3.リタ
全生徒が集う式典は毎年厳かに執り行われてきた。まず初めに、十四歳から十七歳までの下級生が進級のしるしであるカフスを授与される。それから成人の儀を行い、最終学年の挨拶に入る、という流れだ。
式典が行われるのは、学院でもっとも大きいとされる広間。卒業に際した舞踏会や、貴族たちの懇親会などもよく行われる。シャンデリアの人工的な輝きが、ヴォルフはあまり好きではなかった。学院長は中央の階段を上った踊り場で、生徒たちを見下ろしていた。
それぞれの学年代表がカフスを手にして、上った階段を下りていく。ヴォルフもそのうちの一人だった。
(そういえば、生徒の中にリタと呼ばれた彼女の顔がない)
壇上から見下ろした頭の海の中、ヴォルフは目を凝らしていた。
彼は恐ろしく人の顔を覚えるのが早い男だった。一目見れば、相手がどのような変装をしていたとしても、些細な表情や顔のパーツで見破ってしまう。一つの特技といってもよかったかもしれない。
そのヴォルフが、リタを見つけられなかった。
(この後編入生の紹介があると言っていたか。まさか……)
そのまさか、は当たるもので。
「さて、このままヴォルフガング殿に挨拶を任せたいのだが、一つだけ割り込ませてもらおう」
学院長が通る声で告げたのは、とある女子についてだった。
「編入生がいる。平民だが、非常に優秀だ。特別に貴族の者たちと同じ授業を受けることになっている」
広間の階段を下りてきたのは、見覚えのある金髪を肩で切りそろえた少女。
「リタ嬢……⁉」
「あっ」
向こうもヴォルフに気が付いたようで、手のひらで己の口を覆って驚いているようだった。
「おや、ヴォルフガング殿は彼女と面識があったのかな」
「あ、ええ。顔を合わせたことがありました」
「では、案内役は君に任せよう。皆、良い影響を受けあって、励むといい」
ヴォルフはリタの手を引いて、生徒たちが並んでいる場へ案内した。こちらを探るように見ていた気がしたが、おそらく緊張していたのだろう。あまり目くじら立ててもよくないと、黙っていた。
その後はこれといったこともなく、式典は例年通りに終わった。挨拶をしたとき名乗った宰相という役職は、やはり下級生にも驚かれたが、些末なことだった。
(それよりも、こちらのほうが大事だ)
役職ごとに振り分けられた教室に出向いていた。扉を開けると、部屋全体が見渡せる設計は、良かったのか悪かったのか。
宰相の役職を選んだ者は、政治の授業がメインとなる。代々男性が好ましいとされてきたこれを、女性が選ぶとは思ってもみなかった。
(ああ、前世に生きた日本なら、コンプライアンス違反なんて言われてしまうな)
冷静な自分が横から口を出すのを聞きながら、視線が一点に奪われていくのを感じている。
教室の端、窓際の席に彼女はいた。
「……会えましたね」
目の前で足を止めると、そう声をかけてきた。
「イゾルダ嬢……さてはご存じで?いたずらがお好きですね」
「悪女、ですから」
長い髪を一つに束ねた彼女が、悪女らしく、意地悪気に笑った。
「あっ……イゾルダさん!」
高い声にハッとして周りに意識を戻す。ざわざわとした教室の中、リタがヴォルフの後ろから顔を出した。
リタは平民のため、宰相の役職は与えられない。けれど学院には優秀と認められた場合のみ、授業だけ同じく受けることができるという制度があった。
「リタ、待っていたわ」
「はい! ヴォルフガング様が案内してくれたんです」
彼女の明るくてはじけるような笑顔と声は、お上品な笑い方が身についた貴族たちには新鮮に映ったようだ。みなちらちらとリタの様子を伺っている。
「リタ嬢、教師が来る前にクラスの者に挨拶をしておくといい。俺たちは顔なじみも多いが、君は初めてだろう」
「! そうですね、ありがとうございます」
リタはイゾルダとヴォルフに一礼して、彼女の名札が置かれた席へと歩く。そしてあっというまに貴族たちに囲まれてしまった。無事に席へと着けるだろうか。
「リタ嬢、ここでうまくやれるかと心配していたのですが。問題はないようですね」
宰相職を志す者は誇り高い意識を持つものも多い。平民という理由でトラブルでも起きたらとの考えは杞憂だったようだ。
「リタについては心配いらないかと。貴族が嫌うのはあのような明るい子ではなく、私のような性悪ですから。ねえ?」
棘のある言い方だと思ってイゾルダ嬢を見ると、斜め後ろの生徒に視線を向けていることが分かった。その生徒たちはイゾルダと目が合った途端、気まずそうににリタの元へ向かう。
「先ほどまでわたくしの悪口を言っていたんです」
「なるほど。本当に見る目がない者ばかりで恥ずかしいな」
「ヴォルフガング様が恥ずかしく思うことはありません。悪い風に誇張しているのが不愉快というだけで、彼らが語っていることが間違っているとは思いませんから」
「悪い風に誇張したらそれはもう事実ではないよ」
イゾルダは自己否定が癖になっていた。言葉の端々に、それがにじみ出ている。それが周りの悪印象に拍車をかけているのだろう。
「イゾルダ嬢、一つお願いを聞いてくれないか」
「なんでしょうか」
「リタ嬢を呼ぶように、俺のこともヴォルフと呼んでくれないか」
「……ヴォルフ様」
「ヴォルフ」
すかさず訂正する。
口をつぐんで、開いて。何度もそれを繰り返してから、やっとイゾルダは彼の名を呼んだ。
「……ヴォル、フ」
和やかな空気が、二人の間に流れる。そこへ、人だかりの山を越えてリタが戻ってきた。
「ああ、そうやって私を置いてきぼりで。ヴォルフガング様、私からイゾルダさんをとらないでくださいね」
「リタ嬢」
ヴォルフは思わず微笑んだ。確かにリタ嬢は、憎めない性格のようだと、イゾルダに目で合図をする。
「ああほら、アイコンタクトなんてとって!」
「すまない、君の邪魔をしてしまったな」
「……」
リタはやけにすんなりと謝ったヴォルフを、またも意味深長に見つめた。
(……なにか顔についているのか?)
わざとらしく首をかしげてみせる。
――そこへ聞こえてきたのは、とんでもない言葉だった。
『ヴォルフガングのルートではないみたいね』
(⁉ 今のは……)
確かにリタの呟きだった。隣にいた令嬢が、何か言ったかと話しかける。
「故郷の言葉なんです。つい、癖で出ちゃったみたい。楽しい、って言いました」
その場はそれで納得したようだった。
ちょうど、教師が入ってきたところだった。皆それぞれの席に着く。ヴォルフがリタの隣席だったのは、案内係だからだろう。
初日は授業を始める前のガイダンスで終わる。教師には悪いが、言ってしまえばあまり集中しなくてもいい時間だった。そのせいか先ほどのリタの言葉がぐるぐると頭を回る。
(あれは確かに日本語だった。聞きたがえるはずもない)
握ったペンが、ノートにインクの染みを作っていく。
『それにしても。イゾルダの死亡が確定しているのは……どうにかしたいわね』
二度目なら、聞き間違いのはずなどない。
手元の紙が破れ、ペンはリタの足元へ転がっていく。
「イゾルダが……?」
我慢できなかった呟きは椅子を引いた音にかき消された。
リタはヴォルフのペンを拾って、彼に手渡す。耳元で、ささやきながら。
『あなたも、同じね?』
情報量が多いと、頭が働かなくなる。
ヴォルフとて、それは同じことだった。