を私に肩代わりさせるつもりなんだっ!! 私じゃないっ!!」
ジタバタするラングドンを見てローディウスはため息をついた。
「ローディウスっ!! キサマ覚えていろよっ!! 猊下に何を見せたか知らないが絶対に後悔させてやるからなぁっ!!」
「貴殿らの悪事を証拠付きで見せただけのこと。協力者であるパーバティ卿と部下の何人かも捕まえ、既に供述済みだ。ここで何をどれだけ吠えようともやった行いは覆らん」
「……なっ?!」
「憲兵っ!」
ローディウスの号令に従って憲兵が数名入ってくる。憲兵が手際よく2人を拘束している間もラングドンは恨み言を吐き散らしていたが、手錠を嵌められた上に憲兵に小突かれた時、人生の終わりを確信したのかしくしく泣きながら連行されていった。
「生きていたばかりか命を救われることになろうとは……ローディウス卿には頭が下がる思いです」
「いえ。これは当然のことをしたまでです。ラングドン卿は選挙を勝ち抜くために元より私を殺すつもりでいました。そして今回の件に関しては『勤勉』がいち早く情報を掴んだことで明るみとなったこと。私よりもクレイに感謝していただけたらと……」
「そうでしたか。ありがとうクレイ。感謝いたします」
ガブリエルはクレイに感謝の言葉を掛けるが、クレイはバツが悪そうに「はい」と一言返答する。
「これよりはもっと信頼出来る方を昇進させる必要がありますねぇ。今後の聖王国のためにも……」
「それについて猊下に見ていただきたいものがございます」
「ふふふっ、さすがはローディウス卿。私が考えるよりも以前から考慮していたとは、足を向けて寝られませんねぇ」
ニコニコと笑っていたガブリエルだったが、ローディウスが手渡した無色の水晶を見て顔の筋肉から力が抜ける。そこに映し出されていたのはどこかの施設と思われる建物。窓から見えるのは後ろ姿からでも分かるヴァイザーが嬉々として人道に外れた実験をしているように見えた。
「な、なんですか? これは……?」
「これは今現在の我が国の最南端、神選五党のアジトで行われている非道な実験です。ヴァイザーと呼ばれる異世界の魔の者が全世界の掌握に向け、準備をしているものと思われます」
「いや、まさか。ヴァイザー様はそのようなことを……」
「彼の者を神と崇めていると聞いております。しかしながら我らはエデン正教。最高神エデンを信じる宗教です。ラングドン卿に対し、邪教と手を結ぶことを背信行為とおっしゃいましたね? 猊下の信じる神はエデンであり、ヴァイザーなどではない」
ローディウスの言葉に身を震わせるガブリエル。水晶に映し出されたのが本当なら何か得体の知れないもののようにも見えて来た。
「い、いや、待ちなさいローディウス卿。ヴァイザー様は本物の神です。ヴァイザー様こそがこの世界をお創りになったと言っても過言ではありません。であればこの所業もまた何かしらの意図が……」
「ありませんよガブリエル。あれはただの化け物です。恐怖により平伏するのなら人として理解しましょう。しかし、あなたはヴァイザーを崇め、あまつさえエデン正教の名をヴァイザー教に改名しようと画策していた。教皇が信心を放棄し、乗り換えるなどという冒涜は決して許されることではなく、そして我々エデンの信者にまで邪教を強制しようとしたなどと……この罪は重い」
「待つのですローディウス卿っ! 本当の名はエデンではなくヴァイザー様ということもあり得るでしょう?! その場合は間違った名を呼び続けることの方が神への冒涜ですっ! なにか間違っていますかっ!?」
ガブリエルは耄碌しているとは思えないほどの力でローディウスの胸倉に掴みかかる。ローディウスは冷ややかな目でガブリエルを見据えた。
「ええ。あなたがヴァイザーを神と崇めたところからすべて間違っています。私が法であったなら退位では済ましません。この先一生牢獄に閉じ込め、功績や功労を白紙にし、短い余生を罪人として生きてもらいます。が、私は法ではありません。もし、隠居という形で退位されるのであれば、私があなたの恥部を咎めることは無いでしょう」
「な……こ、交渉……? やはりあなたも教皇の椅子が欲しいだけなのですねっ?!」
「交渉ではありません。あなたの退位は決定事項であり、その後のことを憂いて選択肢を与えているのです。教皇選挙は必ず行いますし、私以外が教皇となるのであれば次代の教皇をお支えする覚悟です。ただ……貴殿はその座に相応しくない。それだけだ」
ローディウスは踵を返し、七元徳を見る。
「今この時を持って教皇直轄の任を解く。新たにエデン正教の神罰の代行者として邪神および邪教徒を討滅せよ。この国の未来は貴殿らにかかっているのだっ!」
「何を勝手なことを……っ!?」
「まだ吠えるかガブリエル。貴殿もラングドンと大して変わらん。憲兵っ! この者を離れに幽閉せよっ!」
ガブリエルは憲兵に取り囲まれたことで観念した。
既にローディウスの策の内。それが示すものはガブリエル以外の信者はヴァイザーを神と見做していない事実。
エデン正教を守ろうとする意志が、教皇をも幽閉するのだと──。




