05追憶の夜(3)
バーガーショップを後にして、しばらく歩いていると駅が見えた。
僕たちが普段から利用している最寄り駅だ。大学は県の中心部に位置しているため、家賃相場が高い。それならば、多少の交通費を負担して家賃を抑ようと決めた。住み始めた当初は何もない駅だと思っていたが、最近大きな商業施設がオープンして便利になった。ショッピングモールに水族館や映画館などを併設した複合型施設だ。大きな観覧車がトレードマークとなっている。その影響で家族連れや若いカップルが増えて、駅周辺は常に賑わいを見せていた。ちょうどすれ違った高校生カップルは、仲睦まじく手を繋いでいる。ほほえましいな。そう思うと同時に、少し嫉妬してしまう。「どうせ、いつかはみんな別れるんだ」と歪んだ考えが一瞬よぎり、そんな自分が情けなかった。自分が上手くいかないからといって、他人に当たるような人間は最悪だ。念じるように、そのカップルには謝罪をした。全て心の中で思っていることなので、彼らには謝罪も悪態も伝わっていないが、僕の気分の問題だ。
「どうしたの? じっと高校生なんて見つめちゃって。あ、手繋いで欲しいのかい?」
彼女は小さく高校生カップルを指差した。どうやら、僕が手を繋ぎたがっていると勘違いしているようだ。
「繋ぐ」
僕はこの好機を逃すまい、と間髪を入れずに返事をした。手を前に差し出し、平を彼女の方へと向ける。自分でしておきながら、なんだか恥ずかしい仕草だと思った。
「何、今日はやけに素直だね。千秋らしくない」
そう言いながら僕の手を握る彼女もどこか嬉しそうだ。これはもしかすると、僕の期待通りに進んでいるのかもしれない。確かな手ごたえを感じる。今日が終わる頃には、彼女は僕を許してくれているかもしれない。そうしたら、あのアパートにだって帰ってきてくれるはずだ。そんな淡い期待が膨らんでいく。
「ま、最後だしね。私に甘えたいだけ、甘えておいたほうがいいよ」
膨らんだ期待は、穴が開いた風船のようにすぐにしぼんだ。もしも、僕の心の浮き沈みが見えるメーターみたいなものがあれば、それはわかりやすく暴落しているだろう。
「で、次は何をするんだっけ」
落ち込む僕をよそに、彼女はやけに上機嫌だ。羽が生えたような軽い足取りで、前へと進んでいく。繋がれた腕が、上下に大きく揺れ動いた。手が離れてしまわないように、僕は握る力を少し強める。
「パンを買いに行こう」
「お、それはナイスアイデアだね。どこのパン屋に行くんだい?」
彼女は嬉しそうに尋ねるが、きっとどこのパン屋に行くつもりかわかっている。
「出会った時に行った、あのパン屋だよ」
「いいね。原点回帰ってわけだ。久し振りだねぇ」
朝ごはんを楽しみに据える彼女の趣味は、休日にパン屋を巡ることだ。一人でふらっと訪ねることもあれば、僕を引き連れることもある。まだ眠たいと言う僕を布団から引っ張り出して、電車を駆使してパン屋を目指す。彼女と暮らすまでは知らなかったが、パン屋と言うものは想像よりもずっとたくさんあるようだ。そして、その店特有の雰囲気があり、同じ店は二つとしてない。その新しい魅力を見つけるために、彼女は新たな店舗を探し出す。そのため、一度訪ねた店に再訪することは必然的に少なくなってしまった。
特に、身近にあるパン屋は後回しにしてしまいがちだった。最後に二人でこのパン屋に向かったのは、いつのことになるだろか。
「ねぇ、知ってる? もうすぐ移転しちゃうらしいよ」と少し前を歩く彼女は、振り向かずにそう言った。
「そうなんだ。それは寂しくなるね。どこら辺に移転するの? あれ、その話前にもしたっけ。どっかで聞いたような気がするような……」
そうだ、移転するんだ。確かに、聞いたことがあるぞ。だから三年記念の予定に組み込もうと思ったんだ。どうして、そんな大切なことを覚えていないのだろう。
「したよ。この話は私がした。君は私の話を適当に聞きすぎなんじゃないかね」
彼女は頬を膨らませる。そして、怒っていることをアピールするように顔をそむけた。
僕は慌てて機嫌を取ろうとして、横に並んだ。
「ちゃんと聞いてるし、これからはもっとちゃんと聞くからさ」とのぞき込んで、顔色を窺う。
「信じられないなぁ。ホットケーキのことも忘れちゃってたみたいだし。それにさ、思い出せたのかい? 千秋の犯したの罪のこと」
視線を宙に泳がせて、遠い記憶を手繰り寄せようと努力をする。些細な喧嘩や彼女がぶつけた不満を思い出すけれど、答えには辿り着かない。糸が複雑に絡まって、引いても解けてくれないみたいだ。
どうして、僕はその罪のことを思い出せないのだろうか。三年も一緒に過ごしてきたのだ。小さな罪は数えきれないほどあると思う。でも、それはお互い様だ。風呂が長いだとか、調味料の蓋が緩んでるだとか、暖房の設定温度が低すぎるとか。そんな喧嘩を定期的にしては、話し合いを経て仲直りをする。
そうやって、僕たちは三年間一緒に過ごしてきた。仲直りをするたびに、互いの愛を確かめ合った。だから、彼女が出て行ってしまうような極悪な罪はないと思う……
彼女は考え込む僕を彰多用に見つめて、軽いため息を吐く。
「ぶっぶー。時間切れだよ。もう少し考える時間をあげようじゃないか。君は答えをちゃんと知ってるよ」
教育番組のような大げさなジェスチャーで僕の心を煽る。とてもむかつく動作で、わざとらしく馬鹿にした表情をつくる。僕は真剣に悩んでいるというのに、けなげな心を弄んでいる。いつもの僕たちならば、喧嘩に発展してもおかしくない。
でも、今日はなんだかそれが懐かしくて、幸せなことに思えた。
駅を通過してしばらく歩き続けると、懐かしいパン屋の軒先が見えた。僕たちが付き合うきっかけとなった思い出のパン屋――僕たちの原点だ。
小さな店舗だが店内には複数のオーブンが設置されており、パンをじっくりと焼きあげている。中のフィリングなども業務用に頼ることはせず、全て自家製という手低ぶりらしい。これは以前、彼女が熱弁を振るった一部の知識だ。いつの間にか、僕もパン屋に詳しくなってしまった。
僕は瞳を閉じて、大きく息を吸い込む。深呼吸だ。肺一杯に幸せの香りを満たしていく。
そして、目を丸くして僕を見つめていた彼女に、
「幸せの香りだね」と言った。
自分からそうしたくせに、我に返ると急に恥ずかしくなった。それでも、僕はこうすることで精一杯の誠意を見せたつもりだ。
彼女はパン屋に行くたびに、幸せを吸い込んだ。瞳を閉じて大きく深呼吸する。それを見ることがとても好きだった。そして、彼女は絶対に「千秋もほら」と催促をする。だから、今日は自分からしてみせよう。僕はちゃんと変わっていることを示さなければならない。
「千秋も私に毒されたね」
「星那もほら」
彼女も瞳を閉じて、大きく息を吸い込んだ。口角が緩み、目尻が幸福に下がった。きっと肺一杯に幸せの香りを満たしているに違いない。
「「幸せの香りだね」」
二人分の声が重なった。彼女は嬉しそうに「はもった」とはしゃぎ、僕も自然と口角が緩む。僕たちは今、同じ幸せを共有することができてる。それはきっと、彼女も否定しない事実だ。
大丈夫。僕たちはきっと、まだやり直せるはずだ。
「千秋、はやく入ろう。私直伝、おすすめのパンを聞かせてあげるから」
入店して、やっぱり彼女はいつものように熱弁を振るった。毎回のことながら、おすすめが多すぎる。結局はどれもおすすめになり果ててしまい、どれを買うべきか頭を悩ませることになるのだ。どこのパン屋に行っても、どれだけ反省をしても、彼女は何度も同じことを繰り返す。今日だって、紙袋がはちきれそうになるほどのパンを購入するのだろう。すでに僕が抱えるトレーは、ずっしりと重い。
「ここのパン屋はね、チョコレートが美味しいの。だから、パンオショコラは買わなきゃいけないよ。あとね、バターはフランスの高いやつを使ってるんだよ。雑誌に書いてあったから食べておかないとね。それにね、食パンは北海道産の生クリームを使ってるんだよ。しかも天然酵母使用なんだって。前に買った時もおいしかったから、これはリピートするって決めてたんだ。あとはね、前に来た時に千秋が気に入ってた焼きカレーパンも買っとこうね」
パンオショコラ、焼きカレーパン、メロンパンにフランスパン、それから食パンを丸々一本。一斤じゃなくて、一本だ。気を抜いて少しでもバランスを崩せば、トレーから落としてしまいそうだ……
そういえば、この前もこんな風にバランスを取るのに苦労したな。一本の食パンから始まって、メロンパンにフランスパン。他にもいろいろ欲しくなって、山積みのトレーが出来上がったんだ。でも、焼きカレーパンなんて買ったっけ。
……僕が気に入った焼きカレーパン?
そもそも、前にこの店に行ったのはいつのことだっただろう。移転の話をしたのは、その時だったような気がする。焼きカレーパンを食べたのはいつのことだ。
最近のことのようで、すごく昔の出来事にも感じる。なんだか気持ち悪い。思い出せているようで、全く思い出せていない。記憶の大切な部分だけが絡まって、見えなくなっているような。まるで、隠されているかのような…… さっきから、僕は何を忘れてしまっているのだろう。
「ねぇ、星那。前に一緒にこの店に来たのって、いつだっけ」
僕の問いを聞いた彼女は、すごく悲しい顔をする。眉を八の字に下げて、苦しそうに顔を歪める。何が彼女をそんな顔にさせているのだろうか。抜け落ちた記憶の中に、その答えがあることは明白だ。僕は、いったい何をしたんだ。
彼女は吸い込んだ幸せを吐き出すような小さなため息をついて、
「早く思い出してよ。それが、千秋の罪なんだから」と言った。
「それが、『僕の罪』」
その言葉の意味を確かめるように復唱する。それでも、さっぱり思いつく気配は無かった。
会計を済ませる彼女の横顔を見つめる。丸みを帯びた甘いたれ目がパン屋の照明を映し出している。その瞳を縁取るように囲む睫毛が、ゆっくりと瞬きを繰り返した。それを見ていると、懐かしさを感じ、何かを思い出せるような気がする。
僕の罪は、何か大切なこと忘れてしまったこと。僕は何を犯し、何を忘れているのか。思い出せそうな記憶は、思い出すことを拒むように複雑に絡まり合う。
三年も一緒に過ごしたのだから、彼女のことならば何でも理解していると思っていた。でも、彼女が本当に見ていて欲しかったことには、目を向けることができていなかったのかもしれない。
こういう些細なすれ違いが、僕たちに決定的な打撃を加えてしまったのだろうか。
会計を済ませて、パン屋を後にする。店を出る前に、店員さんが移転のチラシを紙袋に入れてくれた。「それ、僕が持つよ」と彼女が持つ紙袋を流れるように奪い取る。浅めの紙袋に詰められたパンたちは、ずっしりとした重みがあり、何よりもかさばって持ちにくい。一本で購入した食パンはもちろん、こまごました菓子パンたちが溢れてしまいそうだ。
「やっぱり買いすぎちゃったね。ちょっとそこの公園で食べちゃおうよ。休憩を兼ねてさ」
彼女は少し先にある公園の方角を指さした。
「そうしよう。なんだか、デートみたいだね」
出会った時は、喉元まで出かかったこの言葉を伝えることができなかった。彼女が「やっぱりやめておこうか」と言うことがもったいなくて、怖かったからだ。今の彼女なら、何と返答するだろう。
彼女は一瞬だけ考えるそぶりを見せて、
「確かに。いや、これはデートというよりも『追憶の旅』だ」と得意げに言い放った。
意味を理解しあぐねている僕に向かって、彼女は話を続ける。
「これは一種の旅なんだよ。私たちの思い出を旅しながら、千秋は罪を思い出すために追憶していくの」
そして、人差し指を立てて「どう?」と意見を求めてきた。
どうもこうも、理解が追い付いていないので中途半端な肯定の意思を示すほかない。僕の神妙な頷きを肯定と受け取った彼女は、これまた満足げに頷く。「『追憶の旅』じゃなくて『やり直しの旅』がいいのになぁ」喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。また僕は言えない。もしも、この雰囲気で「やり直しはありえないことだよ」とばっさり切り捨てられてしまえば、心が折れてしまうことは明白だからだ。せっかくのチャンスを棒に振ることだけは、何としてでも避けたい。どうにかして、どんな手段を使うことになっても彼女を引き留める。家に帰ってきてくれるのならば、もう言うことは一つもない。それが無理だとしても、せめてまた会えるようにチャンスを繋ぐ。これでお別れなんかにしてたまるか。心の中で決意を固めた。
そんな僕の心中に反して、彼女は羽が生えたように軽い足取りで快調に前へと進む。スキップをするような歩調で鼻歌を交えながら、僕の数歩分手前を軽快に。短い髪がふわふわと揺れて、いちごの甘い香りが広がった。僕はその後ろ姿を見つめて、ただ念じる。なんでもするから、帰ってきて欲しい。
彼女は唐突に歩みを止め、勢いよく振り向いた。
「ねぇ、君。バレーボールは得意かい?」
ぐっと顔が近寄る。僕の心臓は早く、強く脈打っていた。顔が近づいたことに驚いたわけではない。念じていた思いが伝わったと勘違いしたのだ。
「ねぇ、千秋。バレーボールは得意かい?」
彼女は返事をしなかった僕に向けて、繰り返し同じことを尋ねた。
「普通……いや、得意かもしれない」
「合格。千秋も大人になったね」
彼女は僕の返答を聞いて、さらにご機嫌になった。口ずさむメロディーが本来の楽曲よりも、軽快なアップテンポを刻んでいる。原曲は切ない別れを歌ったバラードなのに。
僕がバレーボールを真剣にプレーしていたのは、高校三年生の夏までだ。一月に行われる春高の予選に残るほどの才能も熱量もなかった。大学に入学してからは、バレーボールに触れる機会すら失われた。そして、それを気に留めることすらしなかった。テレビでバレーボールの大会が放映されているときに「あぁ、懐かしいな」と思い返す程度で、別に惜しんでもいない。ちゃんとボールに触れたのは、彼女と初めてパン屋に行った日が最後だろう。
だから、今の僕のバレーボールに実力は極めて普通だ。経験者からしたら、下手くそに分類されるかもしれない。でも、彼女は特別に球技が苦手だ。それはもう壊滅的だった。だから、彼女の前では得意を自称することができる。むしろ僕が「普通かも」と言おうものなら、彼女は間違いなく怒り出す。「得意なくせに、謙遜するなんて。ずるいよ」と言って、駄々をこねる。最近も、そうやって怒られたばかりなんだ。
あれ……?
最後にバレーボールをしたのは、いつだっけ。そんな会話をいつしたのだろう。最後にバレーボールに触れたのは、出会った時のはずじゃないか。
『それが千秋の罪だよ』
頭の中で彼女の声が反芻する。低くて、知らない声。今まで聞いてきた彼女の声色とは全く異なる別人の声だ。今朝せき込んでから、未だに低い声が治らない。本来の彼女はもっと穏やかで温かい女性らしい声をしているはずだ。
……あれ。
ほんとに彼女の声は穏やかであたたかな女性らしいものだったか。本当にそれは正しい記憶なのか。
過去の記憶を辿ろうとすればするほど、忘れている記憶が増えていく気がする。どれが正しい記憶で、何を忘れているのか。現に、僕は彼女の声さえも正しい記憶か信用することが出来ない。
糸が絡まる。正確な記憶をも絡めとろうとする。
僕たちは公園に足を踏み入れる。彼女は満面の笑みを浮かべて、
「ちょっとボール借りてくるね」と走り去ろうとした。もう戻ってこない気がして、僕は腕を引き留める。
「なに、どうしたの? 今日は甘えたい気分になっちゃったのかい」
「違うけどさ……」
「心配しなくたって、ちゃんと戻って来るよ」
僕の手をゆっくりとほどき、彼女は勢いよく駆けだして行った。球技は壊滅的なセンスなのに、走りだけは得意だと名乗れるレベルだ。駆けていく彼女の背中に、僕はちゃんと追いつくことが出来るだろうか。離れていく背中を眺めていると、小さな焦燥感が燻り始めた。小さな種火は、どんどんと火力を増していく。焦りは際限なく募っていくものだ。
彼女を引き留めておきたい。僕の罪は何なのだ。それが分かれば、本当に帰ってきてくれるのか。彼女は「帰る」と明言したわけではない。ただ単に、僕に都合がいいように希望的観測をしただけだ。
じゃあ、どうしたらいいのだ。彼女を引き留めておくためには。僕につなぎ留めておくには、何をすればいい?
謝罪はした。それだけでは戻ってきてくれなかった。
課されたミッション――「僕の罪」はまだわからない。その状況で、これ以上謝罪を重ねることは無意味だ。モノやカネで釣れるようなタイプでもない。下手したら、情に訴えることすら無駄。何より、彼女は自分の意思は自分で決めるタイプだ。誰かに指図されて決めたり、何かにつられて決意を変えたりするような人間ではない。僕は、彼女のそういうところが好きだったんだ。
どんな方法をとっても、彼女は僕のもとには戻ってこない。悲しいけど、そんな気がした。彼女が自分で決めた道なら、きっと彼女は引き返すことはない。それこそ、ダンプカーが突っ込んでこようとも、空から槍が降ろうとも、だ。でも。そうと分かっていても、僕は彼女が離れて行ってしまうことに耐えられる気がしない。僕以外の誰かの横で幸せになる姿なんて見たくない。想像しただけで、気が滅入ってしまいそうだ。そんなことになるくらいなら、いっそこの手で殺してしまいたい。そして、その後を追おう。そしたら、彼女が僕のもとから去る心配も消えてなくなる。最も効率的で、最善の方法だ。
問題はどうやって殺すかだ。毒殺は無理。その薬を手に入れることが、何よりも困難だ。じゃあ、飛び降りはどうだろう。いや、それも困難だ。失敗すれば後遺症が残る可能性が高い。以前テレビ番組で運よく助かってしまった方のドキュメンタリーを見た。それに、下を歩く歩行者に迷惑はかけたくない。電車は……だめだ。彼女の両親にも、僕の両親にも迷惑が掛かってしまう。それは避けたい。
殺人の方法なんてもの、これまでの講義では教えてくれなかった。社会学に民俗学、ミクロ経済学。これまで履修してきた学問は、日常生活で活かせる気配がまるでない。どうしてもっと役に立つ学問を学ばせてくれないのだ。僕は頭を抱えた。
何が最善の殺害方法か。ドラマや小説、創作の世界を思い浮かべ、脳内でシミュレーションを重ねる。
――どす黒い血が地面に湖を作っている。その中には、すでに冷たくなった彼女が横たわる。恐怖と苦痛で表情は歪み、穏やかで天真爛漫な笑顔からは想像がつかないほどだ。僕は、それをただ眺めている。じっと、見つめている。
そうだ。刺殺だ。その方法ならば、身近にある包丁を利用することができる。鋭利な刃を引き抜く勇気さえあれば、出血量も十分に確保できるはずだ。これこそが最も効率的で、最良の殺害方法。
突如、脳裏に浮かんだ殺害のビジョン。妄想にしては、やけにリアルな死体が想像された。まるで、僕が彼女の死体を本当に目にしたような。僕が彼女を刺し殺した経験があるかのような映像だ。
……僕が彼女を手にかける?
そんなことが出来るはずがない。僕ごときが実行に移せるわけがない。それも、最愛の彼女を手にかけるなんてありえない。そう分かっているのに、何故だか僕は凶悪な殺人犯だった過去がある気がする。
「何を考えているの」
肩が大きく撥ねる。振り返ると、彼女はひどく冷めた視線で僕を見つめていた。心の中を覗かれるなんてことがありえないとわかっていても、全て筒抜けになっているような気がしてしまう。
冷や汗が背を伝う。感じているのは焦りか、恐怖か。
「真剣な顔してたよ?」
首を傾げ、上目遣いに僕を見つめる。ついさっき感じた冷めた視線は、もう宿っていなかった。腕に抱えるバレーボールをまるで我が子のように優しい手つきでなぞる。
「少し、考え事をしていただけだよ」
「そっか。それならいいんだけどさ」
彼女は花が咲くように、満面の笑顔を浮かべてバレーボールを頭の上まで持ち上げた。
「さ、練習しよ。私も前よりきっと上手になっているはずさ。何故ならセンスがあるはずだから。それに、お腹も減らさなきゃ。空腹こそ最大級のスパイスだよ!」
そう言って、彼女は僕に向かってバレーボールを投げた。彼女の手から放たれたバレーボールは、綺麗な弧を描くことはなく、地面をめがけて落下した。そして、ころころと地面を転がっていく。しばらく転がったのち、勢いを失って停止した。僕も彼女も、その停止したバレーボールを無言で見つめる。
そして、どちらからともなく笑い声をあげた。
「あれ、失敗しちゃったよ。あれだね、あれ。『弘法にも筆の誤り』ってやつ」
「星那が成功したことなんてあったけ」
僕は地面に転がされたままのバレーボールを拾いに向かう。ずっしりと重みのある紙袋を近くのベンチに置き、羽織っていたジャンパーを上に掛けた。
「もう一回。打つやつだったら、私絶対に上手くいくと思う。自信あるもん」
彼女は指で一を示して、それを強調するように僕に向けた。彼女は自信満々といった雰囲気を出しているが、僕は成功する未来が見えなかった。僕は彼女をめがけてバレーボールを柔らかく投げる。空に綺麗な弧を描きながら、彼女の腕に収まった。
「打つからね。いくよー」
おそらく変な方向に飛んでいくだろう。前に飛べば上出来、真下なら及第点、後方に飛ぶ可能性も大いにありうる。なんなら、後方が本命と言っても過言ではない。割と失礼な予測を立てて、腕を構える。
鈍い打球音を響かせて、彼女の手から打ち出された。そのまま綺麗な弧を描いたバレーボールは、僕が構える腕に捉えられて勢いを殺される。予想外だ。大成功。僕にとっては大穴だった。
きっと彼女も自分の打った打球に、驚いているに違いない。僕は若干の興奮を抑えながら、彼女に視線を向けた。
「ほら。さすが私、センスある。この間、一緒に練習した成果がバッチリ出てるね」
僕の予想に反して、打った本人はけろりと快活な笑顔を浮かべる。当たり前のことを当然にこなしました。そう言わんばかりの態度だ。
「いつの間に練習したの? 急成長したね。これは、もはや進化したレベルだよ」
彼女の機嫌を取るために、大げさに褒めてみせた。ようやく常人になった程度の実力だが、もともとが壊滅的だったので褒めやすい。しかし、いつの間にこんなに上達したのだろう。以前は本当に、目も当てられないレベルの壊滅具合だった。
僕の過剰な誉め言葉におだてられて調子に乗っているであろう彼女の表情を伺う。彼女は僕の予想に反して、頬を膨らませてそっぽを向いた。また、何か機嫌を損ねてしまったようだ……
「本当に覚えてないの? パン屋に行ったあと、この公園で一緒に練習したじゃんか」
この間、この公園で、それもパン屋の後に。もしかすると、僕が忘れている記憶は、たった一日の出来事なのか……
僕は声を張り上げて、
「それって、いつ頃の話だっけ?」と尋ねた。時期や日付を聞けば、思い出せるはずだ。
しかし、彼女は
「それは、千秋が自力で思い出さないと。『追憶の旅』の意味がないじゃんか」と遠くから叫んだ。
そして僕に駆け寄り、腕に抱いていたバレーボールを強奪していく。短い髪が揺れて、いちごの香りがふわりと香った。彼女が愛用する香水は、いつも同じいちごの香りだ。甘い香りの中に酸っぱさを感じ、彼女によく似合っていると思う。実家に住む母が身に纏う香水は、朝と夕とで違った匂いがしていた。朝はさっぱりとした匂いだったのに、夜になるとタバコみたいな重たい匂いがするのだ。僕はそれがあまり得意ではなかった。昔「星那の香水はいつも同じ匂いだね」と言うと、彼女は香水の瓶を見せながら嬉しそうに説明をしてくれた。
彼女が使っている香水はシングルノートという種類のものらしい。香りが変化しないのが特徴で、母が使っている香水の方が定番のようだ。もっと詳しい説明をしてくれた気がするが、これくらいしか覚えていない。とにかく、僕は彼女が使うシングルノートが好きだ。そのいちごの香りを嗅げば、条件反射で彼女の姿を連想することができるからだ。
「千秋。私の美しい打球をもう一回、見せてあげよう。」
強奪してすぐに、向こう側に戻っていった彼女が構えている。さっきよりも、ずいぶんと至近距離だ。
宙に浮かんだボールは、勢いを付けた彼女の手のひらに吸い込まれる。本来なら、下方に向かって打ち付けられるはずだった。しかし、やっぱり壊滅的な球技センスを持った彼女によって、前方に押し出される。それは、僕の顔をめがけて一直線に飛び出した。
よけられない。そう思った僕は、とっさに下を向いて顔面への直撃を避けようとする。鈍い音と衝撃が頭に広がった。痛い。久し振りの痛みの顔をしかめてしまう。
「ごめんごめん。調子に乗っちゃったよ。大丈夫そう?」
彼女は慌てて駆け寄り、僕の頭を撫でた。あぁ、懐かしい。付き合う前も、僕の頭部をめがけて打ち込んだことがあった。「大丈夫だよ」と顔をあげる。視界に違和感があることに気が付いた。ボールが当たった衝撃で、コンタクトが落ちてしまったのだろう。しかも、残念なことに両目だ。こんな不幸があるだろうか。普段はちょっとくらい衝撃があっても、落ちたりはしないのに。コンタクトを失った視界は、ぼんやりと滲んでいる。彼女の輪郭はわかるものの、顔の細やかなパーツは全く見えていない。朝から低くなったままの彼女の声と相まって、一瞬誰か判別できなかったほどだ。いつの間に視力はここまで低下していたのだろう。確かに、もともと視力は低かった。教科書の文字が見えにくいから始まって、黒板が見えなくなった。中学生の頃から眼鏡に助けてもらっている。コンタクトを付け始めた今でも、眼鏡は手放せない。
しかし、僕の視力は裸眼で人が判別できないほどだったか……?
「ごめん、星那。カバンの中に眼鏡が入ってると思うから、取ってくれないかな」
「うん」と荷物を置いたベンチまで駆けて行く。離れていく背中はやけにはっきりと見えて、コンタクトを落としたのは錯覚だったかと思うほどだった。
あれ……?
目をこすり、もう一度確認する。ちょうど彼女が眼鏡ケースを持って帰って来るところだった。やっぱり、視界はぼやけて滲んだまま変わらない。
差し出された眼鏡をかける。視界が急激にクリアになった。ずっと合わなかったカメラのピントがようやく機能し始めたような感じだ。数回、確かめるようにして瞬きを繰り返す。
「大丈夫。ちゃんと見えるから、心配しないで。ワンデイタイプのコンタクトの値段なんて、たかが知れてるし、大容量の箱で買ってるから」
気を遣わせまいと、コンタクトが安価であることを懸命にアピールする。彼女はそういうことを気にしているわけではないとわかっていても、そうしてしまうのは僕の性格ゆえだ。きっと彼女はその言葉に励まされたわけではないが、少し伏せていた瞳を僕に向け「眼鏡もかっこいいよ。やっぱり似合ってる」と称賛した。家では自宅用の眼鏡を使用していたので、外出用の眼鏡を見るのは久しぶりなのだろう。
僕は照れを隠すために、視線を逸らす。何年たっても、素直に褒められれば、嬉しいと感じるし、恥ずかしさも覚える。初心な僕は、彼女の誉め言葉をまっすぐに受け取って、慣れることなどできなかった。何の変哲もないただの黒縁眼鏡はお世辞にもかっこいいとは思わない。でも、彼女がそう言うのならそうなのだろう。まっすぐな彼女が、その程度のお世辞を吐くとは思えない。
「ちょっと早いけど、休憩にしよっか。パンもあるし」
これは僕の懸命な照れ隠しだ。ワンパターンの照れ隠しは、いつだって食に逃げるの一辺倒。
彼女の反応を伺うように、顔を覗き込む。眼鏡はずれてなどいない。ピントはしっかりと焦点を合わせて、しっかりとその役目を果たしている。それなのに、だ。
目の前にいる彼女はこんな顔だっただろうか――僕が知っている七海星那はこんな顔をした少女だっただろうか。
気持ちが悪い。目の前にいる少女が、と言うことではない。得体のしれない何かが写真に写りこんでいるような気味の悪さだ。目の前にいる少女は七海星那だ。そう言われれば、確かにそうだと思うだろう。しかし、目の前にいる少女は七海星那ではない。そう言われれば、確かに異なる別人だと思えてしまう。
――目の前にいる少女が自分の彼女か否かを見分けることが出来ないのだ。
可笑しいのは紛れもなく、僕だ。どうしても思い出せない『僕の罪』。出て行ってしまった彼女。この気味の悪さは、どこから来るものか。
そもそも、彼女が僕に三下り半を突きつけた理由はなんだったのだろう。僕に嫌気がさしただけだと思い込んでいた。しかしよく考えてみれば、そんなはずがなかった。彼女がそんな自分勝手に人を傷つける中途半端な人間でないことは、僕が一番よく知っているはずじゃないか。僕はその理由さえも忘れているのだろうか。そんなに大切で重大なことを忘れてしまうなんてこと、ありえるのか……?
「千秋はとりあえず、カレーパンにする?」
紙袋を漁りながら、彼女はカレーパンを差し出す。受け取ったそれは、もうすっかり冷めてしまっていた。「私はメロンパン」とすっかり機嫌を取り戻した彼女は、珈琲牛乳にストローを差し込む。喜怒哀楽がはっきりとしていて、感情を引きずらない彼女は、言葉を選ばずに言えば単純だった。鼻歌交じりにウエットティッシュで手を拭う。軽快でアップテンポなその歌は彼女のお気に入りの楽曲だ。原曲は切ないバラードなのに、アレンジを加えられたせいで原型を留めていない。この歌が――いつも歌っているこの独特な鼻歌こそが、何よりの証拠じゃないか。大丈夫。目の前にいる少女は、僕の恋人――七海星那で間違いない。
発生源の分からない気味の悪さは、いつの間にか緊張をもたらしていたようだ。ひどく喉が渇いている。珈琲牛乳を口に含めば、味よりも先に潤されたことに対する喜びを感じた。遅れてやってきた珈琲牛乳のおいしさもそこそこに、僕は焼きカレーパンを手に取った。彼女が僕のお気に入りだと言い張った焼きカレーパンだ。もちろん、僕には食べた記憶など存在しない。彼女は誰か他の人と勘違いをしているのだろう。考えたくはないが、浮気と言う可能性もあり得ない話ではないのかもしれない。
手にしたカレーパンを口に運ぶ。もっちりとした生地には、直接チーズが練りこまれていた。彼女が雑誌から拾ってきた評判通り、間違いなく美味しい一品だ。中のフィリングであるカレーは、スパイスを感じる。おそらく、市販のルーは使用していないと思われる。他のどこにもない、この店特有の味であることは間違いない。悔しいが、気に入った。僕の好みのど真ん中だ。
咀嚼を繰り返す。何度も繰り返し、咀嚼をする。もう十分すぎるほどに噛みしめたはずだ。それにもかかわらず、口の中にすりつぶされたカレーパンだったものが鎮座している。味わっているのではない、飲み込むことを拒否しているのだ。どうして、僕はこのパンを食べたことがあると思っているのか。どこにもない、完全オリジナルな味をしているはずだ。それなのに、どうしてこの味を知っていると思うのだろう。
ごくり。
喉を大きく上下させて、無理やりに飲み込む。喉を通過すると、先ほどまでに感じていた拒否感は嘘のように食道を簡単に通過していった。
「どう? それ、やっぱり美味しいでしょ。私にも一口頂戴」
彼女は手に持ったままになっていた焼きカレーパンに顔を寄せる。恥じらいを見せることもせず、大きな口で一齧りをした。
「やっぱりおいしい。千秋もこれが気に入るなんてお目が高いよねぇ」
歯型が重なる。彼女は幸せを隠すことなく頬をほころばせた。珈琲牛乳を口に含む。僕とは違う滑らかな喉元が、ごくりと上下した。なんてことない動作なのに、ひどく懐かしい幸福感に眩暈がする。
「もう一口」
彼女は勢いよく顔を近づけて、もう一度遠慮のない一口を齧った。焼きカレーパンはもう残り半分になってしまった。しかも、失われたほとんどが彼女の胃袋の中だ。
「へへ、ごめん。怒った? 私の上げるからさ、許してよ」
そう言って齧りかけのメロンパンを差し出す。僕は控えめで、遠慮がちな一口を齧った。メロンパンは甘くて、昔ながらの懐かしい味がする。続けてもう一口を齧るほど、僕は図々しくはなれなかった。
「おいしいね」
「でしょ。私直伝、おすすめのパンなんだ。チョコのも美味しいけどね。さすが私、センスある」
「知ってるよ。初めて行った時も、メロンパンは買ってたからね」
自慢げに笑う彼女の口元にはメロンパンの粉糖が付着している。それを指摘すると、恥ずかしそうに口元を拭った。しかし、なかなか粉糖の位置にたどり着かない。むしろ、範囲が広がっていく。しびれを切らした彼女は「取って」とねだり、目を瞑って僕に顔を寄せた。
柔らかくて白い肌。瞳が閉じられたことで、縁取る睫毛がいつも以上に強調されて見える。唇に乗せられたコーラルピンクのリップが彼女によく似合っていた。そして、その唇が柔らかいことを僕はよく知っている。唇だけじゃない。僕は彼女の全てをよく知っていたはずなんだ。
一瞬でも、彼女の顔に違和感を覚えたことをひどく悔いた。僕が『罪』を思い出せないことが全ての原因だというのに、自分勝手すぎるだろう。そもそも、今日だって彼女は僕のわがままに付き合ってくれているだけで、今すぐに帰っても咎められることはないのだ。
「はい、とれたよ」
「ありがと。ちょっとだけ、ちゅうされちゃうかと思ったよ」
「してもよかったの?」
「うーん。咎めはしなかったかもなぁ」
「じゃあ、すればよかった」
「もう時間切れだから、だめだよ」
「えー」と冗談めいて流して見せるが、僕は結構真剣に後悔している。咎められないなら、しておけばよかった。
なんだか少し恨めしくなって、彼女を横目で盗み見る。その視線に気が付いた彼女が、いたずらに笑った。
「よし、じゃあこうしよう。君が罪を思い出せたときは、ご褒美に、星那ちゃんのちゅうをあげようじゃないか。頑張りたまえよ、少年」
彼女はふざけて見せるが、僕は急に寂しさに襲われた。いつも通り快活な彼女に懐かしさを感じるほど、僕たちは長期間離れていたのだ。
「なぁ、星那」
「なんだい、なんかとってほしい?」
そう言って、紙袋を手に取ろうとした彼女を優しく制止した。
「好きだ。今も、昔も、これからも」
なぜか。これだけは今すぐに伝えなければならないと思った。場違いでも、今言うセリフじゃないと分かっていても。
「なにそれ」
かすかに震える彼女の声を消し去るように、そっと抱きしめた。小さくて華奢な体は、柔らかくて守りたいと思う。
「好きだ。これからも、ずっと」
もう一度。ゆっくりと繰り返す。これは彼女に向けた言葉でもあったが、自分への決意表明でもあった。
やっぱり、どうしても。どうしようもないくらいに、彼女が好きなんだ。
「頑張りたまえよ、少年」
そう言って、彼女は僕の腰に手をまわした。
糸はまだ解けてはくれない。