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07追憶の夜(5)

 僕たちは海に向かった。

 映画館から徒歩で行ける距離の浜辺だ。観光用に整備されたビーチではないので、整備はされておらず綺麗とは言い難い。それに加えて、今は冬。季節外れもいいところで、人の気配は皆無に等しかった。

 ついさっきのやりとりで、普通だったら気まずくなると思う。しかし、彼女に普通は通用しない。重たい雰囲気を醸し出しておきながら、次の瞬間には「海行こ。海、砂浜だよ」とさらりと言ってのける。一瞬だけ、僕だけが時間の中に取り残されたのではないかと困惑した。しかし、時間の流れはきちんと連続していた。それを証明してくれたのは午後四時を告げる街の防災放送だった。防災放送にしては暢気すぎる声音で「午後四時をお伝えします」と始まり、数件の不審者情報を告げた。最近は物騒で困る。僕が知っているだけでも、露出狂に強盗、連続殺人事件も発生していた。

こんなにも雰囲気をガラリと変えることができるのは、彼女の性格ゆえだと思う。数歩、歩いたら嫌なことは忘れてしまう。まるで鶏だ。そういうと聞こえが悪いが、彼女は雰囲気を変えるのがすごく上手い。まるで空気を断絶するように、時間の流れが途切れてしまったかのように。彼女はスパンと雰囲気を切ってしまう。もちろん、これは最大級の誉め言葉だ。

 

 前に一度だけ大きな喧嘩をしたことがあった。就職活動もピークを迎え始めた四回生の五月のことだ。彼女は民間企業を志望していたので、四月の時点ですでに複数社からの内々定を得ることができていた。しかし、僕は公務員試験に向けての勉強に頭を抱えていた。

 そんな不安定な時期だった。

「星那。うるさい、ちょっとくらい静かにできない? うるさいんだけど」

 言い訳になってしまうけど。たぶん、僕はひどく焦っていたのだ。

 彼女をはじめとした周囲の人間の多くが、どこかしらの内々定を保持していた。大手志望のやつとか、公務員志望のやつはまだ活動を続けていたけど。それでも予備として中小の民間企業の選考を受けて、持ち駒を確保していた。それに対して、僕は公務員一本。失敗すれば、そこで就職浪人が決まるようなものだった。民間企業も受験しておけばよかった。公務員試験の勉強はこれで足りるのか。眠りたくても眠れないような日々が続いた。

 焦りとか嫉妬とか。そういうもやもやとした感情が募って、僕の神経はすり減ってしまっていたのかもしれない。

 もちろん、彼女が僕を気遣ってくれていることは重々に承知していた。感謝の気持ちはあったし、彼女のことを嫌いになったとかそういうこともなかった。

 でも、彼女の気遣いがあまりにも目に見えてしまって、それが無性に腹立たしかった。彼女はもう就職活動を終えたのだ。だから、そんなお気楽な態度でいられるんだ。僕がそんな理不尽なことを大きな声で言った時、彼女はひどく困惑していた。そりゃそうだ。彼女は何も悪くない。それなのに、いつもは穏やかな人間に大声をあげられたのだから。もしかすると困惑よりも、恐怖の方が近しい感情だったのかもしれない。

 僕はすぐに正気に戻った。とんでもないことをしてしまった、と。

「ごめん。本当にごめん。こんなこと言うつもりじゃなくて、その……」

「仕方がないよ。こっちこそごめんね。糖分補給に何か甘いもの買ってくるね」

 何も悪くない彼女は僕に向かって深く頭を下げた。喧嘩に発展することもなかった。電気とかごみの分別とか、そういうところでは絶対に引かないのに、精神的な喧嘩となると彼女はやたらあっさり引く。

 部屋から出て行って、小一時間。玄関のドアが開いた。謝らなければ、と小走りで出迎えるが、彼女は何事もなくけろりとしていた。

「ケーキ買ってきちゃった。チョコとショートと、あとモンブラン。三つも買っちゃったから、一つは半分こしようよ!」

「あ、ありがとう。さっきはごめん……」

「え、何のこと? あー、さっきのことか。いいよいいよ。全然気にしてない。ケーキ買った嬉しさで、忘れちゃうくらいの出来事だもん」

 その時、僕はちょっと呆れながら笑ったけど本当はすごく感謝していた。彼女以外だったらきっと、もっと辛くなっていただろう。幸せそうにショートケーキを頬張る彼女を見ながら、幸せにしてあげたいと決意した。半分こと言ったモンブランは、四分の三は彼女の胃袋に収まったけど。

一言で表してしまえば、ムービーメーカー。それも、他とは比べ物にならない超優秀な。いつもながらのことだけど、僕はそれに救われていた。彼女がこんな性格をしていなければ、僕は今頃『罪』以外のことを考えることができなくなっているだろう。

 ころころと変化していく彼女の横顔を眺めていると、僕まで細かいことをどうでもよいと思ってしまうのだから、不思議なものだ。



 目の前に広がる海は、こんなにも冷たい風が吹いているというのに穏やかな波を立てている。海と砂浜の境界線――波打ち際に立つ彼女の足を濡らしていく。見ているだけで、鳥肌が立った。

「星那。風邪ひくよ。今、何月だと思ってるの?」

「風邪なんて引かないよ。私はあんまり賢くないからね。それにまだ十月だから大丈夫」

 確かに彼女は賢くはないが、さすがに馬鹿も風邪をひくだろう。それに、

「もう二月だよ」

 本来の僕の予定は確かに十月のものではあったが、あれからもう四ヶ月も経過しているのだ。十月はとうの昔に過ぎ去った。

「あれ、そうだっけ。いやだな。時の流れは残酷だ」

 押し寄せる波をつま先で蹴る。波は炭酸飲料みたいな小さな泡を生み出した。小さな泡はまた海に飲み込まれて消えていく。小さな彼女の抵抗など、海の広大さを前にしたら無意味なのだ。それは時間とよく似ている。どれだけ過去に戻りたいと願っても、後ろには進んでくれない。どれだけ逆らおうと試みても、同じ速度で前へと進んでいく。

 僕たちは、どうあがいても大人になってしまう運命なのだ。

「ずっとこのまま二人で大人になろうね」

 僕の公務員試験に採用の通知が届いた時、僕たちは二人でそう喜んだ。学生から社会人になる変化を変わらない二人の環境を。これからも変わらない関係性を。それらに心の底から歓喜した。

でも、それはもう戻らない過去の出来事だ。

 僕は追憶して自らの罪を探している。それは彼女と出会ったことで始まったことではない。もうずっと長い間、彼女が僕に見切りをつけた理由を探して『追憶の旅』を繰り返している。

だから――時間の流れに抵抗しようとなんてしたから、可笑しくなってしまったのかもしれない。

「千秋―!」

 ついさっきまで目の前の波打ち際で遊んでいた彼女は、少し離れたところに移動していた。

「せっかく海なんだしさー、定番なことしようよー」

 海がさざめく音にかき消されないよう、彼女は大きな声で叫んだ。

「ほらー、あれー。『つかまえてごらんなさーい』ってやつ―。なんかの映画で見たよー」

 それは仲睦まじいカップルがすることで、別れた恋人に頼むものじゃないよ。言葉を飲み込んだ。なぜだろう。追いかけることで、何か忘れていることを思い出せる気がしたのだ。


 複雑に絡まっていた糸の先端をようやく見つけたような――糸の先端に手が届きそうな気がした。


 僕は手に持っていた荷物を波に濡れない場所へおろす。同時に靴下と靴も脱いで置いた。パン屋の紙袋には、映画館で食べきることの出来なかったポップコーンがビニールに包まれて放り込まれている。ソルトばかりが残っていた。その上に、僕の手荷物を乗せる。ふと、ハンカチを取り出そうと思った。彼女の足が砂まみれだからだ。靴を片手に立っているが、その靴を履くには波で足を洗う必要がある。その濡れた足をふくものが必要だろう。

 丁寧に整理されたカバンの中からハンカチを取り出す。僕はチャックを閉める前に、もう一つの小さな宝物をポケットへしまった。

「はやくー。足が寒くて風邪ひいちゃうよー」

 ついさっき、馬鹿は風邪をひかないって言ったのは君じゃないか。そう思いながら、彼女の方へ駆けて行く。僕が一歩を踏み出したのを確認して、彼女も前へと駆けだした。

 それも、全速力で。

 こういうことをするとき、普通のカップルは適度な速度で走るのだろう。彼女に普通とか常識を求めても無意味であることはわかっているので、いまさら僕は何も言わない。僕は普通じゃない速度で走る彼女に追いつくよう、全力で走った。

 砂浜はコンクリートと違って走りにくい。足を取られて気を緩めると転んでしまいそうだ。小さな貝殻が足に刺さって地味な痛みを誘発する。それを避けようとつま先に体重をかけると指の隙間に砂が入り込むので、これまた気持ちが悪い。押し寄せる波が足を濡らす。水温はあまり冷たくはなかった。そう言えば、今日は二月にしては温暖な気候だったな。それこそ――あの時の十月みたいだ。

 前を駆ける彼女にはなかなか追いつけない。さっき置いた荷物が遠ざかっていく。息が切れる。呼吸が苦しい。

 

 あと、もう少し。

 

 手を懸命に伸ばして、彼女の細い手首を握りしめた。掴んだ手首を引いて、自分の体にぎゅっと寄せる。彼女は抵抗しなかった。二人とも、息が切れてそれどころじゃなかったのかもしれない。

 肩で息をして呼吸を整える。ろくに運動もしていない大学生がいきなり全速力で走ろうとするのが、そもそもの間違いなのだ。

「捕まっちゃった」

 残念そうで、どこか嬉しそうに呟いた彼女は僕の胸に頭を擦り付けた。短くて柔らかい髪が首筋をくすぐる。彼女が愛用するシングルノートのいちごが……

 

 いちごの香りはしなかった。


「星那、香水変えたりした?」

「ううん。ずっといちごのやつのまんまだよ。シングルノートのやつ。私の匂いも忘れちゃったのかい?」

 彼女は頭を擦り付けるのを辞めて、僕を見上げた。

 無理やりに作られた笑顔で「ひどいやつだなぁ」と呟く。貼り付けられた笑顔は、酷く寂しそうで、ひどく嬉しそうで、その真意を読み取ることはできない。そのせいで、僕は次にかけるべき言葉を見つけることができなかった。

 香水の匂いなんてもの、時間が経過すれば変化し薄れていくものだ。それに、ここは浜辺。海の匂いが――潮の香りが強く感じられる。香水の匂いに気が付かないことなんて、別に可笑しなことじゃないはずだ。

 それなのに。彼女からいちごの香りがしないことが異常で、とても悲しいことに思えてしまう。シングルノートの香水は、いつだって同じ香りをもたらしてくれた。一度だけ「千秋も同じのつけてみる?」と言って香水を振りかけてもらったけど、彼女と同じ香りにはならなかった。これもあとで知ったことなんだけど、香水はつけた人の体温や体臭と混ざり合って、初めてその真価を発揮するらしい。その時、僕が好きなのはシングルノートの香水じゃなくて、七海星那そのものであるということに気が付いた。だから、どれだけ彼女が恋しくても彼女が置いて行った香水に頼ることはしなかった。僕にかけたって、宙に撒いたって、それは僕の求めた香りじゃない。

 あれ……忘れ物を取りに来た彼女は、いったい何を持って帰ったんだっけ。

「星那、やっぱり新しい香水に買えたよね」

「だーかーら、変えてないって」

「でも、香水の瓶はアパートに置いたまんまだった。同じやつでも、新しいのを買ったでしょ?」

 古びたアパートの二階。僕たちが住む一部屋の洗面台。確かに、そこに彼女が愛用していたいちご柄の瓶が座っている。彼女が出て行った十月のあの日からずっと、だ。

 僕の指摘を聞いた彼女は、僕の胸に顔をうずめた。表情は見えない。

「それは千秋にあげるよ。使ってあげて。私は新しいのがあるから」

「忘れ物を取りに来たのに?」

「あぁ。そうだ。忘れ物」

 ゆっくりと顔をあげて、僕の胸から離れていく。星那は左手を僕に差し出した。

「ねぇ、千秋。何か私に渡したいものがあるんじゃない?」

 どうして知っているのか。とか、それは君の忘れものじゃないよ。とか、色々思うところはあった。でも、そんなことよりも、行き場を失っていた僕の気持ちが終着点を見つけたことに安心した。やっとこれを渡せる日がやってきた、と。

「ほら、私の忘れ物は千秋が持ってるでしょう」

 彼女は僕のポケットに視線を向けて、催促をする。

 僕は四カ月前に振り絞る予定だった決意と勇気を、自分の奥底から引っ張り出した。

「星那。これからも、ずっと一緒にいたい。僕には星那しかいないから、悪い所はちゃんと全部直すから。僕と、結婚してくれませんか」

 言い切って、僕はぎゅっと瞳を瞑った。硬く強く、それはもう痛いほどだった。指先が震えているのは寒さのせいか、僕の臆病がそうさせているのかはわからない。ただ、小刻みに震えていることだけは事実だった。

 波の音が一定の速度を保って、響き続ける。本来は心を穏やかにするはずの音が、やけに心をかき乱した。一定の速度が僕の心拍数の異常さを浮き彫りにさせ、焦りだけを募らせる。

 差し出した箱から、ちょうど指輪一つ分の重量が消えたよう気がした。それは錯覚といっても過言ではないほどの小さな感覚だった。それでも、僕はおそるおそる瞳を開く。

「ありがとう、千秋」

 彼女はその甘いたれ目を涙でいっぱいにして、指輪を自分の指に着けて見せた。ちょうど左手の一番特別な意味を持つ指――僕が望んだ薬指に。

 嬉しさと同時に涙が込みあがってくる。僕は期待に満ちた声音で、今朝した質問を再び投げかけようとした。

「じゃあ、帰って

「少し、移動しようか。ここは少し寒すぎるしね」

 彼女は僕の言葉を遮り、遠く離れた荷物に向かって足を進めた。白くて柔らかな素足が砂を踏みしめる。彼女は一度も振り向かない。

 僕はそれが答えであると悟ってしまった。

 足に刺さる貝殻の破片がひどく痛い。潮風にさらされて古傷が痛む。僕の心も一緒に。あぁ、最初から希望なんてなかったのかな。

 絶望の淵で、僕は不思議と小さな笑みを浮かべていた。これは一種の諦めがもたらしたもので、涙を必死に堪えるための強がりだ。


――彼女はもう帰ってきてはくれない。


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