06追憶の夜(4)
公園という公共の場で熱い抱擁を交わしていることに気が付いた僕たちは、そそくさと公園から逃げ出した。子どもたちにとって悪影響を与えたらどうしよう。そんなくだらない心配をし始めた僕に彼女は
「それ、杞憂だから。絶対」と呆れを見せていた。
「ねぇねぇ。次はどこ行くの?」
訪ねる彼女は自然に僕の手を握った。彼女は何とも思っていないのかもしれないが、自発的に繋がれた手を見て、僕は思わず口角が緩んでしまう。
「ねぇってば。次はどこいくの?」
「次は、映画館に行こうと思って。最近できたでしょ、ショッピングモールの中に」
ついさっき通った駅の近くにオープンした複合型ショッピングモールの中には、映画館も併設されている。別に映画館自体は珍しいものではないのだが、この映画館はわざわざ遠方から尋ねる客も少なくない。それは上映する映画数もここら辺では群を抜いて多く、最新の技術を兼ね備えたシアターもあるという理由からだ。
僕たちは映画館に入館して、映画の開演の時刻表を手に取った。上映シアターが多い分、人気の映画は一時間単位で上映されているらしい。何気なく壁に飾られているたくさんのポスターを二人で見渡す。僕は優柔不断で、さらに映画に対して特にこだわりはなかった。彼女さえよければ洋画じゃなくて、邦画がいいなぁ。それくらいふんわりとして適当な僕に対して、彼女の視線は一つのポスターに釘付けだった。
あぁ。あの映画だ。
僕は自動券売機を操作しながら、
「どの映画にする? 僕は星那に合わせるよ。なんでも楽しめるから」と尋ねた。
彼女が答えを出すより先に、僕の指は彼女が答えると思われる映画に向かっていた。僕の指がタッチパネルに触れる一瞬先に、彼女の指が予想通りの映画のタイトルに触れる。
「これ。私これが見たい」
彼女が選んだ映画は、このこの館内だけでも同じポスターを飾られるほど人気の作品だった。若手のイケメン俳優が主演を務めるラブストーリーで、ポスターにはありきたりな映画の謳い文句がでかでかと並べられている。世間での知名度も高く、僕たちの世代ならばその俳優と映画のタイトルくらいならば誰しも答えられると思う。有名監督が指揮を執り、若手イケメン俳優が主演。助演には演技派で知られる女優が名を連ね、そのほかのキャストも錚々たる顔ぶれだった。特に主演のイケメン俳優は告知で見飽きてしまうほど、そのご尊顔が何度も放送された。正直に言うと、あまりにも整った濃い顔立ちに胸焼けをおこすレベルだ。僕としては、塩顔のあっさりとしたイケメン俳優さんの方が落ち着く。しかし、やたら流行に乗りたがる彼女は予想通りその俳優にご執心していた。まぁ、それは一過性のものだ。しばらくすれば、この俳優の人気も落ち着きを見せるはず。その時は、彼女の俳優に対する熱も冷め、新しく人気が沸騰した次世代イケメンとやらに熱を向けるのだ。
だから、僕はよく知っていた。
彼女が飽きるまで、その俳優熱に付き合ってあげることが得策だということを。
「いいよ。僕もそれ見たかったし、それにしようか。主演の俳優さんも今すごい人気だしね」
「そうなんだよ。やっぱりイケメンだよね。千秋も分かってるなぁ」
彼女はお気に入りの俳優を褒められたことで、やたらご機嫌だ。映画が楽しみで仕方がないと全身で訴えかけてくる。かといって、いい歳をした大学生が映画館内でスキップは辞めた方がいいと思う。
僕は呆れながら、彼女の後ろ姿に
「まぁ、羨ましい顔立ちだとは思うよ。でも、役は結構いかれた犯人で驚いたなぁ」と声をかけた。
そうそう。この映画の衝撃的なところは、このイケメン俳優が犯人だということだ。人畜無害でいかにも爽やか、万人受けをするイケメン。演じる役も、お人好しで優しさを煮詰めたような好青年のはずだった。陳腐なまでに胸焼けするラブストーリーが延々と続くのかと思いきや、こいつは残酷にも恋人を殺害してしまう。
「ねぇ。ちょっと」
彼女は顔を歪めて、頬を膨らませた。不満が表情ににじみ出ていて、声は心なしか怒りを帯びている。
「ごめん、僕何かしたかな?」
「気が付いてないの? いま、盛大なるネタバレをしてたよ。それはもう、がっつり物語の結末言ってたね」
唇を尖らせて、券売機にお金を入れる。
「もう困ったやつめ」とわき腹を軽くつつく程度なので、そこまで深刻な怒りではなさそうだ。券売機からチケットが二枚発券される。結末を知っても、この映画を見ようという意思は揺るがないようだ。禁忌であるネタバレの加害者である僕がそれを言う資格は持っていないことはわかっているが、どれだけこの俳優の顔面に価値を見出しているのだ。心の中で苦笑してしまう。
それより、だ。
僕はどうして映画の結末を知っているのだろうか。告知でそういう話をしてたんだっけ。いや、それはさすがあり得ないだろう。告知で結末を教えてしまうなんて、そんな馬鹿な手法があってたまるか。原作を小説で読んだんだっけ。いや、これは完全オリジナルの脚本だと謳っていたような気がする。じゃあ、バイトの後輩が先に見たのを小耳にはさんだのか。あれ、そうだったけ。もっと身近で、もっと…… 考えを巡らせるが、これだと言う確信を得ることはできない。とにかく、僕は映画の内容をすでに知っている。それだけは、確かな記憶として存在していた。
その確かだと思われる記憶の糸を引っ張り出して、内容を思い出そうと試みる。
――物語はとある田舎町で、夢を追いかける二人の若人が同棲を始めるところからスタートした。ぼろいアパートで順調に愛を深めていく二人なんだけど、彼女の方が先に夢に近づくのだ。「東京に行く。東京で夢を叶えるんだ」彼女はアパートを出ることを彼氏に告げる。彼氏も一旦は彼女の上京を喜び、応援するんだ。だけど、時間が経つにつれて悲しみがやって来る。僕を捨てて出て行く恋人。僕より先に夢をかなえる恋人。蓄積した悲しみは、やがて姿を変えて恨みになる。自分よりも夢を優先して旅立つ彼女を憎むようになった。彼は最後の望みを込めて、「一緒にいたい。だから、上京しないで欲しい」と告げる。しかし、彼女の上京の意思も硬かった。結局、二人は破局の道を辿る。彼氏は絶望の淵に立たされて、彼女を殺害することを思いついてしまうんだ。一緒に幸せなることが許されないのなら、いっそこの手で殺してしまおう。そうやって、自らの手で恋人を殺めてしまうのだ。
男が恋人を殺す。
……そうだ。そういうストーリーだ。恋人はどんな殺され方をしたんだっけ。割と、残酷で悲痛な死に方をするんだ。毒殺、撲殺、銃殺……
いや、違う。そうだ、めった刺しだ。それも、二人にとって思い出の場所で。
「千秋? ほらチケット。あとね、せっかくだから飲み物とポップコーンでも買いに行こうよ」
彼女に呼びかけられて、手を差し出そうとする。その手が――血濡れの手が、自分に視界に映り込んだ。
「う、うわぁ」
思わず、情けない悲鳴のような叫び声をあげた。周囲にいたお客さんの視線が一斉に向けられる。何かを囁き合って、冷ややかな視線が送られているような気がした。でも、そんなことはどうでもいいほどに僕は恐怖のどん底にいた。どんなホラー映画を見た時よりも、どれだけ気味の悪い夢を見た時よりも、ずっと深い谷底に。
「千秋、どうしたの?」
心配する彼女が僕の手を取った。ぬるりとした生ぬるい感触が、そのリアルさを訴えかけてくる。少しついたなんて可愛いもんじゃない。もちろん、これは僕の血ではない。傷なんて一つもついてはいないし、痛みも全く感じていない。赤黒くて、鼻を刺すような鉄の匂いが吐き気を誘発する。
「星那、ごめん。ちょっとトイレ!」
逃げるようにトイレに駆け込んだ。途中、人にぶつかったが謝ったかどうかも覚えていない。一目散に洗面台で手を洗い流す。恐る恐る視線を手に向けるが、血なんてどこにもついていなかった。何の変哲もない、ただの僕の手。恐怖の元凶は、僕の妄想か幻想だったのだ。
気味が悪いを通り越して、気持ちが悪い。鼻を刺すように鋭い鉄の匂いが誘発した吐き気が改善されない。どうにかして吐き出してしまいたい。
指をのどに入れて吐こうと試みるが、そう上手くはいかない。映画や漫画の世界ではこうやって吐いている気がしていたのに、いざ自分がそうしようとすると難しい。何かが引っ掛かって邪魔をしているみたいだ。より喉の奥に、と指を進めようとする。しかし、指を異物と判断した脳が大きくせき込むよう指示をした。せき込んだ衝撃で吐き出せるかと思ったが、情けない嗚咽が漏れただけだった。喉元まで出かかっているのに、あと少しが上手くいかない。そのあとも何度か指を入れて試みたが、結局吐き出すことはできなかった。
「あー。映画面白かったな、やっぱりあの女優綺麗じゃね。なんかエロくていい」
「えー、俺はあっちの子の方が好みだわ。お前とは趣味合わねぇ」
「おめぇらどっちもどっちだろ、主演が一番に決まってる」
トイレに若者の集団が入ってきた。派手な色の髪が、あまり似合っているとはいえない集団だ。公共の場なんてまるで素知らぬ顔で、大声で騒ぎたてる。
僕は逃げるようにトイレを後にした。胸の気持ち悪さはまだ残り、気分はすぐれないままだ。それでも映画の開場時刻は、刻一刻と迫って来ていた。とにかく彼女を探さなければと、ぐるりと周囲を見渡す。存外、彼女はすぐに見つかった。ポップコーンとドリンクを両手に抱えて、壁によりかかっている。
僕は慌てて駆け寄り、設置されたデジタル時計を見上げた。まだ余裕があるとわかりながらも、
「ごめん、星那。映画間に合いそう?」と確認をする。
「うん、映画は全然大丈夫だよ。それより、なんか可笑しかったけど、体調悪いの?」
彼女はそう言って、少し背伸びをして僕の額に手を重ねた。脳を使いすぎたせいか、彼女の手が少し冷たくて気持ちがいい。
「ううん。もう大丈夫だよ。なんかごめんね、ネタバレした挙句にばたばたさせちゃって」
「いいのいいの。体調は仕方がないことだよ。それに、私はこの俳優の顔が好きなだけだから、許してあげようじゃないか。私の心は海より広いからね」
ほっと胸をなでおろす。馬鹿げた発言とたかが幻覚なんかで、彼女の機嫌を損ねでもしたら、僕は一生のチャンスを逃すことになる。
――それこそ、めった刺しにして引き留めるしかなくなる。
そんな不穏な考えが浮かび上がった。僕が彼女を刺し殺す。別れを告げられた腹いせに、めった刺しに……
いや。ありえない。僕はそんなことが出来るような人間じゃない。
本当に? 僕はそれをしないと言い切れるのか。
背筋に冷たい汗が伝う。神経が過敏になっているのか、伝う汗の経路がはっきりと詳細に感じ取れる気がした。
「ねぇ、千秋。思い出せたかい? 君が犯した罪のこと」
冷ややかな視線が向けられる。僕を咎めるように鋭くて、何かを見透かすような視線。その視線に囚われて、僕は目を逸らすことが出来ない。
しばらくして、彼女は僕にポップコーンを手渡した。キャラメルとソルトのハーフ&ハーフ。それは彼女が好きな味で、僕も好きな味だった。
「思い出せるよ。君は、その答えをちゃんと知っているからね」
自分が生唾を飲む音が脳にダイレクトに伝わる。思い出さなければならない。僕が犯した罪のこと。僕が彼女にしたことを。
映画の上映中、僕はポップコーンを食べるふりをして、自分の手を何度も確認した。あの血は誰のもので、いったいどこに消えたのか。どうしても、ただの妄想の産物だとは思えなかった。僕が犯した罪はこの血に関係するものだ。信じたくはないが、どうしても結びつけてしまう。全く関係のないものだと考える方が難しかった。
仮に、僕が誰かを殺めていたとして。それを彼女が目撃していたとして。確かにそれは『僕の罪』に当たるだろう。でも、それを僕が忘れてしまうことはあり得るのだろうか。ありえないと信じたい。僕は多重人格者でもサイコパスでもないと思っている。それは自分自身に対する評価だが、今までたったの一度も殺人の衝動に駆られたことなどはない。問題なく生きてきたはずなんだ。多分、おそらく、きっと……
掴むポップコーンは先ほどからキャラメルばかりが続いていた。スクリーンに映し出される甘ったるいラブシーンと相まって、胸焼けをしてしまいそうだ。それを紛らわせるために、アイスコーヒーで流し込む。
画面に映し出される俳優は評判通りのイケメンで、絵にかいたような好青年だ。それでも陳腐なラブストーリーが延々と展開されるので、退屈だと感じてしまう。しかし。いや、やはり物語は悲劇に傾いていった。
恋人が「やっぱり上京したいの」と告げる。義理堅い人間だったのだろう。ご丁寧に部屋を出ていく日付まで詳細に知らせて、別れを突きつけた。未練がましい男は、恋人をあらゆる手段を講じて引き留めようとする。でも、それが聞き入れられることは決してなかった。最後の別れのシーンだけを見れば、一方的でひどい別れ方だと思う人もいるかもしれない。僕も可哀想なやつだな、こいつ。くらいには同情した。
ただ、そいつは同情されていいような人間じゃなかった。真に同情されるべきは恋人の方だ。
――僕のものにならないのなら、殺してしまえばいい。
そうやって、男は恋人を殺してしまう。夢に向かって羽ばたく寸前だった彼女は、無残にもその生涯に幕を下ろすことになってしまった。遺体は思い出の場所に埋められた。一緒に居たいと言ったのに。結局は、自分の保身のために地面に隠すのだ。胸糞悪い映画で、決して気持ちの良いものではない。
大方、僕の記憶通りの映画だった。ただ、決定的に異なるところが一つだけ。それは殺害方法だ。刺殺だと思っていたが、青酸カリを用いた毒殺だった。男は最後の晩餐だと言って、毒入りの手料理をふるまう。それを口にした恋人は苦しみに悶え、命の灯を消された。決して、血が飛び散るような――めった刺しなんかではなかった。
中途半端な記憶との合致、決定的な部分での相違がたまらなく不快で気味が悪い。
僕はもう一度ポップコーンを口に放り込んだ。また、キャラメル味だ。自分の引きの強さに若干呆れつつ、僕はエルサイズで購入したアイスコーヒーを飲み干した。
映画館から出ると、太陽がすでに頂点から傾き始めていた。室内が暖かかった影響で、外の冷たさが身に染みる。ただ、それは僕にとっては好都合だった。働かせすぎた思考回路が外気によって冷却されて、少しずつ冷静さを取り戻す。胸を占拠していた靄が少しずつ取り払われていくような感覚を抱いた。
隣を歩く彼女は冷たい風をものともせずに、映画の余韻に浸っている。「やっぱりイケメンだった。あのご尊顔を大スクリーンで拝めるなんて、文明に感謝してもしきれないよ。相手役の女優さんが羨ましい」
僕は耳を疑った。そして、聞き間違いだと思いたかった。あの映画の感想として、その言葉が出てくるなんてある意味尊敬できる。よっぽど顔しか見ていなかったのだろう。夢を追いかけて恋人に殺されるだなんて、僕はごめんだ。
彼女は大きく一歩前に出て、振り返った。僕とは対面するような形になる。そして、意味ありげに口角をあげた。そして、
「ねぇ、千秋。千秋だったらさ、私のこと殺しちゃう?」と僕に尋ねる。
「え?」
「だからさ、私が『夢があるから別れたい』って言ったらさ、千秋は私のこと殺しちゃうのかなって」
言葉は出てこない。まるで僕だけが異空間に放り出されてしまったかのように、時間の流れがゆっくりに感じる。
今の僕には痛すぎる言葉。心臓を一思いに刺されたかのような衝撃。自分を落ち着かせるためだけの呼吸を繰り返すことで精一杯だった。
「何その顔、冗談に決まってるじゃんか」と彼女は僕の頬をつつく。
「そ、そうだよ。そんなことできるわけないじゃんか」
ようやく言葉を思い出したかのように、慌てて否定の言葉を並べた。
出来るわけがない。当たり前だ。
彼女と自分に言って聞かせる。僕は彼女を殺さないんじゃない。殺せるわけがないんだ。
それからしばらく、僕は狂ったように否定を繰り返した。そんな僕に彼女は呆れたようにため息をつく。
「そんなに否定しなくたって、私だって殺されるなんて思ってなかったよ。あんな映画だったら言ってみただけ」
僕は焦る鼓動を隠して、次の予定を提案しようとした。その刹那だった。
「それとも」
彼女はしっかりと僕の目を見つめた。
「それとも、千秋には何か心当たりでもあるのかい?」
「心当たりなんて、あるわけないじゃんか」
僕が間髪を入れずそう答えたのは、はやる鼓動がそうしろと命令したからだ。もちろん僕に心当たりなんてものはない。強いて言うならば、さっき見た幻覚だけだ。彼女のことを殺す予定はもちろん、殺したいと思ったことも……
ないと言い切れないのは、さっき見た殺害のビジョンがちらついたせいで、僕の罪には関係ないことだ。
でも。強く脈打つ心臓は、『僕の罪』が関連していると強く叫んでいた。
僕の中で絡まった糸が少しだけ緩んだ。