04追憶の夜(2)
「ちょっと、起きてよ。こんなところで寝たら、絶対風邪ひいちゃうよ」
誰かが僕の肩を強く揺さぶる。いつの間にか眠りに落ちてしまっていたようだ。机に突っ伏して眠っていたせいで、腕がしびれている。いや、それだけじゃない。体中の関節と胃と……どこが痛みの発信源かわからないほど、全身が鈍く痛んでいた。
「ちょっと、千秋ったら。しっかりしてよ。大丈夫? まだ生きてるよね」
誰だよ、せっかく眠りに落ちていたのに。もう少しだけでいいから、眠らせて欲しい。そう声を掛けようとして、僕は昔のゼンマイ人形のように飛び上がった。その振動が、二日酔いで悲鳴を上げていた頭にひどく響く。ただ、そんなことはどうでもよかった。
「せ、星那なのか……」
「何さ。そんな亡霊を見ちゃったみたいな顔しないでよ」
「え、いや。あ、」
動揺で思考が停止したままの僕は、意味を持たない言葉を羅列した。彼女は呆れたように、水が注がれたコップを差し出してくれる。「お酒、飲みすぎなんじゃないの」と小言を言っているが、それすらも些細なことだった。
自分を落ち着かせるためにも、受け取った水を一気に飲み干す。体が水分を懸命に吸収しようとするのが分かった。しかし、一気に飲みすぎたせいでせき込んでしまう。上下する僕の背中を「何やってるの」と叩く彼女は、夢でも妄想でもなさそうだった。
「星那、帰ってきてくれたの?」
「忘れたことがあってね。連絡くれたじゃん」
期待を込めた僕の問いは、あっけなく否定された。確かに、忘れ物を取りに来るよう提案したのは僕だ。しかし、淡い期待が浮かんだ分、地獄に叩きつけられたような気持になった。
「家電とかは、千秋にあげるよ。私はいらないや。捨てるなり使うなり、好きにしてよ。あ、でも何個かは持っていきたいやつもあるんだよね。ちょっと物色してもいい?」
「え、いや。どうぞ」
この部屋にあるものの大半が二人の所有物だ。僕に留める権利はない。
彼女は部屋をぐるりと見渡し、目を細めて笑った。「懐かしいなぁ」と呟かれた声は、優しくて穏やかだ。僕ではなく、空間そのものに呟いた言葉なのだろう。別れた恋人に向けられる温度ではなかった。
それを聞いて落胆する僕の肩を叩き「ほら、いい男を目指してしゃきっとする」と喝を入れた。同棲していた元恋人に向けるテンションではないと思う。落ち込む僕とはまるで対象的だ。
君が居なくても、私は元気にやっていけるの。
彼女の対応の全てが、それを物語っているように感じられた。関係の修復を望んでいるのは、僕だけだと痛感する。そうとわかっていてもなお、僕はまだ彼女を諦められそうになかった。
「もう一回やり直したいんだ。お願いだから、帰ってきて欲しい」
情けなくも、か細く声が震えた。
一度下げた頭をゆっくりと上げて、彼女の意思に伺いを立てる。
「うーん。もう間に合わないんだよ。諦めて、私のことは忘れて」
「ダメなところは、ちゃんと全部直す。行動で示して見せるから。いい男を目指して努力するから。お願いします」
僕は情けないとわかっていながらも、精一杯の誠意の気持ちを込めて再度頭を下げた。彼女の視線が痛いほどに頭部に刺さる。もし、これでダメなら次は何と言おう。泣き落としくらいじゃ、彼女は揺るがないだろう。もういっそ、目の前で自殺未遂でもすれば留まってくれるだろうか。
長い沈黙。それを壊したのは、彼女の重くて深いため息だった。
僕は、おそるおそる頭をあげる。
「仕方がない。今日一日。今日だけ、チャンスをあげようじゃないか」
彼女は呆れたような表情をしていたが、すぐに満面の笑みに変わった。しかし、そこから提案されたのは、喜んでよいのか微妙なものだった。
「もし、僕がいい男だと思ったら、帰ってきてくれる?」
「それは私が考える。君に課せられたミッションは、『千秋の罪を思い出すこと』だよ」
彼女は「帰る」とは言ってくれなかった。それでもいい。これはチャンスだ。僕に課せられたミッションとやらを遂行すれば、帰ってきてくれる……かもしれない。僕は都合よく解釈をした。
時計を見上げる。午前八時三十分。僕が思ってっていたよりも、早い時刻だ。最近の僕ならば、まだ夢の中で苦しんでいる時刻。
「急いで準備するから、待ってて」
そう言い残して、僕は洗面台へと駆けだした。必要最低限の身だしなみを整えて、スポーツブランドのトレーナーに着替える。彼女が選んでくれた香水を一振りして、強く頬を叩いた。
上手くやれば、彼女は帰ってきてくれるに違いない。
希望は優しい毒だ。僕は今、最大級のチャンスに期待して心を躍らせている。今なら、どんな大犯罪でも躊躇わないだろう。でも、このチャンスを逃そうものなら、僕はまた地獄の日々に戻っていく。その時は、本当に自殺でもしてしまうかもしれない。
タンスの中を無造作に漁り、一つのメモを探し出す。ひどく汚れたその紙は、なかなか開くことが出来ない。いつの間にか付着した液体状の何かのせいで、パリパリに乾いてしまったようだ。
何度も書き直されたそれは――綿密に練られた三年記念日のデートプランだ。
別れるつもりなんて、僕にはほんの少しもなかった。頭の端にすら浮かんだこともない。いつも通りの日々を過ごして、三年記念日を祝えると思っていた。記念日の日にプロポーズをしようと目論んでいたほどだ。少し早すぎる学生結婚になるかもしれない。別に、子どもを授かったわけでもない。純粋に 彼女と結婚したいと思ったのだ。彼女以外と結婚する未来なんて想像できないし、したくもない。彼女を誰かに取られてしまうことを考え始めたら、居ても立っても居られなくなった。なんとしてでも、早く自分のものにしてしまいたかった。
汚い紙を懸命に解読しながら、計画を確認する。大丈夫だ。きっと喜んでくれるはず。そうしたら、またこの家に戻ってきてくれるはずだ。
もう一度、強く頬を叩く。
大丈夫。きっと帰ってきてくれる。
「今日は、僕がデートプランを立てるから。ちゃんと僕が出来る人間だってことを証明してみせるよ」
「今日だけだよ。それに、ちゃんとミッションを遂行してね。本当は、忘れ物を回収しに来ただけ……げほっ」
彼女は急にせき込み始めた。背中が上下して、苦しそうに表情が歪む。背中をさすってあげると、次第に落ち着きを取り戻した。それを確認して、さっき彼女がしてくれたように水を汲んで差し出す。コップ一杯の水を飲み干して、調整するように胸を数回叩いた。
「ふぅ。ありがとう。もう大丈夫になったから」
そうは言うものの、声には違和感が残っている。いつもより少し低くなって、どこか濁った声だ。全く気が付かなかったが、風邪をひいていたのかもしれない。
「声少し変だけど、風邪ひいてるの?」
「ううん。体調は全然平気だよ。いつも通り。むしろ元気すぎるくらいだよ。むせたから、ちょっとおかしくなっちゃったんだと思う」
それを聞いて胸をなでおろす。体調が悪いのならば、無理に連れまわすことはできない。せっかくのチャンスだけど、彼女に苦しい思いをさせたら本末転倒だ。いい男になると言ったのに、無理強いをしては逆効果だ。
しばらく様子を見るが、彼女は本当に一度せき込んだだけのようだった。声は低くなったままだが、けろりとした表情を浮かべ平然としている。
「で、千秋はどこに連れて行ってくれるんだい?」
楽しませてくれるんでしょ。とでも言いたげな表情で僕を見つめる。相変わらず、自信に満ちあふれた態度だ。僕がどれだけ絶望の底を彷徨ったかなんて、これっぽっちも知らないのだろう。今日だって、面白そうだから付き合ってみようかな。それくらいの気持ちなのかもしれない。別に、同じだけの愛を返して欲しいとは言わない。でも、少しくらいは僕を手放したことを悔やんでくれてもいいじゃないか。なんだか、苦しくて悔しい。でも、そうは言ってられない。彼女が気に入るようなデートプランを提案してみせなければ。
「まずはホットケーキを食べに行こうと思ってたんだけど」
「思ってた?」
「星那が出ていったから、日の目はみなかったけど、三年記念日はどこかに出かけようってプランニングしてたんだ」
彼女は「あぁ、そっか。三年記念日だったね」と口角を緩めた。過去の思い出を懐かしむような優しい表情だ。彼女にとって、僕はもう遠い過去の人間なのかもしれない。そう考えると、また胸が締め付けられた。
「じゃあ、今日はその三年記念日のやり直しってわけだ」
僕が握りしめる汚れ切った紙切れを指差して、いたずらな笑みを浮かべる。嬉しそうにも、楽しそうにも、からかっているようにも見えた。こういう時、僕はマイナスな方に受け取りがちな性格をしていた。
確かに、少し女々しかったかもしれない。僕は恥ずかしくなって、下を向いて小さく頷いた。元恋人と三年記念日のやり直し。確かに彼女にとっては、何の得もない……
言い出した手前、「辞めておこうか」とは言い出しにくい。僕はただ黙って彼女の表情を伺った。
ほんの少しの無言の時間は、永遠にも感じられた。短い熟考の末、彼女は口角をあげた。
「いいじゃん、やり直し。付き合ってあげよう。私は優しいからね」
彼女は本当に嬉しそうに手を叩く。これまでの三年間で、彼女が無駄な嘘を付かない人間だということは重々承知しているので、僕はすこし平静を取り戻すことができた。
絶対に、いい男をアピールして見せる。そして、ミッションとやらを遂行する。
やってやろうじゃないか。
一番に向かった全国チェーンのバーガーショップは休日ということもあり、想像よりも混雑していた。若い人たちだけで賑わっている店だと思いきや、祖父母よりも上の年代のご夫婦も来店しているようだ。最近はハイカラなご老人も多いんだなぁ。
「本当にここでよかったの? せっかくだから、もっと専門店とかに行ってもよかったんだよ?」
僕はなるべく小さな声で、囁くように耳打ちをした。メモには『ホットケーキを食べる』とだけ書かれている。しかし、僕の頭の中では、一駅先にオープンしたばかりのアメリカ発のパンケーキショップへ向かうつもりにしていた。生クリームがこれでもかと絞られたパンケーキは、写真を見るだけで胃もたれを起こしそうなほど甘さを強調していた。しかし、ゼミの女子たちが「ヤバい写真映えするね」とか「テンションあがるよね」と騒ぎ立てていたので、彼女も喜ぶと思ったのだ。けっこう、流行に乗りたがるタイプだから。
「いいんだよ、ここのが。知ってる? この店のホットケーキはさ、朝しか食べられない限定品ってこ と」
彼女は人差し指を立てて、僕の前で数回振って見せた。
「昼にはないの?」
「昼にも似たのはあるんだけどね、小さいの。おっきいのはね、朝限定。特別仕様なんだよ」
彼女は腰に手を当て替え、自慢げに語り始める。朝限定の商品にだけ付くメープルシロップも魅力的な要素らしい。多分、期間限定って響きが好きなんだろうな。
しばらくして、列の整理を行う店員さんがやってきた。二人で一つのメニューを受け取り、注文カウンターに並ぶ。
僕たちが並んだ列には五組の客が並んでいた。チェーン店でもけっこう並ぶもんなんだなと感心する。僕はめったにこのバーガーチェーンを利用しないので、いまいち注文方法が分かっていない。彼女が自慢げに語る中で度々登場する「セット」とやらは難しそうだ。
僕は前に並ぶお客さんで予習をしようと目を凝らす。列の先頭に並ぶのは、七十代程度の高齢のおばあさんだった。腰は曲がっていて、明らかに店の雰囲気から逸脱している。悪いけど、参考にならなさそうだ。そもそもちゃんと注文できるのか、と勝手な心配をしながら見守る。
「このハンバーガーを二つと、珈琲のホットで。それから、あ、こっちも追加して」
すらすらと流れるように指さし、注文をしていく。複雑なサイドメニューの注文もお手の物だった。完敗だ。僕には真似できそうもない。あまりにも慣れた注文だったので、やっぱり参考にはならなかった。
「いらっしゃいませ。ご注文はどうなさいますか」
店員さんは、明るく快活な笑顔で注文を訪ねる。結構並んでいると思っていたのに、スピーディーな注文ですぐに順番が回ってきてしまった。
しまった。注文方法を予習するのに夢中で、まだメニューすら決められていない。慌てて手元のメニューに視線を下すが、メニューの見方そのものがよくわからない。
うろたえる僕をよそに、真横に立っていた彼女は一歩レジカウンターに近づいた。
「イートインです。ホットケーキのセットを二つ。飲み物は両方ホットコーヒーでお願いします。それからサイドメニューのこのポテトも二つ。以上でお願いします」
彼女はメニューには目もくれず、流暢に注文をした。すらすらと羅列された言葉が商品名であることは理解できるが、魔法の呪文にしか聞こえない。僕の分まで注文をしてくれていることはかろうじて理解できた。ありがたい。こういう注文スタイルはいつも苦手だった。優柔不断な僕は、レジを前にして頭を悩ませる。だから、いつも彼女が適当に注文をしてくれていた。僕の好みのものを、的確に。
「ありがとう。お金は後で僕が出すから」と僕はまた耳打ちした。
「いいんだよ。共用の財布のお金使い切っちゃいたいしさ。あと、メニューは前と同じのにしたけど良かったよね」
共用の財布のお金を使い切りたい。その言葉に勝手に傷ついてしまう。その財布が空にならなければ、ずっと側にいてくれるのだろうか。甘すぎる考えだとは分かっているが、彼女を引き留めるための手段を考えてしまう。
「この間さ、千秋がこの店のホットケーキを食べたことないって言うから、びっくりしたよ。そんな人間居るんだなぁって、むしろ感心しちゃって。美味しかったでしょう?」
「この間?」
「うん。この間。来たよね、一緒に」
この店のホットケーキを食べたことがあっただろうか。いや、ないはずだ。そもそも、この店に来店したことすらない。確かに、家でホットケーキを焼いて二人で食べたことはある。けれど、この店に――このチェーンを利用したことはないはずだ。
少なくとも、僕は。
「一緒に来たことないよね。誰かと間違えてない?」
「ううん。千秋と来たよ。でも、この間って言うのは語弊があるかも。わりと前」
「そんなことあったかな」
考えてはみるものの、やっぱり記憶にない。
「あんなに楽しかった日のことを覚えてないの? ひどいなぁ」
彼女は大げさに眉を下げて、悲しい表情をつくってみせる。そして、こちらを見て「私は、一生忘れない思い出だったのに」と呟いた。
僕だけが忘れているなんて、ありえないはずだ。一度通っただけとかならまだしも、食事をしたのなら、なおさらに。そもそも今日だって、もっとおしゃれなモーニングに連れて行くつもりの計画だった。しかし、彼女が行きたいと言うから全国展開をしているバーガーショップを選んだのだ。一度でも来店していたら、覚えているはず。
一体、彼女は誰とこの店に来たのだろう。誰と忘れられない思い出を作ったのだろうか。
もやもやと、なんだか嫌な気持ちだ。
「十二番でお待ちのお客様いらっしゃいますか」
注文してさほど時間は経過していないのに、僕たちの番号が呼ばれた。「席確保しておいてね」と言われたので、僕は慌てて座席の確保に向かう。
広い店内なのに、なぜか空席は見当たらない。店の一番奥にまで進んだが、たったの一席も空いてはいなかった。諦め半分で、ぐるりと店内を見渡す。すると、遠くの座席に腰を掛けていたサラリーマンと目が合った。遠目からでもわかるほど高級そうな腕時計が、きらりと照明に反射する。サラリーマンは手招きをして、こっちに来るよう合図した。近寄ると「もう食べ終わったので、良かったらどうぞ」と席を譲ってくれる。腕時計同様、身を包むスーツも高価な品だった。こんな人も利用するんだな。と妙に感心してしまう。譲ってくれたサラリーマンにお礼を伝え、僕は座席に腰を掛けた。これで一安心だ。
メニューを自分で決められない。注文すらままならない。座席の確保ですら満足にできない。そんな負のスリーコンボを決めようものなら、目も当てられない。昔から僕はそうだった。優柔不断で、行動が遅い。極めつけに、意気地なしときた。ダメな男のスリーコンボ。彼女との関係を変えることが怖くて、告白だってずるずると後回しにしてきた。しかも、同棲は彼女に言わせてしまった。
彼女はもうずっと僕に愛想をつかしていたのかもしれない。僕が円満だと思いこんでいただけで。
世の中の円満だったカップルが別れる理由は、二つあると思っている。
一つは変わらないことに嫌気がさしたこと。もう一つは、変わったことに気が付かないことだ。
きっと僕は前者だ。変わらない。変われない。そんな僕に、彼女は嫌気がさしてしまったのかもしれない。後者の可能性は限りなく低いと思う。僕が変わったとしたら、彼女との生活で影響を受けたからだ。それを彼女が否定するとは思えない。
……あぁ。彼女が変わった可能性もあるな。
気が付かなかったのは僕の方なのかもしれない。勝手な妄想で、僕は自分の胸を締め付けた。
「席空いてたんだ。ラッキーだね」
彼女がバランスよく運んできたトレーには、溢れそうなほどたくさんの商品が乗っていた。それを器用にテーブルに置き、僕の向かい側の席に腰を掛ける。ふわりと短い髪が揺れて、いちごの甘酸っぱい香りが鼻孔をかすめた。懐かしい香りだ。出会ったあの時から、彼女はたったの一度たりとも香水の香りを変えなかった。
彼女はコーヒーにミルクと砂糖を入れながら「どうしてホットケーキにしようと思ったの?」と尋ねた。
「星那は朝ごはんが一番好きでしょ。パンにしても、ご飯にしても、朝食べるときが一番嬉しそう」
出会ってから別れるまで、彼女は「食事は大切にするべきだ」という趣旨の言葉を何度も口にした。特に朝食に対するこだわりは人一倍で、彼女は必ず一日のうちで一番の楽しみを置いた。
「ふふふ。確かに、朝ごはんは特別だよ。千秋は朝が苦手だったけどね」
「別に、弱いわけじゃないよ。ちゃんと起きられるし、遅刻はしない」
「起きてるのに、ちゃんとした朝ごはんを食べないんだもん。放っておいたら、また栄養補助食品ばっかりを食べるんじゃない?」
呆れた口調の彼女は、一度もこちらを向かない。真剣にホットケーキと向き合っている。プラスチック製のナイフで十字に切れ込みを入れる。そして、メープルシロップが入っている容器のふたを丁寧にはがした。
そんな彼女を見つめながら、
「下手したら、一日で二食はあれで済ましてるかも。星那が居てくれた時は、ちゃんと食べてたんだけど」と必死に「君がいなくちゃダメなんだ」とアピールを繰り広げた。
これは決して嘘ではない。彼女が家を出たあと、僕の食生活は最悪なものになった。同棲しているときは、頻度は多くないけれど僕も料理をしていた。手間がかかるものや複雑な工程を強いられるものは苦手だったけど、簡単なものは何でも作れるはず。しかし、彼女が出ていたあとは一度も料理をしていない。一緒に食べてくれる相手がいないのに、自分の為の食事を作る必要性を感じなかった。朝食は例の栄養補助食品。夕食は大量のアルコール飲料とコンビニのチルド食品。昼食の学食が、僕にとって唯一の食事らしい食事だった。ちなみに、学食で昼食を食べる理由は非常に単純だ。食堂で彼女に会える可能性があるから。その一点だ。二人でよく利用していたからこそ、もしかすると偶然出会えるかもしれない。そんな甘い幻想を抱いた。彼女との思い出のおかげで、僕の健康はかろうじて維持されていた。
まぁ、願いは報われることはなかったけれど。
「星那が帰ってきてくれたら、僕はちゃんとご飯を食べるよ。毎日、必ず一緒に朝ご飯を食べる。こうやって、たまには外食にも行けるように頑張る」
彼女はホットケーキを一口頬張った。メープルシロップとバターをたっぷりと乗せて、口いっぱいに頬張る。表情が幸せそうに緩み、咀嚼を繰り返す。口に入れたホットケーキが喉を通過して、ようやくこちらに視線を向けてくれた。
「それじゃダメだよ。私が居なくても、ちゃんとご飯は食べてくれないと。千秋は変わらなきゃ」
拒絶の解答に、僕は涙が溢れそうになった。必死に堪えようとすると、鼻の奥がツンと痛む。このまま消えてなくなりたい。彼女が帰ってきてくれないなら、生きている意味なんてない。下を向いて、悲しいことばかりを考えてしまう。見かねた彼女に「ほら、冷えちゃうよ」と促されて、ようやくホットケーキを口にした。甘くて、柔らかい。とびぬけて美味しいものではないが、たまに無性に食べたくなる。そんな味だ。懐かしい。
懐かしい……?
僕は、ここに来たことがあると思った。確かに、ここでホットケーキを食べた気がする。それも彼女と、だ。ついさっきまで忘れてしまっていたのが、確かに確実な記憶として浮かび上がってきた。ただ、それがいつの出来事で、そのあとの動向を思い出すことは出来ない。
「やっぱり、前にも一緒にここに来たよね……?」
「だから、来たって言ってるじゃんか。やだ。千秋ったら、もうボケ始めちゃったの?」
彼女の視線はホットケーキを向けられたままだ。返事はいつになくそっけない。僕は頭を悩ませるが、思い出せそうにもない。それでも、口にホットケーキを運び入れれば、確かに懐かしい味がするのだ。絶対に、ここでこれを食べた。そう確信している。それなのに、どうしてその日のことを思い出すことが出来ないのだろうか。
「どう? 千秋は自分の罪を思い出せそう?」コーヒーをすすりながら、彼女は僕に問いかける。
「僕は、いったい何をしちゃったの?」
「なんだ。まだ思い出せそうにないんだね。じゃあ、もう少し考える時間をあげよう。私は優しいからね」
彼女はサイドメニューのハッシュポテトを頬張りながらそう言った。僕も、それに合わせてハッシュポテトを口に運ぶ。やっぱり、これも食べたことがある。でも、それはいつのことだ……
「千秋はさ、私のことを――――」
店内のざわめきが邪魔をして、うまく聞き取ることが出来なかった。「もう一回言って」と頼んだが、彼女は優しく微笑みを返すだけで答えてはくれない。他人行儀で、貼り付けた笑顔を浮かべ、残りのハッシュポテトを頬りこんだ。彼女らしくない笑顔だ。
「何でもないよ。ほら、次に行こ。まだまだ予定組んでるんでしょ」
咀嚼を終えて包装紙をひとつにまとめた彼女は勢いよく立ち上がり、僕の手を取る。
僕はいったい何の罪を犯し、何を忘れてしまっているのだろうか。