[001] 年末年始の忙しない日々 Le cas.公爵家嫡男:アルヴェイン①
レヴェイヨン当日、この日は冬季に珍しく、灰色の厚い雲のない晴れやかな青空が見渡す限りに広がる文句無しの晴天だった。
だからといって何が起こると予感するでもなく、珍しく目にした青空に目を奪われたのはほんの数瞬。
窓の外から自室へと視線を戻し、10日程前から新たに追加された習慣を遂行する為、着替えの用意された姿見の前まで移動する。
淡々と自分独りで、簡単な着替えから取り掛かることにした。
公爵家の嫡男である自分が自らの手で着替える事態に陥ろうとは、予想だにしなかった不測の事態だった。
けれどその不測の事態による不便も今日までの辛抱、専属の侍女に代わる専属の侍従は明日から侍ることになっている。
弟妹と同様に、僕にも勿論専属の侍女がきちんと、10日前までは存在していた。
専属になって…5年近かったはず。
長年の勤務態度も良好、無駄な口を利くこともなく、粛々と己の職務を全うする真面目な侍女だった。
それが突然一変した。
事が起こる数日前から人格が変わったようにおかしくなったのだ。
言動も行動も、やたらと馴れ馴れしくなり、不用意な接触行為が増えていき、日を追うごとにその度合が増していき、許容できる範疇を超えだした。
検討した処分を言い渡そうとした矢先、侍女がとうとう超えてはならない一線を超える暴挙に出た。
何を血迷ったのか、白昼堂々正面から襲ってきたのだ。
暴力に訴えるのではない、性的な暴行を目的にした襲撃だった。
勿論そんな計画性の欠片もない、行き当たりばったりでお粗末な襲撃が成功するはずもない。
護身術もそこそこに軽くいなし、此方を捕まえようと突き出された侍女の腕を捻りあげて床に組み敷く。
騒ぎを聞きつけ駆けつけた男性使用人に任せ、取り押さえられた侍女を改めて窺い見た。
しげしげと観察するように眺め、一際強く印象に残ったのは侍女のあの目だった。
素面であるとも、正気であるとも思えない、瞳孔が開ききった目をしたいた。
呼ばれてやって来たオズワルドが使用人たちを落ち着かせて、的確に指示を与えていく。
取り押さえられて床に伏せったままだった侍女は、抵抗するでもなくあっさりと引っ立てられていった。
角ばった動きでぎこちなく遠ざかっていく侍女の背中を見つめながら、あの侍女がまだ正気だった頃、何かの拍子に口にしていた話を思い出す。
先日24回目の誕生日を迎え、その時に数年前から交際している男性からやっと結婚しようと言ってもらえた、それが今までで1番、他の何より幸せで嬉しい出来事だった。
幸せ満面の笑みを湛え、声を弾ませてここぞとばかりに惚気け話を口にしていた侍女の顔と、狂気を孕んだ顔とでは結びつく箇所が一切存在していなかった。
それが専属侍女が解雇される運びとなった、10日前に起こった事の顛末だ。
その事を無感情に想起しながら、その後に続く問題の場面をも思い起こしてしまった。
数日前に初対面を果たした侍従が口にしたあの言葉を思い出して、ゾワッと肌が粟立った。
『年明けからと言わず、今日からでもお側に侍らせていただきとうございます!』
開口一番の決まりきった挨拶の後、一転して姿勢から前のめりになってもたらされた熱烈な申し出を鮮明に思い出してしまい、先程までは些かの痛痒も感じていなかったはずの頭が俄に痛みだした。
爛々と輝かせた、期待に満ち満ちた眼差し。
今までに向けられたことのない類のそれに、思わず一歩後退ってしまった。
自分の何がそこまで気に入ったというのか、全く身に覚えがないのが尚の事恐怖を煽った。
婚約者も決まっており睦まじ仲だというその侍従、エルネスト・デュヴェセールは、現屋敷家令であるオズワルドの甥っ子だという。
可能な限り何度もその名を反芻して記憶を探る。
しかし何度反芻し、記憶を浚っても結果は同じだった。
エルネストと云う名に聞き覚えもなければ、あの日以外に顔を合わせた記憶もまったくない。
それなのに、いきなりのアレだ。
初対面であそこまで側に侍ることを切望されるなど、どう考えてもおかしい。
わけが分からず、助けを求めるように視線を向けた先にいた屋敷家令は、ただただいつものように穏やかに微笑んで佇むのみだった。
薄々感じてはいたが、この屋敷家令が本心から助けようと率先して動くのは父上に対してだけのようだ。
利益最優先の領地家令もどうかと思うが、当主にのみ忠義を尽くす屋敷家令も、これはこれで厄介極まりないと思う。
――その笑顔で僕が容易く誤魔化されると、本気で思っているのだろうか? この屋敷家令は僕の忍耐力を試しているとでもいうのだろうか?――
非難の意味を込めた薄目で見据えても、予想通り全く堪えていない。
屋敷家令からの援護は諦めて、何とか自分の力だけで此の場を切り抜けることに決める。
相手の真意が掴めず手探りながらも、無難で当たり障りのない理由をでっち上げて、あの場での最良の落とし所に事を収めることに何とか成功した。
結局あの顔合わせの間中ずっと、微妙な空気が流れたままであったし、期待した助力も全く得られないままだった。
――あの時は退けられたあれが、明日には専属の侍従になるのか…。 屋敷で過ごす間中、常に側に侍られる…と。 これは一体何の試練なんだ? 父上は一体何を考えて、エルネストが僕に侍る許可を下したんだろうか……。――
鬱々として気分が沈み、久しく忘れていた鬱屈とした考えが頭に浮かんだ。
――僕にそれ程興味関心が無いから、推挙された人間をそのまま充てがっただけ…。 その可能性が高すぎて、笑えないな。――
以前は考えないようにしてきた事。
本人に面と向かって確認したことはないが、ごく最近まではそれが真実であると思えてならなかった事。
父上は自分に興味がない。
唯1人愛した女性、最愛の妻が産んだ子供だから、とその存在を許されているだけ。
いつ頃からそう考えるようになったのか、物心ついたときには自然と抱いていた考えの為、きっかけ等は記憶にない。
弟が生まれた後もその考えは変わらなかった。
妹が生まれて、その考えが確信を伴ったものに変わった。
ライラを見つめる目は、僕たちに向けるものとは明らかに違っていた。
まず何よりもその瞳に宿る温度が違う。
何かしらの温かな温度が確かに宿った眼差しを向けている。
息子の僕が見てそう感じるのだから、傍目から見ればより顕著に感じられることだろう。
しかし言葉にしきらない慈しみを湛えたその目は、母上に向けるものとは似て非なるものだった。
その僅かな差異は、家族である僕たちか2人の家令くらいにしか気付けない極小の違いだった。
それでも、僕たちには生涯向けられることのないものであることだけは、嫌でも理解できた。
僕たちはどちらかと云えば父上に似ている。
髪色も、瞳の色も、濃淡の差はあれど同系統の茶と緑。
僕たちが望んで似た訳では無いが、生まれ持った性質をどうこうできるはずもなく、今後も自分たちの力ではどうやっても変えられない。
対して、末っ子のライラは母上譲りの銀髪に父上とは違う瑠璃色の瞳。
自分と似た色を持つ息子2人より、少しでも母上に似た色を持った娘のほうが可愛い、父上がそう考えるのは極自然なことだと思えた。
父上はきっと、この世の誰よりも自分自身が1等嫌いだと考える人物なのだと思う。
自分が大嫌いな自分と似てしまった息子を、偏屈な父上が愛せるはずもない。
その結論に至ってから、父上から興味関心を持たれる為に努力し続けようとなんとか保ち続けていた気力は跡形もなく尽きてしまった。
それと同時に、父上から何かしらの愛情を得られるかもしれない、と在らぬ期待を抱くのは止めようとも考えた。
見返りを求めず、父上が望む通りの、理想的な後継者で在り続けることだけに注力していこう。
そして敬意だけは、変わらずに抱き続けよう。
祖父の代で急落した威信と財力を、ものの数年で見事に立て直した当主としての手腕は素直に尊敬している、それは今後も変わらない。
けれど今後は、父親としての側面から見た場合、その高評価が一転して急落してしまう、それだけの事。
これ以上を望むのは無駄でしかない、そう割り切るしか無い。
少しだけでもいいから愛情を示して欲しい、なんて…望まない方が身の為だ。
変わるはずがない、覆るはずがないと諦めた。
期待しては裏切られ、信じては失望して。
同じ結果の繰り返しに、立ち向かい続けられず、早々に疲れきってしまった。
失敗する度に『僕には父上の考えを変えられないからしかたない。』そう言い訳をして、愛されたいと望み涙する弱い自分を守る壁を築いていった。
何度も何度も、失敗する度に繰り返していった。
そうしていくうちに、とうとう啜り泣く声さえ聞こえなくなった。
守るためだったはずのそれは、繰り返される内にすっかり役割を変えていた。
自分の本心を分厚い壁で覆い隠して、見つからないように、誰にも知られないように。
見えなくなったことでこう考えるようになった。
最初からそんな弱さなんて自分の中には無かったのだと。
自分は父上からの愛情など望んでいない、そう思い込むようになった。
母上から惜しみなく注がれる愛情と、弟妹に対する愛情、それさえ感受できれば良い。
そう言い聞かせてやっと、僕の心に平穏が訪れた。
それなのに、やっと手にした仮初めの平穏は何の前触れも無く破られた。
僕の本心を覆い隠すために積み重ね続けた分厚い壁。
そこに大きな亀裂が入り、粉々に罅割れ出したのは、ライラの3歳の誕生日パーティーからだった。
あの日から父上の中で何かが変わった。
その変化をもたらしたのはライラで間違いない。
ライラが変わったのも少なからず関係している、そんな気がしてならない。
それまで僕たちに向けていた無関心で無感情、無機質な温度のない視線が、生涯変わるはずがないと諦めたそれが劇的に変化した。
その理由は本人も理解しきれていない感情が根底にあるようで、どこか解消しきらない戸惑いが感じられる、安定を欠いた温度を伴って向けられるようになった。
僕を見ているように向けられていても、その実誰も見ていなかった父上の目に、初めて僕の存在がはっきりと認識されて映された。
今まではずっと、僕の輪郭の上辺を撫でていただけのものが、今はしっかりと僕に焦点が当てられている。
もたらされる言葉にも、以前には感じられなかった温もりを感じる。
血の通った、父上の心からの言葉のように感じる。
たったそれだけのこと。
当事者である僕たちにしか気付けない、些細な変化。
それがどれだけ嬉しかったことか、この喜びを具に表現できる言葉が見つけられない。
この心がどれだけ熱く震えたかも、言葉にできそうにない。
酷く胸が騒いで落ち着かず気恥ずかしくて面映ゆい、父親からのまっすぐ向けられる視線1つで、こんなに複雑な感情を抱く日が来るなど、想像もしていなかった。
記憶に深く刻まれた冷たい眼差しを向ける父の顔。
それがここ数日間ではっきりと思い出せない程に薄らいでいった。
全体の輪郭は薄れ、かわりに最近目にするようになったばかりで見慣れない、熱の通った表情に日々上描かれていく。
いずれ…そう遠くない内に、あの温度のない表情は思い出すことさえできなくなりそうだ。
どれくらいそうしていたのだろうか。
我に返ったとき、自分はぼんやりとした覚束ない表情で姿見の前で立ち尽くしていた。
そこに映る自分の姿を見て、身支度がもうすっかり整っていたのだと気づく。
自分の考えに没頭するあまり、現状の把握にまで気が回っていなかったようだ。
そして遅れて気付く。
取り留めもない考えに囚われるきっかけとなった鬱屈とした考えは、いつの間にか余韻も残さず消え失せている。
それを証明するように、鏡に映る自分の顔は幾分か晴れやかなものに変わっていた。
この事だけでも昨日の自分と今日の自分は全く違うとわかる。
昨日の自分は全くどうかしていた。
久々に耳にした悪意ある言葉に虚を突かれ、打ち負かされてしまった。
鏡に向かってそっと手を伸ばす。
鏡面に触れて、その冷たさで緩んでしまっていた気を引き締められないかと思い立ってのことだった。
触れた瞬間はヒヤリと感じた鏡面は段々と温められ、結局期待した成果は得られなかった。
コンココン。
専属侍女が解雇された10日前から現在に至るまでの毎朝毎晩ですっかり耳に馴染んだ特徴的な音で、誰が訪れたのか即理解する。
「メリッサだな。 構わない、入ってくれ。」
「失礼いたします。」
短な一言の後、間を置かずに音もなく扉が開かれる。
軽く開いた隙間から、午前と午後で衣装を変えた試しのない、分厚い眼鏡を装着した侍女が姿を表す。
足音をさせずに入室してくる侍女を眺めつつ、何度見ても少し異様だな、と思ってしまう。
メリッサ・フィーユ、32歳と若いながらも、エリファスとライラの乳母を務め、今では弟妹のみならず母上の侍女をも務めている有能な侍女だ。
エリファスが生まれる少し前から公爵家にいるらしいので、勤続8年は経っていることになる。
曖昧な表現になってしまうのは、自分にその頃の記憶がはっきりと残っていないからに他ならない。
流石に3歳前後の記憶は朧気になっている、なので人伝に聞いた情報を信じるしかないのが現状だった。
「本日も変わらず、お早いお目覚めでいらしたのですね。 お支度に間に合わず申し訳ございません、アルヴェイン坊ちゃま。」
着替え終えた状態で立つ僕の姿を見て、謝罪の言葉と共に音もなく頭を下げるメリッサ。
その職務に対する生真面目な姿勢に、誰かにも見習って欲しいと切に願いながら口を開く。
「いや、気にしなくて良い。 母上やライラはともかく、気難しいエリファスの面倒まで見ているんだ、手が回りきらないのは仕方ないさ。 このお通り、簡単な着替えだけなら僕一人でも問題なくできるからな。」
女性が着用するドレスように複雑な作りの服でもない為、何回かやれば苦もなく着替えられるようになった。
寧ろ、今後も自分一人で着替えられるものならばそうしたいと思ってしまう。
明日からの日々が憂鬱でしか無い。
それと云うのも、エルネストに対しては既に、初対面の悪印象で苦手意識を超越した悪感情を抱いてしまっていたからだった。
――朝食の席で父上に侍従の再考を進言してみようか…? 今だったらまだ間に合うかもしれない、駄目で元々、聞くだけ聞いてみるべきか…?――
真剣に考え込んでしまい、目と鼻の先にまで距離を縮めていたメリッサの接近に気が付かなかった。
何が目的で近づいたのか問う前に、侍女の細い腕が此方に伸ばされた。
反射的にその腕を捻り上げてしまいそうになって、慌てて動きを止めたため、身体がビクリとぎこちなく動いてしまった。
普段であれば警戒などする必要がないと理解しているのに、10日前の出来事が案外尾を引いているようで、上手く制御できなかった。
そんな僕の反応を見て、どう受け取ったのか。
中途半端な位置へ伸ばされ、動きを止めていた侍女の
腕が静かに降ろされた。
「…失礼いたしました。 襟元が乱れておりましたので直そうかと。 事前にお伺いするべきでございましたね、重ね重ね、申し訳ございません。」
「いや、僕の方こそ…すまない。 着替えにも馴れたと思ったんだが、存外完璧にこなすのは難しいものだな。 自分のやることには目溢しが働くらしい、…これで、良いだろうか? 他に直す必要のある箇所はないか?」
姿見で自分の襟元の状態を確認し、ほんの少しの歪みを正す。
侍女の手を借りて着替えていたときには、このくらいの歪みにはすぐに気がつけていた。
それなのに、自分でやってみると着替えることに集中してしまって、細かい部分にまで気を配れない事に気が付いた。
本能なのか何なのか、自分のしたことには評価が甘くなってしまうのが人間の性なのかもしれない。
姿見に映る自分を今一度よく見る。
主観ではこれ以上他に直すべき箇所は存在していないように思える。
けれど先の失敗を受けて、自分を過信し過ぎてはいけない、との思いから、客観的立場であるメリッサに最終確認をとる。
「その他にはございません。 大変結構でございます。 …エリファス坊ちゃま相手では、こうも簡単には身支度を終えられません。」
返ってきた答えに安堵したのも束の間。
侍女の口からポロリと零れ出た言葉に、固まる。
不意に耳にした少ない言葉だけで十分、弟の常の所業の全貌を嫌でも把握する…、したくはないが、できてしまった己が少しだけ悲しい。
「それは…、何と言えば良いのか……、………弟がいらぬ苦労をかけてすまない。」
「ご高配を賜り恐悦至極、ですが…これが私に課された職務の一環でございますから。」
僕の手向けた労いの言葉に、返ってきた侍女の声は少し冷ややかで、おさまりの付かない憤懣が彼の女の中で積載していることが嫌でも理解できた。




