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08追憶の夜(6)

 太陽はとうの昔に眠りについた。

 やけに明るい月明かりが、星の存在を消してしまう。互いが美しくあるために、それらは共存することはできないのだ。

 彼女は僕の前を歩く。それはいつもと同じことだが、僕たちの関係の終わりを表しているようだった。もう隣には並ぶことは許されない。

 今ならば、あの映画の男の気持ちがわかる気がする。何を言っても離れてしまうのなら、もう殺してしまうしかない。死体になれば、一生側にいてくれるのだから。

 いやいや、僕はあの男とは違う。彼女に幸せになってもらいたい。そうだろう?

 自分を咎めて、浮き上がってきた邪念を振り払う。浮かんでは消し去り、消し去っては浮かび上がる、それの繰り返しだ。もう僕自身も、自分の思考の振れ幅に疲れてしまっていた。「幸せになりたい」と「幸せになって欲しい」は月と星のように共存できない関係性なのかもしれない。

 僕は何も喋らない。彼女も必要以上に何か言葉をかけてくることはなかった。静寂が満ちて、互いの足音だけがその場を満たしてくれる。

 

 もう随分と歩いた。見慣れた道だ、

 本日二度目の公園だった。木々に囲まれた公園は、昼間とは全く異なる雰囲気だ。月明かりさえも通さないような暗く深い森の中。それはいつか見たホラー映画の舞台を彷彿とさせた。ところどころに点在するライトが、公園内の遊具を奇妙に照らし出す。その様子は不穏の一言に尽きた。特に公園の中心エリアに設置された噴水は、幽霊が現れてもおかしくない空気が漂っている。最もライトが多く明るい場所だというのに、水場というだけで気味が悪く感じてしまう。昼間の明るいイメージがあるからこそ、夜の公園の不気味さが際立ってしまうのかもしれない。

 恐怖とは不思議なもので、さっきまでは何とも感じていなかった尿意が急激に存在感を示し始める。映画館で飲んだエルサイズのアイスコーヒーとポップコーン、海でお腹を冷やしたことが要因になってしまったのかもしれない。とにかく、僕はトイレに行きたくて仕方がなかった。

「星那、ごめん。ちょっとトイレ行ってきてもいい?」

 トイレは広い園内に一つしか設置されていないため、彼女を一人で放置することになってしまう。気が引けるが、尿意を我慢することは不可能だった。

「ううん。ついて行く。ここは暗くて、怖いから」

 意外にも彼女は「ついて行く」と言った。珍しいけど、確かにここに一人は怖いかもしれないな。昼間に防災ラジオで放送していた不審者情報を思い返す。露出狂に強盗、それから連続殺人……

 うん。

 確かに一人は怖くて、心細い。少し遠くて申し訳ない気持ちになったが、彼女とトイレに向かうことにした。

 夜の公園は怖い。茂みから誰か覗いているような気がしたり、トイレの隙間から人が見ているんじゃないかと感じたりする。子どもの頃よりもずっと具体的で、現実味のある恐怖だ。きっとホラー映画とかそういう悲痛なニュースを知っているからこそ感じる恐怖なのだろう。漠然とした恐怖よりもリアルに想像ができる分、ずっとたちが悪い。

 彼女を共用トイレの前に待たせて、用を足す。ドアの下の隙間から見える足が、彼女のものであるとは分かっている。それでもなお、まだ怖いと感じてしまう。

 ここはひどく暗く、とても寒い。それは不安を増長させるには申し分ない要素だった。はやく公園から去ってしまおう、と急いで手を洗った。

「ごめん、ありがとう。なんだか公園って不気味だよね。移動しようか」

「うん」

 彼女は引き返す。今さっき通った道をゆっくりと戻っていく。僕よりもずっと小さな後ろ姿。華奢で長い手足は、白くやわらかだ。優しい栗色の髪と花柄のワンピースの裾が、歩調に合わせて揺れ動く。ひどく切なく、懐かしい。もう戻っては来てくれない彼女が遠い。手を伸ばせば届く位置にいるはずなのに、この数歩分の距離が遠く長く感じる。

 あぁ、もう公園を抜けてしまう。

 遠くにさっき見た噴水が見えた。ライトに照らされて白く光っている。これを通り過ぎて、もう少し歩けば大通り。そうすれば、今日は終わる。本当の「さようなら」がやって来てしまうのだ。

「ねぇ。千秋。もう時間がないよ。『君の罪』は何だっけ」

 時間がないのは僕だけだ。ただ、今日のミッションを遂行するために頭を働かせる。絡まった糸を手繰り寄せる。

 僕が忘れている罪…… それはいったい何なのだろう。考えれば考えるほど、小さな罪が湧き出てくる。彼女が買った少し高いシャンプーを勝手に使ったこと。楽しみにしていた期間限定のアイスをこっそり食べたこと。特売の卵を買い忘れて、コンビニで購入したこと。小さな罪は、両手では数えきれないほど犯してきた。気が付いていないだけで、もっとたくさんあるのだろう。でも、これらじゃないという確信がある。こんな些細なことがいくら積み重なったって、彼女は僕を捨てたりはしない。

 黙る僕を見かねた彼女は、

「じゃあ、質問を変えてあげよう。私が出て行く直前、千秋と私はどんなやりとりをしたんだっけ」と低学年を教える教師のように尋ねた。

 僕は懸命に考える。少しでも思い出すことが出来るように。記憶を手繰り寄せる。こんがらがった糸の塊を解くような作業だ。――出て行く直前。僕たちはどんな会話を交わしたのだろう。最後の二人で過ごした記憶は、いったいどこだ。

「……そうだ。一緒にハンバーガーチェーンでホットケーキを食べに行った。すごく店内が込んでいて、なかなか席を見つけられなくて。僕は注文すらおぼつかなかった」

 彼女は首を縦に二回振り、「そうだね」と正解を示した。

 糸が一つ緩んで解ける。

「それで? そのあとはどうしたの?」

 僕はまた記憶の深い所を探していく。ひどく絡まっている糸は、思うように解けてはくれない。なんてもどかしいのだろう。慎重に、ゆっくりと。一度順番を誤れば、きっと二度と解けてはくれない。

「一緒にパン屋さんに行った。二人の原点になったあのパン屋。移転するから行こうってなって……」

「うんうん。そうだね。一緒に焼きカレーパン食べたね」

 そうだ。焼きカレーパンを食べたんだ。それで、そのパン屋の移転を悲しんで、「移転しても絶対行こうね」って約束をした。


……あれ?


 そういえば、パン屋の移転はいつだっけ。今日はまだ開店していたぞ……

「いいことを教えてあげよう。そのパン屋は、もうとっくの昔に移転しちゃってるよ」

 彼女は僕が持つパン屋の紙袋を指差して、確かにそう言った。パン屋は既に移転をした、と。そんなはずはない。僕たちは今日、確かにパン屋で買い物をしたんだ。

 糸はまた、複雑に絡み合う。もういっそのこと鋏で切って終わりにしてしまいたい衝動に駆られた。

「まぁいいや。それで、次はいったい何をしたんだっけ?」

「映画。僕たちはあの日、映画を見たんだ」

「そうだね。映画にいった。じゃあその内容を思い出してみて」

 彼女は次々に質問を繰り返す。糸を解く順番を間違えないように、まるで先導していくように。

思い返す。ここ半年で見た映画なんだ。内容くらいは思い出せる。それに、最後に一緒に見た映画なんだ。忘れたくても、忘れられるはずがない。

……あれ?

 どれだけ思い返しても、思い出すのはついさっき見たあの映画のストーリーだけだった。

「あ、あれ……」

「いいよ。そのまま、思い出したことを口にしてごらんよ」

 彼女はゆっくりと前に歩みを進めた。僕は一定の間隔を守って、後ろをついて歩く。

「男が――星那の今お気に入りの俳優が、恋人を殺すんだ」

「うん。そうだね。それで、その恋人はどうやって殺されちゃったの?」

「めった刺しにされるんだ。恋人に振られた腹いせに」

……あれ、

 何か間違っている気がする。違う、そんな殺害方法じゃない。僕はまた頭を抱えた。絡まった糸を必死に解こうとする。一度でも順番を間違えれば、二度とほどけることはない。慎重に、丁寧に。

「そうだ。毒殺だ。手料理に毒を盛られるんだ。あれ? じゃあ、めった刺しは何の記憶だっけ?」

 あともう少し。あともう数回の行程で糸が解ける。苦労した作業に終わりが近寄っている気がした。


――罪を思い出したら、僕たちの関係は本当に終わりを迎えるだろう。

 

 思い出したいと願う一方で、このまま思い出したくないと願う自分もいる。もうこれ以上は解かなくていいと、脳が思考を拒む。割れてしまうのではないかと思うほどに頭が痛い。

 痛い、痛い……

 過去の記憶は断片的に、写真のような形で次々と浮かび上がってくる。思い出したくないと願う気持ちが強くなるほど、はっきりとした画像として浮かんできてしまう。

 僕の両手は赤黒い液体で染まっている。それが血であると判別できたのは、足元に転がる刃物のせいだ。気が狂いそうな絶望の淵に、僕は膝をついている。僕が見つめる視線の先にいるのは――横たわる少女は七海星那だ。

 手を染める赤黒い血液。凶器である刃物。気が狂った僕。それから、彼女の死体。

 これが表す『僕の罪』は、たった一つだろう。

「僕の罪は……星那を殺した、こと?」

 言葉にして、僕はまた混乱の渦に陥る。

 もし、僕の罪が彼女を殺したことならば目の前に存在する少女の正体が分からない。今日一日過ごしたこの少女は七海星那で間違いないはずだ。

 糸はまた絡まり合う。複雑で、乱雑に。もう二度と解けることはない。

「千秋」

 彼女は僕の目を見て、ゆっくりと左右に首を振った。強い否定。そして、少し離れたところにある噴水を指さした。

「なに。どうしたの」

「千秋。思い出して、受け入れて。そして……」



 突風。

 公園に植えられた木々が大きく揺さぶられ、叫び声のようなざわめきを起こす。悲しみを帯びた叫び声。脳の一番奥底を揺さぶるようなその声は、僕にひどい眩暈を誘発させる。視界が上下左右に落ち着きなく乱れる。

 ひどい吐き気だ。

 僕は思わず蹲る。瞳を固くつむって、懸命に吐き出したい衝動を堪える。しばらく小さく丸まっていると、吐き気と眩暈は改善の兆しをみせはじめた。

 すぐ前に立ったままでいる彼女は僕に手を差し出し、立ち上がる補助をしてくれる。手を取り、立ち上がろうとする。視界が交差する。彼女は、ふとその視線を逸らした。その視線があまりにも意味あり気に揺らめいていたので、僕はその視線を辿る。

……誰かがいる。

 公園に設置された噴水。その前にあるベンチに少年少女が腰を掛ける。恋人かそれに近しい関係だな、と、つい憶測してしまう。僕がそう判断したのは、遅い時間帯の公園というシチュエーションとその距離感からだ。それ以上の根拠はなかったはずだ。背格好から判断して、年齢はおそらく僕たちと同年代。少年は町でよく見かけるシンプルな装いで、少女も花柄のワンピースと珍しい格好ではない。ここからでは距離のせいもあって、ブランドを判別することは出来ないが、僕たちが来ている服と非常に近い気がする。巷にあふれる若者のファッションなのだろう。不思議と、見知らぬ彼らに親近感を覚えていた。

 隣にいる彼女は、その少年少女をじっと見つめる。真剣で険しい目つきだ。いつもの彼女らしくない――仲睦まじい見知らぬ少年少女に向ける視線ではなかった。

「ねぇ、星那?」

 彼女は返事をしない代わりに、少年少女を指さした。「見ていろ」と言っているようにも感じる。彼女は今から何が起こるのかを知っているようにひどく冷めた視線を送り続ける。

 僕はまた、視線を彼らに戻した。

 少年少女は大きな動きこそ見せないものの、会話をしていることは何となくわかった。少女のジェスチャーは大げさすぎるようにも見えるが、少年の方は楽しそうに笑っているようだ。肩が大きく上下して、時折、笑い声が聞こえる。

 きっと円満な二人なんだろうな。なんだか微笑ましくて、優しい気持ちになった。僕たちも、あんな頃があったなぁ。なんだか寂しくて、優しくて、哀しい。

 ちかっ

 公園のライトに照らされて、何かが反射した。目を凝らして見ると、少女の指先には指輪のようなものがはまっている。シルバーのアクセサリーが反射したようだ。

 そうこうしている間に、少年の方の動きが怪しくなっていく。しばらく不自然な動きを繰り返したのち、少女に何かを伝えて、一目散に駆け出して行った。あっちはトイレがある方向だ。つい先ほどトイレに駆け込んだばかりなので、少年の気持ちはよくわかる。そして、少女に付き添われるのも嫌なんだろうな。よくわかる。心の中で、見知らぬ少年にこっそりと同調してしまった。

 一方で、少女の方は噴水の段差に腰を掛けた。暗い中で、一人ぼっちなんてかわいそうに。心細いだろう。そんな僕の勝手な心配は無用のようで、少女は機嫌よく足をぶらつかせている。公園のライトがスポットライトのように少女を照らし出して、まるで舞台のワンシーンのようだ。きっと今日はいいことがあったんだな、なんて想像する僕は野暮だろうか。

 しばらくそれを見守っていると、少年が駆けて行った方向に人影がうごめいた。トイレまではもと時間がかかるはずなのに。……さては、そこらへんの草むらで用を足したな。

 しかし、人影は先ほどの少年よりもいくらか大きい。はじめは距離があるため、正確な遠近感が掴めていないのだと納得していたが、そういうことではなさそうだ。先ほどの少年は、やや細身だった。それに対して、人影は小太りで中年のような体型だ。服装のせいもあってか、みすぼらしく見える。……散歩をする近隣の中年男性だろうか。こんな時間に、一人で? ありえないことでも、可笑しなことでもないが、違和感のある足取りだ。

……嫌な感じがする。

 でも、それは確信めいたものではなかった。ただ歩いているだけ、そう自分を納得させようとしていたのかもしれない。

 人影は少女に近づいて行く。その距離が随分と縮まった時に、僕はその人影がただの散歩をしている中年でないことに確信を持った。そして、その違和感に気が付いたのは噴水に腰を掛ける少女も同じだった。

 少女は地震のポケットの中をまさぐり、何かを取り出した。スマートフォンだ。液晶を必死に操作して、誰かに連絡をとろうとしている。その間にも、不審な影は少女に近寄る。少女は腰が抜けてしまったのか、立ち上がることさえままならない。距離がゼロになる。少女が何かを叫ぶ。小太りな人影は、何かを大きく振りかぶった。

 

 危ない!


 僕の叫びは音にはなることはなかった。口を金魚のように開閉させただけの無意味な動き。それならばせめて、助けに行ってあげないと。その一心で、噴水の方へと駆けだそうとした。無鉄砲で自分の危険など考えてもいなかった。僕が少女を助けなければ。それは強くて、痛いほどの情念だった。

駆けだしたい衝動を――僕の腕を固く引き留めたのは、苦しそうに顔を歪めた彼女だった。ゆっくりと首を左右に振って、噴水の方を指さす。腕の力は今までにないほど強くて、振り払うことを諦めた。

人影は何かを引き抜き、それを足元に捨てた。そしてそのまま、奥の茂みにまぎれて姿を消してしまった。少女は横たわり、肩で息をしていた。しかし、その動きも徐々に小さくなってしまい、完全に動きが停止した。遠目からでもわかる赤黒い液体。それがその少女の地であることを理解するのには、時間を要した。いや、最初から分かっていたのに、信じたくなかった。

 呆然とその様子を眺めていると、再び人影が近寄る。細身で既視感のある――先ほどの少年だ。手に握られていた四角い機械を投げ捨てて、半狂乱になって少女に駆け寄る。徐々に地面を侵食していた赤黒い液体が手に付着することなど気にも留めず、彼女を揺さぶった。少女が目を覚ます気配は無い。

 少女の命を奪った凶器――おそらく刃物らしき物体が、ライトに照らされてやけに赤黒く光ってみせた。

 その嫌な眩しさで、僕はようやく正気を取り戻す。そうだ。僕は救急車を呼ばなければならない。もっと早くそうするべきだったのだ。人間は不測の事態に陥ると正常な判断すらできなくなるものだ。身をもって実感させられる。くそっ、判断力が低下していた。もっとはやく、どうして……

 ポケットからスマートフォンを取り出す。自分への怒りか先ほどの光景に対する恐怖かわからないが、震える指で1・1・9をタップする。そして、ダイヤルボタンに指を伸ばそうとした……

「星那、星那って。ねぇ、ねぇってば。目を開けてよ」

 僕がダイヤルボタンを押す少し前。少年の悲痛な叫び声が公園に響いた。

「ねぇ、星那」

 僕はその時、初めて少年の顔を見た。ひどく絶望して半狂乱になる少年。それを見た僕も、ひどく絶望していたに違いない。

 

 その少年は――まぎれもなく、僕自身の顔をしていた。


「え、あれ。え、なんで、? 僕がそこに」

 僕は手に持っていたスマートフォンを地面に落とした。救急車はダイヤルされていないままだ。もはや、そんなことはどうでもいいことだった。向こうで半狂乱になっている少年は、まぎれもなく僕自身だ。

 じゃあ、ここにいる僕は?

 ついさっき動かなくなってしまった少女は……?

 泣き叫ぶ少年の声が聞こえる。僕は信じたくなどなかった。それでも、そこにいる僕が「星那」と名前を呼びながら泣き叫んでいるのだ。

 僕はこんな声をしていたんだな、なんて妙に冷静になってしまった頭で感心していた。

 するり、と絡まっていた糸が解けたように感じた。もういっそ、解けなければよかったのに。そんな気持ちをひどい吐き気と頭痛が代弁してくれていた。

 この世の終わりなんかよりも、ずっと深い絶望。目の前の惨事から逃げ出したい。その一心で、思わず瞳を閉じた。

 その硬く閉ざした瞳を優しく溶かすように、華奢な手のひらが撫でた。僕はひどく怯えながら瞳を開く。

「もう、そろそろ全部思い出せたんじゃないかい?」

 彼女は笑う。優しくて、穏やかで、僕の大好きな笑顔で。それなのに声は震えて、涙がにじんでいる。

「『追憶の旅』もそろそろ終焉を迎えるよ。千秋、ほら」

 現実は決してやさしくない。ハッピーエンドなんてくれやしない。僕が考えうる最大級のバッドエンド。そんな現実に目を向けるくらいなら、全てを放棄してしまいたい。

 でも、これは――罪に向き合うことが僕に課せられたミッションだから。

 深く息を吐く。もう糸はほどけきっている。頭を占拠していた靄も消え去った。あとは、僕が事実と向き合うだけ。


 僕たちはあの日、三年記念日のデートをした。今回みたいなやり直しではなく、ちゃんとしたお祝いとして。やたらと混雑するバーガーチェーンでホットケーキを食べて、原点のパン屋を訪問し、その移転を惜しんだ。移転先にも行こうねと約束を交わした。そこで食べたのは焼きカレーパンだ。冷えても美味しいチーズが練りこまれた焼きカレーパン。そして恋人を殺す映画を見て、理解できない彼女の感想に苦笑いをした。そして、二人で浜辺を走るんだ。陳腐な恋愛映画のワンシーンみたいな馬鹿な恋人ごっこをした。そして、その浜辺で僕はプロポーズをした。時給九六〇円のバイト代をコツコツと貯めた。あまり高価では無いけれど、学生には精一杯の背伸びをした指輪。ありきたりだけれど、浜辺に膝なんかついてプロポーズをしたんだ。彼女は泣いて喜んだ。「瀬名星那」になったら語感が悪いと文句を言いながら、嬉し涙を流した。幸せだった。幸福の頂点だった。

 その帰り道。僕たちは通り魔に遭った。正しくは、彼女が遭遇して襲われた。

「トイレに行きたい」僕はそう言って、彼女を噴水の前に置き去りにしてしまった。きっと長時間映画館に座っていたこと、甘すぎるポップコーンで喉が渇いたこと。一日を通してカフェインだって割と摂取していた。それらが誘発しあって、強い尿意を催してしまったのだ。だから、彼女を置き去りに慌ててトイレに駆け込んだ。

 強風に乗って、誰かの悲痛な叫び声を聞いた気がした。でも、それがまさか自分の彼女の声だとは思っても見なかった。急いで用を足し、彼女が待つ噴水まで戻ろうとした。その時だった。ポケットの中でスマートフォンが着信を知らせる。嫌な予感がした。ワンコールで通話を開始させる。「来ちゃダメ」と狂ったように叫ぶ彼女の声を拾った通話は、そのままあっけなく途切れてしまった。

 僕は全速力で駆け抜けた。これまでの人生で一番速く走った。でも。そこにいたのは、血まみれになった彼女だったなにかだった。

 僕は救急車を呼ぶことなんかすっかり忘れて、彼女に駆け寄った。華奢な体から引き抜かれた包丁が足元に転がっている。彼女を揺さぶる僕の手は、すっかり赤黒く染まってしまっていた。

 これが、あの悲劇の三年記念日――僕が記憶から消し去った日の全貌だ。


 ひどく喉が渇き、脱力感で立っていることすらままならない。何かの間違いだと信じたくて、糸のほつれを探そうとする。見つからない。一本の糸はまっすぐに綺麗な線を描いている。

 これは夢か、妄想か。死んだはずの彼女が目の前にいる現状に説明がつかない。僕の記憶の中で、確かに彼女は死んだ。ずっと忘れてしまっていたのに、今となっては確かにその惨事の記憶がある。

あの日死んだはずの彼女は、少し首を傾げる。表情を上手く読み取ることが出来ない。笑っているようにも、泣いているように、怒っているようにも見える。なぜだか、それがどういう表情であるのか認識することが出来ないのだ。

「ねぇ。千秋。ちゃんと『君の罪』を思い出すことは出来たかい?」

 未だ低いままの声が、僕に向けて発せられる。いつも彼女はどんな声をしてたっけ。

「ちゃんと千秋の中に答えがあったでしょ」

 一歩彼女は僕に近づく。小さな手が僕の髪を撫でるように梳いた。彼女が好むいちごのシングルノートの香水。手首につけられているはずのその香りは、どれだけ嗅覚を研ぎ澄ませても香ることはない。 

 あれは、どんな匂いを香らせていたのだろう。

「ほら、千秋。課題提出の時間だよ。ミッションコンプリートを目指して」

 彼女は僕に罪の懺悔を催促する。ここまで来て情けない話だが、僕はまだ答えを出せていない。抜け落とした記憶は見つかった。もう忘れていることはないはずだ。

 それでもなお、まだ僕は『僕の罪』が見つけられない。

 あぁ。泣いてうずくまって、全てをもう一度忘れてしまいたい。こんな結末なら、最初から彼女に見切りを付けられたと思い込んでいたかった。一人で過ごしたあの日々よりも深い絶望があるなんて、思ってもみなかった。

「わからないんだ。僕が犯した罪のこと。だから、僕はミッションを遂行できない」

 正直に降参を示した。ミッションを完遂しなければ、僕はもうこの夢から醒めないのではないかと期待している。

 彼女が生きている夢ならば、もういっそ醒めなくてよかった。現実の僕がどうなろうと、知ったことではない。どこかで勝手に死んでくれ。

「千秋はさ、私との記念日を楽しみにしててくれたんだよね」

「うん。そりゃもちろん」

「結婚したいと思ってたんでしょ」

「そりゃあ」

「じゃあさ、あの日は結婚記念日になったわけじゃん」

 彼女は当たり前のことを、まるでとても重要な質問であるかのように問いかける。それに、結婚記念日は婚姻届けを出す日じゃないの。と思ったが口にはしない。代わりに黙って頷いた。

「そんな大切な日を、千秋はどうして忘れようとするの?」

「え……?」

「私はさ、すっごく嬉しかったよ。これからも一緒に生きていける。千秋にその覚悟があるって知れて。あの優柔不断で臆病な千秋が、自分でプロポーズしてきたんだよ? 大人になったなぁって、もはや母親の心境」

 彼女は頭を撫でる手を止めて、小さな体を僕に摺り寄せた。

「もう一緒にはいられないけど、さ。忘れる順番くらいは守ってくれない?」

 腕の中に納まって、僕を見上げる。甘いたれ目は僕を映して揺れていた。。

「もう一回聞いてあげるよ。千秋、君の犯した罪はなんだっけ?」

 死んだ彼女は、それだけのために僕の夢に現れたのだろうか。僕にこの日を思い出させるそのためだけに。もし、そうならば、僕はちゃんと向き合わなければならない。大好きな彼女のために、僕は自分の罪を受け入れなければならない。

「僕の犯した罪は…… 星那との思い出を忘れたこと?」

「うーん。まぁ。及第点。合格だよ、千秋。これでまた一つ大人になったね」

 彼女は笑った。それは僕が持ちうる言葉では言い表すことができないくらい綺麗で、繊細で。鈴が鳴るように透き通った声は、優しくて穏やかだ。

 僕をぎゅっと抱きしめて、胸に頭をこすりつける。

 栗色の髪の毛がくすぐったくて、気持ちが良い。いちごのシングルノートの香水が、優しく懐かしい思い出を香らせた。

 あぁ。これは僕の記憶。僕の追憶の果てが生み出した幻想。

 目が覚めたその時に、このどうしようもない現実に向き合わないといけない。

「思い出して、受け入れて、そして……」



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